早池峯神社
岩手県花巻市大迫町内川目1-1 岳の里宮its-mo

鳥居

交通案内

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祭神

瀬織津姫命(当初は姫大神と云う)

拝殿




由緒 


 大同二年(807)三月、大迫の田中兵部と遠野の漁師始閣藤蔵の二人が大鹿を追って東子岳(早池峯の旧称1913m)に登り、山頂の岩窟の中に金色光明の霊容を感得し、その垂迹の因縁により同年六月、両者力を合わせて山頂に一堂宇を造って本宮とし、東子岳明神と崇め、また山麓にそれぞれ遙拝所を建立し姫大神を祀った。

 その後四百年ほどを経て快賢なる遊行僧が河原の坊に仮堂を建て、山頂にも新たに一宇を建立し十一面観音を安置し若宮と称した。

 河原の坊は宝治元年(1247)の大洪水で流失した。正安二年(1300)越後の僧円性阿闍梨は当峰に於いて神託を受け、河原の坊の遺範を岳に再興し、新山宮とした。
 岳の早池峯神社である。

 遠野の漁師始閣藤蔵はマタギであると共に半俗半聖の山伏であった。原始の山岳信仰に加えて、修験道と山岳仏教としての密教が習合し、霊山信仰のの山として尊ばれてきた。

 活火山である岩手山の男神に対して、早池峯は女神とされた。

本殿



お姿
 優美なお姿の早池峯山頂に風雪に耐えてきた祠があり、巨大な磐座がある。そこにうすゆき草がそっと咲いている。脱衣婆とされる瀬織津姫命のイメージとはこのように可憐なものか。ならば楽しみになる。

奥宮

奥宮の磐座にウスユキソウ


お祭り


例祭  8月 1日
奥山開き  6月第二日曜日

『平成祭礼データ』

早地峯の開山は、大同二年(807)山蔭兵部成房によってなされた田中明神の伝承と同様である。即ち成房は六月雪溶けを待って登頂し、一宇を建立、瀬織津姫大神を勧請し、東子獄明神と称したのが奥宮の創始である。鎌倉時代、快賢という修験僧が川原坊を経営した一時期を経、正安二年(1300)越後の客僧円性阿闇梨が岳の現在地に一宇を建立し、十一面観音を勧請して早地峯大権現別当妙泉寺円性と称えた。慶長十五年(1610)盛岡南部家は早地峯を深く信心し、利直公自ら大旦那となって二か年がかりで、社堂悉く改築寄進した上、社領百五十石及び三十六か山を境内山林として付与した。以来領内総鎮守として、信仰を集めてきたが、明治に入っての廃藩置県に伴う禄の打ち切り、神仏分離令、さらには下って昭和二十年の神道指令など重大な危機に直面しながらも、氏子崇敬者の厚い信心に支えられ、その危機を脱し今日に至っている。
以上


深田久弥著『日本百名山』から

   早池峰は東北では鳥海、岩手、月山につぐ高峰でありながら、案外世に知られないのは、僻遠の地にあるためだろう。早池峰という響きのいい名前で、この山は早くから私の胸にありながら、その姿を撮った写真を見たことがなかった。盛岡の平野から逢かに見えないわけではないが、それは撮影にはあまりに遠過すぎる。また山の近くまで来るとその全容を美しく捕えることが出来ない。

 谷文晃の『日本名山図会』には太平洋側から見た早池峰が描かれている。多分宮古あたりの港とおぼしき風景を前にして、まるで拳をあげたような突冗とした山に描かれている。宮古湾から早池峰までは相当の距離がある。絵に誇張のあるのは承知していても、こんなにあざやかに大きく見えるのであろうか。
 私が一番ハッキリと早池峰の全容を眺めたのは姫神山の頂上からであった。それは北上高地の山波の上に一きわ高く立っていた。尖鋭な独立峰の形でなく、長い頂稜を持つ重厚な山の姿で立つていた。『遠野物語』には「四万の山々の中に最も秀でたるを早池峰と言う。北の方附馬牛の奥に在り」とあるが、あるいはこの山を一番古くから親しく眺めていたのは、遠野の人々だったのかも知れない。附馬牛には早池峰神社があり、そこからは全面に薬師山を眺め、その背後に早池峰を望み、猿石川に沿うて、風景の美しい所として知られている。古い登山路はそこから二里二十町としてある。
 私が早池峰の霧の中の山頂に立った時には、そこに古びたお宮があって、その前の崩れた石の燈籠に「奉納御宝前」と刻まれ、裏側に微かに「安永九年六月吉日」という字が読まれたが、それは遠野から献納されたものであったろうか。
 『遠野物語』は私の愛読書である。柳田国男氏が遠野の人佐々木鏡石氏から聞かれた山村の古い話を編されたものである。遠野郷は「花巻より十余里の路上には町場三ケ所あり。其他は唯肯き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚だし」と明治の末に柳田氏も記されているが、今はそれよりも開けたにしても、やはり僻遠の地であることは免れない。
 ある秋の夜、私は盛岡の東郊の丘の上に立った。前面には華やかなネオンサインの街が拡がっていたが、背後を向くと全くの暗闇で一点の灯も見えない。「日本のチベットと言われる所以ですよ」と案内の人が言ったが、その時闇の奥の広大な地域こそ、北上高地と呼ばれる人煙疎な地であった。その高地の中の最高峰が早池峰である。
 『遠野物語』には早池峰がしばしば現われる。大昔に女神があって、三人の娘を連れてこの高原へ来、とある村の社に宿った。母の神はその夜、よい夢を見た娘によい山を与えようと約して眠ったところ、夜半に天から霊華が降って姉の姫の胸に留った。すると末の姫がひそかに眼ざめてこれを取り、自分の胸の上に載せた。そこで一番美しい早池峰を得、姉たちは六角牛山と石神山とを得た。六角牛山は旧遠野町の東にあり、石神(石上)山は西北にある。
 またこんな詰もある。ある村人が早池峰へ竹を伐りに行くと、地竹がおびただしく茂っている中に、大の男が一人寝ていた。見ると、地竹で編んだ三尺ばかりの草履が脱いである。仰向けに寝て大きな鼾をかいていたという。その他、大きな坊主に化かされた話や、眼の光のおそろしい大男に出あった話や、いずれも妖怪変化じみた物語で、この山がいかに普通の世間から遠ざかっていたかが察しられる。なお今は早池峰山と呼ばれるが、山は余計である。
 現在、普通に採られる登山道は、花巻から岳川に沿って遡り、最奥の岳部落から登るものと、北側を通じる山田線(盛岡−釜石)の一寒駅平津戸から御山川に沿って登るものとがある。前者を表口と見なしていいだろう、というのは、岳部落にも早池峰神社があって、そこが登山口となっているからである。
 私は表口を採った。岳は二十戸ほどの山村で、頼めばどこの家でも泊めてもらえる。ここに昔から伝わっている獅子舞は、無形文化財に指定されたほど由緒のあるもので、私の泊った農家の座敷の床の間には、大きな獅子頭が三つ並べて飾ってあった。
 岳の早池峰神社は格別立派というわけではないが、杉林の参道を持った静かな環境にあった。伝えによれば、大同二年(八〇七年)二人の猟師が奇鹿を追って早池峰の山頂に登ったところ、金色の光が射し、権現の霊容を拝した。そこで下山して一社を建て、姫大神とあがめたのが今の神社だという。そこに小さな軸仕立のお札を売っていたが、それには明らかに女神と思われる像が刷ってあった。
 登山路は岳から川に沿って六粁はど上った河原ノ坊から始まる。昔、快賢という僧が早池峰に詣で、ここに一寺守を建てて河原ノ坊と呼んだ。その後洪水で寺は流失して名前だけが跡をとどめている。すぐ横の谷川は昔の登拝者が垢離場と称して身を浄めた所だという。北上の詩人宮沢質治にここをうたった詩がある。その一部

 ここは河原の坊だけれども
 曽つてはここに棲んでゐた坊さんは
 真言か天台かわからない
 とにかく昔は谷がも少しこつちへ寄って
 あゝいふ崖もあったのだらう
 鳥がしきりに囁いてゐる
 もう登らう

 そこから距離は短いが一途の急な登りであった。垢離頭と呼ぶ所が水の最後で、そこで沢を離れて尾根登りになる。もうそのあたりは草本帯で、八月終りの咲き残りの高山植物が勧松の間を色どっていた。
 それから岩石地帯にさしかかる。巨岩がゴロゴロ転っていて、特別の形をしたものには呉座走岩だの打石だのという名がついている。ハヤチネウスユキソウをあちこちに見出したのはそのんであった。普通のウスユキソウよりは大ぶりで、日本に産するものの中では、欧州アルプスのエーデルワイスに一番近いという。早池峰の特産である。
 頭上に城塞のように巨石が立ち並んでいる所まで達すると、もう項上は近かった。岩の間を攣じて山頂に立つと、ただぼうぽうと乳色の霧が吹きすぎるばかり。ちょっとの晴れ間に、眼の下に気持のよさそうな原の拡がっているのが見えたが、それもすぐ閉ぎされて、いくら待っても二度と晴れなかった。
 私は反対側の平津戸の万へ下る予定をやめて、元の道を岳へ引返した。岳へ着くといつか空が晴れて、遠く水上に早池峰が美しく姿を現わしていた。

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