柿本神社
(かきのもと)

葛城市新庄町柿本162 mapfan

鳥居と拝殿

交通案内
近鉄御所線新庄駅下車 すぐ

祭神
柿本人麿


由緒
 社伝によると、宝亀元年(770年)石見で死去した人麿の遺骸をこの地に葬り、その傍らに当社を建立したと伝える。 本殿脇に人麿塚がある。

『大和名所記』葛下郡 から

 柿下村のほとりに人麿の墳あり。柿本寺とよぶ草室あり。
 柿下朝臣人麿は此所にして生まれ給いしより古墳あり、と村老は言い伝え侍りき。
しか言いしかども、袋草紙、朝野群載、續世継物語、詞林採葉、續本朝文粋などにも、かの朝臣の生所をかきもわかたれず。
只播磨の国明石の浦の人麿の古墳の碑の銘に曰く、人麿のさきは孝昭天皇の皇子、天足(あめたらし)彦国押人命、世々綿々して敏達天皇の御宇にあたり、かの門べに柿の樹あり、是れよりなん柿下の氏を給うと云々。
思うに敏達天皇は十市郡磐余幸玉の宮におわしましけると日本紀に見えたり。
葛下郡と十市郡は別郡といえども其の程、遠くもあらざりければ此所や柿本の氏を給いける跡にも侍りなん。
又の説は古今集潅頂(かんちょう)にいわく、石見の国に家名という人の後・の柿の樹より人麿化生し給いしより柿本(かきのもと)の氏をぞ賜りける。
かの朝臣なん孝昭天皇より世々の末葉にて侍るよしかけり。
只いづくの生まれ、いづれのおわり所さだかならざると文どもにも見え侍る。 しかあれば添上郡(そうのかみのこおり)葛下(かつらのしもの)郡、吉野郡にありけるも人麿の墳にこそと思い侍れ。
人麿の事はつたえを得ざりつればしらず、くわしくは此所の石文にあり。


本殿


お姿
柿本山影現寺と同じ敷地内にある。 本殿は柿色よりは濃い目の朱色のようである。
 石碑があるが、これは大和郡山藩主松平信之建立とのこと。 信之は明石在住時には明石の人麻呂神社にも石碑を建立しているとのこと。

『万葉集』巻十一 (柿本人麿歌集)から

正述心緒(ただにおもひをのぶ)
 
二四五三 春柳 葛城山に立つ雲の 立ちても居ても 妹をしぞ思ふ

寄物陳思
 
二六三九 葛城の襲津彦 真弓 新木にも 頼めや君が 我が名 告りけむ



お祭り

例大祭  4月18日 以前は陰暦3月18日に影現寺の鐘太鼓を打鳴らして会式をおこなうチンポンカンポン祭があったそうだ。



人麿の墓

参考

『寺院神社大事典 大和紀伊』

大和の神々
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