滝蔵神社(たきのくら)

桜井市大字滝倉600 mapion

交通案内
近鉄大阪線長谷駅 北へ6km(バスもあるが・・)滝倉下車 前方の地蔵堂の横から登る。
車の場合はバス停から東へ少し、そこから山道を一本で

鳥居

祭神
 右殿 伊弉册尊
 中殿 伊弉諾尊
 左殿 速玉尊
 またの名を三社権現(滝倉権現、滝倉明神、滝倉大菩薩)
 配祀 毘沙門天、疱瘡神
 摂社 国狭土尊、沙土煮尊、豊雲野尊、大戸道尊、泥土煮尊、大苫邊尊
 摂社 面足尊、天彦瓊々杵尊、煌根尊、火々出見尊、天忍穂耳尊、葺不合尊


拝殿前の磐座


由緒
 初瀬の地主神であったが、菅原道真公がお参りの時、この神が「以後のここを任せる。私は滝倉に隠る。」との御宣託があり、社地を譲り、道真公が天神となりおさまったと伝わっている。今の与喜天満神社である。 国津神を追いやり、かつ国津神の庇護を受けようとするのが天津神のやりかたであるとの指摘がある。(奈良大学上野誠氏)。三輪山から出雲に隠れた大国主命の場合も、出雲の国譲りの念押しであろうか。
 また、今の滝蔵の神もまた滝倉の地の地主神の上に重ねられて行ったのでる。日本の神々の構造はこのように深い重層構造になっているのであろう。 なお、瀧蔵の地主神は、周辺の神社の状況から推測すると、高神、その前は九頭神と思われるが、瀧蔵神社の場合には整備が進み、古代の痕跡が見あたらないようだ。

お姿
  暖帯性の極相林の滝蔵山の山頂に鎮座、磐座が拝殿の前にある。
 拝殿と本殿のある石段との間に広い庭がある。神と人との交感の場である。
 滝倉の集落13戸で維持され、数世代に渡って神社への投資が続けられている。小集落ゆえにできることであり、政教分離の世であり、さまざまな宗教とイデオロギーが入ってくるご時世、このような事は徐々に難しくなってきている。 日本の古来からの文化遺産としての村の神社を、過疎の村人だけに依存している現在の維持のありかたは、見直さなければならない。

本殿と庭



長谷寺内の三社権現


お祭り
 2月10日 春祭り
 2月 第1月曜日 御分霊還幸祭(御頭渡し)
 2月 第2日曜日 御分霊頭屋入祭(御注連入り)
 7月14日 御分霊御出入祭(夏頭屋)
10月9,10日 秋例大祭

社頭掲示板から


 神話唯一の夫婦神と御子を祭り、三社権現にて滝倉権現、滝倉明神、滝倉大菩薩と呼ばれる。後に毘沙紋天・疱瘡神を合祀す。

一。神階 延喜二十年(921)従四位下
     天慶三年(940) 正二位

一。神殿 創建年代不詳・三間社流造・権現鳥居
     (棟札)文祥三年(1594) 修覆以後十一回

一。文献
 元長谷八郷の鎮守,地主神にて天慶九年(946)「長谷寺霊験記」に滝倉権現のお告げに依り大泊瀬山を「与喜地」・「与喜山」として菅原道實公に譲られたとの夢物語が書き残され、以来滝倉を「本地主神」,与喜山を「今地主神」と云われた。
 長谷寺の奥の院と称し,古来より信仰深き神社にて長谷寺へお詣りしても当社へ参詣しなければ御利益は半減すると伝えられ「今昔物語」巻十九に平安時代当時の滝倉明神の社殿その他長谷寺との関係が具体的に書かれている。
 鎌倉初期・保延四年(1138)に書かれた「長谷田ら観音記」に美福門院(七四代鳥羽天皇妃)長谷寺に参詣,夢のお告げにより滝倉権現の尼の力で姫を若宮(七六代近衛天皇)と取り替えて貰ったという誕生の秘密が記されて有り,院はお礼に「滝倉の拝殿を営作す」と有る。
 尚、「萱山玉石集」には,当山を滝倉大菩薩と云う三社有り「新宮権現」は女体柔和の姿、本地「薬師如来」・「滝倉権現」は老父の形・本地「虚空蔵菩薩」・「石蔵権現」は比丘の姿、本地「地蔵菩薩」と有る。

神社付近  古鐘 神宮寺  応永二十六年(一四二〇)

         弥勒菩薩(吉野朝時代) 神社下
      石佛 地蔵菩薩(鎌倉時代)  西芳寺
         十三佛(享保七年室町)峠垣内
      塚  黄金塚  ・ 明星院


この神社に付いては、奈良大学の上野誠博士の深い研究がある。

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