事代主神社
徳島市通町2丁目15 mapfan

東の鳥居


交通案内
徳島駅南300m



祭神
事代主命、大國主命

拝殿


由緒

 通称「通町のおっペっさん」で、蛭子大明神と称した。元々、八万の夷山に祀られていた。明治三年現在地に遷座した。

北側の鳥居から


お姿
 端的に言えば味も素っ気もない神社。私は中学の3年間をこの近くで過ごしたので記念として参拝した。

 この神社の西側の路地に耳切れ大明神と云う小祠がある。

耳切れ大明神

 藩政時代、この小路に武間・鷹取の両武家は住み、その境に狸の祠があった。耳切れ大明神といって、耳の切れた馬が走ったと云う。のち、その場所が三原屋の傘ほし場となり三原屋の換地で、ともに現地に移った。商売繁盛に霊験あらたか。  阿波狸奉賛会


事代主神社のお祭り
  10月10日 秋季例祭
   おっペっさんの祭は新旧の1月10日が本祭、九日は宵戎、十一日は残り戎と三日間、毎年大変な賑わいを見せ、笹につけた「福だわら」に一年間の幸福と商売繁盛の願がかけられる。通町一帯を埋め尽くす植木市も有名だ。

『平成祭礼データ』(平成七年)から

事代主神社の由緒

通町のおえべっさんという、懐かしい呼び名で古くから徳島県全域の人々に親しまれ敬われている神社は、主神事代主神、大国主神をお祀りしております。
 当神社は、元名東郡下八万村(現在の徳島市八万町夷山)蛭子山の円福寺に鎮座していたが、古老の伝えるところによれば、蛭子山城主、篠原佐吉兵衛の守護神なるを篠原家滅亡の後、家臣仁木太郎(清和源氏六代目)が蛭子山に勧請したと云われています。
 明治二年に神仏両部祭廃止するの分離政令が下り、当時の官憲首脳者大参事井上高格が、通町繁栄の為当町に遷座勧請したという。その時、官命により事代主神社と社号を改称したとある。 自来、全県挙げて崇敬の的となり、特に商売繁昌、海上安全、大漁満足、良縁成就、五穀豊穣、また交通安全の守護神、諸祈願成就の神と仰がれ尊ばれています。
 しかし明治三十八年十月二日午前二時通町一帯の大火災の際、全町と共に社殿悉く灰燼に帰したるも、僅かに御尊体は焼失の難を免れ、当町有志一同の寄進により仮社殿が建築され、引き続いて毎年の祭事もことなくとりおこなわれていたが、その後、現地に社殿再建の計画がなされるも時節柄相当な困難を極めましたが、県民及び他府県崇敬者の的である「おえべっさん」は、広く崇敬者の御協力のお陰により、大正九年漸く現地に木造新築社殿の完成をみるに至ったのであります。
 しかしながら、その後再び大東亜戦争で徳島市内繁華街が戦災にあい、昭和二十年七月三日全市全焼といううきめにあわれ本殿は勿論、社務所も焼失したが、当時、佐藤養助及び佐藤信博の両氏は大火の最中にもかかわらず献身奉護により幸いにして御尊体の焼失がまぬがれると云う誠に強運のご尊体であらせられ、益々県下並びに県外(高松市、高知市、淡路島方面)からの崇敬の念を捧げられているものであります。
 かくして、終戦後は木造建築の社殿であったが、商売繁昌の守護神である当神社は崇敬者の誠意と温かい御協力のたまもので、ついに昭和四十二年十月三十日現地において鉄筋コンクリート建の新社殿が完成し、更に引き続いて昭和五十四年十一月、鉄筋二階(一部三階)の近代的な社務所も建設されたのであります。 このようにして、当社は今もなお引き続き幸運の守護神として全県民並びに他府県人にまで親しまれ尊ばれている「おえべっさん」であります。  
以上

 『徳島県神社誌』、『平成祭礼CD』

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