磐余神社

奈良県橿原市中曽司町521 mapfan

鳥居

交通案内

近鉄大阪線松塚駅 北東600m



祭神

神日本磐余比古命

拝殿




由緒

当社地は百済荘の南東隅に鎮座。境内の東には隣接してして神宮寺の磐余山神護院如来堂があったが廃寺となり、現在小堂に鎌倉時代の善光寺式一光三尊如来石仏が安置されている。

 『高取藩風俗問状答』によれば、「中曽司村は産土神磐余神社は式外なれども大社にて護僧磐余山向原寺をいふ。中曽司村一村にかぎり昔より法事仏事をせず、村内に茶園あり。茶を摘製し家毎に茶を点ず。村人も昔より至って質朴也という。」とある。

 多坐弥志理都比古神社の御神体は木像数十体で、千年以上のもの。これは兼務神主であった植田氏が窃に斎をし、多神社に安置してしまったもの。

本殿

お姿

 談山神社蔵の古文献に、「イワリノ宮ノ戊亥ノ角ノハシラ一本クタラ領也」とあり、百済荘の東南隅に鎮座であったようだ。

 平成十年に鳥居や灯籠が新調されている。その替わりに境内地が狭くなったそうだ。参詣時に小学三年生が見学に来ており、宮司がわかりやすい解説をされていた。子供への問いかけをしながら退屈させない話術は、元教師を思わせた。
 配布資料を頂いた。
 1.中曽司町の地名の変遷。奈良時代以前は中小路、南北朝時代には荘園となり中曽司荘と呼ばれた。
 2.地域を詠った万葉集巻十二。真菅よし 曽我の川原に泣く千鳥 間なしわが背子 わが恋うらくは
 3.神社名、祭神、立地、祭礼


お祭り

 10月 上旬 1日間 例祭
 10月 第3土曜日 1日間 秋季大祭

『平成祭礼データ』由緒

御神体 木像

由緒
 当神社は古来より中曽司、松塚、土庫、三ケ村の郷社であって、日本輿地通志大和志にもその旨記載され、現在も三ケ町で祭祀を共にしています。
 「奈良県名勝志」によれば、古代における祭神は狭野火火見彦命と記されており、また明治維新前は磐余大明神を祭るともされていましたが、明治十二年、旧書に従い祭神を神倭磐余比古命とし、明治四十年に指定村社の告示を受けました。
 大正十一年刊「高市郡神社誌」の記載をそのまま引用しますと、「本社は曽我川の右岸に位し浄境二千二百五十坪、幾株の古松亭亭影を成し、清陰塵を留めざる所、社殿荘厳南面して鎮まる。その創始の不詳なる洵に遺憾なるも、由緒沿革頗る古きを察すべし。本神社の社地は官有地第一種に属す」と記されています。
  三ケ村には宮座があり、大正年代の氏子は約三百戸、神社資産は田地二段五畝十四歩、畑地二段八畝二十五歩、宅地一段五畝十三歩、雑地三段一畝十二歩の記録があり、往時の盛大が偲ばれます。 拝殿鬼瓦の銘に「寛文二年願建、瓦司曽我村佐兵衛作、明和二年修覆、新口村瓦工槌屋伝兵衛」とありますので、拝殿は寛文二年(徳川四代将軍家綱の頃、今から三一四年前)に新築され、明和二年(二一一年前)に修覆されたことが分りますが、その後も度度修覆され近年解体新築されました。
 田原本町多にある多坐弥志理比古神社本殿にある木像は、もともと当社の神像であったのを移したものとの伝承があり、また当社は小児のジフテリアに霊験あらたかで、祈願者が梅樹を奉献したので境内各所に梅樹が多かったといわれます。「年は十八磐余の宮で、鳥見よとて」という俚謡にまつはる伝説も残っています。

建造物
 社殿は春日造向拝、屋根檜皮葺、桁行一間半、梁行一間半で、建造時は色彩燦然たるものだったということです。拝殿は単層切妻造、屋根瓦葺、桁行四間半、梁行二間。拝殿内に掲げてある絵馬の中で、最も古いのは宝永六年(徳川五代将軍綱吉の頃、今から二六七年前)と記されている。
 以上

岩神社 橿原市中曽司町756 its-mo

 祭神 神日本磐余比古命
 由緒 古墳の上に社を作ったようだ。
 祈願 雨乞い
 祭礼 10月 第3土曜日 1日間 秋季大祭

鳥居

本殿      本殿の乗っている石
 


参考資料 
『大和紀伊神社寺院大事典』、『平成CD』  

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