沼島の神社紀行



諭鶴羽神社参道から沼島を北東から南西方向に眺める。
勾玉の形で翡翠の色を思わせる。

1.オノコロ島

 沼島は勾玉形。これがオノコロ島伝承に拍車をかけたようだ。 勾玉は子宮の中の嬰児。
 いざ、凪では船出が出来ぬ。風よ吹け。
 いざ、波を切り、世にい出ん。
 伊弉那岐神 伊弉那美神の降臨なるぞ。
 この国の誕生である。

 『古事記』は淤能碁呂島をかく語る。

ここに天つ神、諸(モロモロ)の命(ミコト)もちて、伊邪那岐命(イザナキノミコ ト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)二柱(フタハシラ)の神に、「このただよへ る国を修(ヲサ)め理(ツク)り固め成せ。」と詔(ノ)りて、天(アメ)の沼矛 (ヌボコ)を賜ひて、言(コト)依(ヨ)さしたまひき。かれ、二柱の神、天(ア メ)の浮橋(ウキハシ)に立たして、その沼矛(ヌボコ)を指(サ)し下(オ)ろし て画(カ)きたまへば、塩こをろこをろに画き鳴(ナ)して引き上げたまふ時、その 矛の末(サキ)より垂(シタタ)り落つる塩、累(カサ)なり積(ツ)もりて島と成 りき。これ淤能碁呂島(オノゴロシマ)なり。

 海水を濃縮して塩を結晶させる。この時、まさに凝縮寸前にはコオロコオロと音を立てるようだ。塩は器の中で一瞬、勾玉の形をなすと言う。交野のhttp://www.kikkogama.co.jp/陶芸家吉向蕃斎先生の体験談をおうかがいしたことがある。
 淤能碁呂島の伝承は海人族の製塩集団が朝廷へ持ち込んだものであろう。やはり瀬戸内は雨が少なく、海水の濃度も濃く、往古よりの製塩がなされていたのであり、国生みで最初に出来た島が淡路之穂之狭別島(アワヂノホノサワケノシマ)であることは、この伝承を持ち込んだ者は淡路島に縁の海人であったことを物語る。



沼島の地図 上が北。

 勾玉の背の方に上立神岩がある。にょっきりと海中に岩が立つ。神の降臨を見る。下神立岩と言う岩もあり、かっては途中に穴が開いていたそうだが、崩れてしまっている。 いずれにしろ、神の降臨にふさわしい巨岩が点在する東側の海岸であるが、良い港はなさそうだ。
 岩が海に立つ、橘などの樹木が立っている、柱を建てる、花を立てる、などと同様に古代の人々が神秘と神の降臨を感じる場であり、伝承を生む。東側の海岸は国生みの舞台として、諾册が回った天の御柱として上下の神立岩を想定する。



高さ約30mの上立神岩

 『おのころ島物語』から

長い航海の末にやっと紀伊水道に入ってきた海人族の船団が、最初に発見したのは夜明け前の暗い海にそびえたつ巨大な岩のシルエットであった。海人たちの船が近づき、その岩の形がはっきり現われた時、彼らの漕いでいる矛の形をした櫂と同じ形をしているのに驚いた。
 中略
 海人は上陸し岩山を登ると松林の中に広い沼地を発見、その周辺に森があり山はあまり高くなく、沼地から広い砂浜に向かって川が流れていること、いたる所葦の群生が浜風を遮るように垣根を作っていた。 この島の形が自分たちが胸に掛けている勾玉の形に似ていて、穴の開いている場所が上から見ると広い沼が青く光って見えた。
 この島の前に4km程の海をはさんで、高い山脈と長い海岸線が視野いっぱいに広がっていた。この陸地が、後に海人族の最大の基地となり、古代の天皇が憧れ、聖地となる淡路島であった。

 『古事記』の国生み物語では、「淡路之穂之狭別島(アワヂノホノサワケノシマ)。次に伊予之二名島(イヨノフタナノシマ)を生みき。」と淡路島、続いて四国を生んでいる。まさにこの沼島はそれらの島の間にあり、オノコロ島に似合うようだ。

 神話のオノコロ島とは具体的にどこであるか、と言う問いは、その神話を持ち込んだ人々の居住地を示すものであり、決して無駄ではない。オノコロ島のその他の比定地を示しておこう。

絵島 淡路島の北端
家島 姫路沖の群島の一
先山 淡路島中央部
友ヶ島 和歌山市北西部の島
諭鶴羽山 淡路島南部
おのころ島 淡路島南淡町 自凝島神社
飛島 鳴門海峡の西
竹生島 琵琶湖
金剛山 大和と河内の境界
大文字山 京都市
隠岐後島 島根県 
能古島 博多湾内

 『古事記』仁徳天皇記の歌謡五四から

おしてるや 難波の埼よ
出で立ちて わが国見れば
粟島 淤能碁呂島
檳榔の 島も見ゆ
佐気都島見ゆ

各島の比定をやってみよう。
粟島 友が島
淤能碁呂島 沼島
檳榔の島 伊島(阿南市沖)
佐気都島 離れている島
 この比定なら紀淡海峡や生石崎からはいい天気なら見える。


2.沼島の自然と歴史の紹介 リンク集

 生徒さんの沼島を知る活動が興味深い。良い先生がおられるようだ。
 沼島中学校

Q1 海人族が沼島に来る前に、沼島に人は住んでいましたか。

A  その答えは{ずばり}住んでいました。

○海人族がやって来たのは、古墳時代ですが、それより前に縄文時代の土器が見つかったり、今の銭湯の所付近で貝塚が見つかったそうです。ですから、沼島にはすでに縄文時代から人が住んでいたことが分かります。沼島には海人族以外にもいろんな人達が住んでいたのでしょうか。

Q2 初めて沼島に来た人は、どこから住み始めたのでしょうか。

A  泊区と弁天さんの間ぐらいで、泊区の港が沼島で一番古いと言われています。 第二次世界大戦に参加したであろう人をピックアップし、直接話を聞きに行きました。どういう経路で戦争に行ったか、どこに行ったか、どんな様子だったか、どうやって帰ってきたかなどにポイントを絞り聞いてきました。



 弁才天神社の石垣などの沼島の岩石の紹介 古い地質だと言うことが良くわかる。
 兵庫の山々山頂の岩石



 沼島の案内
 沼島めぐり

神秘の島、沼島
はるか昔、神々がつくり出した最初の島という伝説が残る。
今もなお自然そのままその姿を残し、知られざる海の楽園として、訪れる人を魅了している。



 鞘型褶曲の岩を紹介
 神秘の島 沼島 

鞘型褶曲
平成6年に発見されためずらしい岩石である。このような同心円構造の鞘型褶曲は、この他にフランスで1ヵ所発見されているだけで、当時の地殻内部の動きがわかる世界的にも貴重な資料となっている。歩いて見に行くには案内人が必要。

鞘型褶曲



 沼島の歴史がよくわかる。
 沼島の歴史

海人族と太古の沼島
 周囲10km足らずのこの小さな島からは、考古学上興味深い遺物が数多く出土している。縄文から弥生時代にかけての土器片、沼島古墳石室、製塩土器などがそうだ。
 紀伊水道は日本でもまれにみる豊富な魚海藻類の宝庫である。彼らは高度な漁法によって十二分な食料を得、その後近畿各地へと散らばっていった仲間たちとの交易においても繁栄を築いていったと考えられる。



 沼島の文化遺産・歴史の紹介
 「海心丸」



 平成14年3月南淡町教育委員会が発行した冊子から
 『南淡町の文化財‐ふるさと訪ね歩き』より

 尊勝法曼荼羅


3.沼島と大坂、よそいき
 かっての天下の台所大坂、今の大阪の台所は大阪中央卸売市場。この市場はその昔は雑喉場(ざこば)市場であり、これが発展したものである。雑喉(ざこ)とは小魚の意。江戸初期に設けられた。

 元来靱(うつぼ)市場と一体であったが、靱市場は若干陸地に入っており、八百八橋の大坂と言えども魚を積んだ船が靱市場までやってくる間にも魚が腐ってしまうことがあったと言う。それで、靱市場は塩魚、干鰯、雑喉場市場は生魚を扱うとしたと言う。



大阪の市場

 沼島の漁民は雑喉場市場なる格好の販路を利用して文化文政の最盛期に向かった。19世紀初頭である。沼島千軒と言う繁栄ぶりであったと言う。京都・大坂の町人が大いに繁盛し、料亭などでも生きた魚を料理するようになり、特にハモ、タイなど沼島でとれた高級魚が喜ばれた。

 ざこば在の魚商人は沼島の八幡宮に大石灯籠を数基献納している。
 ざこばの屋号はヤマウ
 /\
  う
 沼島の庄屋や生魚商も家紋の他にヤマウを使っていたようだ。

 沼島の八幡宮の祭礼を終えて、150石の大船と小舟3〜4隻を組みにして出漁していった。
 例えば赤間が関、門司などの魚市場で売りさばきながら、石見の鯖漁は背を割り塩蔵して感想、上方の商人と取引した。このように遠出を行うことを「よそいき」と言う。

 五島列島と対馬いき、日向いき、阿波いき、熊野いきなどの方面にいった。
 この方面には良い漁場があるのだろうが、何故か日本神話の重要な地域と重なっているようにも思える。
 魚の乾物は公家の儀式などに使われていたが、明治維新後、儀式が廃れていって、それに伴い、よそいきも衰えていった。


4.沼島の神社紀行

 神明神社
兵庫県南あわじ市南淡町沼島 its-mo

諭鶴羽神社参道途中から眺めた沼島



鳥居


交通案内
沼島浦の北の神明山中腹

祭神
伊弉諾神、伊弉冉神、天照皇大神

拝殿と鳥居


由緒

 「シメンド」さんと呼ばれている。シメの神と云うこと。なぜならば、山の神を「ヤマンド」さんと呼ぶようだから。
 沼島浦の北方の神奈備山に南面して鎮座、島の守護神のようである。シメの神とは島の神のことと悟る。
 南に鎮座するオノコロ神社の元社と云われている。両神社が北と南に鎮座、浦を見守っている。

 沼島浦は実に狭い地域で、ここに八幡神社、弁天さん、天神、応神、さらにオノコロ神社と神明神社である。神社合祀などの権力の影響はなかったのであろう。

本殿

遠景


お姿
 弁天さんから朱い鳥居がよく見える。
 鳥居、灯籠は今年(平成15年9月)に再建されており、大切に祀られているようだ。


お祭り
  9月15日 秋祭 泊区町会が世話
  10月10日 例祭

 自凝神社
兵庫県南あわじ市南淡町沼島73 its-mo

石段


交通案内
沼島浦の南のオノコロ山中腹

祭神
伊弉諾神、伊弉冉神、天照皇大神


由緒

 『古事記』の冒頭のお話

 ここに天つ神、諸(モロモロ)の命(ミコト)もちて、伊邪那岐命(イザナキノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)二柱(フタハシラ)の神に、「このただよへる国を修(ヲサ)め理(ツク)り固め成せ。」と詔(ノ)りて、天(アメ)の沼矛(ヌボコ)を賜ひて、言(コト)依(ヨ)さしたまひき。かれ、二柱の神、天(アメ)の浮橋(ウキハシ)に立たして、その沼矛(ヌボコ)を指(サ)し下(オ)ろして画(カ)きたまへば、塩こをろこをろに画き鳴(ナ)して引き上げたまふ時、その矛の末(サキ)より垂(シタタ)り落つる塩、累(カサ)なり積(ツ)もりて島と成りき。これ淤能碁呂島(オノゴロシマ)なり。

 この淤能碁呂島に沼島が比定されており、当オノコロ神社はその記念碑的神社とされているようだ。従って島の内外からの信仰は篤い。

本殿

 オノコロ島の比定地は近畿地方を中心にいくつか名乗りを上げている。
 兵庫県淡路市淡路町岩屋 絵島
 兵庫県姫路市家島町 家島
 兵庫県洲本市上内膳 先山
 和歌山県加太町 友ヶ島
 鳴門海峡 飛島
 滋賀県琵琶湖 竹生島
 大阪府奈良県 金剛山
 京都市左京区 大文字山
 兵庫県南淡町 諭鶴羽山
 兵庫県南あわじ市榎幡多 自凝島神社 
 福岡県博多湾 能古島

 交野の吉向窯で海水から塩をとる作業をしたそうだ。この時、塩竃の底で塩と水とは一瞬勾玉の形をなして、まさにコオロコオロと音をたてて固まっていったそうである。 国生み神話は製塩にかかわる海人が朝廷に持ち込んだ物語と思われる。
 道具に、天の沼矛が使われている。玉で飾られた矛だそうだが、矛は九州に出土の多いものであり、この物語も九州から運ばれてきたものがも知れない。
 潮をかき混ぜて固める物語は、『播磨国風土記』揖保郡揖保の里の條に、天日槍明が剣を以て海水を掻き回して(固めて)これに宿ったとある。海人族の持つ塩をとる様がこのような同種の伝承を生んでいったのであろう。無から有を生じる、液体から固体を生じる、力のある神の業と見たのであろう。 矛も剣もそのようにして出来てきた。

諾冉神の像、向こうに本殿


お姿
 当社は沼島浦を挟んで鎮座する神明神社から勧請されたものと云う。元々神奈備山で、社殿はなく、いつの時代にか造られていたようであるが、朽ち果てていた所、大正時代、島外にいた篤志家が動いて再建したようだ。

 石段は新しく造られている。瑞玉姫の碑がさるが、どのような姫なのだろう。

拝殿から本殿を見る。


お祭り
  10月 9,10日 例祭

 山の神神社
兵庫県南あわじ市南淡町沼島 yahoo

沼島の夜明け



多くの鳥居


交通案内
沼島浦の東の山頂

祭神
鉄王稲荷大明神(アラガミさん)

社殿


由緒

 豊漁の神、航海安全の神であるとともに、鉄王でもある。 金突(ヤス)を利用した漁民が上陸してきたと云われている。

 赤い鳥居が奉納されている。100本は下るまい。人口から考えるとものすごい信仰である。

本殿


お姿
 神明神社、自凝神社と当社は地図上では正三角形をなしている。 沼島浦がこの内側に入る。
 山頂に鎮座、近くに火立山があり、夜に沼島を見失わないように篝火を焚いたそうだ。

上立神岩とあみだバエ・平バエ
 

 この山の東側の上立神岩などがある。また山道は葦は繁茂している。


お祭り
  旧正月15日 例祭
平成十二年より一月の第二月曜日の前日、油あげと赤い魚を供え、餅まきを行う。山の神組と言う世話人会が前日に餅つきを行う。

 沼島八幡神社
兵庫県南あわじ市南淡町沼島 yahoo

鳥居


交通案内
沼島浦の中央

祭神
譽田別尊 配祀 足仲津彦尊、息長足姫命
摂社
八坂神社、日吉神社、平野神社、住吉神社、恵美酒神社、海積神社

神門


由緒

 永享八年(1436年)梶原俊景が京都石清水八幡宮の分霊を阿万八幡宮を通じて勧請・創建したと伝えられる。 海上安全、武神。

 石段下に海積神社(八大竜王社)と恵美酒神社が祀られている。この島の守護神は八大竜王さんだったと神宮宮の縁起に書かれていると云う。
 沼島浦の真ん中に鎮座、海人族が上陸し八大竜王を祀っていた上に北条家に睨まれた頼朝の重臣梶原景時の裔の梶原越前守平俊景が縁の沼島へ逃れてきて、八幡神を祀ったと云う。平家落人か源氏落人か。

本殿


お姿
 沼島には楔形の沼地があり、今も一部が残っている。それでも小島のこと、水への渇望は強かったのであろう。
 境内周辺の鎮守の森にはスタジイ、ホルトノキ、タブなど樹齢二百年の樹が社叢を形成。


お祭り
  5月 4日 春季例大祭
  11月 3日 例祭
6月 1日 神宮寺の愛染さんの夏祭
8月14日 神宮寺のおのころ碑供養。

神宮寺

 当八幡神社の神宮寺ともなり、現在は別当宅であった地に移転している。

 真言宗の寺院、元慶四年(880年)の開基と云われる。庭園が有名で、斜面を利用して蓬莱石を巧みに並べて枯滝や人字を表し、真言の思想を何か表しているのだろうが、不明。

庭園と3面瓦
 

沼島の地図 八幡神社が重心に鎮座

 厳島神社
兵庫県南あわじ市南淡町沼島2276 yahoo

神社 神明神社から見る。神明−弁天−自凝と並ぶ

神社風景


交通案内
沼島浦の船着き場



祭神
市杵島媛命

鳥居と拝殿


由緒

 突端の台地に鎮座、弁才天社と呼ばれる。 弁天さんは琵琶を抱えているお姿が多いが、沼島では琵琶を持たず、左右八臂の御手を有し、御手には弓、斧、羂索、箭、三鈷戟、独鈷杵、輪を執り、一足を翹げて波涛の台座に座している。
 戦の武神、海上安全、守護神として島民の信仰が篤い。

社殿


お姿
 表玄関に鎮座している。従って小綺麗にしているように見える。 沼島浦一帯の人々は実に神社を大切にされている。減りつつあるようだが人口と神社の数の比率で云えば、日本でも珍しい程神社が多い地域ではなかろうか。
 平成14年2月末で276軒691人が住んでいる。8社。


お祭り
  1月10日 十日戎 餅、酒、野菜、魚を供えて、神主が祝詞をあげる。
  6月16日 北区町内
  9月18日 境内の法円さん 仏様で眼病に霊験あり。

 応神社
兵庫県南あわじ市南淡町沼島 

拝殿


交通案内
沼島浦の中央やや東

祭神
誉田別命

本殿


由緒

 沼島八幡神社の摂社で観音堂境内に鎮座。 観音堂は淡路西国第六番霊場で補陀落山観音寺と云う。
 観音堂は文明七年(1475年)創建。

観音堂


お姿
 何となく殺風景の雰囲気だが、近くにいた老人と話していると、この寺や神社を大切にしている気持ちが伝わってくる。


お祭り
  6月15日 夏祭 東区町内会
1月17日 観音堂の初観音 詠歌と真言を唱える。
 6月17日 観音さん 南区、東区
 6月17日 観音さん ご詠歌

参考
神社本庁 平成祭りデータCD
白水社 日本の神々

 『おのころ島物語』おのころ会、『南淡町の文化財ふるさと訪ね歩き』


神奈備にようこそ
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