龍田神社

奈良県生駒郡斑鳩町龍田1-5-6 its-mo

鳥居

交通案内
王寺駅から法隆寺方面行きバス 龍田神社前



祭神
天御柱命、國御柱命
 合祀 竜田比古神、竜田比女神



由緒

式内社龍田神社の論社
 本殿の左右に竜田比古神社、竜田比女神社、滝祭宮を祭る。旧県社。
 社伝によると、法隆寺建立に際し、当社祭神の諭により寺地を選定、よって伽藍の鎮守神として祀ったと言う。三郷町立野の龍田大社を本宮というのに対し、龍田新宮と称し、本宮から勧請したとする説もあり、祭礼には本宮からの神幸の御旅所となった。(大和志)。
 『神社覈録』には、延喜式神名帳の平群郡の「竜田比古竜田比女神社二座」を当社にあて、また一説には後世龍田本宮の天御柱命・國御柱命を勧請したため、本来の祭神竜田比古竜田比女は忘れられたと見る。
 神職には法隆寺僧があたり、龍田神人とよばれ、造替も寺家の手で行われた。明治になって法隆寺から離れ、一時は龍田大社の摂社となったが、大正十一年独立。

拝殿

ソテツの巨樹 県指定天然記念物


 『式内社調査報告』と『平群町史』によれば、明治初年、宮山山上の平群町白石畑に鎮座の舟上神社を中腹の中ノ宮の船山神社に合祀したという。 中ノ宮の船山神社の跡地は当地より南東200mで、東光寺の東側の山麓となり、ここには陰石と思われる岩床が露出しているという。また宮山八合目には丸木船の形をした三つの舟石(二つの鯰石と一つの船石)があると『神祇志料』には書いてあるとのこと。神の乗り物であったという。

本殿



お姿
 法隆寺の南西、龍田集落の東に鎮座。
 古図には境内に塔・経堂などが建っていたが、明治の神仏分離で寺院関係の建物は全て破却された。文明の破壊であった。

ソ祇園・粟島・廣田 各神社

楠大明神 正一位稲荷大明神


お祭り
 
10月 15日に近い日曜日 秋季例大祭

『平成祭データCD』龍田神社 由緒沿革


産土神、風宮龍田神社の御祭神は天御柱大神、国御柱大神の二荒魂と龍田比古大神、龍田比女大神、陰陽二柱の皇神である。風雨を鎮め水難・疫病を防ぐ神と 楓・桜等の四季を司る神を祀る。五穀豊穣、息災長寿天地萬有厄除の神である。延喜式神名帳記載の龍田地主大神である。他に末社として十二社を祀る。

 大和川の北岸、風光明眉な楓の竜田川の北東の神奈備、御廟山の南麓に鎮座し敬神の中枢である。十代崇神天皇の御代に年穀の凶作が続いた時、帝自ら卜占をもって占い、天神地祇を「朝日日照處、夕日日陰處」竜田小野である龍田山の聖地に大宮柱太敷立鎮座された。たまたま聖徳太子(十六才)が法隆寺建立を企てられ橘の京から来られて平群川(竜田川)の辺りに伽藍建設地を探し求められた。その時聖徳太子は椎坂山で白髪の老人に顕化した竜田大明神に会い、まだらばと(斑鳩)で指示して貰った地を法隆寺建設地とされた。即ち「こゝから東にほど近い処に斑鳩の里がある。そここそ仏法興隆の地である。吾また守護神となろう。」依って太子は法隆寺建立と同時に御廟山南麓の地に鬼門除神として竜田大明神を移し祀られた。その后、法隆寺より法施僧(別当坊)三十口(三十人)を給ひ、竜田三十講、平群四十八郷(当時の平群四十八郷は現在の生駒郡、郡山市も含む)の産土神として荘厳なる祭儀が執り行なわれた。(聖徳太子伝私記)それで法隆寺は竜田神社の社務を管理してきたもので、神社の由緒、祭礼、神田等法隆寺の記録に出ている。

 中世の有様は「嘉元記」に竜田参りや、田楽、猿楽について詳しく伺われる。一説に能楽発祥の地とする学者もある。中世は現在の建物の外に、東には塔と経堂があり、門前、北坊、新坊、かや坊、法心坊、惣坊、東之坊、等各坊屋敷が集っていた。拝殿の東側には神仏分離の時代に醍醐へ持って行かれた胎金堂(大日堂)があった。楼門の西には北房、いなばや、与三郎屋、その他鐘楼、とかり屋、みさと屋、観音堂、高安座等十二座等あり、荘厳、広大な規模を持った神宮寺であった。(神社古図)歴代天皇の崇敬殊に厚くしばしば勅願の御寵遇を受けたのもむべなるかなといえる。古来より竜田は神代の竜田として紅葉の勝地でもある。萬葉の御代よりかくれた静かなこの旧蹟を、この神社を訪れる文人、歌人の雅客は絶えない。
以上

参考資料 『寺院神社大事典大和紀伊』

大和の神々
神奈備にようこそ
inserted by FC2 system