浄見原神社

吉野郡吉野町南国栖1 mapfan


神社手前からの吉野川


交通案内
近鉄吉野線大和上市からバス 南国栖隧道下車 隧道をくぐり民家の横の小道を下り、下流へ行く。


祭神
 天武天皇



由緒
 毎年1月14日の国栖奏の奉納は県指定無形文化財。往古は宮中で国栖部が奉納していたのであるが、寿永年間(1182〜84年)頃に中断、参内も取りやめになった。それで大海人皇子(天武天皇)に由緒深い天皇淵に天皇社を創建、国栖奏を奉納し始めたと『吉野旧事紀』にある。
 窪垣内の御霊神社に国栖奏発祥の碑が立っている。
 国栖奏当日の神餞は腹赤(はらか:うぐい)・醴酒(一夜酒)・土毛(くにつもの:根芹)・山果(栗・カシの実)・毛瀰(もみ:赤蛙)である。

 播磨の名産イカナゴのうちで腹の赤っぽいのは西の方から来るそうで、茹でると紅白になり、縁起がいいとされる。肥後国では腹の赤い 「にべ」という魚を腹赤と称すると云う。

 国栖奏歌
 世にいでば 腹赤の魚の片割れも 国栖の翁が 渕にすむ月
 み吉野に 国栖の翁がなかりせば 腹赤の御贅 誰れか捧げむ
 鈴の音に 白木の笛の音するは 国栖の翁の 参るものかは
 かしのふに よくすをつくり よこすにかめる おほみきうまらに きこしもちおせ まろがち

 さて、神餞に赤蛙が入っているのが興味深い。 この地方の貴重な蛋白源だったのだろう。


社殿


 社頭掲示の「国栖奏のこと」
 吉野は古く、古事記日本書紀の神代編にその名を現します。古代の吉野は今の吉野山を指していたのではなく、吉野川沿岸の地域をそう呼んでいました。
 古事記日本書紀に書かれていることが、そのまま歴史的事実とは言えませんが、記紀に伝える模様を裏付けるように、縄文弥生式の土器や、そのころの生活状態を推定させる、狩猟の道具がこの付近からも発掘されています。
 記紀には「神武天皇がこの辺りへさしかかると、尾のある人が岩を押し分けて出てきたので、おまえは誰かと尋ねると、今天津神の御子が来られると聞いたので、お迎えに参りました、と答えました。これが吉野の国栖の祖である」という記載があり、古い先住者の様子を伝えています。
 又、記紀の応神天皇(今から約1600年前の条に、天皇が吉野の宮(宮滝)に来られたとき、国栖の人びとが来て一夜酒をつくり、歌舞を見せたのが、今に伝わる国栖奏の初まりとされています。
 さらに、今から1300年ほど昔、天智天皇の跡を継ぐ問題がこじれて戦乱が起りました。世にいう壬申の乱で、天智天皇の弟の大海人皇子は、ここ吉野に兵を挙げ、天智天皇の皇子、大友皇子と対立しました。
 戦は約一ケ月で終わり、大海人皇子が勝って天武天皇となりました。
 この大海人皇子が挙兵したとき、国栖の人は皇子に味方して敵の目から皇子をかくまい、また慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏しました。これを見た皇子はとても喜ばれて、国栖の翁よ、と呼ばれたので、この舞を翁舞と言うようになり、代々受け継がれて、毎年旧正月14日に天武天皇を祭る、ここ浄見原神社で奉納され、奈良県無形文化財に指定されています。
             吉野町観光課


   国栖奏を朝廷で演ずるようになったのは、吉野に隠れた大海人皇子に当地の民人が支援を行った故であろう。
 犬を飼わない村と云う民話がある。国栖の村のこと。大海人皇子がが逃げてきた際、渡しの翁が渡し舟を引っくり返してかくまった。そこに追手がカグハナとミルメという二匹の犬を連れてやって来た。 犬は皇子を嗅ぎつけて舟の周りをまわり出した。危ないと思った翁は、そばにあった赤い石でその犬を殴り殺した。皇子はことなきを得たと云うことで、後に飛鳥浄見原に構えた際、印を持って国栖の翁がやってきたという。
 犬を飼う、飼わないとは、鉱山師の一群を思わせる。また「赤い石」は丹沙の石を思わせる。丹生の民であったようだ。
 大海人皇子の決起後の辿った道筋は中央構造線にそって伊勢まで行き、美濃から伊吹方面へ来ている。武器となる金属の産地を押さえているのだ。

お姿
 吉野川の北岸の切り立った岸壁上の岸壁の隙間に鎮座、いかにも古い時代からの祭祀の場を思わせる。この辺りの神社には狛犬がないのは上記民話によるもの。




お祭り
国栖奏奉納  1月14日


神社近くからの衣笠山(大蔵神社鎮座)

『平成祭礼データ』
  南国栖、吉野川の右岸断崖上に鎮座する旧村社で、天渟中原 真人天皇(天武天皇)を祀る。毎年旧正月十四日伝翁の末裔の人々によって国栖奏が奉納される。国栖奏とは石押分の末孫の翁筋の人々が朝廷の大儀に御賛を献じ、歌笛を宮中の儀鸞門外で奏した美しい故事に則ったもので、舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、謡翁五人の計一二人で奏上する。当日の神饌は腹赤の魚(うぐい)、 酒(一夜酒)、土毛(土地の特産物として根芹、山菓(木の実)・栗・かしの実)、毛 (かえる)である。岸壁に建つ神殿は、神明造一間社。石燈籠のうち亨保五年(1720)の刻銘のものが古い。国栖奏の第四歌に「かしのふに、よくすをつくり、よくすにかめる、おほみき、うまらに、きこしもちをせ、まろがち」と歌う。

参考書 『神社寺院大事典』
大和の神々

神奈備にようこそ

inserted by FC2 system