備前國:26座 大1小25



邑久郡[オホク]:3座大1小2

美和神社[ミワ]
美和神社[みわ]「大物主命」広高山山頂に鎮座、丘陵地一帯には築山古墳をはじめ数百の古墳と須恵器窯跡が確認されている。
美和神社のしおり 美和神社は延喜式神名帳(967年)に記載されている古社で祭神は大物主神です。

当社は大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)を勧請したと言われております。しか し、いつ勧請したのか明らかではありませんが、この地に移住してきた須恵器の陶工 集団と深い関係があると言われていますので7世紀前後のことと思われます。

鎮座している所は標高166メートルの広高山の山頂です。広高山は三和の峰とも呼 ばれていました。

当社は永禄年中(1558年〜1570年)に金川の城主松田左近が日蓮宗を信奉し 旧社を弾圧したとき、難を避けるため「広高八幡宮」と改称したと言われており明治 3年もとの美和神社に復し今日にいたっています。社宝に文字瓦があり、長船町重要 文化財に指定されています。この瓦にはつぎの文字が彫り込まれています。「天正1 3年閏7月13日西蔵坊行海 八幡舞殿建立仕満つり候 すへ畑寺 空賢 敬白」  主文は「八幡舞殿建立つかまつり候」です。すへ畑寺とは「畑山大聖寺」のことで美 和神社の別当です。この刻字により舞殿が建てられ舞が奉納されていたことがわかり ます。慶安元年(1648年)の記録によると神職2人神子(みこ)禰宜(ねぎ)24人が奉仕しており、更に神輿3体、流鏑馬に参加する馬が3疋、御神幸に参加する 馬が9疋となっています。当時の祭典がたいへん盛大であったことがわかります。10月8日・9日の大祭には東須恵と西須恵の祷主と神職および従者数名が、邑久町尻 海の海岸で潮ごりをとり、身を清めて尻海の広高神社へ酒・米など供えてお祭りする 行事が大昔から現在まで続いています。

氏子は東須恵と西須恵の人々ですが、美和神社を信仰していた人々は邑久町の今城地 区を除いた全域と、牛窓町小津地区に及んでいました。明治初年頃まではこれらの地 区の方が交替で大祭の神幸行列に参加し神輿をかついでいました。広高山には神功皇 后の愛馬「白鷹」の伝説があります。神功皇后が乗られた軍船が牛窓の蕪崎で休憩さ れたとき、皇后の愛馬「白鷹」があやまって海に落ち、北に向かって泳ぎ尻海に上陸 しました。「白鷹」はさらに山中を走り須恵の山へ駆け上がり息が絶えて死にました 。須恵の住民は「白鷹」をねんごろに葬り、山の名を「白鷹山」と呼ぶようになり後 になまって「広高山」になったと言われています。当社の東にある榊谷という深い谷 に「美和の井」という井戸があります。古書に「いとよき清水なり神供の類みなこの 井の水を調進す」と記載されています。しかし現在は使用しておりません。
岡山県邑久郡長船町東須恵字広高山1064 玄松子の記憶

片山日子神社[カタヤマヒコ]
片山日子神社[かたやまひこ]「片山日子命」祭神として片山に座す吉備津日子命の略称としている古典もある。古は社頭の前の神山に鎮座。神奈備山である。岡山県邑久郡長船町土師797 玄松子の記憶

安仁神社[アニ](名神大)
安仁神社[あに]「五瀬命 配 稻氷命、御毛沼命」安仁神を阿知使主や吉備海部の祖神とする説がある。五瀬命は付会であろう。古くは「兄神社」又は「久方宮(ひさかたのみや)」と称したとも伝えている。 後方の山には磐座や列石があり、古代の祭祀跡と見られるところに、神武東遷の船のともづなを掛けたといわれる「綱掛石神社」などがある。
安仁神社略記
当社の創立年月日不詳、歴史については「続日本紀」の承和8年(841年)2月8 日の条に『安仁神預名神焉(あにのかみみょうじんにあづかる)』とあるのが初見で 、「延喜式神名帳」に備前国名神大社とある。古くは「兄神社」又は「久方宮(ひさ かたのみや)」と称したとも伝えている。御祭神は五瀬命・稲氷命・御毛沼命等をお 祀りしている。
この社地は、宮城山(みやしろやま)・別名鶴山といい、元宮は標高80米位の頂上 にあった。その後、備前藩主池田家の祈願所として現在の地に鎮座する。明治4年国 幣中社に列せられ勅使の御参向、大正15年皇太子殿下行啓、祈年祭・新嘗祭・例大 祭には幣帛供進使の参向などがあり、戦前(大東亜戦争まで)は荘厳で隆盛な神域で した。昔はこの鶴山の麓まで海であり、入江の奥の良港だった。後方の山には磐座や 列石があり、古代の祭祀跡と見られるところに、神武東遷の船のともづなを掛けたと いわれる「綱掛石神社」などがある。
岡山県岡山市西大寺一宮895  西大寺(周辺)の紹介 玄松子の記憶


赤坂郡[アカサカ]:6座並小

鴨神社3座[カモ]
鴨神社「別雷神」岡山県赤磐郡吉井町仁塀西字馬場678 玄松子の記憶

宗形神社[ムナカタ]
宗形神社[むなかた]「多紀理比賣命、市寸嶋比賣命、田寸津比賣命」岡山県赤磐郡吉井町字是里3235 玄松子の記憶

石上布都之魂神社[イソノカミノフツノミタマ]
石上布都魂神社[いそのかみふつみたま]「素盞嗚尊」祭神を「布都御魂」「十握剱」としていたが明治に素盞嗚尊としている。神布都魂は素尊が八岐大蛇を退治した霊剣である。大和の石上神宮の本社とする説がある。岡山県赤磐郡吉井町石上字風呂谷1448 神社 玄松子の記憶

布勢神社[フセ]
布勢神社[ふせ]「大穴牟遲神」垂仁天皇御宇。岡山県赤磐郡吉井町仁堀西字布施谷1027 玄松子の記憶


和氣郡[ワケ]:1座小

神根神社[カミネ]
神根神社[こうね]「木花開耶姫命」
延喜式(紀元1561年約今から1000年位前)神名帳、神階従2位、旧社格、郷 社(郡内では一社だけ)
ご祭神、木花開耶姫、相殿、天照皇大神
境内末社、天神社(菅原道真) 縁結成就を始め、除災招福、延命長寿、五穀豊穣、旅行安全 諸願成就、学問の神、 病気平癒の神をおまつりしてあります。
岡山県和気郡吉永町神根本1147 玄松子の記憶


上道郡[カウツミチ]:4座並小

大神神社4座[オホムワ]
大神神社[おおが]「大物主神、大穴持神、三穗津姫神、少名日古那神」大物主神六世の孫大多田泥古命の末裔大神朝臣が勧請。
社頭の掲示板
本社は延喜式(今より約一千百年前)神名帳に記載された由緒ある神社であります。 奈良朝末期大和國城上郡三輪山鎮座の大神神社の御分神を大神の朝臣と云う人が土師 の森と稱せられる比の地に勧請し本社を崇祀すと伝えられ創建の年代は詳らかではな いが上古以来備前の国の著名な神社として数えられています。
岡山県岡山市四御前字土師之森381


御野郡[ミノ]:8座並小

石別神社[イハトワケ]
石門別神社[いわとわけ]「天津石門別命」岡山県岡山市奥田363 玄松子の記憶

尾針神社[オハリ]
尾針神社[おはり]「天火明命 配 大氣都比賣命」社殿の後ろには祭祀遺跡の磐境と思われる巨石群がある。岡山県岡山市京山2-2-2 玄松子の記憶
岡山神社「倭迹迹日百襲姫命 配 大吉備津彦命、妹姫命、日本武尊、大山命」摂社尾針神社
当社はその名の如く岡山市の総鎮守で延命長寿、商売繁盛、社運隆昌、交通安全、縁 結びの神として古来霊験あらたかであります。御祭神は大吉備津彦命、倭迹々日百襲 姫命(吉備津彦命の姉君)妹姫命、日本武尊、大山咋命、倉稲魂命、武安霊命(池田 光政)です。御由緒は清和天皇貞観年中(西紀八六〇年)創建にして、昔岡山(今の 岡山城内)の地に鎮座七百余年を経て、天正元年、宇喜多直家が岡山城を築くに当り 、当社を今の社地に遷し岡山城の守護神として社領を寄附す。宇喜多秀家本殿を造営 同秀秋拝殿以下を造営す。旧藩主池田氏の時は城内の鎮守として特別に崇敬され社領 として三百余石を寄附し代々領主の造営する習いであった。昭和十六年、本殿お屋根 替、社殿改修、社務所を新築、昭和二十年、戦災にて随神門並末社数社残す外焼失し たが、終戦後昭和三十三年、本殿(鉄筋コンクリート造り)を造営、参集所も完備し 次に、昭和五十年拝殿幣殿(鉄筋コンクリート造り)を造営、金殿玉楼輝くような近 代的社殿が完成しました。神前結婚式はこの社殿で行います。
 岡山県岡山市石関町2-33

天神社[アマノカミ]
天神社[てんじんさま]「天之御中主命、少彦名命」岡山県岡山市三野本町2-1 玄松子の記憶

伊勢神社[イセ]
伊勢神社「天照皇大神、豐受大神 配 幡千千姫命」
崇神天皇の御代皇女豊鋤入姫命の創建と伝わる。
伊勢神社略記
伊勢神社(通称伊勢宮)は、第十代崇神天皇の御代皇女豊鋤入姫命の御創建になり、 二千有余年の歴史をもち、式内社として栄え、室町時代の頃迄は備前岡山の氏神とし て崇敬篤く、境内地も現在の弘西学区全域に及んでいた。その後、他の神社も御創建 され、人々も移住し、城下町が形成され、現在の氏子地域が出来上ったと思われる。
安土桃山時代以後は、宇喜多、池田両藩主の崇敬殊に篤く、池田光政公以後明治維新 迄備前藩寺社領としては最高の三百石を賜わり、伊勢宮神官を以って備前国神職総頭 の職を拝命され、備前藩又は池田家の祭事いっさいが伊勢宮神官の手によって執り行 われ、現在も続いている備前の国で最も由緒のあるお社である。又、伊勢宮には、三 百年前から「御神事」という祭事が執り行われている。この御神事は、文禄元年宇喜 多秀家が秀吉の命を受け、「征韓の役」の出陣に先立ち具足甲胄に身を固め、藩主以 下総勢行列を整え、藩旗、弓、槍、鉄砲等を持ち、伊勢宮に戦勝祈願に詣でた形を後 世神事として祭儀のなかにとり入れて行われたのが起源である。明治初年の頃迄は神 馬、弓、槍、具足甲胄を身につけ執り行われていた。伊勢宮の氏子は、武士と町人が 半々であったため、御神事は主に商家である小畑町、上出石町、中出石町、下出石町 (下出石町は現在岡山神社の氏子である)の四町内が順番に奉仕していた。
 岡山県岡山市番町2丁目11-20 玄松子の記憶

天計神社[アマハカリ]
天計神社[あまはかり]「手置帆負命、彦狹知命」岡山県岡山市中井町1-5 玄松子の記憶

國神社[クニ]
國神社[くに]「大國主命、事代主命」岡山県岡山市三門中5-1 玄松子の記憶

石門別神社[イハトワケ]
石門別神社[いわとわけ]「天津石門別命」御野郡伊福郷の大安寺山に祀られていたのを延喜六年(九〇六年)正月に現在の場所へ遷座した。
石門別神社のしおり
創祀年代、鎮座の事情不詳。『神社明細帳』は勧請年記不詳としながら、御野郡伊福 郷の大安寺山に祀られていたのを延喜六年(九〇六年)正月に現在の場所へ遷座した との申し傅へのあることを記している。『備前国式内書考録』(明治初年)が記す様 に、この神社ははやく廃絶してその所在場所は久しく不明であったと思われる。そし て江戸中期頃になって大供村の戸隠神社が式内石門別神社に比定されることになった ようである。例えば、元文四年(一七三九年)に完成した『備陽国誌』には『戸隠宮  大供村。所祭 手力雄命。延喜式に御野郡石門別神社と云う当社ならんかと云へり 』と見える。しかし、その後寛政年間に岡山藩士 大澤惟貞によって編纂された『吉 備温故秘録』では、式内石門別神社は大安寺村の項に記されてをり、また明治三年の 『神社明細帳』でもこの神社は未だ『戸隱宮』と記されていることなどを考えると、 江戸時代中期頃から式内石門別神社に比定されながらも明治初年まではなお決定的な ものとはならなかった様子がうかがわれる。

『特選神社名牒』いくつかの説を並記しながら「大供村戸隠宮を備陽国誌の神明帳に 御野郡石門神社とあるは当社ならんかとみえ貞享元年神社書上帳に戸隠宮とあり社司 の記録に備前国御野郡大供村鎮座戸隠宮奉祭手力雄命也とあるもの證とするに足れり 故今之に従う」としている。なおこの神社に神宮寺が置かれたことを『御國中神社略 記』が記してをり(昭和十三年『岡山市史』第五巻)、『吉備温故秘録』は廃寺の項 に「日蓮宗安立山大福寺 大供村・本寺蓮昌寺」と記している。大福寺は岡山藩の寛 文期の社寺整理の際に廃寺とされたもので、『撮要録』(文政六年)はこの時廃寺と なった寺についての寶永四年(一七〇七年)の調査資料をあげている。それには「住 持還俗改名清左衛門後有罪追放、寺株田地賜、清左衛門追放後賜磨屋町光珍寺、理斎 大供村へ引越孫權六續之、本尊なし」とある。社領について『備前國式内書上録』( 明治初年)は寛保年間の社傳(現在その行方は不明)に記された古老の申し傳へとし て「當社往古封戸神田許多有之所ニ亂世之比度々減シ、浮田泉茘直家、同秀家之御代 、天正文禄の比は社領纔二拾五石残れり、是亦慶長之始召放れける由」と記すが、確 認できない。
江戸時代の地誌類、明治初年の諸資料にはこの神社の社領は記載されていない。
岡山県岡山市大供表町3-31 玄松子の記憶

尾治針名眞若比女神社[オチハリノナマワカヒメ]
尾治針名真若比神社[おじはりなまわかひめ]「尾治針名眞若比命」江戸時代には場所が分からない程廃れていた。岡山県岡山市津島西坂2 玄松子の記憶


津高郡[ツタカ]:2座並小

鴨神社[カモ]
鴨神社「別雷命」弘仁年中勧請。岡山県御津郡加茂川町上加茂471 玄松子の記憶

宗形神社[ムナカタ]
宗形神社「多紀理比賣命、市杵嶋比賣命、多岐津比賣命、素盞嗚命」吉備氏が大和王権に従い半島との往来があり、航海の守護神として勧請したとされる。岡山県岡山市大窪193 玄松子の記憶


兒嶋郡[コジマ]:2座並小

鴨神社[カモ]
鴨神社「味高日子根命、仲哀天皇、神功皇后、應神天皇」大和国葛上郡加茂に鎮座する高加茂神社の神を勧請し創建したもの。
鴨神社由緒
当神社は延喜初年の創建。延喜式神名帳に鴨神社(鴨神小)とある児島郡内最古の神 社で、備前国式内二十六社の一である。平安期初頭に大和国葛上郡加茂に鎮座する高 加茂神社の神を勧請し創建したもの。鎌倉中期御堀河天皇の貞永二年、宇佐八幡宮を 勧請し合祀した。以後八幡宮と称したが明治二年旧号に復し、郷社に列した。もと、 社領田一反歩あった。明治四十年一月、神饌幣帛料供進神社に指定せられた。
岡山県玉野市長尾1173 玄松子の記憶

田土浦坐神社[タツチウラノ・]
田土浦坐神社[たつちのうらにまします]「大綿津見神」岡山県倉敷市下津井田之浦1丁目15-30 玄松子の記憶


H24.1.27

延喜式神名帳目次

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