大甕神社
茨城県日立市大みか町6-16-1 its-mo

南東向きの鳥居と拝殿

交通案内
常磐線大甕駅 北から西に廻って旧岩城相馬街道を700m 南下


祭神

武葉槌命




由緒 


 『日本書紀』神代下にあるいはいう。経津主神・武甕槌神の二神は邪神や草木・石に至るまで皆平げられた。従わないのは、星の星の神香香背男だけとなった。そこで建葉槌命を遣わして服させた。

 『日本書紀』神代下の一書に「天神が経津主神・武甕槌神を遣わされて、葦原中国を平定させられた。ときに二柱の神がいわれるのに。「天に悪い神がいます。名を天津甕星といいます。またの名は天香香背男です。どうかまずこの神を除いて、それから降って、葦原中国を平げさせて頂きたい」と。このとき甕星を征する斎主をする主を斎の大人といった。この神はいま東国の取(香取)の地においでになる。」とある。

 天津甕星の荒魂を封じ込めた宿魂石の上に建葉槌神を祀る奥宮が鎮座しているのが当社。

 常陸国の古風土記にはこの星神のことは触れられていないが、『新編常陸国誌』に、石塚村(常北町)のこととして、「ここに小祠あり、其傍の土中に石のかけたるもの大小数箇あり、ほるに随て出ず、尽きることなし、古老伝えて云、太古の時、久慈郡石名坂の石長じてやまず、まさに天にいたらんとす、静明神これを悪みて、金履きを以て蹴り折る、其石三段となる、一は石名坂にあり、一は石神村にあり、一はこれなり」とある。

 『大甕倭文神宮縁起』によれば、天津甕星神が変じた巨岩は一つは神磯として今に伝わる「おんねさま」となり、後の石は石神、石塚、石井に飛んだと云う。おんねさまは御根磯と云う小島のようだが、地図上では未確認。
 石神、石塚、石井に三社は恐らく下記の神社
 那珂郡東海村石神外宿1 石神社「天手力雄命」
 東茨城郡常北町石塚1088 風隼神社「武甕槌命」
 笠間市石井1074 石井神社「建葉槌命」
 『日本の神々11』で大和岩雄氏は、上記「石」は交通の要衝にあたる場所であり、賽の神の要素を見ている。大甕神社の前にも「泉川道」の道標が立っている。また境に埋められる伝承を持つ「甕」にちなむ土地であり、大甕山の巨岩もあって、後世に天津甕星神と関連つけられたとの指摘がある。むべなるかな。

宿魂石上の本殿



お姿
 大甕駅から北側の踏切を西に渡り、陸橋を渡って南側の旧道を10分ほど南下すると神社に出る。道路と拝殿が近く、鳥居が狭苦しい雰囲気で立っている。
 もうひとつの入り口ができており、桁が違うような立派な参集殿が建っている。遠い所から、天孫に最後まで抵抗した神の周縁の地との意識で尋ねてきた参拝者にとってはいささか興醒めだが、地元の方々のご苦労は大変だったと思う。
 古代からの磐座祭祀の場所であろと思う。クサリ場もある重なった岩を登って行くと本殿が鎮座、この岩山全体が宿魂石と云うのであろう。

 社叢はスダジイ(ブナ科)が多く、大きいものは幹周り3.5m。他にタブ、アカガシが混在。


お祭り


例祭  5月 5日

大甕倭文神社のしおり

 鎮座地の治革

 抑大甕の地は当社の御縁起に甕星香々背男と称する屈強なる悪神が占拠していた所であったために称する地名であると伝えられております。当地は阿武隈山系の最南端に位置し、東は渺茫たる太平洋に臨み久慈川の河口を天然の良港とした久慈浜の後背地として古くから開かれ、南高野の貝塚・甕の原古墳群など歴史的な遺跡が数多く残っております。また此から海岸道が開かれ、古代における交通の起点として、奥州へ通ずる街道の要衝を占めておりました。

 今も大甕山の東端の釜坂、即ち可良麿坂付近には中丸屋敷という所があり、天平の頃防人として筑紫の国に赴いた倭文部可良麿は、倭文神武葉槌命の末裔として此の地に住んでいたと伝えられております。『万葉集』の巻の二十の防人歌の中に可良麿の歌がある。
 足柄の み坂たまはり顧みず 吾は越え行く 荒し男も立しや憚る不破の関越えて吾は行く
 馬の蹄 筑紫の崎に留り居て吾は斉はむ 諸は幸くと申す帰り来までに

 中世の南北朝の動乱期には、南朝万の北畠顕家に率いられた奥州の軍勢と北朝方に組していた太田の佐竹畠義との間で壮絶な戦が繰り広げられた、今に伝わる甕の原の戦がそれである。やがて江戸時代に入り陸前浜街道も整備され、奥州の大名の参勤交代をはじめ人々の往来も頻繁になり、社頭の茶店も大変に繁盛したとのことであります。また久慈浜をはじめとする近郷の人々は無論の事、街道を往来する旅人などの参拝者の数も多くなりました。元禄の頃には水戸藩において大日本史の編纂が始まり、当社の由緒の重大なる事が認められることとなり、藩主 自からの度々の社参を受けた記録をはじめ、奥州の大名の参勤交代の折りは大名の社参並に奉納金を受けた記録などがあります。明治以降は交通機関の発達が著しく、街道筋もさびれてしまいましたが、大正の初期頃までは神社の前に人力車の元締があり、水戸方面から来る人力車の客をここで乗り換えさせて、日立・高萩方面に運んだそうである。現在は境内の中を国道六号線が通るようになり昔に比べると大部変りはしましたが、子孫に受け継がれてきた鎮守の森は椎の大樹をはじめ数多くの植物が生息し、かつての自然林の面影を残しております。

御祭神の御事

 創祀年代は不詳でありますが、当社の由緒は古く神代にまでもさかのぼることができます。御祭神武葉槌命は神代の昔に皇室の祖先であり、我々日本民族の祖神として伊勢の神宮にお祭りされる天照大御神の御命令により、鹿島神宮の御祭神武甕槌命と共にこの常陸国を平定され、日本民族を一つにまとめあげた日本建国の大功神として仰がれております。その御神威・御神徳については、我国最古の歴史書である『日本書紀』の一部にも見ることができますが、『大甕倭文神宮縁起』には概ね次のように伝えられております。天祖天照大御神が天孫瓊瓊岐尊を豊 葦原中津国に降臨させるに当り、鹿島・香取の二神は葦原中津国の国津神・荒ぶる神々を鎮撫、あるいは掃蕩する任を負わされておりました。武神として誉の高い二神は国津神等の国譲り、荒ぶる神々の掃蕩、更には国中の草木石類に至るまで平定いたしましたが、まだ常陸国に悪神がおり、名を天津甕星、またの名を天香々背男といい、大甕上に陣取り東国地方の陸地はおろか海上にまで一大勢力をもっておりました。さすがの鹿島・香取の神もこの勇猛なる大勢力の前に為す術がありませんでした。その時にこの武神である二神に代って甕星香々背男討伐の大任 を負わされたのが、当社の御祭神武葉槌命でありました。命は武神としてもさることながら、知恵の神としてことに優れており、(我国において織物を始めとする組織的な産業を最初に起された神であります)命の知恵を駆使した巧な戦略の前に甕星香々背男の一大勢力も敢えない最後を遂げることとなり、その様は今に様々な伝説となり伝えられております。その一つに武葉槌命が大甕山にて甕星香々背男の変じたる巨石を蹴ったところ、その一つは海中に落ちて今に伝わるおんねさま、または神磯と呼ばれる磯になり、あとの石は、石神・石塚・石井に飛んだと伝えられております。また現在の大甕神社の神域を成しております宿魂石は、甕星香々背男の荒魂を封じ込めた石であると伝えられております。斯くて、甕星香々背男の勢力を掃蕩された武葉槌命は、此の大甕の地に留り命の優れた知恵の産物である製塩の術・織物の術をはじめ様々な生活の術を常陸地方は無論のこと、東日本の一帯に広められ人々の生活の向上に貫献されたのであります。今に、武菓槌命はおだて山、即ち美しい山と人々から敬愛の念を持って呼ばれる大甕山上に葬られていると伝えられております。

御造営

 当社の御造営が最初に為された年代は不詳ですが武菓槌命の葬られたと伝えられる大甕山上の大榊の元、今の古宮と呼ばれる所に祀られたのが始めであります。古宮の地からは甕の原・太平洋・更には筑波山・鹿島灘を遥かに望むことができ、その眺めは素晴らしく、武菓槌命をお祀りするには誠にふさわしい場所であったといえるでしょう。しかし、昭和の初期頃より入植者により開墾され、戦中は陸軍の通信基地、戦後は進駐軍の基地となり、近年は周囲の開発が進み日立研究所・エネルギー研究所などの研究棟が立ち、松林に囲まれて石の祠が辛うじてそ の跡をとどめております。元禄二年にいたり、当時大日本史の編纂を進めておられた水戸藩主徳川光園公によって当社の由緒の重大なる事が認められる事となり、藩命をもって大甕山上より街道筋に近い現在の鎮座地である宿魂石上に御遷宮申し上げる事となりました。この時から水戸藩の計らいによって大甕倭文神宮という最も格式の高い神宮の号を用いる事となり、元禄八年には譜請奉行関口九郎次郎に命じて社殿の造営が成されました。その後幾度かの修復が行われましたが、中でも寛延四年の修復工事は大がかりであったことが記録に残っております。
 現在の拝穀は昭和七年の大暴風雨の折に破損することが甚だしく、境内の大木の倒れたものを用材として寄付を募り昭和八年御造営が成ったものであります。本殿は元禄の造営から三百年近くの歳月を経て傷みが激しいため、新に御造営されることとなり昭和三十二年に盛大なる遷宮式が行われました事は記憶に新しいところであります。

参考『全現代語訳日本書紀』、『平成祭礼データ』、『大甕倭文神社のしおり』

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神奈備にようこそ

2004.7.10
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