中氷川神社
埼玉県所沢市山口1850 its-mo

鳥居

二の鳥居

交通案内
西武狭山線 下山口駅西1。2km

祭神
素戔嗚尊、奇稻田姫、大己貴命、少彦名命 (平成祭データ)
素戔嗚尊、奇稻田姫、大己貴命、七社大神(山口貯水池の湖底に埋もれた旧勝楽寺村鎮座の七社神社を合祀)(神社HP)
『新編武蔵国風土記』蔵王権現・聖女権現・八王子権現・大行事権現・天御子権現・副行事権現の七座を祀る、其内蔵王権現は弘法大師の作な りと云う。

拝殿



由緒 

 延喜式の武蔵国入間郡の小社の論社である。三ヶ島の同名社も論社。
 中氷川神社の中は大宮氷川神社と奥氷川神社(東京都西多摩郡奥多摩町)の中間に位置しているとの説がある。この場合は山口の当社の方がちょうど両社と等距離となる。
 崇神天皇の朝に創始と伝わる。

本殿


お姿
 本殿は出雲大社造であり、現在の社殿は昭和2年に造営された。 。


お祭り


春の大祭  4月 1日  秋祭り 10月 1日

『埼玉の神社』から

 <由緒/FONT

  当地は狭山丘陵の谷あいを流れる柳瀬川流域にある。ここは、河川沿いに集落が開けているため、その地形は東西に 長く南北に短い。山口という地名は、この水の出る山の口を指して名付けられたものと思われる。当社は、このほぼ中央 に当たる柳瀬川左岸の氷川耕地にあり、丘陵の中腹から集落を見下ろすように鎮座している。また、鎮座地西側は、湧水 地にで、ふんだんに清水が流れ出している。
 社名については、『特選神明牒』に、足立郡大宮の氷川神社と西多摩郡氷川村の上氷川神社との中間に鎮座するため 、中氷川神社と呼ばれるようになったとある。『風土記稿』では当社と三ヶ島に鎮座する中氷川神社のいずれが『延喜式 』に記載されている中氷川神社かを比較しているが、確たる言及は避け、次のように記している。
 土人の伝へにこれ神明帳にのせし中氷川の神社なりと云、今社地のさまを見るにいかにも年ふり且村名も古くより氷 川と唱ふるときは、古社なることは疑ふべくもあらざれば式内の社なるもしるべからず、されど今三ヶ島村長宮明神も中 氷川の神社なるよし社伝にいひ、現に彼社に正長、天文等の棟札ありて其文に中氷川神社と記したれば当社を中氷川と云 はいかがあらん
 社記によると中古に至り領主の崇敬厚く、当時、山口領入間・多摩二郡にまたがる九二ヵ村の総鎮守であった。後鳥 羽上皇の御宇、領主山口家継社殿造営、次いで吉野朝のころ、山口城主高治が社殿大営繕を行ったが、正平年中兵火にか かり、古器物、古文書など灰燼に帰したと伝える。
 下って、天正一九年、徳川家康関東移封の後、当社は社領四石三斗余を安堵され、以来、幕末までこれが続いた。
 明治九年、熊谷県庁に提出した「中氷川神社諸物写」には、元禄二年の本殿棟札と天保一○年の本殿上屋棟札が記録 されている。現在の本殿は大社造りで、昭和七年に竣工したものである。旧本殿は現本殿造営後移転され、今は末社琴平 社の本殿になっている。
 別当は、字打越にあった真言宗天竜山普源院で、長く当社を管理していた。しかし、嘉永六年、安政五年と続けて火 災に遭い、当社関する資料をすべて失った。
 祀職については、明治二年品川県御役所に提出した復飾願いによると、神仏分離後、普源院は無住のため兼勤の多摩 郡中藤村真福寺住職恵俊弟子禅範を復飾させ、山口源之進と名乗り、神職として当社に奉仕することとなった。その後、 茂夫、文治、義胤、篤信と奉仕を続けている。
 明治四〇年には、大字上山口字谷戸の氷川社、大字山口字新田の氷川社、字荒久の氷川社、字弁天前の市杵島社、字 椿峯の八坂社、字山王峯の日枝社、字大塚の浅間社が合祀された。また、昭和四年には、山口貯水池建設のため大字勝楽 寺字大坊の七社神社(七社権現)が合祀された。
 また、これらの合祀と相まって盛んに社格昇格運動が行われ、氏子は、社殿・境内の整備を始め、基本財産及び崇敬 者数の拡大に努めた。これは、明治五年、社格制定の際、同郡北野に鎮守する北野天神社が既に郷社に列せられたのに対 し、式内社といわれる当社が村社となったためである。その結果、明治二七年、式内社確認につき願書を提出、大正九年 に郷社へ昇格、昭和一二年には県社に列せられた。
 以上

参考 『平成祭礼データ』、『式内社調査報告』

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2014.5.17
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