忌部神社
徳島市二軒屋町 mapfan

長〜い石段


交通案内
二軒屋 北西 700m 金刀比羅神社の裏山頂上


祭神
天日鷲命
境外摂社 美馬郡貞光町 五所神社

鳥居と社殿


由緒

 式内社の忌部神社の社地を巡って争論があった。政府は明治七年麻植郡山崎村の天日鷲社を当該社と決定したが、その後も異論があり、明治十四年美馬郡西端山村に遷祀、更に同十八年現社地に隣接する金刀比羅神社に仮遷座、同二十五年新社殿竣成と同時に奉遷鎮斎した。

 忌部氏遠祖天日鷲命は太古穀麻を植えて紡績の業を創始し、皇祖天照大神の功臣の内に列せられた。後世その子孫は忌部と称えて国家祭祀の礼典を司った。『延喜式神名帳』には、「阿波国忌部神社名神大月次新甞 或号麻殖神 或号天日鷲神」とある。
 これほどの神社でありながら、中世に兵火に罹ったと雖も社地不明になるとはいささか信じられない所がある。

拝殿


お姿
 勢見地域にはいると鳥居はないが、神社への登り道と思われる長い石段が見える。百段以上登った所から左に折れる道があり、これを行けば金刀比羅神社に出る。曲がらずに更に同じほど登ると忌部神社の境内に出る。

本殿


お祭り
  10月 19日 例祭

『平成祭礼データ』(平成七年)から

阿波国総鎮守忌部神社略記

 太古天日鷲命は、穀木(かじ)麻を植え製紙製麻紡織の諸業を創始され特に天照大御神が天の岩戸にお隠れになった時、白和幣(しろにぎて)をつくり神々と共に祈祷(いの)られ天の岩戸開きに大きな功績を挙げられた。
 その子孫は忌部と称し国家祭祀の礼典を掌り、神武天皇の御代阿波国に下りこの郷土を開拓し代々朝廷に荒妙御衣(あらたえみそ)(穀木、麻で織る)を貢上し、それは大嘗祭(天皇即位の大礼)の用に供された。
 麻植郡の名も麻を植える事から起きたものである。
 このように天日鷲命を奉祭する忌部神社は忌部族すなわち徳島県民の祖神を祭り古来阿波の国総鎮守の神社として朝野尊崇篤く延喜の制には官幣大社に列せられ、且つ名神祭の班幣に預かり(名神大社)西国随一の格式の大社として、四国一宮とも称せられた。
 文治元年源義経八島合戦のみぎり太刀一振を奉納、那須与一は弓矢を奉納、更に文治三年源頼朝御供料として田畑一千町歩を寄進したしたことが伝えられている。
 当社は中世以降兵火にかかり久しくその社地が不明であったが明治四年国幣中社に列せられ、明治七年その所在地を麻植郡山崎村とされたが、同十四年美馬郡西端山村に遷祀、さらに明治十八年徳島市の金刀比羅神社へ仮御遷座、同二十年現在地に新社殿成り奉遷鎮祭し奉った。
 昭和二十年、戦災のため社殿をはじめ主要建物をほとんど焼失し、現在の本殿は昭和二十八年拝殿は昭和四十三年に復興されたものである。
 境内地、約一万二千坪
 祭日、例祭十月十九日、鷲替え神事
 摂社、五所神社、美馬郡貞光町西端山吉良鎮座  
以上

 『徳島県神社誌』、『平成祭礼CD』

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