大名持神社

吉野郡吉野町河原屋86 mits-mo


鳥居


交通案内
近鉄吉野線大和上市から吉野川上流に2km


祭神
 主神 大名持御魂神
 合神 須勢理比命、少彦名命
摂社
若宮神社「事代主神」
水神社「罔象女神」
金毘羅神社「金山彦神」
稲荷神社「稲蒼神」


由緒
 吉野川北岸の見事なの神奈備山の麓に鎮座、この山は妹山(いもやま)とよばれているが忌山(いみやま)の変化か。
 忌山とは樹叢に斧を入れない禁忌的な民族信仰の息づく山である。

 『万葉集』巻七 一二四七
大穴牟遅(おほなむぢ)少御神(すくなみかみ)の作らしし妹背の山は見らくしよしも
 にちなんで、少彦名命が合祀されたと『日本の神々4』に記載されているが、この歌は吉野川を下り紀の川にはいった所にやはり妹山背山があるのだが、ここを歌ったものと『万葉集全訳注』で中西進氏は指摘している。
 忌山が妹山と訛って、この歌で祭神が大名持神とされ、やがて神社名になったと言う事はないのだろうか。

 それはともかくとして、少し上流の宮滝遺跡などこの周辺は縄文時代から人々が生活をしていたようで、この円錐形の山は上流からも下流からもよく見えていたはずで、祖霊の鎮まる山として見られ、祀られていたものと思われ、国栖の祖神、国津神、大名持神と素直に取り込まれる余地はあったように思われる。
 この神奈備型の秀麗な山が人と生命の源である吉野川に面しているのを、国土を作り給うた神が鎮座すると考えて何も不思議ではない。考えなかったとしたらその方が不思議なことだろう。



拝殿と本殿



お姿
 紀伊半島の中央構造線の東出口の伊勢神宮と、 西の出口の日前国懸神宮との荒く言えば中間に鎮座している。 朝廷が中央構造線沿いの鉱産物を確保するべく、両神宮に加えてこの大名持神社を重要視したのではなかろうか。 神階も早い段階で極位を与えられているのは、それが故ではなかろうか。
 ついでにマクロには当神社と日前国懸神宮との中間に丹生都比売神社が鎮座、 また当神社と伊勢神宮との間に美杉村の若宮八幡神社の摂社の高宮「祭神 丹生津比賣神」が鎮座している。

 妹山は暖帯林の独立峯で、腐植土が50cm程堆積しているそうである。 吉野山は桜、檜、杉と人の手が入った山であるが、この妹山は原生林で、忌山として人の立ち入りを拒んできた貴重な山である。

素木神明造萱葺の本殿



お祭り
秋季皇霊祭 9月15日
宵宮祭 10月16日
例祭  10月17日

大名持神社の由緒 『平成祭礼データ』から

 大名持神社は、吉野町大字河原屋、小字妹山に鎮座されている旧式内郷社です。祭 神は、大名持御魂神(おおなもちみたまのかみ)・須勢理比羊命(すせりひめのみこ と)・少彦名命(すくなひこなのみこと)で、鬱蒼とした妹山樹叢山麓に、氏子の崇 敬を集めて奉祀されています。
 古くは龍門郷二十一か村の大社でしたが、明治十二年八月、河原屋外二十四か村の 郷社とすることに群衆合議で変更され、現在は、河原屋・立野の氏神となっています 。
 境内には、紀州大真公の奉幣料と里人の資材の寄進による石燈篭があります。また 、神社下には、毎年六月三十日に海水が湧き出るという古い言い伝えのある潮生淵( しおうぶ ち)があります。大汝詣りといって、大和国中(くんなか)の当屋の人が当神社に参 詣し、ここで六根清浄の水浴をいたしました。
 妹山樹叢は当社神域に属し、昭和三年三月天然記念物に指定されています。昭和五 十六年五月、吉野地方行幸に際し、陛下には妹山にお立寄りになられて親しく樹叢を ご覧になられました。

 由緒沿革 
 創紀の年代は詳らかではありません。延長五年(九二七)に完成した延喜式神名帳 によると、大和国吉野郡十座の一つとして金峰神社とともに名神大社に列せられてお り、月次(つきなみ)・新嘗(にいなめ)に官弊がささげられています。
 延喜式には『大名持神社』、同式臨時祭を受ける名神二八五座の中に『大名持御魂 神社一座』とあり、大神分身類社鈔によると、中世には『妹背神社』とも称されまし た。近時は、俗に『大汝言』(おなんじのみや)、音転倒によって『おんなじの宮』 ともいわれています。
 菅原道真らの撰進した史書『三代実録』(九〇一)に「貞観元年正月二七日大和国 従一位大己貴神に正一位を授く」とあり、『大和志』(一七三五)にも「貞観元年正 月授正一位」とあります。貞観元年(八五九)全国で新階・新叙の神社は二六七社に 及んでいますが、正一位という極位を授けられたのは、わずかに大名持神社と河内国 枚岡神社のみであり、伊勢神宮・宇佐八幡は別にして、山城国の上賀茂・下賀茂の神 、鹿島・香取春日の諸神に次ぐ神階を授かった極めて神徳崇高な社です
 本殿は神明造萱葺で、桧皮葺神明造の拝殿・祝詞殿・神饌所清浄手洗所・宝庫・社 務所が整備されています。境内神社は、本殿に向かって左 摂社の若宮神社(祭神事 代主神)と右 水神社(祭神罔象女神)、本殿西側石段上 末社の金毘羅神社(祭神 金山彦神)、稲荷神社(祭神稲蒼神)です。
 境内には二十二基の石燈篭があり、その中には「文化三年十一月 大汝宮 紀伊大 守大真公之奉賽料及里民之資材以両基改造也」と刻されたものや、延享元蔵子八月( 一七四四)・明和甲申十二月(一七六四)・文久元年十一月(一八六一)・文化五年 七月二十八日(一八〇八)の記銘のあるものがあります。
 営繕について、正徳二年(一七一二)の御宮上葺の記録、天保二年十月(一八三一 )の屋根替届書控、明治十八年三月上棟の棟札が残っています。
 『大和名所図会』(1791)に「大名持神社 妹山にあり 山は河原屋村に属す 。
境内に大海寺あり。云々」とありますが、神社東南方にあった神宮寺の大海寺は、 明治維新の神仏分離で廃寺となり、わずかにその跡が残っているのみです。かって斎 祀した熊野曼茶羅の旧日本地仏十二社権現像十二躯は、仏国寺(河原屋)にまつられ ています。

 祭典は二月二十六日(祈念祭)・七月十日(夏祭)・十月十七日(例祭)・十二月 二日(新嘗祭)です。

 大汝詣り
 吉野川行きとも言われた大汝詣りは、桜井市内(旧多武峰・朝倉・安倍・香久山の 村村や桜井町)の社の祭を執行するに先立って、当屋の者がこの神社に参詣、社前の 潮生淵で六根清浄の水浴をし、神酒口に水を汲み、吉野川原の小石を持ち帰って神事 に用いた 海水で穢を祓う潮垢離(しおごり)のことです。『吉野名勝志』(一九一 一)に「昔時神宮寺あり大海寺と称せり。寺廃されて倉庫一棟存す。潮生淵は社前吉 野川の辺に在り古へ三月三日、六月晦日潮水湧出すと云。周囲約二〇間許り、明治十 八年巌石を除きて其跡を滅せり」とあり、『大和志』に「社前有潮生淵。毎歳六月晦 潮水湧湧故名」とあることから、少なくとも享保の頃に海水が湧くという伝説があっ て、その頃より続いた行事と思われます。

 妹山
 妹山は、斧鉞を絶つ神聖な山です。「妹山の土は生きている。だから木も毎日様子 が変わる」と今も信じられています。また、山頂には池があるという言い伝えも残っ ています。これらは妹山を神秘な山とした信仰から生まれたもので、妹山という名は 忌山(イミヤマ)から起こったと想像されています。そして、人工美林の吉野の山々 の中で、しかも交通の便利な地のこの山だけが、原始林的樹叢を今日に残しているの は、その禁忌的信仰のためだといえます。
 鬱蒼とした妹山樹叢は、昭和三年 天然記念物の指定を受け今日に至っております 。山中には、ツルマンリョウ・ルリミノキ・テンダイウヤク・ホングウソウ・ホング ウシダなど、珍稀な温地性植物が繁茂しています。特にヤブコウジ科に属するツルマ ンリョウは東亜固有の植物で、わが国では、屋久島・山口県とこの地のみに成育する 珍しいものです。 山腹一帯にはアラカシ、イチイガシ、ツクバネガシ、カゴノキ、 ツブラジヒ、スタジヒ、サカキなどの常緑広葉樹・山頂には自然性のヒノキの群落が ヒトツバ・ウラジロなどを下草として繁っています。
 ちなみに、ツルマンリョウの学名アナムティア(Anamtia stoIoni fera Koidz)は大名持神社の名にちなんで小泉博士が命名されたものです 。

 大頭入衆日記
 大頭入衆日記(上田龍司氏所蔵)は、正中二年(一三二五)から大永八年(一五二 八)までと、享禄二年(一五二九)から、天正十二年(一五八四)までの龍門郷鎮守 大宮社の、大頭役になるための宮座座衆に入る記録で、例年の書き継ぎによるもので す。上巻の最初に南北朝時代の四通の文書裏を用い、下巻に幕末の学者穂井田忠友の 考証をつけている当地域随一の注目すべき文献です。
 「応永七年カノヘ タツ九月四日座衆百姓評定云 天満宮神主殿・大汝宮神主殿両 人座敷事自今以後七日十日両度口仕可為御宝殿口役事名代子々孫々可被免貫者也 難 然座敷事悉可不有退転可定申由之仍為後代状如件・・・・」の記録から、吉野山口神 社(天満宮)と大名持神社が衆会祭を共催していたことがうかがえます。

 大般若経
 正平年間・龍門庄の惣領主牧尭観賞が楠木氏とともに河内国古市方面に転戦中、そ の執事の由良門羅雲祥が、凶徒退散・宝祚無窮・二親兄弟従類眷属等の離苦得楽と、 自身の願望成就を祈願して、大般若経六百巻を写経し、当神社に奉納しました。各経 巻首に『龍門庄大汝宮』の古印が朱印された経巻は、現在川上村運川寺に所蔵されて います。

 妹背山婦女庭訓  おんなていきん        
 妹山と対岸の背山を舞台とした浄瑠璃の『妹背山婦女庭訓』は、明和 八年(一七七一)に竹本座が再興されてうち出した傑作で、近松半二・近松東南・三 好松洛等の合作です。 暴逆きわまりない蘇我入鹿を、知謀に秀でた中臣鎌足が退治 していく大織冠物の一つです。

 妹山は太宰少武国人 背山は大判事清澄の領内で、領地争いで不和の両家の久我之 助と雛鳥は恋仲である。しかし、雛鳥は入鹿に入内をせまられる。また、入鹿は、執 心していた帝の寵姫采女の局が猿沢池に入水したというのは偽りで、実はその付人で ある久我之助がかくまっているものと疑い、疑いをはらすために、久我之助に出任せ よと難題を命じる。つまりは、雛鳥を奪おうとしての謀りである。ついに雛鳥は、久 我之助の無事を祈りつつ妹山の屋敷で母に首をうたせる。久我之助もまた雛鳥の幸せ を願いつつ腹を切る。−帝への忠節と、雛鳥の命をかけて守った恋心に、二百年来多 くの人々は涙を流したのです。
奈良県吉野郡吉野町河原 

参考書 『日本の神々』『式内社調査報告』
大和の神々
神奈備にようこそ

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