讃岐神社
奈良県北葛城郡広陵町三吉328 mapfan



鳥居

交通案内
近鉄大阪線五位堂駅北東3km



祭神
『平成祭礼データ』 大國魂命、若宇加能賣命、大物主命
『三代実録』から 散吉大建命、散吉伊能城神
『広瀬川合神社略本縁』御井神(木俣神)、大嵩神(大己貴命)、井精神(粟井水神)
讃岐公の祖の五十香足彦命など



由緒
 大和国廣瀬郡の式内社。
 讃岐からの移住民が故郷の神を勧請して来たものと推測されている。 讃岐国苅田郡の式内社である於神社、粟井神社が観音寺市粟井町に鎮座、一方、大和国廣瀬郡には於神社や讃岐神社が鎮座、これらが故郷の神々だったと思われる。

 広瀬郡には広瀬神社が鎮座、物部系。また讃岐神社の北には馬見古墳群があり、馬見物部の拠点であったと思われ、南の疋相とあわせて、讃岐の物部との関連が注目される。
 また、讃岐国(香川県)の氏族の忌部氏が竹細工を献上するため、当地に移り住んだものとする説がある。

 当社は「かぐや姫」伝説の中核の神社とされている。 神社前に説明板がある。

「今は昔、竹取の翁といふものありけり・・・・・」で始まる『竹取物語』(平安時代、作者不詳)に登場する竹取翁の出身部族である讃岐氏は、持統−文武朝廷に竹細工を献上するため、讃岐国(香川県)の氏族斎部氏が大和国広瀬郡散吉郷に移り住んだものとしている。翁の讃岐姓は、『和名抄』の大和国広瀬郡に散吉郷があり『大和志』では「散吉郷廃村済恩寺村」として、現在の北葛城郡広陵町大字三吉の済音寺集落付近に比定している。又この付近に「薮ノ下」、「薮口」、「竹ヶ原」という地名があり真竹孟宗竹等の竹林が多数残っている。

 三吉の北部には讃岐神社が鎮座し「延喜式」神名帳、広瀬郡の讃岐神社がこれに当たるとされる。

 『竹取物語』の舞台が大和国であったことはかぐや姫の求婚者であった五人の貴公子の名が、持統朝末期から文武朝初期にかけて朝廷の中心にいた五人の実在の人物に比定されることも符合する。

 (資料)奈良県史(風土と文学)
 読売新聞
 (昭和六十一年三月十五日付夕刊)


 『古事記』によると、開化天皇の子の比古由牟須美命の子の大筒木垂根王の娘(曾孫)である迦具夜比賣命とその叔父讃岐垂根王が、かぐや姫と竹取りの翁にあたる讃岐造となる。 これをモデルに作成された風刺劇である。

 『竹取物語』を町起こしに利用している市町村は静岡県富士市,奈良県広陵町,京田辺市,京都府向日市,香川県長尾町,岡山県真備町,広島県竹原市,鹿児島県宮之城町。

拝殿 絵馬が多いと言う。


お姿
  所謂太陽の道の少し北に鎮座、サヌカイトの加工技術に通じた讃岐の民を移住させたのかな、などと想像を楽しめる参道の長さ。
 西側に竹取公園。
 拝殿は古びてはいるが、みすぼらしくはない。本殿は流造檜皮葺。

本殿


お祭り
秋祭 10月15日

『平成祭礼データ』

讃岐神社 由緒書

 当社の祭神は(三代実録)元慶七年の条に正六位上散吉大建命、散吉伊能城神と見えるが当社伝では大国魂神と倉稲魂神、大物主神を奉祀するといふ。別に広瀬大明神と称するのは大物忌神と同神の広瀬坐若宇加之売神の分霊を勧請して祀つたことに因る。
 慶長十九年(1611)正月火災後の現本殿は桧皮葺(現在鉄板葺)三間社でその前方の切妻造り本瓦葺の拝殿には掲額が多く中でも三十六歌仙偏額六面(別保管)は元禄十六年六月(1688)海北友賢筆の張り絵を付した貴重な歌仙絵である。

大和の神々
神奈備にようこそ

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