葛城二十八宿 第二十五品



道標 かうきじ 右の道は平石峠から

 高貴寺 南河内郡河南町平石mits-mo

  近鉄河内長野線の富田林駅前から金剛バスで平石行きに乗る。9時50分発、これを逃せば13時50分。なお、阿倍野から準急で30分。

 伝えるところによれば文武天皇の御代役行者が法華経二十八品に配して葛城山の峯々に開いた二十八霊場の内、当寺は第二十五品の観音普門品に配当されるものである。

 仏に供養する香花(コウゲ)が四季絶えなかったので香花寺と名付けられたといわれるが、香花は神下とも書かれるから別個の意味を有しているかもわからない。

 嵯峨天皇の弘仁年間(810〜)には弘法大師が勅命を奉じて堂塔を建立し、そのあと当寺はその弟子の智泉大徳に譲られたとされている。下りて元弘年間(1331〜)、当寺の衆徒は南朝に属したが笠置山陥落後関東方は寺の西方なる楠木の支城平石城に拠る平岩氏を攻めるに際して当寺の伽藍も灰燼に帰し、自後数百年に亘って法灯振るわなかった。安永年間(1772〜)に至って一世の大徳慈雲尊者が当寺に留錫し、以来約三十年に及んだ。

 かくして皇室の御帰依を蒙り、また徳川幕府から正法律高貴寺一派総本山たる許可を得るところとなった。尊者は伽藍を修築し、旧観復興したので尊者をもって当寺中興第一世とせられている。その学は、和漢、梵に通じ梵学の造詣に至っては比肩するものはなく、梵学梁一千巻の大著述がある。また神道を究明して葛城神道を興し、十善を説いて十善法語十巻を著している。桃園天皇の御生母開明門院、御桃園天皇の御帰依を受けまた郡山藩主柳沢保光公法弟子となり各宗の僧侶も来て教えを仰ぐなど上下の学徳が篤かった。

門前の「大界外相」の標石、これより女人結界

 現在も寺堂としては、金堂、講堂、開山堂、奥の院の御影堂などが安置せられている。御影堂側には、慈雲尊者の墓塔たる五輪塔があり、金堂の側後には、重要美術品の石造十三重塔、石造宝筺印塔などがあり、本堂前には応永二年(一三九五)在銘の石造燈籠がある。

 なお同地の磐船神社はもと高貴寺の鎮守であったが、明治初年の神仏分離によって高貴寺から離れた。

五大明王をまつる金堂


妙善菩薩をまつる講堂 弁財堂ともいう

 金堂と講堂の間をくぐって奥へ進む。突き当たりにバン神の祠が見える。その向こうに目指す経塚がある。

バン神をまつる祠 向こう側に経塚。


石祠の小さいほう、向かって左。右は稲荷祠。

『葛嶺雑記』 嘉永三年(1850) 三浦茂樹 から

 神 下 寺 高 貴 寺  河州石川郡平石村 真言律

 本堂五大尊、古記に神変大士の御作と、しかあれども里民は弘法大師の作なりといへり、鎮守磐舟明神此所より二十余丁山上に、久米のいははしあり不動明王立せたまふ。又経塚は香華畑なる、ぢざう堂のまへに、石塚二基有。其小さきかたかも。

 妙  観世音菩薩普門品第二十五之地

 畑中にもしやそれかと袖ぬれて法のきぬほすさみたれのころ
 

 


龍池の祠 奥の院に至る石段が続く


参考資料
『葛城の峰と修験の道』、『葛嶺雑記』、『河内名所図会』

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