生国魂神社
奈良県橿原市大久保町31-56 mapfan
鳥居
交通案内
近鉄畝傍御陵前下車西側 北へ500m
祭神
生国魂神、咲国魂神
絵が書かれている本殿
由緒
創建年代、由緒など不明。
難波の生国魂神社は神武天皇が祭ったとの伝承がある。当社も神武天皇にかかわるようだ。ただ、ZOUさんによれば、「この神社はもと「天王」と呼ばれた小祠だった。」とのこと。天王とは天皇か牛頭天王か。
橿原に神武天皇陵を定めたのは神武田と言う場所のミサンザイと言われる陵であった。江戸初期に神武陵とされていたので神武田と名付けられた場所である。神武田の西に畝傍山があり、その東北麓に洞村なる穢多部落があり、神武陵を見下ろす場所であったこともあり、強制移住させられた。氏神様も墓の骨も一つ残さずに移転したと言う。
彼らの氏神が生国魂神社であって、また彼らは神武天皇の東征に付き従って来て、陵をもお守りしたと言われる。お守りする陵を見下ろす位置に集落を作ると言うのは今の常識でも多分昔の常識でも考えられない。
サングリーンさんによれば、「神武陵は丸山と呼ばれた塚であったと本居宣長は言い、自分の墓も同じ形に作ったとされる。」。生国魂神社も元社は洞村の上にあり、その周囲に「宮」と彫った石柱が立っている。
『日本書紀』には、「神武天皇を畝傍山の東北の陵に葬りまつる。」とある。まさにこの神社は丸山の上に鎮座しているようである。丸山と思われる場所の東側に神社跡らしい石が複数ある。丸山の頂上を御神体としていたように見える。丸山の下に井戸があり、気の強い場所と思われる。神武陵であっても可笑しくはない。
『日本書紀』には、「大海人皇子軍が金綱井(橿原市今井町・小綱町付近)で戦った時、高市県主許梅に身狭社の生霊(いくたま)霊は懸かって勝利に導いたので、これを篤く祀ったとされる。」と言う記事がある。生霊神を祀った社として現在の生国魂神社とする説がある。即ち式内社の牟佐坐神社の論社でもある。このあたりまでを身狭と称したと言う。
洞村の人々にとっては神武天皇こそ生國魂神であり、咲國魂神であったのかも知れない。
お姿
西向きに鎮座。昇る太陽を拝するようだ。
元地から山を下ると洞村跡に出る。溝が残っている他はまったく何もない。比較的平坦で木々が生い茂っている。更に降りると神武天皇陵への参道に出る。現在の神武天皇陵は丸山を山宮と見た場合の里宮と言えようか。
お祭り
10月 12日 秋祭
生國魂神社の元社 地図
宮の柱
神社跡
神社跡
参考資料 『平成CD』
大和の神々
神奈備にようこそ |