葛城二十八宿 第二十八品



水神社 奈良県北葛城郡王寺町畠田2640 its-mo

大鳥居

 祭神 罔象女命

 明神山は王寺町の西端で、奈良と大阪との府県境にある山で標高は、2737mで眺めも良く、奈良盆地や明石海峡大橋が見える見通しの良いところである。昔は大阪堂島の米相場の旗振りもこの山頂辺りで行われていた。
 大字畠田の明神山の大神宮さんは、文政十三年に大日霊女尊をまつり、四国阿波(現徳島県)方面からも多くの人がお詣りされ大いに賑わった。
 昔は、道中にナツメ茶屋やシンコ茶屋、オーコ茶屋という茶屋があったらすう。

 また片岡氏が一時ここに城を築いたが、松永弾正久秀に焼き払われたといわれる。
 この山に白狐が二匹いて、太神宮へお詣りする多くの人でにぎやかにし、内宮(送迎太神宮)も外宮(亀山太神宮)も宇治橋までもあった。
 遠くから伊勢の皇太神宮へお詣りすることきはこの峠を必ず通るので、ここか大和の皇太神宮で本家本元であるともいわれ、太神宮さんの御神符を授与して帰らせた。長旅で疲れた人々は、ここだけお詣りして帰っていった。

 ある時、関屋の甚九郎という人が、白狐を一匹射ち取った。残りの一匹は東に逃れて罐子山(現天理市守目堂町付近)にかくれ住んだらしい。
 ある日、郡山藩主が馬に乗ってきて、これはニセの皇太神宮だと言って、郡山藩では命令を出して太神宮をこわしてしまったという話がある。
 太神宮さんの社は、三間(約5.4m)に七間(約12.6m)の拝殿で火幡神社(畠田五丁目地内)に移された。灯籠も同社に移された。
 銘に「大日霊神社、和州雲門山太神宮」とある。罐子は畠田村の戸田氏が所蔵し、茶屋は三角の妙見堂にある。太神宮さんの世話役が、毎日賽銭を「カマス」に、四、五杯入れて家に持ち帰ったといわれる。村人は明神山の上まで行くのが遠いので、太神宮さんの出先の宮を字おどり場(畠田地区の地名)につくった。今でも十月二十二日にここでお祭りが行われている。
 太神宮蹟には、今はこの水神さんがまつられていて、現在も八朔といって九月一日には、多くの住民が参詣しておられます。

水神社

祭礼 9月1日

 JR畠田駅から歴史の道と言う道を南に辿ると白山姫神社に至る。そこからの歴史の道の道標は見つからなかったので、バス道を約30分ほど歩く。一貫して登り道。
 ほどなく赤い大きい鳥居が見えてくる。明神山参道である。

 しばらくは住宅地域の道であるが、10分ほどで山道にはいる。舗装された道であるが、自動車などの乗り入れが出来ないように黄色い枠で道が塞がれている。人間は通れる。

 歩きやすく気持ちのよい道が続く。約30分で頂上。途中で後460mの標識がある。ここから大和川の方に下る道があるそうだが、相当急な下りで、すべり下る場所もあるようで、お勧めではない。

水神社

 頂上に水神社が鎮座、周辺には展望台や遊歩道など公園になっている。修験の宿だったとの面影はない。かっては鳥居に貼ってあったそうだ。

明神山から二上山・葛城山方面


第二十八経塚の標識

亀ヶ瀬 柏原市峠 mapion

 明神山の真北に当たる。頂上と岩とは直線距離では700mだが、頂上から下り、王寺駅経由河内堅下の駅から大和川を約1km遡る。亀ヶ瀬橋があり、その上から上流を眺めれば、亀石がある。実はどの石か判りにくい。予め地元の方二人に聞いたのだが、二人とも「よく尋ねられるが実はどの石かは知らないんだ。」とのこと。

亀石 写真の中央の石

 江戸中期に第二十八経塚は明神山から大和川の亀石に転化したと考えられている。
 室町初期の『葛城峯中記』には「亀尾宿、勧発品第廿八、岩崛文字は去りて亀甲在也。五輪河中石に鮮に見也。宝篋印塔双ひて之に在り。常には水中に有る故見えず。干水には拝見中也。」とある。
 亀石がある川の北側に渡り上流の方向に250m弱で龍王神社が見える。
 

経塚の龍王神社

『葛嶺雑記』 嘉永三年(1850) 三浦茂樹 から

 亀 の 尾 宿 

 同国葛下郡、西北山の尾崎より、河洲亀瀬川へ、なだれ出たる所なり、川中に亀石、紫石、雲石、其外奇岩峭して絶景なり、又自然に梵書のやうにあらわれみいる大石あり、正しく高祖の御作にやこれを亀瀬の経石といへり。
妙   普賢菩薩勧発品第二十八之地
加田のうらや嶋根をうけてやつをふみこゝになかめのをはり成らん
 

 


参考資料
『葛城の峰と修験の道』

葛城二十八宿

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