天河大弁財天社(天河神社)

奈良県吉野郡天川村坪内 mapion

鳥居


交通案内
近鉄吉野線下市口からバス

 洞川温泉(川合下車)または庵住(神社前)方面行き。 


祭神
市杵嶋姫命、配 吉野坐大神、熊野坐大神

平成祭礼データの祭神
天照皇太神、市杵嶋姫命、天宇受賣命
配 後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、後龜山天皇、伊邪那岐命、伊邪那美命、吉野坐大神、熊野坐大神

拝殿下の磐座



由緒
  南東の弥山(みせん)の弁財天を奥宮とする。弥山から流れる天ノ川の湾流する円形地の中央に鎮座している。 基本は山と水への信仰から発した神社と見ることができる。
 口宮の当社を坪内弁天社と称した。また吉野熊野中宮、天河坐宗像神社とも称する。
 社伝によると、天武天皇の創立で、役行者が大峯開山の拠点としたので、大峯本宮とも称した。白河法皇の熊野参詣の節、増誉が当社に祈祷して以来、聖護院・醍醐寺などの大峯入峯の祈祷所となったと伝わる。

 日本三弁天(他は竹生島、江の島)の一つ。南朝の崇敬厚く、また天河社家能楽座の伝統で知られる。

 この地は円形であり、坪内と言う地名もこれに由来すると言う。聖地には違いないし、本殿も磐座の上に祀られている。吉野山と高野山を結ぶこと以外にはたいした交通の要路でもなければ金属の産地であったとも思えない。 一つの聖地との認識はあったものと思われる。熊野から玉置神社、天河神社、吉野へとつながる磐座聖地のネットワークの一つであろう。

本殿前の井戸



本殿



 弥山山頂には修験行者の祈祷の場があったかのであろうが,神社としての口宮の創建は高野山や熊野信仰の盛んになって来た平安時代以降であろう。

 明治維新以後の神仏分離までは,天河神社は琵琶山白飯寺で,それが天河大弁財天社となった。

 坪内の東北、五色と言う所に、大将軍神社が祀られている。陰陽道では「太白星」(金星)の精として方角を司る神である。五色は五行思想からと言う。 大将軍神社にはバス南日裏口で下車、北へ少し行き、川の方へ曲がると、吊り橋が見える。これを渡り、さらに北へ行くと見えてくる。

大将軍神社



 天河神社にまつわり「四石三水八ツの杜」と言う言葉があるそうだ。
 「石」は磐座信仰からであろうか、元の地から本殿近くに運ばれたのか、本殿への石段下左右にある。名前は不詳。摂社の祠もいくつか並んでいるのだが、名前を書いたものをおいていない。
 「水」は泉や井戸であろう。山岳地帯の盆地であり、水は豊かであるようだ。
 「八ツの杜」とは本社周辺に鎮座する独立社や摂社である。先の大将軍神社もそうである。

八坂神社「素盞嗚尊、配 長慶天皇」吉野郡天川村南日裏



聖天杜 神社前の小丘の北端


韋駄天杜 神社前の小丘の南側



 さて、天河神社の御神籤に五十猛命の名前が書かれていたとHP「吉野にようこそ」(link集にあり)に紹介されている。 「八十の木の種を播き植えて繁る野山も神の功し」「比みくじにあふ人は五十建の霊をしんじんすべし云々・・・」、これは紀の国の大神の五十猛命のことであり、 なぜ天河神社の御神籤にその名が登場するのかかねがねの疑問であったが、祭神とは無関係に『記紀』の文章を取り入れているのです、とのお答えであった。
 ひょっとしたら韋駄天杜との関係などと思っていたが、韋駄天杜は経津主神としているようだ。


お姿

磐座の上に鎮座する本殿

 坪内の地形は環流地形のなせる業であるが、地名は故事にある仙人の住居である「坪中天」からとられたと言う。(『天川の歴史』永島福太郎)  仙境である。
 七夕伝説も入っているようで、天川村の名は天ノ川からとったものであり、弁天橋の下に「ダムダ石」(通称ムシロ岩)があり、ここで弁才天と牛頭天王とが七月七日に会うと言う。 参詣した日は前日の雨で増水していて見ることは出来なかった。

禊神社と神体山



お祭り

  7月 7日 七夕祭
  7月16日 例大祭宵宮祭
  7月17日 例大祭
  8月15日 観月祭(仲秋の名月)
 11月 2日 秋季大祭 能・狂言・歌舞伎・舞楽


平成祭礼データから
天河大弁財天略縁起
 多聞院日記に「天川開山ハ役行者・・・・マエ立チノ天女ハ高野大清僧都コレヲ作 ラシメ給フ」・・・・(芸能と信仰の里「天川」)というのがあります。
 これは室町期の傑僧多聞院英俊の天河詣での記録です。
 天河大弁財天社の草創はこの日記のような飛鳥時代の昔にさかのぼります。
 龍、水分の信仰で代表され古代民族信仰の発祥地とされる霊山大峯の開山が役行者 によってなされたことは周知のことです。その折大峯蔵王権現に先立って勧請され、 最高峯弥山に大峯の鎮守として祀られたのが天河大弁財天の創りです。
 その後うまし国吉野をこよなくめでられた天武天皇の御英断によって壷中天の故事 にしたがい現在地、坪の内に社宇が建立されついで吉野総社、(吉野町史)としての 社格も確立しました。更に弘仁年中、弘法大師の参籠も伝えられます。
 高野山の開山に先立って大師が大峯で修行された話はすでに明らかですが修行中最 大の行場が天河社であったのです。
  天河社には大師が唐から持ち帰られた秘教法具「五鈷鈴」やさきの多聞院日記で紹 介された「大師筆小法花経」又真言密教の真髄、両部習合を現す「あ字勧碑」など弘法大師にまつわる遺品が千二百年の星霜を越えてなお厳そかに吾々の心を魅了します 。
 冒頭多聞院英俊の言う「高野大清僧都」とは弘法大師のことなのです。
 天河大弁財天社の由緒の中で天河社が「大峯第一、本朝無双、聖護院、三宝院両御 門跡御行所・・・(天河社旧記)であったことを見おとすことは出来ません。
 通常唯三后宣下を受けられた宮家が門跡就任を奉告するための入峯は宗門にとって 最も重要大切の行事とされ江戸期将軍の参内に匹敵する権勢と格式をもっていました 。
 この門跡入峯にあたっての必修行程に門跡の天河社参詣がありました。 このことは遠くその昔役の行者や空海の縁跡を慕い、その法脈を受けついだ増誉、聖 宝解説など効験のきこえ高い、大変偉い上人たちが峯中苦行をなしとげ天河社求聞持 堂に参篭されました。そして峯中の大秘法「柱源神法」にもとづく修法の数々が確立 されたのです。まさにその一瞬天河社縁起に言う「日輪天女降臨の太柱が立つ」と言 われます。これが門跡参籠修行の謂です。文化元年七月十六日三宝院高演によって修 せられた「八字文殊法」などはまさしく門跡参籠帰依の史実を裏書きするものです。 又琵琶山の底つ磬根に立ちませる神と従神十五の督のことが修験の著名な文献「日本 正法伝」天河祭祀のくだりに日本弁財天勧請の創めとして掲載されています。
 これは天河大弁財天が本邦弁財天の覚母であるということなのです。そしてその加 持法力は広大無辺十五の督によってことごとく伝えられ、信心帰依の善男、善女へ授 けられる福寿のこと夢疑うなかれとされています。

  *天河社と能*
 弁財天を別名「妙音天」と申し上げます。天河では弁財天拝殿と能舞台を含めて妙 音院と申し上げるのはこのためです。これは弁財天が芸能の神様として早くから尊崇 されたためです。ずっと昔悪霊を鎮めたり、祖霊を祀ったりするのに田楽が行なわれ ていました。特に天河社には弁財天八楽又は弥山八面とも申しまして利生あらたかな 楽舞が伝っておりました。
  夙に平和の神、芸道の神として知られていた天河社に後南朝初期、観世三代の嫡男 十郎元雅が心中に期することを願って能「唐船」を奉納し尉の面を寄進しました。
  平和の神、芸能の神に寄せる期待が如何に大きかったかをしのばせます。以来天河 社では社家座の成立や、喜多六平太による謡曲喜多流の創設など芸能とのかかわりを 深め全国各地の祭祀にかかわってきました。
  しかし時代の推移と共に盛衰を繰返し、明治の中頃以降は永く廃絶の憂目にさらさ れていました。しかし、幸いにも戦後昭和二十三年社家有志によって復興を見るに至 り以来能楽や狂言の奉納が行なわれるようになりました。
  特に昭和四十五年観世流京都の片山博太郎先生能「弱法師」が奉納され以来、毎年 例大祭には京都観世会を初め幾多諸流の名士が芸能の粋を奉納するようになりました 。


参考書 『吉野ー悠久の風景』、寺院神社大事典


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