常陸國二八座 大七小二一



鹿嶋郡[カシマ]:二座並大

鹿嶋神宮[カシマノ](名神大。月次新甞。)鹿島神宮公式
鹿島神宮「武甕槌神」茨城県鹿嶋市宮中2403
鹿島神宮 由緒書
御祭神 武甕槌大神
創祀 神武天皇御即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が使を遣わして勅祭されたと伝えられる。
御神徳  神代の昔天照大御神の命により国家統一の大業を果たされ建国功労の神と称え奉る。
またNE霊剣の偉徳により武道の祖神決断力の神と仰がれ関東開拓により濃漁業商工殖産の守護神として仰がれる外常陸帯の古例により縁結び安産の 神様として著名である。更に鹿島立ちの言葉が示すように交通安全旅行安 泰の御神徳が古代から受け継がれている。              以 上(注)文中の
NEは、「音」偏に「師の右側」である。


大洗礒前薬師菩薩(明)神社[オホアライソザキノヤクシホサツノ](名神大)
大洗磯前神社[おおあらいいそざき]「大己貴命、少彦名命」創建は由緒書きよりもっと古く、荒吐神の姿が見える神社である。茨城県東茨城郡大洗町磯浜町字大洗下6890 玄松子の記憶
大洗磯前神社案内記
御由緒
文徳実録の記録によれば齊衡三年(856)常陸國鹿島郡大洗の里に御出現になり給いし時、里 人の一人に神がかりして人々に教えられました。「我はこれ大己貴、少彦名神也。昔 この國を造り常世の國に去ったが、東國の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰って きた」と仰せられました。当時の記録によると度々地震が発生し人心動揺し、國内が 乱れて居りました大國主神はこうした混乱を鎮め平和な國土を築く為に後臨されたの です。
即ち大洗磯前神社は御創立の当初から関東一円の総守護神として、大國主神御自ら此 の大洗の地を選び御鎮座になったのであります。朝廷は國司の上奏に基づき翌天安元 年八月七日官社に列せられ、次いで十月十五日には「大洗磯前薬師菩薩名神」の称号 を賜りました当時國司の上奏から八か月で此の待遇に預ると云う事は破格の事であり まして、如何に御神徳が顕著であったかを知る事とが出来ます。
延喜の制当社を名神大社に列せられ東國の大社として祀田千石を領し祠宇宏壮にして 、遠近の信仰を集めて栄えた事は現存する元禄御造営以前の御本殿格子等からも察せ られます残念な事に永禄中、小田氏治の兵乱に際しその難を蒙り、御社殿以下の諸建 造物は悉く焼失し爾来一小社に辛うじて祭祀を続けて来ました。
水戸藩主徳川光圀公は由緒深き名社の荒廢を見るに忍びず、元禄三年御造営の工を起 し、次いで綱條公に至り本殿、拝殿、神門に至るまで建造の工を竣え、名大社にふさ わしき輪奐の美を整えました。
爾来歴代の水戸藩主は厚く当社を尊崇し幕末に至りました。 現存する社殿、神門等は当時の建造物で社殿の彫刻と共に徳川初期を偲ぶに足る文化 財として貴重なものです。
明治新政府が、神社制度を定めらるるや、明治七年九月県社に指定せられ、明治十八 年四月國幣中社に列せられましたが大東亜戦争終熄を機に、神社は未曾有の変革を余 儀なくせられ、政教分離の名の下に宗教法人としてのみその存続を容認せられました 。
神社が國家の宗祀たりし時代より激動の時代を経て現代に至るまで、当社は人々の厚 き信仰に支えられて発展して参りました。そして悠久の昔より永遠の未来にわたり國 家と共に栄えて行く事でしょう。



眞壁郡[マカベ]:1座小

大國玉神社[オホクニタマ]
大國玉神社「大國主命 配 武甕槌命、別雷命」江戸時代には東の宮の男体宮「大国主命」と西の宮の女体宮「活玉依媛命」の二つの本殿があった。茨城県真壁郡大和村大字大国玉1 玄松子の記憶 
由緒書
当神社の創建は詳らかでないが、仁明帝承和4年3月(西暦837年)には、霊験甚 だ大であったために官社に預り、同12年には従五位下を授けられたことが続日本後 記に記されている。更に清和帝貞観3年9月(西暦861年)には従五位上に昇叙さ れたことが三代実録に記されている。また、延喜式神名帳(西暦927年)に当社の 名が記されている。
慶長年間に徳川幕府から御朱印地二十石を賜る。更に元禄12年には水戸光圀公より 、四神乃旗、日月乃幢が奉納された。
明治6年4月郷社に列格された。



信太郡[シダ]:2座並小

楯縫神社[タテヌヒ]
楯縫神社[たてぬい]「經津主命」茨城県稲敷郡美浦村大字木原2988 玄松子の記憶

阿弥神社[アミ]
阿弥神社[あみ]「健御雷之男命 配 經津主命、天兒屋根命」和銅元年。茨城県稲敷郡阿見町竹来1366 玄松子の記憶
阿彌神社[あみ]「豐城入彦命」茨城県稲敷郡阿見町阿見2353 玄松子の記憶


久慈郡[クシ]:7座大1小6

長幡部神社[ナカハタ]
長幡部神社[ながはたべ]「多弖命、綺日女命」幡山古墳群の中に鎮座、古墳壁画の線刻画で巨大な鳥と帆船の取り合わせが有名である。茨城県常陸太田市幡町字明神森539 玄松子の記憶
長幡部神社由緒
御祭神 綺日女命。多弖命
新編常陸国誌に「久慈郡太田郷幡村ニアリ二十八社考・郡郷考・蓋長幡部遠祖綺日女 命・多弖命ヲ祭ル」とあり、皇孫瓊瓊杵尊天降りの時、御服を織られるため、機具を 携えて御供した神に綺日女命あり、本は筑紫の日向の二神の峰より、三野国の引津根 の丘に至られた。後、崇神朝に及び其の子孫多弖命、三野より常陸に移り、此地に機殿を建て長幡を織られた。長幡とはEの名にて之れを織作るものを長幡部と云い、以 前の倭文織よりも美しく丈夫であったので、後に及ぶまで神調として奉った。即ち御 祭神の子孫がその遠祖を祭ったのが当社である。今関東一円に広がる名声高き機業は 実にわが御祭神の流れを伝えるものと云えます。
神階は仁寿元年正六位上、明応十年正三位を進めらる。延喜式内久慈郡七座の一。常 陸二十八社の一で、式内小社である。神社の北五町ばかりの処に旧宮跡ありて、神輿 出社の際は必ず安置す。
中世以降小幡足明神と云い、後駒形明神と尊称、康平年間、源頼義奥州征討の際、当 社に戎旗一旗を奉献して戦勝を祈念し、凱旋に及び、社地に鹿島、三島、明神、若宮 八幡の四所を祭り、四所明神とした。後四所明神盛大となり、遂に社号を失い鹿島明 神とのみ称えて居ったが、延享年間に至り故老の口碑に依って旧社号に復活したと云 う。正月七日間の祭礼、四月九日水木浜へ神幸あり、水戸藩代々の崇敬厚く、その祠 宇の造営には常にその材を進め、殊に斎昭公深く敬し、弓矢刀剣の奉納あり、除税地 四石八斗八合、明治六年郷社に列格、同四十年四月十日(第百七八号)供進指定。昭 和二十七年六月十四日宗教法人設立(常陸風土記、延喜式、常陸二十八社考、新編常 陸国誌略録誌)
(注)文中のEは、「糸」偏に「施」の字の左偏「方」を除いて合わせる。


薩都神社[サツキ]
薩都神社[さと]「立速男命」速経和気命と言う。御岩山頂上は巨岩林立し、土器などの祭祀遺跡が確認されている。茨城県常陸太田市里野家町字宮ノ脇1052 玄松子の記憶
延喜式内久慈郡二ノ宮薩都神社
茨城県常陸太田市里野宮町鎮座
所在神地常陸太田市街より東北四粁の地、里美村小里を経て福島県東館、棚倉町に通 ずる所詮里川沿岸佐都郷の地の総鎮守として鎮座して居る。
御祭神・立速日男命(速経和気命)
由緒沿革・上古立速日男命松樹に降臨し給ふ。当地里家に近くして不浄多く、祟り甚 だ厳格なり。里人畏敬して、延暦七年(七八八年)社を建てて祀る。邑人朝廷に奏請 せしところ、片岡の大連を派遣、祭事を厳修「穢の多い里よりも高山の浄境に鎮り給 へ」と告せられ、神聴き給ひて延暦十九年(八〇〇年)賀毘礼の峰に上り給ふ。
而して賀毘礼峯けはしく人々参拝に苦しむ、よって大同元年(八〇六年)平良将仕へ 祠を小中島に奉遷す。承和十三年(八四六年)九月勲十等薩都神に従五位下を授く。
貞観八年(八六六年)五月正五位下を授く、同十六年拾二月従四位下を授く。 常陸太田城主藤原通延の子通成佐都宮に住し、その子通盛小野崎の地に居城、佐都荘 を治め、代々祈願所と定め、一族又氏神と仰ぐ。
正平年中佐竹左近将監義信本社を修造。永正以降佐都郷三十三ケ村の総鎮守なり、大 永二年(一五二二年)佐竹右京大夫義舜更に今の地に遷す。
毎年九月神入四間御岩の山に入る。即ち賀毘礼の峯なり。明年四月出て本宮に還る。 因て時に随って例祭を修む。慶安元年将軍徳川家光圭田五十石を供す。除地十三石九 斗四升三合を享く。延喜式内常陸二十八社の一、久慈郡七座の内二の宮と称え奉り官 社に預る。
明治六年六月郷社に列格、同四十年四月十日供進指定、昭和二十七年六月十四日宗教 法人設立。


天之志良波神社[アマノシラハ]
天之志良波神社[あめのしらは]「天白羽命 合 天之志良波神、長白羽神」茨城県常陸太田市白羽町字管田1760 玄松子の記憶
天志良波神社由緒
御祭神は天照大神天岩戸にかくれましゝ時、天太玉命に属し、麻で青和幣を作り、父 神天日鷲命は白和幣を作られた。弟神健葉槌命と共に麻を植え織物をされた。白羽は 衣服のことである。一説に延暦14年坂上田村麿将軍東征の時、創建すと云ふも詳か でない。天志良波神、又長白羽神(古語拾遺)貞観8年5月27日正六位上天志良波 神従五位下、同16年12月29日従五位上の神階(三代実録)式内小社久慈郡七座 の一、天文13年12月11日佐竹義篤社殿修営遷宮式あり。(棟札)元禄中水戸藩 徳川光圀公の命で大聖院の社務をやめ神職の奉仕とす。享保12年9月徳川実 公社 殿の営修あり、神宝を献じ圭田2石6斗3升7合を納る。天保15年斎昭の命により 白羽、田渡、西宮、三才、小沢五ヶ村の鎮守となる。
明治4年4月1日郷社に列格、同6年4月村社となる。同44年6月12日(第30 0号)供進指定。昭和27年6月16日宗教法人設立。


天速玉姫命神社[アメノハヤタマヒメノ・]
泉神社「天速玉姫命」祭神は天棚機姫命の女で、天太玉命の后神、天比理刀命とも云う。茨城県日立市水本町2-22-1 玄松子の記憶
泉神社由来
崇神天皇の御字四十九年、久自国造、船瀬宿禰の奉請で、大臣伊香色雄命勅命を奉じ て此に鎮祭りしたと伝ふ。古くは天速玉姫命神社と云ふ。祭神天速玉姫命は天棚機姫 命の女で、天太玉命の后神、天比理刀・命とも云ふ。常陸風土記に蜜筑里の大井の、 又常陸二十八社号に泉川、霊玉を以て神体とすとあり。霊妙なる浄泉が湧き神域を泉 ケ森、泉山流れを泉川と呼ぶ。三代実録「貞観八年五月二十七日庚午常陸国正六位上 天之速玉神に従五位下を授く、十六年十二月二十九日癸未従五位下天之速玉神に従五 位上を授く」延喜式内小社、久慈郡七座の一、享禄三年九月佐竹義篤社殿造営、社号 を泉大明神と云ふ。この時青山次郎延久神馬を奉ぐ。(棟札)

鹿島神社「武甕槌命、天速玉姫命」茨城県常陸太田市春友町字箭之根山406 玄松子の記憶

靜神社[シツ](名神大)
静神社[しず]「建葉槌命 配 手力雄命、高皇産靈命、思兼命」二ノ宮。倭文[しどり]の縮まった名、麻布生産にかかわる。この地は水戸から奥州に通ずる棚倉街道に面し、交通の要地である。茨城県那珂郡瓜連町大字静字帝青山2 玄松子の記憶
静神社
延喜式の名神大社
創建の時期は不明であるが、六国史の一である「文徳実録」に「文徳帝嘉祥三年(8 50)九月、使を遣して静神社に奉幣せしむ」とあるのが、国史上における初見であ る。同じく「三代実録」には「光孝天皇仁和元年(885)五月」神階が従五位上に 進められたことが書かれてある。日本書紀(720)古語拾遺(807)にも建葉槌 命についの記事が出ている。特に「延喜式神名帳」(927)には、鹿島神宮などと ともに「名神大」としるされている。豊臣家からは社領150石が寄進され、徳川家 からも同額の朱印が付されている。
かつて、この付近は、現在の静神社を中心として、三つの神社が鎮座し、更に七つの 寺院がこれを囲んで、大きな霊地を形成していた。また、この地は水戸から奥州に通 ずる棚倉街道に面し、交通の要地でもあり門前町、宿場町として、いんしんをきわめ ていた。いまなお残っている下宿・中宿・門前などの地名や、藤屋、伊勢屋、池下屋 などの屋号が、これを物語っている。静を中心にした郷名を、倭文郷と称したが、こ の名の起こりは倭文神の神名によるもので、倭文を「シドリ」と読むのは「常陸風土 記」(713)にある「静織ノ里」の「シツオリ」の約言うである。
静神社は水戸藩の祈願所と定められ、藩主は代々参拝するのを常例とされた。また社 殿の維持管理は、神殿修葺の法を定めて、藩費によって行なわれた。二代藩主徳川光 圀(義公)は、寛文七年(1667年)十月仏寺を分離し、唯一崇源の神道に改め、 本殿・拝殿・神門・玉垣・神楽殿等を新に造営するとともに、神楽乙女八人、神楽男 五人をおいて大大神楽を奏することとした。然しこれらの社殿は、天保十二年(18 41年)火によって惜しくも焼失し、同時に多くの神宝、古文書等も失った。現在の 社殿は、その焼失後、九代藩主徳川齊昭(烈公)によって再建されたものである。


稻村神社[イナムラ]
稲村神社「饒速日尊」茨城県常陸太田市天神林町3228 玄松子の記憶
稲村神社由緒
久自国造に物部連の祖伊香色雄命三世、孫船瀬足尼が任命されたとき大祖饒速日命を 祀つたといふ。物部氏族二十五部の中に狭竹物部あり。居住によつて佐竹郷の起因と なる。もと祖神を祭るのに天神に出し故に天神と呼称、又神鏡七面があつたので、七 代天神とも云つた。嘉祥2年4月庚寅官社、水旱に霊験著大(続日本後紀)元慶2年 8月23日丙戍正六位上から従五位下、仁和元年5月22日丙午従五位上、位田十二 町(三代実録)延喜の制小社(延喜式)久慈郡七座の一、常陸二十八社の一。
一説に景行天皇四十年日本武尊東征の際この地に天神七代の霊を祭ると。元禄4年4 月水戸光圀公石塚へ赴く途次、佐竹村に立ち寄り里正、神主に案内させて天神と称す る七社を巡見し(天神山間坂、小芝原、権現山、井之手、富士山、厳戸山)宜しく一 社となすべしと諭し、現在地に合祀させた。同6年社殿竣功、公親扁額に七代天神宮 と書し鳥居にかけさせ、又理神鏡七面四神旗、矛、諸神宝を献じ9月5日遷宮式、1 1月26日公自ら本社に詣り祭器を点検し、27日より斎戒3日、29日公衣冠をつ け、日蔭心葉をかけ太刀を帯し、親臨して祭事を厳修した。神主信秀奉仕、この時用 ひし竹架長さ七尺、高さ五尺、藤蔓を以て縛す。兎鯉各七、狸七、雉雌雄各七を供ふ 。祭礼は4月8日(磯浜神幸)11月17日に斎行。(新編常陸国誌)除地9石9斗 3升。
明治3年1月4日郷社列格、同40年4月10日(第78号)供進指定。同27年6 月16日宗教法人設立。昭和2年5月、同14年12月、同29年1月、同42年11月、本殿・拝殿屋根替。

近津神社「面足尊、惶根尊、級長津彦命」茨城県久慈郡大子町大字下野宮1626 玄松子の記憶
礒部稲村神社「天照皇大神、木華咲耶姫命、天手力雄命、栲幡千千姫命、瀬織津姫命、日本武尊、天太玉命、玉依姫命、玉柱屋姫命、天鈿女命、倭姫命、天兒屋根命」国指定史跡名勝天然記念物『桜川の桜』。景行天皇四十年創建。茨城県西茨城郡岩瀬町大字磯部字稲置779 玄松子の記憶
参拝のしおり
桜川磯部稲村神社と国指定史跡名勝天然記念物『桜川の桜』
磯部稲村神社は、古来より磯部宮・磯部稲村宮・桜川明神・磯部大明神・稲村神社・ 桜川磯部稲村神社の称号あり。創建は人皇第十二代景行天皇四十年十月、日本武尊伊 勢神宮荒祭宮礒宮を移祀す、さきに大山祇命御子木花咲耶姫命御鎮座。御祭神は天照 皇太神外十一神を祀る。
沿革、天慶二年(939)平貞盛、将門追討祈願、常陸西大社稲田姫神社関係文書に新治 郡磯部郷磯部稲村宮として常陸二十八社(延喜式内社)の一に載せられ、仁明天皇嘉 祥二年(849)水早の折鏡ケ池(桜川の源)に於て祈雨祭執行のことが伝えられている 。更に人皇百八代後水尾天皇礒辺大明神の勅額を賜る(現存)、特に古来より安産守 護神として崇敬され神札を授与す。
神領・神域、大中臣氏の預かるところ鎌倉時代寛元三年(1245)の古文書(鹿島神宮所 蔵)に詳らかなり。室町時代永享元年(1429)関東管領足利持氏神領として二十五貫文 (二三O石相当)寄進、関東兵乱のみぎり天正十三年(1585)結城氏に没収さる。元禄 九年(1696)地頭内藤式部少輔正友氏十五石弐斗五升弐合寄進(証文今に存す)。
桜川歌集、つねよりも春へになれは桜川波の花こそまなくよすらめ 紀貫之。謡曲桜 川、永享十年(1438)神主祐行関東菅領足利持氏に花見噺「桜児物語」一巻を献じ時 の将軍義教世阿弥元清に謡曲を作らしむ。
要石此地元鹿島と云う、鹿島神宮の要石は凹形なり。磯部の要石は凸形なり。陰、陽 にして互に古来より連り鹿島は鯰の頭押えると伝えらる。
国指定。名勝「桜川」、大正13年12月 9日、内務大臣。地域、磯部稲村神社の参道両 側約1キロメートル。天然記念物「桜川の桜」、昭和19年 7月16日、文部大臣。桜の 種類。桜川匂・樺匂・初重桜・初見桜・大和桜・源氏桜・白雲桜・薄毛桜・青桜・青 毛桜・梅鉢桜。
指定理由。古来桜花の名勝として謡曲に見えたるを以て其の名夙に著る、桜樹は東北 産の品種に属する白山桜にて数百年を経たる巨大なるものあり。花色に淡紅を帯ぶる もの、花梗に毛のあるもの、花に芳香あるもの多くは其の特徴とするところにして他 に多く類例を見ず、樹数は多からざれども、特徴のある品種の一箇所に集まるのみな らず、関東に於て、いわゆる関東桜の中に東北種の斯く美観を呈するは、常に桜花の 名称としてのみならず、学術上に於ても貴重なりとす。


立野神社[タチノ]
立野神社[たての]「級長津彦神、級長津姫神」茨城県水戸市谷津町899 玄松子の記憶
立野神社「級長津彦命、級長戸邊命、素盞嗚命」茨城県那珂郡緒川村大字上小瀬字白幡351 玄松子の記憶 佐竹七福神


筑波郡[ツクハ]:2座大1小1

筑波山神社2座[ツクバヤマ](名神大1。小1。)
筑波山神社[つくばさん]「伊弉諾尊、伊弉册尊、加具土命」筑波山頂上の東西二峯に筑波男神、筑波女神二座を拝し、御神体山と仰いだ。茨城県つくば市大字筑波1 玄松子の記憶


那賀郡[ナカ]:7座大2小5

大井神社[オホヰ]
大井神社「建借馬命、木花開耶姫命」大和の意富と三輪山に対せられる常陸の意富と朝房山の真西に鎮座。茨城県水戸市飯富町3475 玄松子の記憶

青山神社[アヲヤマ]
青山神社「五十猛命」筑波も木の国と言われていた。茨城県東茨城郡常北町上青山字若宮229  玄松子
由緒沿革
宝亀三(772)年九月二十九日創建。貞観二年二月従五位下、仁和二年十二月二十九日従五位 上(位田十二町)延喜式内、小社に列し常陸二十八社の一座となった。延宝四年十月 社殿神庫炎上し重宝古記一切を焼失。故に由緒不明となって社号も八幡宮とか、鹿島 明神と誤られてをつたのを元禄九年十一月二日水戸藩主光圀公命によって、往古の青 山神社に復した。圭田一石八斗三合。斉昭公更に五石七斗四升五合を加増。明治四十 五年三月二十八日村社に列格。大正元年十一月二十八日(第一九四号)供進指定。昭 和五年拝殿屋根トタン葺替。同二十七年九月三日宗教法人設立。
植林の神として崇敬され、木国の大神又有功神(いさをしのかみ)と称へられ、神威 赫灼神域参道老杉うつ蒼とふさはしく周辺に古墳が多い。


吉田神社[ヨシタ](名神大)
吉田神社「日本武尊」茨城県水戸市宮内町3193-2 玄松子の記憶 吉田神社

阿波山上神社[アハヤマノウヘ]
阿波山上神社[あわさんじょう]「少彦名命」大宝元年。茨城県東茨城郡桂村阿波山664 玄松子の記憶

酒烈礒前薬師菩薩神社[サカツライソザキノ・・](名神大。) リンク 酒列磯前神社
酒列磯前神社[さかつらいそさき]「少彦名命、大己貴命」斉衡三年。『宗教民俗講義』五来重著 社名は竜宮の娑竭羅竜王から。茨城県那珂湊市磯崎町4607 玄松子の記憶

藤内神社[フチウチ]
藤内神社「經津主命」茨城県水戸市藤井町874  玄松子の記憶

石船神社[イハフネ]
石船神社[いしふね]「天鳥船命」茨城県東茨城郡桂村大字岩船字宮山606 玄松子の記憶


新治郡[ニイハリ]:3座大1小2

稻田神社[イナタ](名神大)
稻田神社「奇稻田姫之命」御鎮座は今を去る壱千弐百有余年の昔。歴史豊かな吾国・加波・難台の三山を正面に見はるかす景勝の霊地に鎮座。茨城県笠間市稲田字宮山763 玄松子の記憶
延喜式内名神大社稲田神社
御由緒、御鎮座は今を去る壱千弐百有余年の昔新治国造が此の地方を治めた頃、創建 されたものであります。御祭神奇稲田姫命は古事記にいう八岐の大蛇退治の御縁で、 須盞鳴之尊と結ばれ御夫婦になられた、女の神様であります。なお神社には元禄八年 (1695)水戸藩主徳川光圀公が奉納した四神旗が社宝としてのこされています。県指定 文化財(昭和六十三年一月二十五日)。
御神徳、歴史豊かな吾国・加波・難台の三山を正面に見はるかす景勝の霊地に鎮座す る稲田神社の御祭神は女神であらせられますので、母の大愛を備えられ、慈悲仁愛の 徳高く願事は必ず聞き届けられるといわれます。特に縁結び、安産、身体健全、学業 成就、眼病治癒、交通安全、商売繁昌、家内安全の祈願者が絶えません。


佐志能神社[サシノ]
佐志能神社[さしのう]「豐城入彦命、建御雷之神、大國主神」茨城県笠間市笠間字城山3613 玄松子の記憶
佐志能神社[さしの]「豐城入彦命」茨城県新治郡八郷町柿岡字高友北山4120 玄松子の記憶
佐志能神社[さしの]「豐城入彦命、高神」茨城県石岡市染谷字峠1856 玄松子の記憶  染谷佐志能神社
佐志能神社
神体、幣。竜神山に鎮座。仁明帝承和四年三月戌子常陸国新治郡佐志能神宮社に預る 。光孝帝仁和元年九月七日従五位下村上神社従五位上(位田十二町)延喜式内小社。 祭神豊城入彦命は崇神帝の皇子、御母は紀国造荒河戸部の女、遠津年魚眼妙媛命。勅 名を奉じ、大功をたてたことにより、子孫に東国の国造に任じられるものが多かった 。玄孫荒田別命の子孫佐白公が新治国造に任ぜられたとき、祖神を鎮斎した。(佐志 能は佐白の転訛)高オカミ神は軻遇突智神の御子で、暗オカミ神と同胞、両部で竜神 と称し雨の神。昔村上村であったので叙位の策命に村上神社としてある。その後分村 して染谷村が出来た。村上神社が染谷村の地域に入ったので、村上村では別に一社を 創立し、日本武尊と暗オカミ神を鎮斎した。文久二年社殿炎上、その後再建。明治二 十九年四月一日郷社に別格。同四十三年十月町内無格社御嶽、同境内社八海山、三笠 山、道祖、金刀比羅各神社を合併。大正元年十二月町内無格社鷲宮、同三年十二月志 筑村高倉村社鹿島神社を合併。


鴨大神御子神主神社[カモオホムワノ・・・]
鴨大神御子神主玉神社[かもおおかみみこかみぬしたま]「主玉神、大田田根子命、別雷神」茨城県西茨城郡岩瀬町大字加茂部字明神山694 玄松子の記憶


茨城郡[ムハラキ]:3座並小

夷針神社[イハリ]
夷針神社[いはり]「澳津彦命、奧津姫命 配 武三熊大人、興玉命」茨城県東茨城郡茨城町大字大戸字宮内1768 玄松子の記憶
愛宕神社「火之迦具土命 配 伊弉册大神、火結命、水波女命、埴山比賣命」大同元年。茨城県西茨城郡岩間町大字泉101 玄松子の記憶
愛宕神社由来記
愛宕神社は、日本火防三山の一たる、常陸国岩間町泉愛宕山頂に鎮座し、御祭神は伊 邪丹大神、火具土命、火結命、水波女命埴山比売命の五柱の大神を祀る。人皇五十一 代平城天皇大同元年八月二十三日の創建にして歴代皇室の尊崇殊の外厚く徳川幕府に 御朱印地三石を献せられ、宍戸四郎氏朝以来代々供田料を献納また土浦の藩主土屋但 馬守数直は本社を特に祈願所と定め毎年供進使を遣わして幣帛料を献せらるる等、近 隣近国の藩主の崇敬厚く特に火防の主神として神威赫々霊驗顕著なるを以て県内は勿 論近県よりの、参詣する崇敬者夥しく四季絶える事がありません。
愛宕神社は、桜で有名な愛宕山(標高305m)山頂にあり、日本三大火防神社の一つと して知られています。又、裏手にも多くの神社があり、特に飯綱神社の奇祭「悪態祭 」が有名です。

足尾神社「國常立命、面足命、惶根命」常陸山三山(足尾、加波山、筑波山)の一、足尾山に鎮座。茨城県新治郡八郷町大字小屋字足尾山1 玄松子の記憶
胎安神社[たやす]「木花開耶姫命、經津主命、彦火瓊瓊杵命、彦火火出見命 配 大山祇命」茨城県かすみがうら市野寺字明神山433 玄松子の記憶
胎安神社
胎安神社は木花咲耶姫を祭神とする山城国梅宮神宮の御分霊を奉遷した国内唯一の霊 験あらたかな神社で、胎内安全の神、安産子育の神、美を招く神、子に恵まれる神、 良縁を得る神、子孫長久繁栄の神、御婦人一生の運命を定める神として尊祟されて居 ります。彼の八幡太郎義家が奥州征伐の途上、御内室の為に胎内安全安産を祈願され 、御嫡男出産の日を祭日と定められて、御参拝されました外、笹林棠の紋章を用ふる 事を許されました。又、旧領主本堂公は祖先以来御内室御妊娠の時は代参を立てるの 外、年々例祭日には必ず参拝され、その子女の麗はしい成長を祈念されました。
今なほ「胎安講」「児安講」として各地で婦人集会が盛に行はれ、その信仰の根元と なつて居る事もうなづける事と信じます。

子安神社「木花開耶姫命、武甕槌命」茨城県かすみがうら市東野寺字宮久保252 玄松子の記憶

羽梨山神社[ハナシヤマ]
羽梨山神社[はなしやま]「木花咲耶姫命」茨城県西茨城郡岩間町大字岩間上御字宮3161 玄松子の記憶 羽梨山神社
由緒
西茨城郡岩間町上郷に鎮座し、旧郷社、祭神は木花咲耶姫命を祀る。創立年代は不詳 であるが、社伝に、「上世磐筒男、磐筒女の勲績を称えて、磐麻国朝日丘に此神を鎮 め奉るという。昔日本武尊東征途に磐麻に到りて陣を布く。適々兵卒渇し且つ飢ゆ、 時に一片の山果を持てる老翁及び老媼あらわれ、その山果によってこの難を救はる。 尊は何人なるやを尋ねしに「磐筒男・磐筒女」なりと、尊凱旋の後この地に到り朝日 丘にこの神を祀り、羽々矢二筋及び果実を供し、前年の恩に報賽す」という。是より 羽梨山の称あり。
その後坂上田村麿を始め幾多の武将祈願を篭め報賽の物品を神納する。天文年間兵災 に罹り、神殿悉く焼失為に旧籍を失う。かの源頼義、義家も矛・太刀・鎧及び神馬を 奉納されたというが、現在神馬の鐙のみが宝物として現存している。後朝日丘より、 現在地に遷祀する。徳川幕府祀田五石の章書を供す。延喜式内小社に列し、明治六年 四月一日郷社に定められた。


主石神社[ヌシイシ]
主石神社[ぬしいし]「大山祇命」茨城県鹿島郡鉾田町大字大和田字明神山1028-1 玄松子の記憶


多珂郡[タカ]:1座小

佐波波地祇(神)社[サハハチノ]
佐波波地祇神社[さわわちぎ]「天日方奇日方命」茨城県北茨城市上小津田字塩原1233 玄松子の記憶
佐波波地祇神社「天日方奇日方命 ほか」茨城県北茨城市大津町宮西宮平1532 佐波波地祇神社 玄松子の記憶
佐波波地祗神社(唐帰山、六所明神、大宮明神)
佐波波地祗神社由来
当社の創立は、斎衡天安の間と伝ふ。三代実録には、清和帝貞観元年4月26日辛亥 常陸多珂郡正六位上佐波波神進従五位下云々とあり、又神道集成式内神社編に、延喜 式常陸二十八社多珂郡一座小佐波波地祗神社「三代実録佐波波神按今在大津邑天日方 奇日方命面号大宮大明神云々」とある。鎮座地を唐帰山と云ひ、古来武将の崇敬が厚 く、特に海上守護の御神徳顕著。伝説に日本武尊命御東征の砌、大津の沖皇浦に於て 逆浪に漂い給うこと数旬、一夜白衣の神人、雲龍に乗って枕頭に立ち給ひ「我佐波波 神なり、今皇子の御船を守護せんが為来れり、直に順風にさせん」と、夢さめれば果 たして其の言の如くなる。早速使を奉幣、報賽の誠をささげられたといふ。又水戸光 圀公船で、北陸探険の途中海上に漂い給ひし時、遥かに当山の松影を認め、進路旬日 にして接岸することができたといふ奇瑞があり、それらの故事と松影から、唐蓋山= 唐帰山と呼ばれてゐる。佐波波神佐波波地祗また六所明神と尊称されておったが、元 禄中に光圀公が神徳を景仰して、神鏡一面を奉納し、称号を改めて大宮大明神とした 。当社は古くは佐波山にあったものを、東堂平の地に移し、更に現神域を卜定して鎮 座したといふ。



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延喜式神名帳目次

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