龍田大社
龍田大社由緒略記
御祭神
天御柱命国御柱命の二座に座します。又の御名を志那都比古命、志那都比売命と申し 上げ伊邪那岐命、伊邪那美命の御子神におわしまして天地の大気即ち風力を主宰し給
う。よって風の神と称します。
御由緒
第十代崇神天皇の御代に天下の公民が耕作に最も大切なる五穀を始め種々の作物は揮 て凶作となり一年や二年にあらずして累年に及び更に悪疫が流行して天下は騒然であ
りました。天皇が非常に御心を悩ませ給い多くの卜占者に占はしめたが如何なる理由 か其の根拠は全く不明に終わりました。茲に於いて御自ら天神地祇を祭らせ給ひて御
誓約を行わせられ祈請を込められましたところ御夢に大神が現れ、給い吾は天御柱命 国御柱命なり天下の国民の作れる物共を暴風洪水に遭いて凶作となり其他災害の起れ
るは我が心機の平安ならざるものあり、仍て吾宮を朝日の日向う処夕日の日隠る処の 龍田の立野の小野に造営して吾前を鄭重に斎き祀らば五穀を始め何れの作物も豊穣な
らしめ災禍も自ら終息して天下太平の御代と成るべしとの御神教がありましたので直 に御悟しに従い社殿を此の地に造らしめ給い厳粛に奉斎せしめられました。其れ即ち
当社の起源でありまして今より凡そ二千百年前の事であります。其の後は龍田の大神 の御教への如く万作は豊熟し疫病は退散して太平の世の中となりましたので国民は大
いに喜び天皇の殖産恵民の広き厚き大御心を仰ぎ尊び奉り深く感謝して和楽の御代の 出現を忝く思い打ち揃って家業に勉励する様になりました。斯の如く誠に御神徳の高
く広い大神であらせられましたから朝廷の御崇敬は極めて篤く春秋恒例の祭祀を始め 臨時の祈願大祭には廃務を仰せ出だされ勅使が参向し弊帛其他貴重なる品々を奉献せ
られ盛大なる祭典を執行致しました事は古書に見ゆる所であります。
平安朝以後には当社を官幣の明神大社とせられ近畿諸社中朝廷の御崇敬最も厚き十六 社又は二十二社の内に撰ばれ社名も実に高く勿論由緒顕著でありましたから明治四年
五月十四日に早速官幣大社に列せられました。
大東亜の終戦後は制度の変革がありましたので現在は龍田大社と称し神社本庁の別表 神社と成っておりますが一般民衆の信仰は広大なる御神徳に依り遠近各地より其の恩
恵を享けて災難なく安全多幸を祈る参拝者或は名所古跡を訪れる文人詩客の参詣も甚 だ多い野であります。
御神徳
御祭神は天地の大気、生気、即ち風力を主宰し給へば風神と申上げています。天御柱 命、国御柱命と申す御名は天と国とは彦神を天に姫神を国に比して称し奉り御柱とは
真柱の事にして天地万物の中心の柱の義で即ち空気或いは風の事で志那都比古命、志 那都比売命と申す御名の志那は息長(シナガ)の義で気息(イキ)即ち風の長く遠く
吹き亘るを云う、斯くて天候、気象の変化旋転するは大神の御威霊なる風力を基本と し中心とする事なれば農業には暴風洪水の禍害なく五穀豊穣し、航空業を始め航海業
、漁業、建築業等に関係を持つ人々は除難多幸を願い現代の如く交通頻繁なる道路を 自動車が往来する時運転者には風神龍田大神の守護に依りて誤りなく安全に操縦して
無難幸福を祈念する参拝者も近年は著しく増加しております。殊に気息の神として延 命長寿を祈願する者は往昔より今に変わる事なく非常に多いのであります。
風鎮祭の由来
当大社の御祭神は前記の通り風気を主宰し給う風神でありまして磯城の瑞垣の宮(第 十代崇神天皇)以来朝廷が風水の被害なく無事に五穀を始め総ての作物の豊作、国家
の安泰、庶民の福祉を祈願されておられましたが、勅使を参向せしめられて風神祭を 厳粛に執行されたのは天武天皇が始めであります。その後は平安朝の後期まで引き続
き勅使参向のうえ執行されております。
風神に風鎮め即ち順風を祈る祭祀として風鎮祭と称する様になったとされるこのお祭 りは最も丁重を極め神饌幣帛を奉献のほかに彦神に矛楯御馬に御鞍を具えて奉り、姫
神には金の麻笥(オケ)、金のATALI、金のkasehiその他御馬に御鞍を具えて奉り十 分言葉を尽くして丁重に祭典を執り行ない御神慮を慰め奉り広き厚き恩頼を授けられ
ん事をお祈りしたる大祭であります。武家政治の時代は祭祀も著しく衰えましたが明 治の御代に至り大いに復興せられ、大東亜戦争後は毎年恒例の神事として七月の第一
日曜を大祭日とし、それの一週間前より七日間継続して朝夕の祭典を執り行ない、最 終日に厳粛盛大のる風鎮大祭を斎行して居ります。
岩瀬の杜の瀧祭
当社の例大祭は毎年四月四日でありますがその前日の三日に、岩瀬の杜の沿岸を流れ る龍田川(現在の大和川)から生魚を捕獲してこれを唐櫃に納めて本社に持ち帰り、
翌四日の当日に神前に供し祭典終了の後に元の川に放魚する祭りで古くから伝わる神 事であります。
摂社並びに末社の御祭神
摂社は龍田比古神、龍田比売神二座であります。(本社の一段下神域の瑞垣内南側二 社)末社は同一瑞垣ない北側三座で、御祭神は上座は天照大御神と住吉大神、中座は
枚岡大神と春日大神、下座は今御前の社と称し高望王の夫人を祀っております。その 他境内に末社として白龍神社、龍田恵美須神社、三室稲荷神社、祖霊社である下照神
社があります。この他境外末社に神奈備神社があります。
付近の名所旧跡
御座ケ峯と龍田山
御座ケ峯は上古当社の御祭神が降臨せられたる霊地なりと伝承しており現在は三室山 の山嶺より東南凡そ壱粁離れた頂上の畑地の中央にありて松樹林となっております。
又龍田山は三室山に引き続きたる実に広大な山岳地帯を指したる地域の総称であり古 来龍田越などの峠もあって起伏多く往来に相当難所の山道であります。
三室山
当社の古い境内地で神奈備の三室山とも称し往昔より春は山桜に若葉の楓とツツジ、 秋は紅葉と風景の美を賞賛せられ飛鳥、奈良、平安朝時代には各地より参者遊客文人等の来集甚だ多く社頭は常に人影が絶えなかったと伝えられております
龍田川
古の龍田川は今の大和川で大和平野の諸川を集めて成れる河にして当地立野の里を流 れる流域の沿岸に楓樹多く下流の亀瀬まで約五、六粁を世人が龍田川と称し紅葉の名
所と謡はれておりました。
以上
(注)文中のtataliは、「瑞」の偏が「木」偏になったものです。又kasehiは、「峠 」の偏が「木」偏になったものです。 |