龍王神社(長滝町)

天理市長滝町 its-mo

交通案内
天理駅前よりバス長滝町口から長滝集落へ1.3km 北に切り込まれた谷間からトビヒ山に登る。林道を登ると天理ダム用の無線設備のための石段が現れる。 頂上手前の南斜面に鎮座



祭神
龍王神(水雷神)

龍神祝詞の中に「一二三四五六七八九十の十種の御寶を己がすがたと変じ給いて」と出てくる。 十種の御寶とは、石上神宮の布留倍之祓と同じく、饒速日尊が授かった十種の神寶を言う。 龍神は物部の神と見なされていたのである。

山頂の祠




由緒

 天理市乙木の夜都伎神社の東方には『石上振神宮略抄』に「夜都留伎は水雷神で日ノ谷に鎮座する」とある「夜都留伎」神に比定される長滝町日ノ谷(火の谷)の龍王社があり、ごく最近まで乙木の人々は、旱魃のとき雨乞のために竹之内峠を越え、そこに詣でていたという。この龍王社を現夜都伎神社の上社的存在と考えるなら、「夜都伎」は本来「夜都留伎」であった可能性もある。 『日本の神々4大和』。

 この辺りの引用資料では、出雲建男神の降臨地にも素盞嗚尊に退治された八岐大蛇が水雷神となって石上神宮の東の高山の末に八雲がのぼり、八個石として降臨したとの伝承が伝えられており、両社については混乱を来しているというか、同一の伝承が普及したと見た方がよさそうである。 この岳は夜都伎神社の鎮座する乙木のダケ山であることから、乙木の人々によって取り入れられた伝承と思える。



ダケ信仰

 この神社は明治期に再建されている。寄進者の氏名であるが、姓氏は長滝町の人々の姓が多いが、名前には○二郎、△三郎と次男三男を思わせる名前ばかりである。 要するに長滝町の長男以外の人々は乙木に行って一家を構え、水源のダケ山を祀っていたことを思わせる。

 夜都伎神社の鎮座する乙木は龍王山を水源とされていない。竹乃内峠を越えた長滝町タケ山を水源と見なしていたので、この龍王神を祭るのである。 実際は河川が立体交差でもしていないと、長滝ダケ山をして水源とは出来ない。要するに乙木の人々は龍王山西側にとってよそ者であり、龍王山への入会権は認められていなかったのであろう。 水は合流するものの、それ以外の生活の糧は故郷の山に求めたのと思われる。

 ここでは龍王神と大和にはダケ信仰について述べておこう。
 大和にはダケ信仰がある。端的に言えば、地域の水源である山(ダケ山)の上に龍王神を祭り、雨乞いのダケ祭り・春のダケ祭りを行う習俗が戦前までは残っていた。 春の風景が整う四月頃に年中行事としてダケ登りするのである。
 春の遊山行事でもありヒラキ(弁当を開く)と呼ばれた習俗であった。戦後、灌漑が進み、呪術的な祭祀への関心が衰え、衰退していった。この祠も退転寸前である。

 吉野の山上ガ岳金峯山、室生の古大野岳、榛原の額井岳、当麻の二上山、都祁村の都介野岳、山辺の龍王山などが著名である。 龍王山の場合には、河川水系ごとに龍王神を祭るのである。現在も柳本龍王社、田龍王社と地域名を付けた龍王社が鎮座している。

 特に吉野の山上ガ岳のダケ信仰には古来の神道・シャーマニズムに加えて、密教・修験・道教・陰陽道などの影響があるようで、これが大和各地に広がっていったようである。 祭り方は夕方、弁当、酒を持ってタケに登り、大トンドをおこないう。火が燃えている間は太鼓をたたく。これを「クモヤブチ」という。


山頂の祠




お姿

 ここでは祠はリョウサン(龍王様)、トビヒ山(飛び火、烽火:狼煙のこと)と呼ばれている。 頂上から東大寺の大仏殿が見えるそうだ。山頂付近に水が湧くこと、見晴らしが良いこと、大和国中からは隠れていること、など狼煙をあげるのは好適地だったと見える。 確認していないが、巻向山頂辺りからよく見えるのかも知れない。飛び火の谷、ヒの谷?
 この祠の佇まいから「剣」のイメージは浮かばない。同行して頂いた神職さんも「剣のない谷」との啓示を受けたそうである。

山頂の泉



お祭り



ご参考 龍神祝詞

高天原に坐し坐して天と地に御働きを現し給う龍王は
大宇宙根元の御祖の御使いにして一切を産み一切を育て
萬物を御支配あらせ給う王神なれば
一二三四五六七八九十の十種の御寶を己がすがたと変じ給いて
自在自由に天界地界人界を治め給う 龍王神なるを尊み敬いて
眞の六根一筋に御仕え申すことの由を受引き給いて
愚かなる心の数々を戒め給いて 一切衆生の罪穢の衣を脱ぎ去らしめ給いて
萬物の病災をも立所に祓い清め給い 萬世界も御祖のもとに治めせしめ給へと
祈願奉ることの由をきこしめして 六根の内に念じ申す大願を成就なさしめ給へと
恐み恐み白す


たかまがはらに ましまして てんとちに みはたらきをあらわしたまう りゅうおうは
だいうちゅうこんげんの みおやの みつかいにして いっさいをうみ いっさいをそだて
よろずのものを ごしはいあらわせたまう おおじんなれば
ひ ふ み よ い む な や こ と の とくさのみたからを おのがすがたと へんじたまいて
じざいじゆうに てんかい ちかい じんかい を おさめたまう りゅうおうじん なるを とおとみうやまいて
まことのむねひとすじに みつかえもうすことのよしを うけひきたまいて
おろかなるこころの かずかずを いましめたまいて いっさいしゅじょうの つみけがれのころもを ぬぎさらしめたまいて
よろずのものの やまいをも たちどころに はらいきよめたまい よろずせかいも みおやのもとに おさめせしめたまえと
こいねがいたてまつることのよしを きこしめして むねのうちに ねんじもうす だいがんを じょうじゅなさしめたまえと
かしこみかしこみ もうす
  




長滝町の民話  八っ岩

 むかし出雲の国のひの川に住んでいた八岐の大蛇は、一っの身に八っの頭と尾をもっていた。 素盞嗚尊がこれを八段に切断して、八っ身に八っ頭が取りつき、八っの小蛇となって天に昇り、水雷神と化した。
 そして天のむら雲の神剣に従って、ヤマトの国の布留川の川上にある日の谷に臨幸し、八大竜王となった。今そこを八っ岩という。

 天武天皇の時、布留に物部邑智という神主があった。ある夜夢をみた。八っの竜が八っの頭を出して一つの神剣を守って出雲の国から八重雲にのって光を放ちつつ布留川の奥へ飛んで来て山の中に落ちた。 邑智は夢に教えられた場所に来ると、一っの岩を中心にして神剣がさしてあり、八っの岩ははじけていた。
 そして一人の神女が現れて「神剣を布留社の高庭にお祭りください」という。そこで布留社の南に神殿を建て祀ったのが出雲建雄神社(若宮)という。

 八っ岩に一っだけ平たいものがある。これをばくち場という。 貞観年中(859〜877)に吉田連の一族、都祁の村公康敬が神殿を造って神格となし、八剣神となし、田井庄町の八剣社として祀られたという。

 八っ岩の隣に ほおづき谷というところがある。八っ岩に蛇がいた。その目の玉がほおづきの如く赤く見えたので ほおづき谷という。

 天理市史 民話編から

大和の神々
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