国津神社
山辺郡都祁村南之庄182 mapfan


交通案内
近鉄・JR天理駅から針インター経由榛原行きバス並松下車 南へ1km

祭神
大國魂命 配 屋船久久能知神、手置帆負神、彦狹知神
境内社 歳徳神社「歳徳神」、九頭神社「高神、山神神社「大山津見命、山神」

由緒 神社庁CDから
 円融天皇の天録3年(972年)2月初午の日、伊賀国阿閉郡二位峯国津大明神神主・則清庄司と則元大夫の両人、年来争論のところ、則清庄司相負け兄弟3人は、国津大明神の御神体を奉じて、家郷をいで立ち則清の親族の多い河内の国高安に赴かんとして、南殿庄字上田の柏木の下に一夜を明かした。 翌朝出立せんとしたところ、御神体の白石は樹下に沈んで上らない。 兄弟困りはてているとき神のお告げがあって、此の地に社殿を作り崇め奉った。 この年4月8日のことである。 其の後160年を経て、則清庄司の子孫もたえ、国津大明神の社殿も崩壊した。 南之庄の下司百姓は興福寺二階堂院主に陳情し、南殿庄の反米で造営することを許され、長承3年(1134年)9月8日、手斧はじめ21日上棟、25日造立したとある。 これが今の国津神社である。 国津大明神は都祁の国の神として古代より祀られ、祭神大国主ノ神は万物育成、五穀豊饒、病癒法を司る神とされ、中世、山内7庄と称された村々に祀られた国津神の根元の神社である。

 伊賀国阿閉郡二位峯国津大明神とは敢国神社(敢国津神、敢国津大神)のこと、阿拝郡に阿閉氏の拠点で、伊賀国柘植郷に敢朝臣安萬呂の名が見える。 都祁村に小治田安萬侶の墓があるが、この名の一致は偶然だろうか。

 また伊賀国阿拝郡に甲賀三郎の勧請になる諏訪神社が鎮座、同時にこの神を祀る人々が都祁に移動してきたことも考えられる。都祁から山辺の方面や吉野に祈雨神として建御名方神が祀られているのは諏訪から伊賀を経由したものかも知れない。

お姿
  手入れが行き届いき、社殿も美しい。 この村は豊かな地域で、人々に心の余裕があるのだろう。

鳥居


本殿と九頭神社(手前)


本殿背後の龍神図


お祭り

 8月22日 2日間 風鎮祭
10月16日 2日間 大祭

大和の神々
神奈備にようこそ
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