越中一宮 高瀬神社
御鎮座二千年の由緒ある古社 御祭神
御社殿
氏子崇敬社
宝物殿と大鳥居
手水舎
功霊殿
齋館
社務所と境内
御鎮座の由緒
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射水神社参拝のしをり
創始は太古のことで、年代は詳かではないが、延喜式内名神大社であり、越中文化発 祥にゆかり深い大守護神として崇敬せられている。 伝によれば、養老年間、僧行基二上山麓に養老寺を建て、この神を祀り、二上権現と 称した。当時の領域は、二上荘六十七カ村、社寺は二上全山に亘り二十二万余坪に達 したと云〓われ、越中全土の各戸より毎年初穂米一升奉納の制があり、盛大を極めた 。その後、承平ら、天正の両度兵火により悉く烏有に帰し、一時衰頽したが、慶長年 間、前田利家卿社殿再建の上、社領および一山を付し、国内に命じて初穂米奉納の制 を復活し、明治維新まで続いた。明治四年、国幣中社に列格し、同八年、高岡城本丸 跡の現在地に遷座され、同三十三年六月、高岡大火の折類焼、同三十五年復活。特に 昭和の御代、五十年四月には「日本書紀」に天武天皇三年(紀元千三百三十五年)正 月、奉幣に与ったことが見えることより起算して鎮座千三百年式年大祭を斎行。畏き あたりより奉幣の栄に浴した。又、昭和五十九年には新たに「参集殿」が竣工、輪奐 に一層の光彩を加えた。 幾歳の春風秋雨ありと云え、我が日本の神々は、徒に腕力や智力を以て秘と嚇し掠め る逆賊を懲らし、朝夕に忠実な國民を援け、まごころ篭めて働く人々を庇い、而して 、邪心無き老若男女や、寄る辺無き遺族に啓示垂れ給うなど、皇室を尊崇し、公私を 違えず、最も大義名分を明らかにする處に光被し給うのであります。 |
略記
今から千三百年前、天武天皇の白鳳元年(六七二)四月十二日に林宿禰弥鹿伎という 人が部下を率いて神通川を船で上流へ向かって進んでいたところ、たまたま白髪の老 人が現われ、一同に語って申すには、向こうの川辺の松の木の際に泉がある。水は塩 味を帯びているから、きっと塩がとれる。塩は貴重だから貴方達も大きな恩恵をうけ るであろう。早く行って探しなさい。と云い終わると、すつと光を放って姿が見えな くなった。この言葉通りに進むことしばし、緑に囲まれた泉があり、清水は湧き出て 地上に溢れています。一同木を伐って薪をを作り、泉の水を煮つめ、やがて最上の白 色結晶の塩をとることが出来ました。あの白髪の老翁こそは国魂神であろう。ひとえ にわれらに塩を授け給い、この地方を拓けとの託宣であり神授であろう。と感激し、 神殿高楼を造営し、老翁を神と崇め祀つて末長く奉仕することになりました。又塩村 の呼称もここから起こったものです。 |
熊野神社
延喜式内為成郷十八ケ村熊野神社由緒記
御遷宮式と稚児舞の由来
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雄山神社御由緒
社伝によれば、文武天皇の大宝元年(七〇一年)景行天皇の後裔越中国司佐伯宿禰有 若公の嫡男有頼少年が白鷹に導かれ熊を追って岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救は んがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この 霊山を開かせんがためなり。」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山で ある。 古来、富士山・白山と共に日本三霊山として全国各地から信仰されて来た。山頂の峯 本社は屹立した巌上にあり、冬期間は雪深く登山することが至難であったので、山麓 岩峅(前立社壇)に社殿を建て、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したと伝えられている 。尚、芦峅には祈願殿がある。欝蒼たる境内に開山有頼公の御墳墓及び有若を祀る大 宮、有頼を祀る若宮等がある。 当社は、皇室の御崇敬篤く、文武天皇及び後醍醐天皇の勅願所であり、延喜式内の名 社でもあり清和天皇貞観五年正五位上に宇多天皇寛平元年に従四位下に昇叙せられた ことが、三代実録及び日本紀略に見えている。また、越中一宮と称せられたことがあり、一般国民の信仰も大変篤かったと同時に、旧幕府時代には藩主武門武将の信仰も 篤く、建久年間に源頼朝が本殿を再建し、明応元年に足利義直、天正十一年には佐々 成政がそれぞれ本殿の改修をしている。明治六年には県社となり、昭和十五年に皇紀 二千六百年記念事業として県民あげての奉賛により拝殿以下の建造物が整備され、国 幣小社に列せられた。 |