雪彦山・賀野神社
飾磨郡夢前町山之内戊558 its-mo


登山口の鳥居と大天上岳 左側

交通

姫路駅前から雪彦山行きのバス 往路 8時10分発 復路15時 74分



祭神

伊邪那岐命、伊邪那美命、保食神


雪彦山から眺めた賀野神社 中央



由緒

 『播磨国風土記』(飾磨の郡 加野の里)の条に、「昔加野と称するのは品太天皇が巡行したとき、この場所に屋形を造って蚊帳(かや)を張った。だからこの里を加野と名づけ、山の名も同じ。」 とある。賀野神社(山之内戊558)は登山口から直線距離400mに鎮座、鳥居は登山口にある。なお、賀野神社からも鉾立山方面に登山道がある。

 神社由緒*1には、上記風土記の話の細部となる由緒が述べられている。
 昔応神天皇が各地を巡幸された際、暫くこの地に御逗留になりました。或夜夢に白髪の翁(おきな)と媼(おうな)が枕元に立って「私達は伊弉諾神(いざなぎのかみ)と伊弉冊神(いざなみのかみ)である。保食神(うけもちのかみ)と共に、この山に祠を建てて祀れば、百姓は豊かになって国も栄えるであろう。「祠を建てる場所は鉾を建てて置く」とみて目を醒まされました。
 このような由緒が語られている。鉾立山は雪彦山系の北側にあり、標高950mの山、雪が深く時間がかかったので登頂は断念した。暗い内に降りられない状況。

 続いて、神社由緒*1は「推古天皇或は孝徳天皇の時代に法道仙人がこの山に入り、鉾立峰は坂嶮しく道遠くして衆庶の参拝に便ならずとて、当今の地に祠殿を造営して遷座し奉る。金剛鎮護寺と称し、本地垂迹の説に依りて雪彦山大権現と号し奉る。」と続く。

 『播磨鑑』に当神社について、「応永の此山内某此山にて白蛇に逢 告有て即白山宮を移し勧請すと也 即白山三所権現と云 伊弉諾 菊理姫 大己貴命也」と書かれている。

 登山口にも祠がある。実は鳥居の前にあり、門神かも知れないが、社殿は実に立派。


登山口の社殿



お姿 

 先ず大天上岳に登るのであるが、途中でとてつもなく大きい巨石が並ぶ出雲岩を経由し、大天上岳に至る。祠が鎮座。『姫路の神社』(神戸新聞)洞神社であり、菊理姫命、もしくは役の行者が祀られていると言う。三角点を含めて洞が岳と言う。
 


大天上岳の祠
 

 鉾立山を眼前にして帰路に着いたのであるが、その途中で地蔵岳などが屹立する姿が見えた。


右が地蔵岳


お祭り 

  4月 29日 春季例大祭

『播磨国風土記』、*1『平成祭礼データ』

『平成祭礼データ』

 播磨国飾磨郡鹿谷村の内山の内村雪彦山の字鉾立の底津岩根に宮柱太敷立て高天原に千木高知り天の御蔭日の御蔭と鎮座す賀野神社と申し奉るは、住昔応神天皇御巡幸座まして暫く鳳輦を此地に駐め給う、或夜天皇の御夢に城髪の翁と媼御枕枕上に立たせ給ひて、我は伊弉諾神、伊弉冉神なり保食神と共に此山の上に斎き祭り給はば百姓饒かに国家富まん、我宮を造るべき処には、天都璽の八尋鉾の突立て置かんと誨へ給うと見て覚め給ひぬ、天皇奇異の御感あり、人をして検せしめ給えば、果して鉾自ら地上に立てりと奏上す、天皇叡感斜ならず、即ち神教に遵ひ播磨臣等に命じて祠を営み、三柱に神に幣帛を奉り厚く祭祀せしめ給う、因て其地を鉾立峰、又幣丘と云ふ、時しも夏の最中なりけん、蚊虻多くして群臣為に苦しむ、依て織部に命じて蚊帳を造らしめ給ふ、万民今に至るまで恩頼を蒙らずと云うことなし、因て里名を賀野里と云ひ、亦神社の号とす(後世には加屋、加谷、鹿野など書きたり、今は鹿谷村と云ふ)之れ当社鎮座の濫觴にして、亦本朝蚊帳の推興なり、中古仏法隆盛の世となりて推古天皇の御宇(或は云ふ孝徳天皇の御宇)法道仙人来たり此山に入り、鉾立峰は坂嶮しく道遠くして衆庶の参拝に便ならずとて、当今の地に祠殿を造営して遷座し奉る。之れを第二の御造営とす、而して社内に伽藍を建立し仏像を安置し寺号を設けて金剛鎮護寺と称し、本地垂迹の説に依りて雪彦山大権現と号し奉る。
 是より以前は立船野鍋倉山の南麓に鳥居ありて、此処より山の峰伝ひにて諸人鉾立峰に往来ひて、参拝せり、御遷座の後鳥居も当今の処に移されて其古跡は畑となれるも礎石のみは今の世までも残りて農夫等過ちて其の汚せば、忽ち崇りありとて甚く恐れ惶みてありけるを近頃其地学校の敷地となりしかば、彼の礎石は当今の鳥居境内に移して保存する事となれり。
 爾来数多の星霜を経るに従ひて神威益々顕著なりければ、遠近弥霊徳を仰ぎ老若益々恩頼を慕ひて来り拝する者陸続絶えず、山林を伐拓きて移り住む人民年月と共に増加し幽邃寂廖たりし山中に一村落を成すに至り遂には社頭に奉仕する社家四十軒僧坊十二宇神領千貫文の多きに及び大に繁盛を極めたり。 此頃の第一の鳥居は当郡妻鹿村の沖中にあり、第二の鳥居は同郡辻井村にあり共に礎石のみ今の世に至まで在せり又当今の鳥居は第三の鳥居に当れり。
 建武、後醍醐天皇隠岐国より御還幸当郡書写山に御駐輦の間東国未だ穏かならず若不慮の事など有らんには此地に御臨幸然るべしとて、名和長年朝臣をして土地の形勢を察せしめらるるに大山四繞して谷深く峰嶮しく一騎打の九折にして、いかに大軍寄するとも容易に攻入るべき便りなく誠に要害絶境と見へければ、朝臣大に悦ばれ、即ち大江、谷、貞景、末政、振角、宗利、為則、安則、成定、戴定、中務、多月、宗行、為賽、則定、為安等の土豪に謀り大江氏の立船野の邸宅を王政所とし、谷氏を公家政所と定め猶別殿を我が孫子の山中に設けられる、今其所を王城段と云ふなり、即ち城戸、篭掛魚留、叶地羽壷等の嶮に依りて関柵を置き彼の土豪等をして之を守らしめらる、此時長年朝臣勅使として社頭に参拝し幣を奠じ朝敵退散天下泰平を祈願せらる。当時神酒を奉られし瓶子今に当社宝庫に在せり、又社頭に椿の老樹あり朝臣即ち船印の旗を其木に立て堀切を構へしめらる、故に椿を旗立の椿と云い堀を船堀と云う、斯くて右十六人の土蒙等書写山に召されて金帛を下賜せらる。然るに新田義貞朝臣の武功に依り鎌倉滅亡の捷報あり、此要害に入らせ給うに及ばず、直ちに京都に還幸座しましけるこそめでたけれ、文安の頃より応仁の乱世に及びて神領漸々減少し又昔時の隆盛を見ずなりぬ、然るに文明七年十二月祝融の災あり、神殿堂宇悉く鳥有に帰し神宝仏具皆灰■となる、翌八年明阿上人紀州高野山より来錫し百方奔走勧進して財を募り御造営の事を企画す、然も夥多の資材と労力を要する事業なれば功を一旦に収め難し、依て仮宮を山麓に営み今の兵主神社これなり、暫く御遷座あり後五十六年を経て大永七年に至り神殿仏堂悉く完成し神霊還御あらせられる、之を第三の御造営とす。
 天正六年羽柴氏の為に神領全く没収せられたりしが慶長五年播磨少将池田輝政公封を姫路に受けられるるや、同六年九月御検地の時山林凡壱里四方の地を除地とせられ神職屋敷寺等夫々水帳に記載せらる、其高五石七斗九升九合にして其除地に住居する人民拾有壱戸は神戸として当社に寄附せられ、其戸籍を始め万緒当社に於て管理し各神領内に於て耕耨を為さしめ其貢租として境内掃除式日使丁等を勤めしむる慣例なり、是歳十月此山に狩せられ親ら社頭に参拝して幣帛を献じて武運を祈らせらる、此時神主柏尾家に宿らせられ後の紀念にとて手づから庭園に榊を植置かれたるが今尚立栄ゑたり、是より以後代々領主崇敬厚くして雨乞祈願所と定められ歳次の祀典頗る壮重なり、次で池田武蔵守利隆公の時も同様にて元和七年本多美濃守忠政公境内を検して高五石八斗とせられ、寛永三年四石弐斗を加増し拾石を寄進せられ以て永準とせられ、同十年本多甲斐守政武公同じく拾石を寄進せらる、然るに同十六年松平下総守忠明公の時より四石弐斗を減ぜられ、松平大和守直基公、松平式部大輔忠次公、榊原刑部大輔政房公、松平大和守直矩公を経て、天和参年本多中務大輔政朝公再び領主とならるるや、先例を祖述し亦拾石を寄進せらる。
 是より先き慶安五年工を起し、本殿桁五間梁三間、拝殿桁七間二尺梁四間、能舞台桁四間梁三間、橋掛巾五尺長三間、楽舎桁四間梁三間、炊屋桁五間梁二間、御宝庫桁二間梁二間、神門桁二間梁一間半、観音堂桁七間梁七間、開山堂方四間、鐘楼方二間、辨才天堂桁一間半梁一間、其他鳥居(是は松平大和守直基公の御寄進也)奥院兵主神社(麓鎮守社と云ふ)花折社(かきかけ殿と云ふ)洞神社に至るまで改築し奉る、寛文元年に至りて成工す、之を第四の御造営とす。
 寛永元年榊原式部大輔政邦公の時亦四石二斗を減ぜられ榊原式部大輔政峰公、松平大和守明矩公を経て寛延二年酒井雅楽頭忠恭公領主とならるるや、本多氏の舊例に準じ拾石を寄進せられ明治維新に至れり、特に酒井氏は最も神社の格式を進められ、代々親ら参拝あらせられたり、亦安志、山崎、竜野、三日月、赤穂、作州津山等の諸藩主各軍旗を奉納し毎歳使節をして幣物を捧げしめ武運を懇請せらるる等崇敬殊に厚かりき、明治維新の奎運に際会し神仏混合禁止の令あり、因て寺院堂塔を廃し仏像仏具を排き更に神祗官に請ふて、高皇産霊神、神皇産霊神、 誉田天皇合祀の許可を得て三柱の大神を合せ祀り社号を賀野神社と復称し奉る。現今の社殿は安政六年神職、社僧、氏子、役人、世話方等集会を為し、社頭御造営の議を決し万延元年十一月大阪御番所に願出て其許可を得て文久二年手斧始式、元治元年旧本殿より弐間計り後の方に新本殿の石場築を為し、慶応弐年正月二十日御柱立式ありて同四年六月御屋根成就の後旧本殿を取除く是より先山麓なる兵主神社を改築して仮殿となし御遷座を奉仕せり、蓋し文明八年の古例に依るなり、新本殿桁五間梁二間木材は此山の良木を撰みて伐採する処なり、而して組形、彫刻等精巧を極め最も壮麗なり、次で幣殿、拝殿の工を起し本殿同様良材を撰み彫刻、組形等総て本殿に準じ美麗を極めたるもの準備全く成れるを如何なる天災なりけん、明治三年六月二十五日夜九ツ時工場より出火あり、旧拝殿、炊屋、御宝庫、神門、能舞台、楽舎に維新の際廃せられたる観音堂、開山堂、辨才堂、鐘楼及金剛院、同門、同納屋等建物十三軒外に臨時に設けられたる材木小屋桁十間梁二間工場桁四間梁二間の二棟其他境内の杉檜何れも一丈以上の老樹大木数十本一時に焼失し翌二十七日昼九ツ時鎮火せり。故に当神社蔵する所の古器物古文書大概灰■に帰せり、然るに新本殿は旧拝殿との間僅かに二間余にして御屋根に灰の積ること三寸に及び火炎燃付かんとせし事数回なるも境内一面の大火にして近づき得べくもあらず、殊に水利不便の地なれば如何にとも施すべき術なかりしに、不思議にも延焼を免れたるは不幸中の幸なり、之れ実に神徳の顕著なるに因れりと云ふべし、茲に於て更に同年七月幣殿、拝殿再築の工を起し同十年拝殿、神饌舎成り、四年二月幣殿落成す、彼の開山堂の跡には春日神社を勧請し辨才天堂、観音堂の跡には粟嶋社及稲生社を勧請す、茲に於て再び棟宇巍々相臨むに至れり。之を第五の御造営とす。
 同年三月十七日より二十三日に至る七日の間上棟式、正遷宮視祭、祈念祭、太々神楽を執行す、姫路県特に使節をして幣物を奉り士卒を派して神霊渡御の警衛をなさしめ、県内の神職に令して祀典を輔けしむ、実に未曽有の盛儀なりしと云ふ。
 以上
 ■印は火辺に、尽とかく。

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