日岡神社
加古川市加古川町大野1775 its-mo

社景

交通

JR加古川線日岡駅 北東 300m



祭神
天伊佐々彦命
 配 豐玉比賣命、鵜茅葺不合命、天照皇大御神、市杵嶋比賣命
摂社
大鳥居神社「天伊佐々彦命 配 豐玉比賣命、鵜茅葺不合命」
住吉神社「上筒男命、中筒男命、底筒男命」
熊野神社「伊弉諾尊、伊弉册尊」
高御位神社「大己貴命、事代主命」
稲荷神社「保食神」
天神社「少名毘古那命、菅原道真」
恵美酒神社「蛭子命」


拝殿




由緒  式内社。日岡坐天伊佐々比古神社に比定される。伊佐々比古を五十狭芹彦と見なして、吉備津彦と見る方もおられるとのこと。

 『播磨国風土記』賀古郡の条に、日岡に坐す神は大御津歯命の子、伊波津比古命と注があるとのこと。

 『播磨国風土記』賀古郡の条に、景行天皇の恋人の印南別嬢(いなみのわきいらつめ)が当地の城宮(きみや)で亡くなったとき、日岡に墓を作って葬ったといういわれの「ヒレ墓:ヒレは示+習」伝承があり、丁度当社の東側の山頂には「景行天皇皇后播磨稲日大郎媛御陵」に比定されている日岡山古墳がある。余談だが、明治中期に前方後円墳に作り替えたと伝わり、原型は不明である。現在まで続く無駄な土木工事の典型だが、自然を破壊したり、人の生活に悪影響を与えている訳ではないだけほほえましい。 これを含む日岡古墳群は播磨でも代表的なものだそうだ。頂上のその古墳は4世紀前半頃とされる。


由緒 平成祭礼データから

 何時頃から祀られたものか、創立年代は不詳であるが、奈良時代、題四十五代の聖武 天皇の御代、天平二年、約一千百五十年程前のことであると伝えられている。延喜式 の制小社に列せられ、江戸時代には、武門の崇敬を受け、板倉京都所司代より黒印領 を得、これより先、慶長七年、池田輝政の命を奉じて、若原右京亮が制札を寄せ、同 六年、五石の黒印領を奉げた。江戸時代には、正一位日向大明神と称せられ、明治七 年二月、郷社に列せられ、日岡神社と改められた。
 古来より、安産の神様として、近郷にその名を馳せる播州一の大社であります。郷民 は、氏神様として仰ぎ親しみ、近時、安産祈祷で社頭を賑わせております。
 大野山(日岡山)の日岡神社と、居屋河原(寺家町)の日岡神社が有り、兄弟宮とい われていましたが、昭和四十四年六月十五日の夕方の火災により、本殿が全焼し、昭 和四十六年復興の際、居家河原の神社を日岡山の日岡神社に合併し、昭和四十七年、 新しく大鳥居神社を境内社として新築いたしました。居屋河原は、旧街道に面したと ころで、江戸時代、参勤交代で諸国の大名が通るのに、鳥居があったため、一旦、馬 を降りなければならなかったので、将軍が鳥居を移転させたというような話も伝えら を降りなければならなかったので、将軍が鳥居を移転させたというような話も伝えら れています。
 第六十代醍醐天皇の御代は、史上、「延喜の治」と云われるように、御仁慈な政治が 行われ、延喜格式の選定がなされました。その中に、制小社として、「日岡坐天伊佐 佐比古神社」と称せられ、記載されています。従って、「式内社」であり、由緒ある 神社であります。
 昭和四十六年七月に再建された新本殿は、鉄骨コンクリート、権現造りで、屋根は銅 板で葺かれ、内装は檜造りで、縁の深い日岡山の丘に美しく調和し、参拝者の心に安 らぎを与えています。
以上



>本殿




お姿

 西南向き。
 この山には多くの岩が見える。おそらくは磐座信仰が源流にあったのではなかろうか。 現在は安産の神様であり、初七日のお詣りの盛んな神社である。


お祭り

 2月上亥の日 7日間 亥巳籠祭
 神官は前日に浜の海水で沐浴潔斎し、社務所で別火謹慎してから神を祀る。 氏子達は静粛に家業にいそしむ。(昔は家業を休んで戸を閉じていた。) 満期の巳の日に、氏子達は朝早くから神社に参拝し、祭典に供えた榊と供物をいただく。午後には射場での神事がある。


10月第二日曜日 秋季例大祭

公式日岡神社
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