諭鶴羽神社参道から沼島を北東から南西方向に眺める。 勾玉の形で翡翠の色を思わせる。 1.オノコロ島 沼島は勾玉形。これがオノコロ島伝承に拍車をかけたようだ。 勾玉は子宮の中の嬰児。 『古事記』は淤能碁呂島をかく語る。
海水を濃縮して塩を結晶させる。この時、まさに凝縮寸前にはコオロコオロと音を立てるようだ。塩は器の中で一瞬、勾玉の形をなすと言う。交野のhttp://www.kikkogama.co.jp/陶芸家吉向蕃斎先生の体験談をおうかがいしたことがある。
沼島の地図 上が北。 勾玉の背の方に上立神岩がある。にょっきりと海中に岩が立つ。神の降臨を見る。下神立岩と言う岩もあり、かっては途中に穴が開いていたそうだが、崩れてしまっている。
いずれにしろ、神の降臨にふさわしい巨岩が点在する東側の海岸であるが、良い港はなさそうだ。 高さ約30mの上立神岩 『おのころ島物語』から
『古事記』の国生み物語では、「淡路之穂之狭別島(アワヂノホノサワケノシマ)。次に伊予之二名島(イヨノフタナノシマ)を生みき。」と淡路島、続いて四国を生んでいる。まさにこの沼島はそれらの島の間にあり、オノコロ島に似合うようだ。 神話のオノコロ島とは具体的にどこであるか、と言う問いは、その神話を持ち込んだ人々の居住地を示すものであり、決して無駄ではない。オノコロ島のその他の比定地を示しておこう。
『古事記』仁徳天皇記の歌謡五四から
各島の比定をやってみよう。
元来靱(うつぼ)市場と一体であったが、靱市場は若干陸地に入っており、八百八橋の大坂と言えども魚を積んだ船が靱市場までやってくる間にも魚が腐ってしまうことがあったと言う。それで、靱市場は塩魚、干鰯、雑喉場市場は生魚を扱うとしたと言う。 大阪の市場 沼島の漁民は雑喉場市場なる格好の販路を利用して文化文政の最盛期に向かった。19世紀初頭である。沼島千軒と言う繁栄ぶりであったと言う。京都・大坂の町人が大いに繁盛し、料亭などでも生きた魚を料理するようになり、特にハモ、タイなど沼島でとれた高級魚が喜ばれた。 ざこば在の魚商人は沼島の八幡宮に大石灯籠を数基献納している。 沼島の八幡宮の祭礼を終えて、150石の大船と小舟3〜4隻を組みにして出漁していった。 五島列島と対馬いき、日向いき、阿波いき、熊野いきなどの方面にいった。 |
兵庫県南あわじ市南淡町沼島 its-mo
「シメンド」さんと呼ばれている。シメの神と云うこと。なぜならば、山の神を「ヤマンド」さんと呼ぶようだから。
沼島浦は実に狭い地域で、ここに八幡神社、弁天さん、天神、応神、さらにオノコロ神社と神明神社である。神社合祀などの権力の影響はなかったのであろう。
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『古事記』の冒頭のお話
この淤能碁呂島に沼島が比定されており、当オノコロ神社はその記念碑的神社とされているようだ。従って島の内外からの信仰は篤い。 オノコロ島の比定地は近畿地方を中心にいくつか名乗りを上げている。 交野の吉向窯で海水から塩をとる作業をしたそうだ。この時、塩竃の底で塩と水とは一瞬勾玉の形をなして、まさにコオロコオロと音をたてて固まっていったそうである。
国生み神話は製塩にかかわる海人が朝廷に持ち込んだ物語と思われる。
石段は新しく造られている。瑞玉姫の碑がさるが、どのような姫なのだろう。
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豊漁の神、航海安全の神であるとともに、鉄王でもある。 金突(ヤス)を利用した漁民が上陸してきたと云われている。 赤い鳥居が奉納されている。100本は下るまい。人口から考えるとものすごい信仰である。
この山の東側の上立神岩などがある。また山道は葦は繁茂している。
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永享八年(1436年)梶原俊景が京都石清水八幡宮の分霊を阿万八幡宮を通じて勧請・創建したと伝えられる。 海上安全、武神。 石段下に海積神社(八大竜王社)と恵美酒神社が祀られている。この島の守護神は八大竜王さんだったと神宮宮の縁起に書かれていると云う。
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突端の台地に鎮座、弁才天社と呼ばれる。 弁天さんは琵琶を抱えているお姿が多いが、沼島では琵琶を持たず、左右八臂の御手を有し、御手には弓、斧、羂索、箭、三鈷戟、独鈷杵、輪を執り、一足を翹げて波涛の台座に座している。
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兵庫県南あわじ市南淡町沼島
沼島八幡神社の摂社で観音堂境内に鎮座。 観音堂は淡路西国第六番霊場で補陀落山観音寺と云う。
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参考
神社本庁 平成祭りデータCD
白水社 日本の神々
『おのころ島物語』おのころ会、『南淡町の文化財ふるさと訪ね歩き』