伊賀國廿五座 大一座 小廿四座


阿拝郡[アヘ]:九座 大一座 小八座

陽夫多神社[ヤフタ]
陽夫多神社[やぶた]「高松神、須佐之男命」宣化天皇3年創立。本殿は巨岩の上の狭い平地に鎮座、鬱蒼たる杉の古木に覆われ、古社のたたずまいである。御旅所は古墳で[伊賀の石舞台]と言われる。
陽夫多神社御由緒
当社は延長風土記に「押盾天皇戌午国造多賀連祭之也」とあり、和名抄、伊賀風土記 によると伊賀河合郷の総社にして人皇第28代宣化天皇3年(西暦538年)に国中 に疫病が流行したので屏息祈願のため伊賀国造多賀連が同年創建したとある。以来病 気平癒の御霊験あらたかなるをもって藩主の崇敬厚く屡々寄進あり、又一般崇敬者の 参拝多しと、社記にあり。清和実録に高松神、延長風土記に薮田大明神の社号で記載 されている。又古くより「河合の天王さん」「河合の祇園さん」と呼ばれ、氏子崇敬 者から親しまれている。

三重県阿山郡阿山町大字馬場951 玄松子の記憶

宇都可神社[ウツカ]
波多岐神社摂社宇都可神社[はたき][うつか]「大物主命、大己貴命」三重県伊賀市土橋752
宇都可神社「?」 三重県阿山郡阿山谷内保 玄松子の記憶

波太伎神社[ハタキ]
波多岐神社[はたき]「大鷦鷯尊」伊賀国三の宮。三重県伊賀市土橋752 玄松子の記憶

須智荒木神社[スチアラキ]
須智荒木神社[すちあらき]「猿田彦命 配 武内宿禰命、葛城襲津彦命」白鬚大明神と呼ばれた。
由緒
 当社は創祀については、詳らかにはし難い。須智の稲置の一族が、この地を 開墾し、ここに奉祀したものと考えられる。平安時代には伊賀国阿拝郡の小社須智荒 木神社として、延喜式内社に列せられた。天正九年(一五八一)の天正伊賀の乱に際 して、伝世の古記録・古文書のことごとくを焼失した。只一つ伝承として鎌倉時代に 伊賀守仲教なる人物が、社殿を造替したと伝えられている。仲教は寿永二年(一一八 三)伊賀守に任じられており、あるいは鎌倉時代初期に社殿が修造されていたことに なろう。
 その後、慶長一七年(一六一二)にいたり、社殿は再建された。江戸時代にはあつく 崇敬され当社の他、敢国神社・菅原神社・愛宕神社・浅宇田神社をあわせて伊賀五大 社と称し、領主入国の折りに必ず参拝するのが例であった。明治四一年(一九〇八) 大字西明寺鎮座の八幡宮をはじめ二九社をそれぞれ合祀した。
昭和六年(一九三一)村社から郷社昇格。昭和二一年(一九四六)社格廃止。
宝物  石造灯篭(安政二年[一八五五]作の在銘を有す。)
交通  近鉄線「伊賀市」駅下車、駅前より三交バス阿波行きにて「寺田橋」下車、徒歩約一〇分。
三重県伊賀市荒木108 玄松子の記憶

敢國神社[アヘクニ](大)
敢國神社[あへくに]「大彦命、少彦名命、金山媛命」祭神は記紀にはない敢国津神であったが、中世以降諸説があり現在になった。伊賀国一の宮 神体山は南宮山、大岩明神の磐座が元の祭祀地であるが、採石により消滅している。
一宮敢国神社略記
御祭神
大彦命 少彦名命 金山比・命
御神徳
大彦命は第八代孝元天皇の第一皇子にましまして東北未開の地を教化の後、一族を率 ゐてこの地に永住し給ひ、伊賀の国の開発に尽し給うた。伊賀開拓教化の祖神と仰ぎ まつる所以である。
その後裔は阿部・阿閉・敢・名張・伊賀等を氏として諸国に繁栄し、世にアベ姓を称 するものの総祖神にまします。殊に交通安全、健康長寿、児童愛護等の御霊徳を有し 給ふ神にまします。
少彦名命は造化の三神である産霊神の御子神として神功の最も霊異なるによって普く 知られ、大国主命と力を協せて国土経営に当り給ひ人畜救護の為に医薬・温泉・禁厭 の法を創め酒造の道を開き給ふ等其の恩沢に浴するもの万世に尽くることがない。世 に『ゑびす様』と称し商売繁昌、大漁満足、五穀豊穣の守護神にまします。だいこく 様と共に福の神様として広く崇敬せられ神助を仰がるるも亦斯る霊験ましますが故で ある。
又、縁結び、安産の守護神として神社に縁結社、桃太郎岩の霊巌が祭祀されている。 金山比・命は御名の如く金の神にましまして金銀銅鉄の本質及び其の運用を主宰し給 ふ。即ち採鉱・冶金・機械工業其の他金属に関係ある一切の事柄に霊験を垂れ給ひ、 人類生活の幸福利益を守護し給ふ。伊邪那美命の神々を産み給ひし時火の神の次に成 りませる神にまします。
沿革
当社は古来伊賀の一宮として、朝野の崇敬頗る篤く、殊に当国の人々は総鎮守大氏神 と仰ぎまつって其の霊徳に浴して来た。創立年代は詳でないが貞観の頃既に神階五位 を授けられ、延喜の制には大社に列せられた。延長年間には朝廷から社殿が修造せし められ、南北朝時代には、後村上天皇行幸ましまして数日間御参篭あらせられ、社領 の御加増もあった。
天正年間兵燹に罹って一時荒廃したが徳川時代になって藩主藤堂家から社殿調度の修 営・神器社領の寄進・祭儀神事の復興等が行はれ尊崇極めて深かった。明治四年五月 国幣中社に列せられたが昭和二十一年二月官制廃止によって国家の管理を離れ現在は 宗教法人として神社本庁に所属し氏子崇敬者によって維持経営されることになってを る。
丹塗の御殿は朝日夕日に映じ御神光燦として輝き神域の尊重さと祭神の御加護にその 霊徳の尊さを伺はせしめられます。
御祭典
毎月一日 月次祭  四月十七日 春祭  十一月二十三日 秋祭 十二月四日 神幸祭  十二月五日 例大祭
古来例祭は 伊賀のおんまつり と称し遠近からの参拝者が多く大祭中最も盛な御祭で ある。
獅子神楽
一月三日 初舞祭  四月十七日 舞上祭
史蹟名勝
南宮山 当社の前方にある高峰で伊賀富士ともいひ、頂上に末社浅間社がある。金山 比・命の旧社地で四季共に眺望佳絶である。御墓山 当社の北方約壱粁佐那具町にあ って東西約四十五米南北約百米といふ広大な前方後円の古墳である。御祭神大彦命の 御陵墓と伝へられてをる。
参拝順路
関西線佐那具駅下車 約二粁 近鉄線伊賀市駅下車約四粁共にバスの便がある。
三重県伊賀市一之宮877 玄松子の記憶

佐々神社[サゝ]
佐々神社[ささ]「八重事代主命 合 須佐之男命、倉稻魂命、大己貴命、金山彦命、大山祇命」往古近江国界篠嶽に鎮座していたのを文録年中に現在の地に遷す。
佐々神社御由緒
佐々神社は延喜式内及び国史に記載されているので、他に類似社のない事が断定でき る。創立の年代は不祥である。伊山故事考及び伊賀古代氏族考によれば往古近江国界 篠嶽に鎮座していたのを文録年中に現在の地に遷すとある。
古代より祭祀であったことは疑う余地はない。総国風土記によれば持統天皇3年己己 8月封田29束を奉るとなっているのを見ても、朝野の崇敬が厚かったことを知るこ とができる。主神八重事代主命は、我国正史上著名の神で、如何にその御功績の偉大 かは記紀2典に明らかである。故に、本社は古来一般の尊敬高く特に授乳の霊験顕著 であり遠近より産婦で母乳少ない人の参拝者は伊賀、大和、山城、近江等より参拝さ れている。
松尾某は当字の住人で文緑年間佐々神社を今の地に遷し奉仕したと言う。その昔、篠 ケ嶽にあった頃より松尾某は信仰が厚かった。。松尾某の妻は分娩し男児を出産した が乳が出なく困ったので7日間篠ケ嶽へ籠もり一心不乱の祈願をし乳が出たと言う。
誠に神のお告げと崇め、敬いその御神徳を感じたとある。
三重県阿山郡阿山町大字音羽618 玄松子の記憶

穴石神社[アナイシ]
穴石神社[あないし]「出雲建子命 またの名を伊勢津彦、櫛玉命」国の北辺を鎮する天津社と称されていた。
穴石神社御由緒
本社は延喜式(西暦928年)内社にして神名帳に、穴石神社とある。その創立は不 祥であるが「清和実録」に「真観元年(西暦858年)巳卯正月27日庚申京畿七道 諸神進階及、新叙奉授伊賀無位穴石神従五位下」とあるので、それ以前であることは 明らかである。
又図書に「石川村天津社是か其社地甚旧く社頭の結構尤古稚にして、古来の式社と云 うべし、旦名張郡国津社を以って国(伊賀国)の南辺を鎮し、本郡天津社(本社)を 以って国の北辺を鎮し、国の中央敢国津社を以って中極を鎮し、一の宮と称す」とあ る。按ずるに、一名天津社とも称されていたと思われる。
古来本社の所在については古書に各説があるが、藤堂元甫「三国地誌著者」の石川村 天津社の説が正しいとして認められている。天正9年(西暦1581年)伊賀の乱に より、社殿、古書等は悉く焼失した。明治39年9月より大正2年4月の間において 、字内及境内に奉斎されていた各社を合祀して、穴石神社と単称することになった。
三重県阿山郡阿山町石川2291 玄松子の記憶

都美恵神社[つみえ]「栲幡千千比賣命 合 伊勢津彦命、倭姫命」杉本神社「伊勢津彦命」敢都美恵宮「倭姫命」を合祀。
都美恵神社御由緒
当神社の起源は古く、西紀2、3世紀以前と推定されるが、元は霊山中腹の穴師谷に 祀られ、「穴石大明神」として崇められていた。しかし、寛永21年(1644)の 大洪水によって社地社殿悉く欠潰し、正保3年(1646)現在の地に遷され今日に 至っている。明治42年には、合祀によって一村一社の実を挙げ柘植郷の総鎮守とな り、大正11年7月に「穴石神社」から伊勢神宮縁りの元社号「都美恵神社」に改め られた。
昭和63年は、合祀完了の年から数えて80周年にあたった為、これを記念して、諸 社殿の修復、境内の整備、社頭石玉垣の建設等の大事業を実施した。
三重県阿山郡伊賀町大字柘植町2280 玄松子の記憶


眞木山神社[マキヤマ]
真木山神社「真木山神、天兒屋根命、經津主命」往古は白石谷(根組原)に鎮座。白色の珪岩が屹立していたが製陶会社に買い取られてなくなった。
真木山神社御由緒
本社は古くは真木山大明神又は白石明神と称し延喜式内伊賀二十五座の一座にして往 古は白石山(根組原)に鎮座したが、天正の兵火に罹り焼失せり。創立は不祥なるも 惣国風土記に「和銅三年庚戌奉圭田三十二束加神礼」と在るにより、和銅三年以前な ること明瞭なり。其の後天正の末期現在の處に移遷創立された。
昭和五十四年十一月二十二日浩宮徳仁親王殿下御参拝。
三重県阿山郡阿山町大字槙山3237 玄松子の記憶

小宮神社[コミヤ]
小宮神社[おみや]「園韓神 もしくは 小宮大明神と狭伯大明神 または呉服比賣命」秦氏の統下の服部氏が祭祀。
服部小宮神社(おみやじんじゃ)
鎮座地  〒518 伊賀市服部町中之坊一一五八番 
電話  0595〓23〓4364(宮司宅)
交通  近鉄伊賀市駅から柘植行バス服部下車
【御祭神】  呉服比売命、健御名方命、大山祇命  境内社・狭伯社〓天児屋根命
【社殿】 本殿〓流造、南向/拝殿/中門/狭伯社〓流造、南向、覆屋あり
【旧社格】 村社
【由緒】 小宮神社は伊賀国阿山郡府中村大字服部字中之坊一一五八番(現、伊賀市 服部町)に鎮座する延喜式内社で、服部氏の祖、呉服比売命を主神とする。その境内 社の「狭伯社」に建速須佐男命、天児屋根命、少彦名命の三柱を祀る。 明治三十九年五月二十八日、同村大字服部字夏ハセ四九七番鎮座の「狭伯社」に、そ の境内社「粟島社」を合祀して、小宮神社境内に移転し、その狭伯社にさらに、以前 から小宮神社境内社であった「津島社」と、大字服部字中之房一〇九六番鎮座の無格 社「春日社」を合祀したものである。
今日、当社の拝殿正面に掛けられている三つの神額には、中央に「小宮神社」、向っ て右に「蛭子社」、左に「狭伯社、春日社、津島社」と見える。この狭伯社には明治 期に粟島社(少彦名命)を合祀しているし、一般に春日社は天児屋根命、津島社は建 速須佐男命を祭神とする。従って狭伯社の三柱の神はいつの世か不詳ながら、この地 に勧請されたこれらの神々が、明治三十九年に合祀され、狭伯社として小宮神社の境 内社となったのである。
【施設】社務所/参集殿/参篭所/神饌所/宝物殿/祭器庫/手水舎/ 瑞垣/遊園 地
【宝物】小供御輿二基
【摂・末社】狭伯社〓建速須佐男命、天児屋根命、少彦名命/蛭子社〓蛭子命
【社紋】丸に三ツ矢
【例祭日】秋祭〓十月九日
【祭祀】祈年祭〓三月一日/祇園祭〓八月一日 狭伯社〓三月十五日、十月十七日
【境内】八七〇坪
三重県伊賀市服部町1158 玄松子の記憶


山田郡[ヤマタ]:三座並小


鳥坂神社[トリサカ]
鳥坂神社[とりさか]「武内宿禰、大日貴命、愛鬘命、彌都波能賣命、彌五郎、大山祇神、木花咲耶姫命、速玉之男命、大山神、健速須佐之男命」三重県阿山郡大山田村甲野字石神1301 玄松子の記憶

阿波神社[アハ]
阿波神社「稚日女神、猿田毘古命、火産靈命」三重県阿山郡大山田村大字下阿波879 玄松子の記憶

葦神社[アシ]
葦神社[あし]「大國主神、事代主神、市杵嶋姫命、田心姫神、湍津姫命、天日方命、奇日方命、天手力男命、少名毘古那命、布都御魂神、神功皇后」三重県阿山郡大山田村上阿波2665 玄松子の記憶


伊賀郡[イガ]:十一座並小

木根神社[キネ]
射手神社[いで]「應神天皇 配 玉垂命、八神靈、伊邪那岐命、宇迦能御魂神、菅原道眞、大山祇神、彌都波能賣神、建比良鳥命、建速須佐之男命、五男三女神、仁徳天皇、八衢比古神、火産靈神」源義経、木曽義仲追討の際当射手神社に参詣戦勝を祈願。
由緒
一、御祭神  応神天皇、玉垂命他十三神を合祀。
一、例祭日  十月十二日宵宮祭、十月十三日例大祭。
当神社は第四十代天武天皇瑞夢に依り射手山(現地より西へ二キロ三軒家の地)に勧 請し給ひしものにして九百年後の天正九年伊賀乱の戦災により焼失せるも仏性寺跡( 現在の社地)に移し奉り奉斎せるものなり(慶長十年の棟札あり)。
源義経、木曽義仲追討の際当射手神社に参詣戦勝を祈願せし折感応あり奉謝の為、矢 を奉納せしことは源平盛衰記に左記の如く記せり。
「是より長田里花園と云う所を廻りて射手大明神の前を笠置に懸ても道能候と申・・ ・射手大明神とは何なる神にて御座ると問給へば其事までの事争知り候べきいとど・ ・・は射手と書て候なれども申易きに付いとどと申候とは承と云ければ九郎義経戦場 ・・・に向ふにあをた首落道禁忌也射手明神可然とて長田里花苑を廻り射手大明神の 前に下馬し給ひ所願成就と祈祷して云々」
又茅栗双子に、「寿永の比木曽義仲を討亡し洛陽の譟を鎮めよと頼朝の命により大将 にハ三河守範頼勢多に向ふ九郎義経は搦手となり山城国宇治より都に入らんとし当国 を押通るその道條なれば長田の荘花園の宮射手社へ詣でそれぞれ武器を奉納し‥‥‥ 」
とあり。以来当社を戦勝勝運の神として崇敬する者多く勝運の神としての信仰を深め たり。
更に西行法師伊勢に住せし頃当社に度々参り来て読める和歌に、
「あづさ弓 ひきし袂も ちからなく 射手の社に 墨の衣手」

一、文化財並宝物
◎ 石造十三塔(南方塔、鎌倉末期の作)重要文化財指定。
○ 銅製経筒一口、経巻八巻(永暦元年)平安後期、旧重要美術品(現県文化財) 経巻八巻は朱墨交書経であり第七巻には永暦元年九月云々の朱書の奥書あり、 朱墨交書は数行又は一枚づつの書記であるのが注目すべき点である。 
○ 宝物は源義経奉納の矢鏃。棟札(慶長十年、元禄十年、享保四年、その他) 

一、年間祭礼日                               
 元旦祭一月一日。厄除祭節分当日。春季大祭三月二八日。新嘗祭十一月二八日 春祭当日は戦死者の慰霊祭が斎行され合せて伊賀市内高等学校の奉納弓道大会が行は れる。
三重県伊賀市長田2691-1 玄松子の記憶

田守神社[タモリ]
田守神社「彦屋主田心命、別雷神、木花咲耶媛命、表筒男命、中筒男命 ほか」三重県伊賀市蔵縄手353 玄松子の記憶

比地神社[ヒチ]
神戸神社[かんべ]に合祀「大日貴命 配 天兒屋根命、倭姫命、天太玉命、栲機千千姫命、天手力男命、天忍穗耳命、三穗津比賣命、彌都波能賣神、火之迦具土神、大山祇神、大物主神、市杵嶋姫命、猿田彦神、大海津見神、金山彦命、速須盞男命、事代主命、八柱皇大神」
穴穂宮神戸神社由緒略記
*鎮座地 三重県伊賀市上神戸三一七番地(旧名賀郡神戸村大字上神戸)
古称暗崎川(今は木津川という)西畔平野に鎮座す 近鉄伊賀線神戸駅より一キロ
*祭神 大日霊貴命  天太玉命  倭姫命  天手力雄命
    天児屋根命  天忍穂耳命  経津主神  三穂津姫命 他十一柱
*沿革
往古より現在地に鎮座穴穂神社と称せしが、明治四十一年十月村内諸社を合祀し社号 を今の如く改称 大日霊貴命、天太玉命、倭姫命を奉斎せり。倭姫世記に曰く崇神天 皇六十六年十二月朔日伊賀国穴穂宮遷幸積四年奉斎爾時伊賀国造箆山神戸並地口御田 細鱗取渕梁作瀬等を進め朝御饌夕御饌供進云々、然後垂仁天皇即位二年同国敢津美恵 宮に奉遷す而れども土民猶其神徳を尊重崇敬して以て神戸郷産土神と奉斎し今に連綿 歴然たり。其の遺業の存するや毎年六月一日(現在七月十日初魚掛祭)の神事に細鱗 を以て最第一の御贄とすること定例たり。延長伊賀風土記に暗崎川に鮎鮒出づと見え 、伊水温故に暗崎川神館の川上と云うとあり
最も此川最上の鮎を出すなり。猶其他礼典古儀等省略すと雖も悉く伊勢神宮に准じ社 殿及び鳥居に至る迄二十年目造営し奉る、況んや神戸の村号空しからざるおやとあり 。明治四十一年四月二十五日許可を受け本社境内社、天児屋根命、天手力雄命を又大 字比土字山下六百八十四番鎮座村社比地神社祭神天忍穂耳命、亦境内社八幡社祭神誉 田別命、大字古郡字北川五百五十六番鎮座村社三十八神社祭神経津主神鹿嶋御子、大 字枡川字狭間六百三十八番鎮座村社穂杉神社祭神三穂津姫命を合祀して神戸神社と単 称せり。

当社の基源は上古にありて天照皇大神伊勢の五十鈴の川上に今の如く御鎮座あらせ給 う以前の御事にて洵に古き郷土の神社なり、乍去中世幾多の変遷を免れず名実相沿わ ざる事とも成り果てしは是非もなき事なりき。然るを明治の御世に至り神仏を分離し 敬神の途を明らかにすべしとの御沙汰一再ならず、其後各神社整理の事も行われて即 当社の如きは率先して合祀をなせる所以なり。かくて氏子数は増加し崇敬者も広く多 くなりければ当社の隆昌は益々期待すべきものあり。是れ等神徳の然らしむる所なら ん抑々聖代の賜なりと謂うべし、而して当社には飛地境内社高瀬神社を有す。此社は 大字比土高瀬代千九百七十二番地にして高瀬大神鎮座す、然るに明治四十一年二月六 日同字前谷二千二百四十一番鎮座村社蔵鍵社祭神猿田彦神を始め四柱の神を合祀した るも大正十年八月二十三日神戸神社の飛地境内社となり所定の祭祀を受くるに至れり 、距離社頭より二キロ村の南端に位置せり。尚当神社は明治四十四年即第五十七回神 宮式年遷宮には神宮風日祈宮古殿在形の侭拝領其侭移築し又昭和四年第五十八回神宮 式年遷宮には同様神宮風日祈宮古殿及瑞垣御門並び付属物等全部及内宮正殿の一部を 拝領造営し奉り、次で昭和二十八年第五十九回神宮式年造営には終戦後各方面神社よ り神宮古材払下の出願多数の処、特に当社は従来通り神宮風日祈宮古殿を在形の侭拝 領昭和三十年同五十年秋旧儀の如く式年造営し奉れり。爾来往古より伊勢神宮皇大神 両宮との由緒古跡の文献を尊重し古来よりの旧儀を復活し、当社氏子より毎年六月十 四日には必ず塩干の初鮎六百五十尾)を神宮の月次祭御神饌として御奉納し、又神宮 神嘗祭には神宮カケチカラ会を通して籾米六俵一石二斗)を奉献するなど、亦神宮神 田御田植には当社敬神婦人会員中より三十名三日間奉仕する等、本崇大神に対し奉る 信仰と報恩感謝の誠を捧げるを毎年の行事として今日受継ぎ実践し来れり。
*考証 三国誌
 神祠 穴穂宮
一、延長風土記に曰く伊賀郡神戸山崇神天皇第六十六年天照大神垂跡也。
一、延長儀式帳に崇神天皇御宇太神宮遷幸曰く伊賀穴穂宮に坐す。
一、倭姫世記に六十六年己丑伊賀国穴穂宮に遷し積四年奉斎奉る。此時伊賀国造進箆 山葛山戸神戸並地口御田細鱗魚取渕梁作瀬等朝御気夕御気供進す。
一、豊受皇太神宮御鎮座本記に明年戊午、雄略天皇二十二年中略丹波国吉佐遷幸倭国 宇太の宮御一宿次伊賀国穴穂宮御二宿此時朝御饌箕造竹原並箕藤黒葛生所三百六十町 亦年魚取渕梁作瀬一処亦御栗楢三町国造等貢進む仍て二所皇太神の朝大御気夕大御気 の料所に定め給う。
一、口碑 丹波比地真名井の水を置処を比地と称す今比土の地なり。
一、神宮雑例集 伊賀国伊賀郡神戸
一、伊賀記 神戸郷天照太神御仮殿の御在所今の正殿は倭姫命なり。
一、伊水温故 神館社上神戸村号穴穂宮二坐也皇太神一坐倭姫命一坐。
一、御鎮座本記「文略」按に上神戸村に坐す穴穂宮神館の社と称す是也。
一、太神宮隠市守宮より当社に遷座夫より敢拓殖宮に幸ます。今本殿一坐倭姫命、摂 社左天児屋根命、右天太玉命。古昔萱葺なり阿波山に入りて萱を刈る式あり、近世板 葺にして此の式なし干木庁〓あり豊受神は倭の国宇太の宮阿記宮より倶に祭祀に預る 。慶長元年丙申の上梁文あり。
一、二所太神宮御遷幸図説 同国穴穂宮四年奉斎伊賀国伊賀郡上神戸村神館社と云う にあり、名張町丑寅方一里半東川の南西小山北上神戸也、世記に云う年魚取渕梁作瀬 あるは東の川なるべし。豊受皇太神御遷幸時此宮に二宿す、両宮御遷幸の宮跡を以て 敬重し奉る所也。
以上

元伊勢・神戸神社
伊賀神戸駅を東へ出て、国道上野〓青山線を北へ歩く。目指すは元伊勢・神戸神社で ある。

地図で見ると上林駅からのほうが近いように見えるが、電車の待合せ時間を考えると 、伊賀神戸駅で下車して、ひなびた田んぼ道を歩くのもよい。右手の高台の神戸小学 校を目じるしに左折、木津川の暗崎橋を渡って、西詰を堤防道路ぞいに下流へ一〇〇 メートルも行くと神社の境内に入る。こちらのルートは裏参道。北の正面に神楽殿、 その裏手に本殿が建っている。上古、大日霊貴命、つまり天照大神を四年間だけおま つりした元伊勢が、この神戸神社である。

日本書紀によれば、第一〇代崇神天皇の時代、今まで皇居でおまつりしていた天照大 神を他の場所に移すことになり、皇女・倭姫命が場所探しの旅に出た。伊賀を経て近 江、美濃、尾張と歩き、最後は伊勢に落ちつき、そこで奉祀することになるのだが、 途中、伊賀では四年間滞在した。その滞在期間中、この神戸神社に天照大神がまつら れていたという。伊勢より先にまつられていたので「元伊勢」の名がついている。「 元伊勢」の呼び名はこの神戸神社以外にもあり、近江の多賀大社も「元伊勢」の名で 呼ばれている。倭姫命が滞在のころ、今の木津川は暗崎川と呼ばれていた。渡って来 た橋の名が暗崎橋だったのはその名残りである。この川で地元民が鮎を捕って献上し たとの言い伝えも残っている。

元伊勢というだけに伊勢神宮とのかかわり合いは深い。伊勢神宮と同じようにこの神 戸神社も二〇年に一度、遷宮をする。伊勢神宮の古材を譲り受けての遷宮で、最近で は昭和五十年に行なった。次の造営は平成七年である。

静かな境内には杉、桧が多い。この神社の宮司は、木立の中でも特にぬきん出て高い 二本の杉を、「あれは、伊予杉です。」という。宮司の推理によれば、伊賀の国をお さめた藤堂藩の藩祖・高虎公は伊予今治からここへ移封された人。だから″二本杉〓 は高虎公の時代に植えられたのではないか、というのである。この推理がぴったりと すれば、高虎公の没年が一六三〇だから、樹齢はざっと三五〇年ということになる。
明治四十一年、比地神社「祭神天忍穂耳命」を合祀。三重県伊賀市神戸317 玄松子の記憶

大村神社[オホムラ]
大村神社[おおむら]「大村神」阿保朝臣の氏族の始祖の、垂仁天皇の皇子息速別の命(いこはやわけのみこと)を祀る。
大村神社参拝のしおり
当社は延喜式神明帳所載の古社で祭神は大村の神。古来の本祀は伊賀国阿保村を本貫 とした阿保朝臣の氏族がその始祖におわします。お鎮まりになる阿保村は伊賀国東南 部の西は名張川に及ぶ、上津、中津、下津、阿保村が占める大村で第十一代垂仁天皇 の皇子息速別命(いこはやわけのみこと)の為に宮室を此の地に築かれ、命及び御子 孫が代々居住し、文化の移入、土地・産業の開発に尽くされ地名に因って阿保朝臣の 姓氏を賜った。阿保氏族は始祖息速別命を氏神として大村神社を創祀し地域の諸部族 、遠近の庶民が亦開発開運の神として厚く崇敬をあつめた。
武甕槌命、経津主命は鹿嶋・香取から神護景雲元年奈良三笠山御遷幸の途次、御休息 の際奉斎した要石は地震斎護の信仰あつく又大山祗神は岡田の山の神は岡田の山神で 安産授乳を祈る賽者があとを絶たない。

社頭掲示板
当社は延喜式神名帳所載国史現在の古社。祭神大村の神は、阿保村の神の転約なるに より、古来の本祀は、伊賀国阿保村を本貫とした阿保朝臣の氏族が、その始祖に在す 垂仁天皇の皇子息速別の命(いこはやわけのみこと)を奉祀した氏社で、社域は、父 帝が皇子の為に築かれた宮室跡であろう。命及びその御子孫代々この宮室に住まわれ 大和文化の移入と土地開発尽くされ、上津中津、下津、阿保の部族の崇敬する総社と して社領二百五十石を領した。
相殿奉祀の武甕槌の神、経津主の神は、神護景雲元年常総から御迂御鎮斎、地震除災 の御霊験あらたかで要石を神石と崇める。又、岡田山の神(大山祗命)は安産授乳の 守護神。以上
三重県名賀郡青山町阿保1555  伊賀上野地区名賀郡大村神社宝殿 玄松子の記憶

比々岐神社[ヒヒキ]
比々岐神社[ひびき]「比比岐神、武甕槌神、經津主神、天兒屋根命、譽田別命、大物主神、綾門日女神、事代主神」
社頭掲示板
当社は往古より現社地に鎮座し、創建年月は不祥といえども延喜式神明帳見在の古社 にして、旧記・古書を按ずるに創建は大略大宝の頃と思料される。明治四十年村内の 諸社六十余社を合祀し鬱蒼たる社叢にいだかれ上津の里の総氏神として尊崇維持せら れ現在に至る。
三重県名賀郡青山町北山1427 玄松子の記憶

比自岐神社[ヒシキ]
比自岐神社[ひじき]「比自岐神」比自岐神は当時の豪族比自岐和気の祖神。祭神は「三保津姫命」「事代主命」「道敷神」などの説がある。
創立年代不詳 延喜式内社である。明治四十一年一村一社の合祀令により旧比自岐村 内に鎮座の三三社を当神社に合祀大正十三年旧社格県社に昇格する。
主神の比自岐神については当時の豪族比自岐和気の祖神であり比自岐和気は第十二代 垂仁天皇の皇子圓日王に彼の息女を嫁がせた事からも如何に朝廷と関係が深かったか が伺える。
一、祭神 比自岐神、天児屋根命、天照大神、剣根命、応神天皇、建速須佐之男命、 火産霊神、大物主神、宇迦之御魂命、木花佐久夜比売命、大山祇神、伊邪那岐命、大 綿津見神、菅原道真
一、主な祭典 例祭  十一月十二日 祇園祭  七月第四日曜日
三重県伊賀市比自岐683 玄松子の記憶

依那古神社[エナコ]
猪田神社に合祀[いだ]「猪田神 合 依那古神 ほか」三重県伊賀市下郡591

猪田神社[ヰタ]
猪田神社[いだ]「猪田神、底土命、赤土命、磐土命」神名帳考証では水分神。三重県伊賀市下郡591 玄松子の記憶
猪田神社「上筒男命、中筒男命、底筒男命、武伊賀津別命、少名比古那命」近鉄依那古駅西一・二キロ神奈備型の丘の東北麓に西面して鎮座す。
近鉄依那古駅西一・二キロ神奈備型(註一)の丘の東北麓に西面して鎮座している。 創立年代は分らないが、史実・環境・雰囲気から非常に古い年代であったように思わ れる。「和名抄」(十世紀前半成立)の伊賀郡猪田郷の名を承けた猪田村の産土社で、 延喜式内社について、丘陵東南の下郡猪田神社と論社になっている(註二)。当初は猪 田村の宮と言われていたようであるが(註三)、天正十八年(一五九〇)の棟札には住 吉大明神と書かれているから、少なくとも中世以降から住吉神社と言われたものと思 われる。明治二十二年、猪田村・山出村・上之庄村・笠部村・が合併して猪田村とな り、同四十一年村内各神社を合祀後、猪田神社と改称した。伊賀国造に任ぜられた垂 仁天皇の皇子竟知別命の曾孫武伊賀津別命(旧事記・国造本紀)を主祭神に(註四)、 三筒男命・少毘古名命・健速須佐之男命・速玉男命・事解男命・健御名方命・天児屋 根命・金山毘古命・大物主命・大山咋命・蛭子命・猿田彦命・大山祇命・応仁天皇・ 菅原道真公をお祀りしている(註五)。
神奈備丘頂上附近には榊の古木が多く、山宮の跡と伝えられ、西南の谷にある夫婦塚 池遺跡は十一世紀の黒色土器などを出しているが、祭祀遺物かと思われている(三重 県の地名)。社殿西側には磐座が、背後には猪田神社古墳、前方には姫塚古墳、丘陵 東麓には天真名井、北方には山神祠・四角形石灯篭及び行者堂がある。宮坊善福寺( 註六)は現在社宅になっている。参道東側には津島神社が、西方の飛地境内には金比 羅神社があった。
又旧大内郷の菅原神社(天満天神)は中世以降上之庄村と下之庄村で三年毎にご遷座 されていたが、現在も猪田神社と菅原大邊神社との間でご遷座が引き継がれている( 註七)。

猪田神社の主なお祭
御井祭(一月一日) 祇園祭(七月一四日) 元旦祭(一月一日) 秋分祭(秋分の 日) 祈年祭(二月二十二日) 秋季例大祭(十月二十二日日) 春分祭(春分の日 ) 新嘗祭(勤労感謝の日) 春季例大祭(四月二十二日) 大祓(十二月三〇日)  大祓(六月三〇日) 遷座祭(三年毎)

註一 神の鎮座する円錐形の山

註二 三重県の地名(平凡社)による。尚中世下郡・猪田両社共住吉神社であった( 三国地誌)。

註三 当社所蔵の小天狗清蔵寄進の鉄地銅鍍金鰐口には「伊賀国阿我郡猪田村宮」「 元和九年八月吉日小天狗」の銘がある。

註四 昭和八年十二月、三重県知事に届出。

註五 三筒男命 住吉神社の祭神である上筒男・中筒男・底筒男の三神で、イザナギ の命が小門の阿波岐原(おどのあはぎはら)でみそぎされた時生まれた神。商業・病 気除けの神。
少毘古名命 大国主命と共に出雲の国造りをした小人の神で、医薬や禁厭(まじない )などの方を創めた神として崇敬され、当社の住吉勧請(かんじょう)以前の古い祭 神であると伝えられている。
健速須佐之男命 当社をはじめ村内各小場七社から合祀した津島神社の祭神で伝染病 を防ぐ神。夏の祇園祭はこの神をもてなす行事。
速玉男命・事解男命 山出の山伏小天狗清蔵が勧請した山出・田中・西出の三熊野の祭神。
建御名方命 本殿右側の境内社諏訪神社(江戸神社)の祭神。大国主命の次男で武勇 に勝れ、国譲りの交渉に反対、武甕槌(タケミカツチ)命に敗れ、信濃国諏訪に退き 天照大神の命を奉じた。武神・農業神として祀られる。
天児屋根命 天岩戸(あめのゆわと)の前で祝詞(のりと)を奏して天照大神の出現 を祈った。祭祀を司どる神で、中臣・藤原氏の祖神。笠部の春日神社に祀られていた 。
金山毘古命 上之庄の南宮神社の祭神。美濃一之宮南宮神社の分祀、敢国神社の金山 姫を配して鉱山の神として信仰された。
大物主命 本社境内社と上之庄に祀られていた金刀比羅神社の祭神で大和の三輪神社 の祭神としても名高い。
大山咋命 明治の神仏分離まで当社の宮坊善福寺の鎮守日吉神社の祭神で坂本の日吉 神社・京都の松尾神社と同じ祭神。
大山祇命 山の神様で村内十四座に祀られていたのを合祀した。
蛭子命 本殿左側西宮神社(蛭子神社)他三座の祭神。イザナギ・イザナミの命の第 一子。三才になっても脚が立たないので芦船(あしぶね)に入れて流された。中世以 後これを七福神の一つである恵比寿として崇敬、漁業・商業の神として信仰された。
猿田彦命 笠部の太田神社の祭神。ニニギの命降臨に道案内をした国津神で、後に伊 勢の五十鈴川のほしりに鎮座した。この故事により、祭の先導には天狗の面をかぶっ た姿で現われる。獅子舞の鼻高にあたる。
応仁天皇 殿寺八幡神社の祭神。第十五代の天皇で母は神功皇后、誕生には伝説的色 彩が濃い。中世以降源氏の氏神として武家の尊崇が厚かった。 菅原道真公 西出の老ノ木・構・上之庄の菅原神社の祭神。

註六 時宗より真言律宗西大寺末に転じ、下神戸の天童山無量寿福寺下であった(伊 水温故)が、明治初めの神仏分離令で廃絶した。

註七 御遷座の菅原神社について。
永禄十一年(一五六八)神道裁許状には「伊賀国阿閇郡大内天神とある(兼右卿記) 。貞享四年(一六八七)の「伊水温故では、大内下之庄は阿閇郡(あへぐん)で、天 神社の社殿は字内屋敷にあり、境内は伊賀郡大内上之庄宮之谷にまたがり、両村共通 の氏神となっている。元禄頃(一六八八〓一七〇四)上之庄村が、宮の谷に南接した 寺之谷に別に社殿を設けたのであろう。
「宗国史」には両村に天満天神をあげている。然しご神体は三年毎に交互に遷座され た。昭和五十九年十月には猪田神社より菅原大邊神社に遷座される。
昭和十四年十月二十五日国宝に指定された(註八)。
国指定重要文化財 本殿は大永七年(一五二七)の再建で棟瓦、桧皮葺、極彩色、正 面は唐戸、他の三面は板戸である。構造形式は大部分桃山時代を下らず、要部には室 町末期のものを残している。側面蟇股は上に斗を持たない異形のものである(文化財 伊賀市)。飛檐等に反り増しあり、蟇股・幣軸・木鼻・匂欄・擬宝殊等特に優秀なも のと思われる。棟札は大永棟札・天正棟札外六枚が重文に指定されている。

註八 「旧国宝建造物指定説明」に依ると昭和十四年十月二十五日指定物件(二件) 一間社流造、屋根桧皮葺 当社所蔵ノ多数ノ棟札ニヨリ、本殿ハ大永七年ニ再建セラ レ、爾後天正十八年、寛永五年、延宝、延享、天明、慶応、明治等数度ノ修理ヲ経タ モノデアルコトガ知ラレル、本殿ノ構造形式ヲ観察スルニ、大部分ハ桃山時代ヲ下ラ ズ、且ツ要部ニハ前記大永ノ棟札ト一致スト推定シウル部材ヲ遺存シテヰル、按ズル ニ大永再建ノモノヲ天正ニ大補修シ、爾後屋根、床、椽廻等ニ暫時屡次部分的修理ヲ 加ヘ来ッタモノデアラウ、尚細部ノ形式ニ、関西地方ニ於ケル同種ノ常套ヲ脱シタ独 特ノ手法ヲ持ッテヰルコトハ、注意スベキデアル(大永棟札)
仏性寺大工 住持大夫人枚…永七稔丁亥五月十八日棟上也大福〓聖頼尊檀※橘安重圓 盛同圓秀御熊丸…………大夫形部大夫左衛門大夫三郎大夫馬大夫喜田※檀女祢千代松 女勝三彌三郎彌三郎御門三郎番近衆次良三郎二郎三郎與三郎茶丸(天正棟札)
天御柱神  于時天正十八年〓馭盧嶋奉納住吉大明神  寳殿屋所正遷者也國御柱神 九月十三日
一、国宝規定の改正に伴ない、昭和二十五年重要文化財に指定された。
二、昭和三十年解体修理
三、昭和三十四年棟札六枚(寛永五年、延宝八年、延享四年、天明七年、慶応元年、 年不明)が追加指定された。
四、その他の棟札に天文元年(一五三二年)享保十二年(一七二七)昭和三十一年の ものがある。
本殿背後の大古墳は後期の円墳で、昭和十六年七月二〇日の県史蹟指定書には、「高 サ十四尺(四米余)石(玉垣)ノ周囲四十一間(二三・五米)本殿背後ノ古墳ハ祭神 (武伊賀津別命)ノ御墓トシテ尊崇ス」と書かれている。
古墳は早くから西向きに開口していた。史蹟指定のころ閉鎖されたが、室町期の小型 唐草紋瓦が出土し不審に思われていた(村治円太郎)。又昭和五十三年墳頂附近から 後述の灯篭が出土した。当社所蔵の明治初期の絵図には墳頂と思われる所に小祠が描 かれているが、この祠のものと思われる(註九)

註九 大場磐雄博士は「古墳と神社」で、猪田神社は伊賀国造家の子孫等が、その 祖先の墓を奉祀したとするのが妥当な見解で、必ずしもその祖神が史上に顕れた特定 の神や人物であったとは断言すべきではない」と言われ、当社の祭神として、伊賀津 彦命を擬せられている。

県指定史蹟 寄木の清水とも言う(伊水温故)。社殿の東方百米余の所にある。方四 米程の小泉である(註十)。この井戸は垂仁天皇の皇女倭姫命が天照大神を奉じて神 戸の穴穂の宮に滞在されたとき穿った井戸で天の長井とも言う(伊水温故)。伊賀郡 猪田郷忍穂井と伊勢忍穂井は相通じ、深くて水に増減がなく、病の時この水を沐する と効能がある(三国地誌は惣国風土記を引用)。猪田より森寺に通ずる道の側に真名 井がある(標註伊賀名所記)。などと古来より有名である。又この井戸を持つ猪田神 社の創建は非常に古いものである(註十一)。
現在神社の祭典にこの水を献水し、元旦早朝に氏子はこの水を若水として拝受してい る。年間を通じこの水を求めに来る人もいる。井戸の側の碑に彫んだ和歌は(註十二 )。
すむかけは爰もいがとの神風や伊勢よりかよう天乃まない田 度会家行 久かたの天の長井田くむ賎が袖のつるべの縄のみじかさ 西行法師

註十 県史蹟指定書には「自然石岩組古井ハ昭和九年一月ヨリ補助ヲ受ケテ周囲ニ石 柵ヲ設ケ神聖ヲ保テリ、又井畔ニハ度会家行及ビ西行法師ノ詠ト伝フル天真名井ノ和 歌ヲ刻セル碑ヲ建ツ」とある。

註十一 県の指定解説には「天真名井と言えるもの各地に現存す、これ古代の性信体 を伝承せるものなり(林屋辰三郎)と引用し、其湧水所の形状これに伴ふ。如此き信 体を伝承する古井を有つ当社の創建は、現今住吉社と称へられしよりも更に古きもの なることを知るべし(村治円次郎)」とある。

註十二 伊水温故・三国地誌が「宗祇名所類聚至宝抄」より引用。 明神御廟前」背面に「天文三年(一五三四)甲午八月十五日施主橘安重」と刻まれて いる。
伊賀津彦神は「三代実録」貞観六年(八六四)一〇月一五日条によれば従五位下に進 階されており、武伊賀津別命が祖といわれる伊賀国造家の流れと考えられ、当社の祭 神に擬せられている。尚橘安重の名は当社大永七年棟札に仏性寺(長田)棟梁とある。 灯篭は埋没により摩滅をまぬがれ、その細工は入念精巧、大型で美しく、室町時代の 特徴を残している。台座を欠いているのは誠に惜しいことである(註十三)。 註十三 台座を捜し出すか、似合う台座を作れば伊賀市文化財に指定されることにな っている。
山出の修験者小天狗清蔵(役の行者)をお祀りしている。清蔵は天正伊行者堂賀乱で 消失した敢国神社・上野天満宮・下郡の猪田神社等多くの神社仏閣を復興した偉人で 、その超人的な活躍は、空を飛びどんな難病でも治すなどの伝説になっている。山出 の勝因寺に隠棲して寛永九年(一六三二)に歿した。当社には前述の鰐口を寄進して いる。
又当社に郡の住吉明神を勧請したと伊水温故には書かれているが、すでに天正十八年 の当社棟札には住吉大明神となっている。仮に伊水温故が正しいとすれば、或は当時 流行していた疱瘡除けのために再勧請したものではないかとも考えられる(註十四)。
何れにしても小天狗と当社との関りは深い。近隣の信仰を集め参詣人も多い。

註十四 江戸前期に、痘瘡の神は住吉大明神を祭るべしと言えり。住吉大明神は…… …病魔の邪気に勝つべき事なり(香月午山「小児心要養育学」)。昭和五十三年九月 、近隣に散在していた山神碑・水神碑・石地蔵を当地山神祠に集め祠におさめた。眼 病を患う人に信仰がある。
二つの巨岩で依代とも言う。又岩の形から、日月岩とも言われている。
磐座
古代この岩に神々の降臨を迎え、この前で祭典が行われたと言う。
西側の尾根に簡易水道貯水池建設で消滅した猪田神社三号墳があった。波岸代池堤の かさ上げで消滅した唐木谷二号墳、その西に埴輪円筒を持つ同一号墳がある。丘陵上 面には金鶏伝説を持つ烏谷一号墳があり、丘陵南部に後期横穴式石室を持つ森寺古墳 四基がある。西部丘麓水田下に奈良時代の土器や円面硯が出土した。波岸台遺跡(註 十五)その西方ライスセンター敷地には、奈良〓平安期の須恵器杯蓋転用硯や墨書・ 刻書土器を出した「唐木谷遺跡(註十六)がある。南の上郡や緑釉陶器・木簡の出土 した下郡附近に推定される伊賀郡衙の在庁官人の住居との関連が想定される。下郡猪 田神社背後の猪田経塚(註十七)、本社参道入口北西百米に将軍塚の跡地があり、基 盤整備以前には塞の神の強い禁忌が残っていた。

註十五 昭和四八年度県営圃場整備地区「埋蔵文化材発掘調査報告」三重県教育委員 会昭和五四年。

註十六 「唐木谷遺跡発掘調査報告」伊賀市文化財調査報告昭和五四年。

註十七 「猪田経塚」(十二世紀末)伊賀市文化財調査概報昭和五〇年。

後記 本稿を起すに当り、伊賀市文化財専門委員森川桜男氏のご協力を得ました。
三重県伊賀市猪田5139 玄松子の記憶

乎美祢神社[オミネ]
花垣神社に合祀「天兒屋根命、經津主命、武甕槌命、比賣大神 合 乎美彌神 ほか」三重県伊賀市予野194 玄松子の記憶

高瀬神社[タカセ]
神戸神社飛地境内社高瀬神社「高瀬大神」三重県伊賀市比土字高瀬1971 玄松子の記憶

坂戸神社[サカト]
猪田神社に合祀「猪田神 合 依那古神、坂戸神 ほか」三重県伊賀市下郡字宮後591


名張郡[ナハリ]:二座並小

名居神社[ナヰ]
名居神社[ない]「大己貴命」ナイは地震の古語。
名居神社由緒書
日本書記によれば推古7年に大和地方が中心の大地震があって諸国に自信の神が祭ら れた伊賀では当名居神社がそれであろうナイは地震の古語である江戸時代は国津大明 神と稱し比奈知川上流に散在する国津神社の惣社であった。
三重県名張市下比奈2092 玄松子の記憶

宇流富志弥神社[ウナネノフシミ]
宇流冨志祢神社[うるふしね]「宇奈根命」名張川の水神。
宇流冨志祢神社由緒書
当社は往古より名張市平尾3319番地の現在地に鎮座ましまし、名張の鎮守神なり 延喜式内国史現在の神にして伊賀25社の内なり、延長風土記日く宇流冨志祢神社在 平尾村三国地誌に名張郷簗瀬村宇流冨志祢神社圭田42束4カ所の神田を以て祭祀す とあり、天武天皇3年始加祭礼神事圭田亦5年8月放生会を行わるとあり、主神宇奈 根神は古老の言によれば神武建国の始1国に瑞穂の祈願するために祭られしものなり と。
天正3年織田信雄当国を征伐し、当社の寄附も設収せられ社頭も数度の兵火に罹り数 多の神事も絶えたれども、寛永13年藤堂宮内小輔高吉移住の後は田畑山林若干町を 寄附祭祀には乗馬を出され祭礼神事も盛隆に向いつつありて現在に及ぶ。
三重県名張市平尾藤ノ木339 玄松子の記憶


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