越中國:34座 大1小33


礪波郡[トナミ]:7座並小

高瀬神社[タカセ]
高瀬神社[たかせ]「大己貴命 配 天活玉命、五十猛命 ほか」 越中一ノ宮。景行天皇の御代。祭神五十猛命は高麗よりの渡来、大己貴命と天活玉命は能登気多大社との同体説によるとの説がある。境内地には樹齢数百年の杉の巨木の森は過去の歴史を語りかけ、四季を通して野鳥の声が森林の中に響き参拝者の耳を楽しませてくれます。富山県東砺波郡井波町高瀬291  神社公式 玄松子の記憶
越中一宮 高瀬神社
御鎮座二千年の由緒ある古社

御祭神
当神社の御祭神は、大國主命(大己貴命)を主神に天活玉命、五十猛命を祀り、末社 三社と礪波地区の村々里々に鎮座されます氏子の神々と越中国延喜式内社三十三座の 神々を奉斎したお社でございます。
大国主命、縁結び、国土開拓、農耕の神様です
天活玉命、無病息災、延命長寿の神様です
五十猛命、産業の神様です

御社殿
千鳥破風と唐破風が巨木の森に調和よく建つ当神社の御社殿は、昭和十七年より数ケ 年の計画で建立される予定で工事が始まり、基礎工事が終了した昭和二十年八月終戦 を迎えGHQ(極東軍司令部)の司令によって国費による建立が中止され、往古の面 影は消滅し、参拝する人の数は皆無といった状況であり、こんな姿を憤慨された地方 の崇敬者有志の方々が多額の浄財や樹齢数百年の銘木を御寄進下され、社殿建立の情 熱にささえられて、昭和二十二年に御本殿(流造)、翌年(昭和二十三年)に拝殿( 入母屋造)更に昭和六十二年に唐破風の向拝殿が完成し、鎮座二千年の歴史を偲ぶ御 社殿の完全な竣工を見るに至ったのです。

氏子崇敬社
氏子は現在井波町大字高瀬の百余戸でありますが、古来近郷十一ケ村の人々は春秋の 例大祭には仕事を休み神社へ参拝する習慣がありました。現在、御神徳の昂揚により まして県内は云うまでもなく遠く北海道、甲信越、北関東から崇敬者の方々が参拝さ れます。

宝物殿と大鳥居
昭和五十九年、礪波市在住の岩川毅氏の御寄進により十一月竣工し、六十年には小矢 部市在住の西田東作氏によって参道の大鳥居が寄進され、天皇陛下御在位六十年祝賀 記念事業として二年間に亘り施工されたものであります。宝物殿には古来当神社に伝 わる御神宝等を収蔵しております。また、大鳥居は六月三十日の大祓式に御奉写され た大祓詞を収納致し大鳥居の下をくぐる人々の罪穢を祓い清めております。

手水舎
昭和四十五年に伊勢神宮より御下附され神宮(外宮)から移築された建造物でありま す。手水舎の中にあります水鉢は新潟県只見川上流より運ばれた自然石でつくられ洗 心の禊場であります。自然石の裏に「水神」の文字が刻まれております。

功霊殿
御社殿に隣接する功霊殿は礪波地方から出征され戦場で護国の英霊となられた方々と 、地方開拓の功労者合せて六、四〇〇余柱の御霊を昭和二十四年に合祀したお社であ ります。御本殿は当神社の旧本殿で天保七年(約一五九年前)の建立で井波彫刻の粋 を尽くしたものであり文化財の指定を受けております。

齋館
平成三年八月に完成した当神社で一番新しい建物であります。齋館と云いますのは祭 に奉仕する神職達が祭に奉仕する前に参篭して潔齋(心身を清浄にする)館舎です。 この館舎は小矢部市在住、ゴールドウィン社長西田東作氏と会社の皆様の御支援によ って建立されたのです。

社務所と境内
昭和四十年鎮座二千年を記念し造営されたもので鉄筋平屋造りの社務所で和洋折衷の モダンな(六百六十平方米)建物であります。近年会議室等の内装を整え結婚式その 他にも利用され喜ばれています。
境内地には樹齢数百年の杉の巨木の森は過去の歴史を語りかけ、四季を通して野鳥の 声が森林の中に響き参拝者の耳を楽しませてくれます。境内樹木の若木は各地から崇 敬者の方々が植樹されたものであります。

御鎮座の由緒
御鎮座の年代は不詳ですが景行天皇の御代だとも言われています。
天武天皇の御代に当神社へ勅使を遣され、その後、光仁天皇宝亀十一年に従五位に更 に、清和天皇貞観元年に正三位後、治承四年に正一位に列されると共に多くの社領荘 園があり皇室の御領となったこともあるようです。神社の氏子の地名、大宮司、神子 畑、勧学院など往事の面影を偲ぶことができます。戦国時代に入ると、往古の繁栄は いづこへ、社頭は荒廃し人心も乱れた時代でした。江戸時代になると崇敬厚い加賀藩 主の保護により神威は昂揚し、明治六年に県社となり大正十二年国幣小社に列せるに 至り翌年十三年に摂政宮(先帝陛下)の勅使が御参拝になり、昭和二十年終戦と共に 国民の幸を祈るよう勅使の御参拝がありました。現在初詣をはじめ季節の移り変る節 目の祭典や神事に多くの崇敬者が参拝になります。



長岡神社[ナカオカ]
長岡神社[ながおか]草葺不合尊」富山県小矢部市七神字村中1575 玄松子の記憶

林神社[ハヤシ]
林神社「道臣命」富山県砺波市林525 玄松子の記憶

荊波神社[ウハラ]
荊波神社[うばら]「日子刺肩別命」富山県砺波市池原601 玄松子の記憶
荊波神社「日子刺肩別命」富山県西砺波郡福光町岩木5024
荊波神社「?」富山県高岡市和田954 玄松子の記憶
八幡宮「譽田別命、彦波瀲武草葺不合尊、日子刺肩別命、伊邪那岐命、少彦名命、建御名方命」富山県小矢部市臼谷6967
巖谷門神社[いわやど]「菊理姫命 配 天照皇大神、火産靈神」富山県小矢部市矢波602-1

比賣神社[ヒメ]
比賣神社[ひめ]「田心比賣命、天照皇大神、伊邪那伎命」富山県小矢部市宮中131
比賣神社「市杵嶋姫命」富山県砺波市柳瀬2238 玄松子の記憶
比賣神社「市杵嶋比賣命」富山県砺波市中条81 玄松子の記憶
比賣神社[ひめの]「下照比賣命」富山県西砺波郡福光町高宮字中丹保4520 玄松子の記憶

雄神神社[オカミ]
雄神神社[おがみ]「高神、闇神」富山県東砺波郡庄川町庄字広谷6446 玄松子の記憶

淺井神社[アサヰ]
淺井神社[あさい]「八河江比賣神、高皇産靈神」養老元年の鎮祭。富山県西砺波郡福岡町赤丸字古谷5324 玄松子の記憶
淺井神社「水波能女命」富山県高岡市石堤字中村3587 玄松子の記憶 


射水郡[イミツ]:13座大1小12

射水神社[イミツ]
二上射水神社「久久能智命」富山県高岡市二上 玄松子の記憶
射水神社[いみず]「二上神 現在は瓊瓊杵尊」越中総鎮護。富山県高岡市古城1-1 玄松子の記憶 神社公式 二上射水神社の築山祭祀について
射水神社参拝のしをり
創始は太古のことで、年代は詳かではないが、延喜式内名神大社であり、越中文化発 祥にゆかり深い大守護神として崇敬せられている。
伝によれば、養老年間、僧行基二上山麓に養老寺を建て、この神を祀り、二上権現と 称した。当時の領域は、二上荘六十七カ村、社寺は二上全山に亘り二十二万余坪に達 したと云〓われ、越中全土の各戸より毎年初穂米一升奉納の制があり、盛大を極めた 。その後、承平ら、天正の両度兵火により悉く烏有に帰し、一時衰頽したが、慶長年 間、前田利家卿社殿再建の上、社領および一山を付し、国内に命じて初穂米奉納の制 を復活し、明治維新まで続いた。明治四年、国幣中社に列格し、同八年、高岡城本丸 跡の現在地に遷座され、同三十三年六月、高岡大火の折類焼、同三十五年復活。特に 昭和の御代、五十年四月には「日本書紀」に天武天皇三年(紀元千三百三十五年)正 月、奉幣に与ったことが見えることより起算して鎮座千三百年式年大祭を斎行。畏き あたりより奉幣の栄に浴した。又、昭和五十九年には新たに「参集殿」が竣工、輪奐 に一層の光彩を加えた。
幾歳の春風秋雨ありと云え、我が日本の神々は、徒に腕力や智力を以て秘と嚇し掠め る逆賊を懲らし、朝夕に忠実な國民を援け、まごころ篭めて働く人々を庇い、而して 、邪心無き老若男女や、寄る辺無き遺族に啓示垂れ給うなど、皇室を尊崇し、公私を 違えず、最も大義名分を明らかにする處に光被し給うのであります。



道神社[ミチ]
道神社[みち]「大彦命、彦屋主田心命」成務天皇五年。富山県新湊市作道1846 玄松子の記憶
道神社「大彦命」富山県高岡市五十里字沼田3721 玄松子の記憶
道神社「猿田彦神」富山県氷見市中田字下田1449

物部神社[モノゝヘ]
物部神社「宇麻志摩遲命」富山県高岡市東海老坂字川田1068 玄松子の記憶

加久弥神社[カクミ]2座
加久弥神社[かくや]「稻倉魂神、天照皇大神」富山県氷見市神代2676 玄松子の記憶
高岡関野神社[たかおかせきの]「伊弉册尊、事解男尊、速玉男命、稲荷大神、前田利長郷」富山県高岡市末広町9-56 玄松子の記憶

久目神社[クメ]
久目神社[くめ]「大久目命」富山県氷見市久目3229

布勢神社[フセ]
布勢神社[ふせ]「大彦命」 富山県氷見市布勢1826 玄松子の記憶 家持を祀る神社

速川神社[ハヤカハ]
速川神社[はやかわ]「瀬織津比賣命」富山県氷見市早借字滝尾880
速川神社「?」富山県高岡市波岡94 玄松子の記憶
八幡社「譽田別命、瀬織津姫命」富山県高岡市早川字下段924 玄松子の記憶

櫛田神社[クシタ] 
櫛田神社[くしだ]「武素盞嗚尊、櫛稻田姫命」武内宿彌の勧請と伝わる。富山県射水郡大門町串田字大沢6838 玄松子の記憶 神社 

礒部神社[イソヘ]
礒部神社[いそべ]「天日方奇日方命」富山県氷見市磯辺字土坂1045

箭代神社[ヤシロ]
箭代神社[やしろ]「葛城襲津彦命」祭神は武内宿彌の第八子。富山県氷見市北八代787

草岡神社[クサヲカ]
草岡神社[くさおか]「大己貴命」富山県新湊市古明神372 玄松子の記憶

氣多神社[ケタ](名神大)
氣多神社[けた]「大己貴命、奴奈加波比売命 配 菊理姫命、事代主命」
能登の気多大社から分霊を勧請したが、年代は不詳。神名大社とされているが末席に記載されているのは創立年次が新しかったからとの説がある。富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063  とやまの名水 玄松子の記憶


婦負郡[ネヒ]:7座並小

姉倉比賣神社[アネクラ]
姉倉姫神社[あねくらひめ]「姉倉比賣神」富山県上新川郡大沢野町船倉2360 玄松子の記憶
姉倉姫神社「姉倉比賣大神」富山県富山市呉羽町小竹1813 玄松子の記憶

速星神社[ハヤホシ]
速星神社[はやぼし]「五十筒男命 または住吉三神」富山県婦負郡婦中町御門793 玄松子の記憶

白鳥神社[シラトリ]
白鳥神社「日本武尊」富山県富山市寺町字向田122 玄松子の記憶
白鳥神社「日本武尊」富山県婦負郡八尾町三田字道円1894 玄松子の記憶
熊野神社「熊野加武呂命」富山県婦負郡婦中町友坂字熊野山5404 玄松子の記憶

多久比禮志神社[タクヒレシ]
多久比禮志神社[たくひれ]「彦火火出見命、豐玉姫命、鹽土老翁」塩の神。富山県上新川郡大沢野町塩字内割690 玄松子の記憶
略記
今から千三百年前、天武天皇の白鳳元年(六七二)四月十二日に林宿禰弥鹿伎という 人が部下を率いて神通川を船で上流へ向かって進んでいたところ、たまたま白髪の老 人が現われ、一同に語って申すには、向こうの川辺の松の木の際に泉がある。水は塩 味を帯びているから、きっと塩がとれる。塩は貴重だから貴方達も大きな恩恵をうけ るであろう。早く行って探しなさい。と云い終わると、すつと光を放って姿が見えな くなった。この言葉通りに進むことしばし、緑に囲まれた泉があり、清水は湧き出て 地上に溢れています。一同木を伐って薪をを作り、泉の水を煮つめ、やがて最上の白 色結晶の塩をとることが出来ました。あの白髪の老翁こそは国魂神であろう。ひとえ にわれらに塩を授け給い、この地方を拓けとの託宣であり神授であろう。と感激し、 神殿高楼を造営し、老翁を神と崇め祀つて末長く奉仕することになりました。又塩村 の呼称もここから起こったものです。


熊野神社[クマノ]
熊野神社「櫛御氣野命」富山県富山市宮保476 玄松子の記憶
熊野神社「熊野加武呂命」富山県婦負郡婦中町友坂字熊野山5404 玄松子の記憶
熊野神社「伊弉册尊、事解男神、速玉男神」 富山県婦負郡婦中町中名字北浦851 玄松子の記憶
熊野神社

延喜式内為成郷十八ケ村熊野神社由緒記
熊野神社は、伊奘册尊、速玉男命、事解男命の三柱を祀る。平安時代初期に編修さけ た「延喜式」「神名帖考証」「神祇志」に当熊野神社が延喜式内として登録されてい ることから、奈良時代に島根から日本海を舟で北上してこの地、為成郷(中名、蔵島 、持田、萩島道島、堀、新屋、袋、板倉、砂子田、坪野、添島、清水島、地角、海川 原、為成新、道喜島、十五丁の十八ケ村)に移住し、開拓したといわれる、出雲民族 が郷里において崇敬していた熊野大社(今も出雲八雲村に鎮座)の祭神であります伊 奘册尊、速玉男命、事解男命の三神を祀って、創立されたものと考察されます。住古 より延喜式前創建された古代神社の大社として熊野大権現と申し上げ為成郷十八ケ村 の産土神として栄え多くの社家、社僧が奉祀し、鎌倉初期の承元元年に立山の光明房 林海を始め北条時宗系の僧徒も奉仕したと伝えられ、更に応仁年間(約五百年前)京 都の神祇管領吉田神社よりも神官が下向奉仕したという。永録年中上杉謙信越中乱入 の節、兵火に蒙りて伝来の創立由緒記等古記類と共に大社殿(第一の鳥居が添島地区 にあり本殿は現在の粕塚に位置した、伽藍の大社殿)が焼失した。寛永年間以来領主 前田家累代の信仰厚く、宝永三年坪野村若林源左衛門の尽力により、社殿を造営、古 式の祭典をも復興することとなった。宝永元年秋為成郷内に悪疫が流行し、当時の豪 農で肝煎職であった坪野村の若林源左衛門の息子と召使の者が相次いで病気にかかっ た。その時為成郷内の各村々の人達が熊野神社の祭事を怠っており、神が怒り給うの である。為成郷肝煎責任者である汝、若林源左衛門は直ちに村々の人達と相談して、 祭事を復興する様にという熊野大神の託宣があった。そこで源左衛門は私財を投じて 祭りを行なったところ悪病はたちまち退散し、豊作に恵まれた。そのことがあって為 成郷内の氏子一同挙げて各村々より祭礼費を賄う神供田を寄進し、祭礼を盛大に奉仕 することとなった。これに由来して拝殿、神殿の造営なった宝永七年庚寅年に盛大な 第一回の御遷宮式が挙行され爾来十二年毎に御遷宮式を行い、昭和四十九年寅年迄二 十三回の御遷宮式が挙行されました。御遷宮式にはその都度坪野村若林源左衛門の屋 敷を御旅所と定め、為成郷の各村々を神輿が巡行される大祭を為成郷の里を挙げて今 も尚継承され奉仕している。稚児舞もこの時の祭りに由来し往時京都にて伝授を得て (当時の神職近尾河内神藤原由富等伝授を得指導の任に当たりし者の如しと伝える) 奉納せしものと伝えられる。例年八月二十五日の秋季例大祭に拝殿の正面に舞台を設 置し氏子より選ばれた十歳迄の男児大稚児二人、小稚児二人、計四人が室町時代の衣 装をまとい、古式ゆかしく七つの舞先は鉾の舞、加古の舞、林歌の舞、蛭子の舞、小 奈曽利の舞、大奈曽利の舞、陪臚の舞が舞楽に合せ優雅に奉納されている。

御遷宮式と稚児舞の由来
宝永元年秋、坪野村の豪農若林源左衛門の末っ子円六が病気のため十日程打臥してい た。折も折続いて召使の者が三、四人同じ疫病にかかった。我が家は先祖より、代々 、伊勢大神宮を崇敬して参り、毎朝神棚にお参りし、坪野村の神社えも春、秋のお祭 りも相勤め、門戸には尾張津島の牛頭天王の御守符を貼ってあるのに、どうして我が 家だけ多くの病人がでるのであろうかと源左衛門は内々神々をうらみ申していた。と ころが源左衛門はその夜不思議な夢を見たのである。神々しい白衣白髪の神様が枕元 にあらわれて、「中名の熊野社は為成郷の産土神である。然るに産土等粗末にして久 しく祭礼が中断し社参する者もなく、熊野大神の怒り甚だしい、それ故産土中神罰に て不作が続き、いつ戸もなく半数程の家が滅びたにもかかわらず神罰とはいささかも 思っていない様だ、このまま放置しておくと作物もみのらず十八ケ村の住民共疫病に なやまされて滅び果てるであろう。急ぎ神主船木丹後、近尾河内に相談し、黒米の御 供に御酒、肴を捧げる祭礼を毎年怠りなくいたす様、その方から、産子達に伝えよ、 祭礼を勤めれば大神の咎をのがれ疫病も治るし豊作にもなるだろう。とお告げになっ たので源左衛門は急ぎ御供を準備して中名熊野社へ趣き御告げの品を捧げ参拝した、 その翌日も参拝して帰宅してみると家の病人が皆癒っていた。一族皆熊野大神の恩恵 と悦びました。この御示現の高いことが産子内にだんだん知れわたって行った。熊野 神社へ御報告とお礼参りの為十月神主近尾河内守と船木丹後守の二人を伴って御供幣 帛、御湯立を勤めようとしたところ、熊野神社の守役である円通庵(現中名寺)の別 当作禅が他出のため拝殿の鍵がなく当惑しているところへ、南の方から作禅が、襷が けで大汗をかきながら馳せつけてきたのである。源左衛門は作禅を見て不審に思い何 事かあったのかと尋ねると作禅は語り始めた。「実はまことに不思議なことでござっ てのう愚僧は深谷村の祇樹寺に一宿仕ったところ奇体な夢を見申してのう。夢の内に は当社は日頃の状態とはうって変り、光輝くほどの立派な社殿になってのう。先ず拝 殿内の神前に新しい御廉へいぼん几帳が張り巡らされ、禰宜神主たちは数々の奉幣を 捧げ神人神楽を奏すれば、乙女舞遊ぶ様は、まことに目もあやなる荘厳さであり、そ の音楽は天地に充ち溢れ、村人達歓喜の思いに浸っている。愚僧も神前で参拝を済ま せ、庭前をみれば庭火を焚き、いろいろの幡並びに鉾や盾を数多く立てならべ弓矢、 太刀など、あちこちに飾り立てられ参詣の老若男女が境内に満ち溢れて鳥居のほとり 、社の東西南北の道路に人垣も出来ている。あんまり胸騒ぎするし神社のことであり 心もとなく落ち着かないので、、急ぎ馳せつけて参ったわけです。はからずも各々方 にお目にかかるもひとえに神慮によることと存じます。若林源左衛門殿の御告と謂え 、愚僧に対する御告と謂え、まことにありがたや、ありがたや。」と語り終わったの である。源左衛門、神主二人も共に歓喜して拝殿の鍵をあけ首尾よく神事を勤め終わ ったのである。斯かることがあって源左衛門はおそれかしこみ私財を投ずることとし て宝永二年から社殿の修復を始め、屋根の葺き上げを終えた宝永三年七月二十五日( 現在の八月二十五日である)に古式に基づいた御祭礼をようやく勤めることが出来ま した。尚この間古式の祭典を復活させる為、神主近尾河内守を京都に使いし、稚児舞 の伝授を得させ、この祭礼に奉納し盛大な御祭礼を行ない神威を和らげ奉ったのであ る。一方翌年よりの御神事に入用する銀を調達する目安が立っていないので、当時宮 田を寄進している村々を調査したところ、中名村、蔵島村、持田村、萩島村、道場村 の五ケ村であり別当社領として支配されていた。五ケ村から献上されている米餞は春 、秋の両祭礼神事の内、神主潔斎の飯料、礼式の幣物等に充て残余のものは神主の役 料となっていて、祭礼の諸費用に廻して貰う金品の余裕のないことが判明した。そこ で円通庵において作禅、中名村の肝煎役八兵衛と私と三人で相談し、先年宮田を引き とってその侭に今日に至っている村々、堀村、新屋村、袋村、板倉村、砂子田村、坪 野村の六ケ村へ宮田を少し宛献上して戴くことを図った。熊野神社の祭礼は天下泰平 、御国主様安全、次に為成産子家内安全五穀豊穣の御祈祷のためであり今後毎年怠り なく祭礼を勤めるため宮田を寄進して戴く趣旨の回状を宝永三年七月十七日付で各村 々へ出した。皆々至極尤もと理解され、田地割りの時宮田を差し上げますと六ケ村が 共に賛同された。早速、堀村、坪野村においてはその年から宮田米の献上がなされた るその外の村は追々と宮田を申し出られ、その記録をこの帳面に書き置きしておきま す。神主近尾河内守殿は大神の御告を有難く冥加に叶えさせられたことに対し恐悦さ れた。そして私に長く世話役として勤めることを依頼されました。私も霊夢にまかせ 毎年御祭礼の都度産子衆と相談し宮田米の請払帳をお目に懸け稚児舞を奉納する祭礼 を毎年続行出来る様になった。為成産子衆は熊野大神を御信心申し上げ宮田を寄進し たことで毎年盛大な御祭礼を目の前に見、豊作に恵まれ御信心の程冥利に相叶ったと 皆々よろこばれる様になりました。それについてもし自分が死亡した後と云えども今 迄通り世話役を勤め、産子衆と相談して祭礼に奉仕され、宮田米の請払のことも二、 三年に一度はこの帳面を産子中之お目に懸け勘定して戴きたい。万一後年において神 敵の者があらわれ、御神事をさまたげ祭礼を行なはなかった場合は、その者は御罰を 受け、重々悪くなり二代に亘り御罰を受け、その家は、ほろびてしもうだろう。御宮 すたれ給う如く、為成中不作となり、わけて天災悪事重り起き、ついには産子段々滅 びていきますので、ひとえに産子のためと思って斯様長々と書置き致します。尚天災 悪事にあい御祭礼を中断することのない様に熊野神社を崇敬し戴きたい。(段落)長 々と書き記した通り神の御告にまかせ以上の通り相勤めて参りました。いささかも粗 略にまかり通ってはならない。若林家代々子孫え堅く申し伝え、この帳面末々子孫へ 御渡しすること、末代のため毛上の通り書置き致します。以上(段落)正徳元年七月 吉日同姓左仲則季(花押)(段落)若林又右衛門殿(段落)昭和六十年四月熊野神社 奉賛会。


熊野神社「伊弉諾命、伊弉冉命」富山県婦負郡婦中町熊野道字古屋敷1076 玄松子の記憶

杉原神社[スキハラ]
杉原神社「杉原大神、譽田別命、建御名方命、菅原道眞、水分神」富山県婦負郡八尾町黒田字古国屋3928 玄松子の記憶 杉原神社の公式Webサイト
杉原神社「杉原神」富山県婦負郡婦中町田屋清水田2316 玄松子の記憶

鵜坂神社[ウサカ]
鵜坂神社[うさか]「淤母陀琉神、訶志古泥神 配 鵜坂姉比神、鵜坂妻比神」崇神天皇御代。富山県婦負郡婦中町鵜坂二区212 玄松子の記憶


新川郡[ニヒカハ]:7座並小

神度神社[カムト]
神度神社[かんとの]「神度神、豐宇氣神」富山県中新川郡上市町森尻字湯殿5 玄松子の記憶
鹿嶋神社「健甕槌命 配 三面觀世音、諏訪大明神、白髭大明神」富山県下新川郡朝日町宮崎1484 玄松子の記憶

建石勝神社[タケイハカツ]
建石勝神社[たていわかつ]「武甕槌命」富山県魚津市吉島2972 玄松子の記憶

櫟原神社[イチハラ]
櫟原神社[いちはら]「素盞嗚命」富山県滑川市神明1177 玄松子の記憶
櫟原神社「須佐之男命」富山県滑川市柳原1706 玄松子の記憶

八心大市比古神社[・・オホイチノ]
八心大市比古神社[やごころおおいちひこ]「大山祇神、少彦名神、軻遇突智神」富山県黒部市三日市1036 玄松子の記憶

日置神社[ヒオキ]
日置神社[ひおき]「天押日命」富山県中新川郡立山町日中65 玄松子の記憶
日置神社「天太玉命」富山県中新川郡立山町目置1045 玄松子の記憶

布勢神社[フセ]
布勢神社[ふせ]「五十猛命、五十日足彦命」富山県魚津市布施爪947 玄松子の記憶

雄山神社[オヤマ] 
雄山神社峯本社[おやま]「天手力男尊、伊弉諾尊」
立山頂上に鎮座。富士、白山と並び日本三霊山の一つ。修験道の霊場。
富山県中新川郡立山町立山峯1 玄松子の記憶
雄山神社中宮:祈願殿「天手力雄命、伊弉那岐命」富山県中新川郡立山町芦峅寺[アシクラジ]2 玄松子の記憶
雄山神社大宮:前立社壇「伊弉諾尊、天手力男尊」富山県中新川郡立山町岩峅寺[イワクラジ]1 玄松子の記憶
雄山神社御由緒
社伝によれば、文武天皇の大宝元年(七〇一年)景行天皇の後裔越中国司佐伯宿禰有 若公の嫡男有頼少年が白鷹に導かれ熊を追って岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救は んがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この 霊山を開かせんがためなり。」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山で ある。
古来、富士山・白山と共に日本三霊山として全国各地から信仰されて来た。山頂の峯 本社は屹立した巌上にあり、冬期間は雪深く登山することが至難であったので、山麓 岩峅(前立社壇)に社殿を建て、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したと伝えられている 。尚、芦峅には祈願殿がある。欝蒼たる境内に開山有頼公の御墳墓及び有若を祀る大 宮、有頼を祀る若宮等がある。
当社は、皇室の御崇敬篤く、文武天皇及び後醍醐天皇の勅願所であり、延喜式内の名 社でもあり清和天皇貞観五年正五位上に宇多天皇寛平元年に従四位下に昇叙せられた ことが、三代実録及び日本紀略に見えている。また、越中一宮と称せられたことがあり、一般国民の信仰も大変篤かったと同時に、旧幕府時代には藩主武門武将の信仰も 篤く、建久年間に源頼朝が本殿を再建し、明応元年に足利義直、天正十一年には佐々 成政がそれぞれ本殿の改修をしている。明治六年には県社となり、昭和十五年に皇紀 二千六百年記念事業として県民あげての奉賛により拝殿以下の建造物が整備され、国 幣小社に列せられた。



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