伊勢國二百五十三座
大十八座(就中十四座。預月次新甞等祭。) 小二百三十五座

度會郡多氣郡飯野郡飯高郡壹志郡安濃郡奄藝郡鈴鹿郡河曲郡三重郡朝明郡員辨郡桑名郡


度會郡[ワタラヒ]:五十八座 大十四座 小四十四座

太神宮三座[オホムカムノミヤ](相殿坐神二座。並大。預月次新甞等祭。) 伊勢神宮公式ページ
皇大神宮[こうたいじんぐう](内宮)「天照坐皇大御神 相殿神二座」国中の柱は男性象徴のリンガ。三重県伊勢市宇治館町  玄松子の記憶

荒祭宮[アラマツリ](大。月次新甞。)
皇大神宮別宮の荒祭宮[あらまつりのみや]「天照坐皇大御神荒御魂」荒吐神との説もある。三重県伊勢市宇治館町 皇太神宮宮域内 荒祭宮  玄松子の記憶

瀧原宮[タキノハラ](大。月次新甞。) 
皇大神宮別宮の滝原宮[たきはらのみや]「皇大御神御魂」三重県伊勢市度会郡大宮町大字滝原字宮野872 玄松子の記憶

伊佐奈岐宮二座[イサナキ](伊佐奈弥命一座。並大。月次新甞。)リンク 
皇大神宮別宮の伊佐奈岐宮 「伊弉諾尊」三重県伊勢市中村町字向垣内724 別宮伊佐奈岐宮 玄松子の記憶
皇大神宮別宮の伊佐奈彌宮[いざなぎのみや]「伊弉冉尊」三重県伊勢市中村町字向垣内724 月読宮同域 玄松子の記憶

月讀宮二座[ツキヨミ](荒御魂命一座。並大。月次新甞。)
皇大神宮別宮の月讀宮[つきよみのみや]「月讀尊」三重県伊勢市中村町字向垣内724 玄松子の記憶
皇大神宮別宮の月読荒御魂宮[つきよみあらみたまのみや]「月讀尊荒御魂」三重県伊勢市中村町字向垣内724 玄松子の記憶

度會宮四座[ワタラヒ](相殿坐神三座。並大。月次新甞。)
豊受大神宮[とようけだいじんぐう](外宮)「豐受大御神、相殿神三座」三重県伊勢市豊川町 玄松子の記憶

高宮[タカ](大。月次新甞。)
豊受大神宮別宮の多賀宮[たがのみや]「豐受大神荒御魂」三重県伊勢市豊川町 リンク 玄松子の記憶

朝熊神社[アサクマ]
皇大神宮摂社の朝熊神社[あさくま]「大年神 配 苔虫神、朝熊水神」三重県伊勢市朝熊町字桜木2566-1 玄松子の記憶

蚊野神社[カノ]
皇大神宮摂社の蚊野神社「大神御蔭川神」三重県度会郡玉城町蚊野字里中1807 玄松子の記憶

鴨神社[カモ]
皇大神宮摂社の鴨神社二座「石己呂和居命、御前神」大水上神の御子神。三重県度会郡玉城町山神字岡谷1398 玄松子の記憶

狹田國生神社[・・クナリ]
皇大神宮摂社の狹田國生神社[さたくなり]「速川比古命、速川比女命、山末御魂」速川比古命、速川比女命は須麻留女神の御子神。三重県度会郡玉城町佐田字牛コウベ322 玄松子の記憶

田乃家神社[タノヘ]
皇大神宮摂社の田乃家神社[たのや]「大神御滄川神[みさむかわ]」荒木田氏の祖神を祀る。三重県度会郡玉城町矢野字宮前387 玄松子の記憶

草名伎神社[クサナキ]
豊受大神宮摂社の草奈伎神社[くさなぎ]「御剣仗神」三重県伊勢市常磐1-1142 大間国生神社同域 玄松子の記憶

園相神社[ソノアフ]
皇大神宮摂社の園相神社[そのお]二座「曽奈比比古命、御前神」三重県伊勢市津村町字白木 玄松子の記憶

礒神社[イソ]
磯神社「天照大神 配 豐受毘賣神、木花佐久夜毘賣神 合 宇都志國玉神、菊里姫神、大山津見神」垂仁天皇の御世に倭姫命が伊蘓国に行幸の遺跡を磯神社と号した。三重県伊勢市磯町1069 玄松子の記憶

磯神社
由緒書き
当社の創立は垂仁天皇二五年三月と伝えられている。 当社の由緒は『内宮儀式帳』『倭姫命世記』『神名帳考證』『勢陽雑記』『案内記』 等の諸書に見られるが、それによれば、垂仁天皇の御世に倭姫命が天照大御神を奉載 して諸国を経歴し、伊蘓国(伊蘓郷磯村の辺り)に行幸なさった時に、そこに行宮を 造営して皇大神を安鎮奉斎し、伊蘓宮或は磯宮と称したのが、その創祀である。
そして天照大御神が宇治郷五十鈴川上の現在の地に御遷座された後も、伊蘓国の行宮 の遺跡を磯神社と号し、信仰を集めたという。
『延喜式神名帳』にある伊勢国度会郡の磯神社がこれである。
しかし、後年、宮川の洪水のため、旧地は崩壊してしまったため、今の社地である権 現林に移遷したというが、その年月は不詳である。
又その古跡は宝殿の脇又本殿の脇と号されたとも言われている。
明治四一年には、境内社清濱神社、無格社本殿社、無格社白山社、無格社山神二座を 合祀し、今日に至っている。
当社の特殊神事として、先述の如く、二月十一日の獅子舞が古式ゆかしく斎行されて いるが、その獅子舞に用いられる獅子頭は、制作年代こそ不詳であるが、箱書に「元 禄十丑丁念日天子八王子正月吉祥日」とあることから推察しても、由緒のあるもので あり、当社の社宝として大切に保管され、継承されている。

多伎原神社[タキハラ]
皇大神宮摂社の多岐原神社「真奈胡神」三重県度会郡大宮町三瀬川 玄松子の記憶

月夜見神社[ツキヨミ]
豊受大神宮別宮の月夜見宮「月夜見尊、月夜見尊荒御魂」三重県伊勢市宮後1-1006 玄松子の記憶

湯田神社[ユタ]
皇大神宮摂社の湯田神社「大歳御祖神、御前神」別名[鳴震電]。三重県度会郡小俣町湯田983 玄松子の記憶

奈良波良神社[ナラハラ]
皇大神宮摂社の奈良波良神社「那良原比女命」大水上神の御子神。三重県度会郡玉城町宮古字矢倉833 玄松子の記憶

大水神社[オホミツ]
皇大神宮摂社の大水神社「大山祇御祖命」三重県伊勢市宇治今在家町林崎163-1 玄松子の記憶

津長大水神社[ツナカノ・・]
皇大神宮摂社の津長神社「栖長比賣命}大水上神の御子神で水の神。三重県伊勢市宇治今在家林崎163-1 玄松子の記憶

大國玉比賣神社[オホクニタマヒメ]
皇大神宮摂社の堅田神社「佐見都日女命」地方の国津神。三重県度会郡二見町江 玄松子の記憶
皇大神宮摂社の宇治山田神社「山田姫命」大水神の御子神で水の神。三重県伊勢市中村町 玄松子の記憶

御食神社[ミケ]
豊受大神宮摂社の御食神社[みけ]「水戸御饗都神」倭姫命に御水を奉った老人の霊を御食津神として祀る。三重県伊勢市神社港 玄松子の記憶

大土御祖神社[オホツチノ・・]
皇大神宮摂社の大土御祖神社[おおつちみおや]「土御祖神」三重県伊勢市楠部町尾崎2132 玄松子の記憶

田上大水神社[タノヘノ・・]
豊受大神宮摂社の田上大水神社[たのえおおみず]「小事神主」度会神主四門の祖を祀る。三重県伊勢市藤里町字大丸679 玄松子の記憶

國津御祖神社[クニツ・・]
皇大神宮摂社の國津御祖神社[くにつみおや]「宇治比賣命、田村比賣命」国生神の御子神で土地の神。三重県伊勢市楠部町 玄松子の記憶

坂手國生神社[サカテノクニナリ]
皇大神宮摂社の坂手國生神社[さかてくなり]「高水上神」大水上神の御子神。三重県度会郡玉城町上田辺 玄松子の記憶

粟皇子神社[アハワウシ]
皇大神宮摂社の粟皇子神社[あわみこ]「須佐乃乎命御玉道主命」天照大神と素盞嗚尊との誓約で生まれた神で別名淡海子神。三重県度会郡二見町大字松下字鳥取1687-2 玄松子の記憶

久々都比賣神社[クゝツヒメ]
皇大神宮摂社の久具都比賣神社[くぐつひめ]三座「久具都比女命、久具都比古命、御前神」大水上神の御子神。三重県度会郡度会町上久具字久具都裏 玄松子の記憶

川原坐國生神社[カハラノクニイク]
豊受大神宮摂社の高河原神社[たかかわら]「月夜見尊御魂」高河原の土地開拓の守護神。三重県伊勢市宮後1丁目1006 玄松子の記憶

大間國生神社[オホマノクニイク]
豊受大神宮摂社の大間國生神社[おおまくなり]「大若命、乙若子命」天日別命の子孫、皇大神の御鎮座に功績。三重県伊勢市常磐1丁目1142 草名伎神社同域 玄松子の記憶

江神社[エ]
皇大神宮摂社の江神社「長口女命、大歳御祖神、宇加乃御玉命」長口女命は天須婆留女命の御子神。三重県度会郡二見町大字江字明神奥992 玄松子の記憶

神前神社[カムサキ]
皇大神宮摂社の神前神社[こうざき]「荒前比賣命」国生神の御子神。三重県度会郡二見町大字松下字尾谷1407-5 玄松子の記憶

朽羅神社[クチラ]
皇大神宮摂社の朽羅神社[くちら]「千依比賣命、千依比古命」大歳神の御子神。三重県亘理郡玉城町原 玄松子の記憶

榎村神社[ヱムラ]
皇大神宮摂社の堅田神社「佐見都日女命」国津神。三重県度会郡二見町江 玄松子の記憶
荻原神社「大屋津姫、大杉大神」現在は田心姫ほか。三重県多気郡宮川村大字江馬632 文政七(1573)年に奉納された幡に「江馬大杉社榎村神社 奉再大屋津姫大杉大神広前」とある。江馬大杉社、榎村神社と呼ばれていた。度会延経は『伊勢国神名帳考証』で江馬村に求めており、当社を比定している。(三重県神社誌)

荻原神社
参拝のしおり
明治40年合祀令により、荻原村に鎮座する81社を現在地に合祀いたしました。 記録によりますと中心社となりました江馬八柱神社は創建月日は不詳ですが、今から 千数百年前(平安時代)茂原区に祀られていました榎村神社(式内社)だとのことで す。その後近辺に八王寺社が多いので八王寺神社と呼称されておりましたが、数百年 前より江馬(当時荘間)に遷座されました。その後明治3年2月当時の和歌山藩より 「八柱神社」と改称命令通達で、右名称にしました。次いで明治40年合祀令で村内 の主神社(村社7、無格社10、境内社64)を合祀、当時の村名「荻原」を社名と しました。尚、昭和61年秋季大祭に旧満蒙双龍開拓団の氏神神社だった双龍神社の 御霊を中国政府の特別友情の計らいにより返還をうけ当社に合祀いたしました。

度會國御神社[ワタライノクニミカミ]
豊受大神宮摂社の度會國御神社[わたらいくにみ]「彦国見賀岐建輿束命」度会神主の祖、天日別命の御子神。三重県伊勢市豊川町 豊受大神宮宮域内 玄松子の記憶

度會乃大國玉比賣神社[オホクニタマヒメ]
豊受大神宮摂社の度會大國玉比賣神社[わたらいのおおくにたまひめ]「大国玉命、弥豆佐佐良比賣命」地主の神。三重県伊勢市豊川町 豊受大神宮宮域内 玄松子の記憶

清野井庭神社[キヨノヰハ]
豊受大神宮摂社の清野井庭神社[きよのいば]「草野姫命」屋船の神。三重県伊勢市常磐1丁目1197 玄松子の記憶
今社「鹿屋野姫命」 三重県伊勢市宮町1丁目1-8 玄松子の記憶

今社
由緒書き
当社の鎮座する地は、往古、井庭村或は井場村と称した。 この井庭村は、宮川の分流清川の沿岸地帯の清野と称する原野の一部であるが、『小 祠拾』に「井庭ハ今云フ堰ナリ、古ノ井、今ノ如ク土中ヲ掘リテ水ヲ汲ムコトナク、 流ノ涯ヲ穿チテ竹木ヲ以テ井ノ如トク囲ミ、其中ヘ川水ヲ引キテ水ヲクム。是ヲ井又 井場トモ言フ。是古ノ井ナリ。後世之ヲ井関トイフ。」とあるように清川に井場「堰 」を作り、水を汲んだことからこの名があるという。
当今社は、この古称の村名を以て社号としたものであるが、山田十二社の産土神の一 つとして、井庭村の産土神として崇敬された社であり、古くは井庭社、今村社、今村 殿などと称されたという。
また、『小祠拾』には、「今社上之久保ノ北ニ在、今村社トモ云、宝殿ナクシテ石壇 、鳥居アリ、社地広ク老樹数株アリ」とある如く、ただ石壇に霊石を奉安しただけの ものだったと言われ、明治四四年に神殿、拝殿を造立して、各神霊を奉安したもので あると伝えられている。
合祀に関しては、明治四一年三月に、常磐横町鎮座の無格社八幡社(譽田別命)、曽 祢町細川鎮座の無格社山神社(大山祗神)、曽祢町善光寺竹内世古鎮座の無格社曽祢 菅原社(菅原神)曽祢町高柳鎮座の無格社河合稲荷社(宇賀之御魂神)、曽祢町柳の 世古鎮座の無格社火除社(大巳貴神)を、翌四二年二月には、下仲之郷鳥帽子世古鎮 座の無格社神殿社(八衢比古神)常盤茶屋町鎮座の無格社塞神社(八衢比売神)をそ れぞれ合祀している。また、合祀年月は不詳であるが、曽祢町今世古鎮座の無格社清 川社(神名不詳)、宮川町奥ノ越鎮座の無格社秋葉社(神名不詳)も合祀している。

志等美神社[シトミ]
豊受大神宮摂社の志等美神社[しとみ]「久久能智神」木、堤防の神。三重県伊勢市辻久留町1丁目 玄松子の記憶

川原神社[カハラ]
皇大神宮摂社の川原神社「月読尊」三重県伊勢市佐八町泉水 玄松子の記憶

山末神社[ヤマスヱ]
豊受大神宮摂社の山末神社[やまずえ]「大山津姫命」御田口の泉の神。三重県伊勢市豊川町豊受大神宮宮域内 玄松子の記憶

大川内神社[オホカハチ]
豊受大神宮摂社の大河内神社「大山祇神」三重県伊勢市辻久留町1丁目 玄松子の記憶

棒原神社[オイハラ]
皇大神宮摂社の棒原神社[すぎはら]「天須婆留女命御魂、御前神」三重県度会郡玉城町上田辺 玄松子の記憶

川原神社[カハラ]
豊受大神宮摂社の河原神社「川神」水の神。三重県度会郡御薗村大字新開字下倉304 玄松子の記憶

宇須乃野神社[ウスノ]
豊受大神宮摂社の宇須乃野神社[うすのの]「宇須乃女命」五穀の神。三重県度会郡御薗村大字高向字南世古2653 玄松子の記憶

小俣神社[ヲマタ]
豊受大神宮摂社の小俣神社[おばた]「宇賀御魂神」三重県度会郡小俣町字裏町7281 玄松子の記憶

川原淵神社[カハラフチ]
豊受大神宮摂社の河原淵神社「宇賀御魂神」三重県伊勢市船江上社東隣 玄松子の記憶

大神乃御船神社[オホカミノミフネ]
皇大神宮摂社の御船神社[みふね]「大神御蔭川神」倭姫上陸の地と伝わる。三重県多気郡多気町大字地羽 玄松子の記憶

雷電神社[イカツチ]
皇大神宮摂社の湯田神社「大歳御祖神、御前神」三重県度会郡小俣町湯田983 玄松子の記憶
雷電神社「?」三重県度会郡小俣町掛橋 玄松子の記憶
高向大社「大山祇神」三重県度会郡御薗村高向二ツ屋七四 玄松子の記憶
神村社 三重県度会郡御薗村高向二ツ屋一一三 玄松子の記憶

荻原神社[ヲキハラ]
皇大神宮末社の葭原神社[あしはら]「佐佐津比古神、宇加御玉御祖神、伊加利比売命」佐佐津比古神は大歳神の御子神。三重県伊勢市中村町字向垣内724 月読宮域内 玄松子の記憶

官舎神社[ミヤケ]
官舎神社[いなお]「建御雷之男神、經津主神、天兒屋根命」三重県度会郡小俣町二見町大字三津263 玄松子の記憶

多氣郡[タケ]:五十二座並小

須麻漏賣神社[スマロメ]
二十五柱神社に合祀「譽田別命、埴安比賣神、大山咋神、庭高津日神、天鈿女神、天忍穗耳命、熊野久須毘命、天津彦根命、活津彦根神、多岐津比賣神、市杵嶋比賣命、天之穗日之命、奧津嶋命」三重県松阪市柿木原町52 阜嵐健
佐那神社に合祀 下段参照

佐那神社二座[サナ]
佐那神社[さな]「天手力男命 配 曙立王命 合 天宇受賣命、速玉男命、伊邪那美命、天照大御神、須佐之男命 など」三重県多気郡多気町仁田156

佐那神社
参拝のしおり
当神社には天手力男命を主神として、天宇受賣命など23柱祭神不詳二座をお祀りし ています。当社の創立年代は不詳ですが古事記に「次手力男神有坐佐那県也」と記載 されており、また、延喜式内社であり、当社のことを中宮と呼び高大な樹木が生い茂 っていたことから大森社などとも呼ばれて、千有余年を経過した古社であることも明 らかです。また、神宮、特に外宮とは徳川時代初期に至るまで深いかかわりがありま した。即ち、神宮の宮造使によって、20年に一度の社殿造り替えに預かった12社 中の1社であったこと、斎宮の祈年祭にも預かれる神社であったこと、外宮祢宜の勞 社として祝の制を定め、神田を設け、毎年2月神事が行なわれていたこと、などから 分かります。
明治41年ここ佐那神社に村内各字の神社を合祀、昭和18年県社に列せられ、戦後 宗教法人となっております。

櫛田神社[クシタ]
櫛田神社「大若彦命 ほか」 三重県松阪市櫛田町724
飯野高宮神山神社[いいのたかみやこうやま]摂社櫛田神社「櫛玉命、天忍穗耳命、須佐之男命、市杵嶋姫命、大若子命」三重県松阪市山添町4

加須夜神社[カスヤ]
加須夜神社[かすや]「出雲笠夜命」三重県伊勢市柏町1607-2 阜嵐健

加須夜神社
由緒書き
現在の加須夜神社は、昭和二六年三月一五日、旧北浜神社より分祀新設された神社で ある。
当社はもと、柏町一二九番地に鎮座する社で、古くから柏集落の産土神とし て奉斎されてきた社であった。
それが、明治の神社合祀令によって北浜神社に合祀され、廃社となっていたのを、新 たに分祀し、復活させたのである。
柏集落の産土神である村社加須夜神社の創祀については不詳であるが、『延喜式』神 名帳記載の「多気郡加須夜神社」に比定されていることからも、かなり古くから祀ら れていたと思われる。
長き亘って尊崇された当社も、先述のごとく、神社合祀の波に呑み込まれ、明治四二 年六月、境内神社油殿社(旧八王子と唱え、字油殿に鎮座していたのを文政四年《一 八二一》本社境内に遷宮)、同内山社(日吉権現と唱え、字内山に鎮座していたのを 文政四年《一八二一》本社境内に遷宮)、字柏殿鎮座の無格社古殿社、字北稲葉鎮座 の無格社浅間社字鍜治田鎮座の無格社水神社とともに、北浜村大字村松字西山、同村 大字東大淀字東山の立会地に新設された村社北浜神社に合祀統合される。
これにより加須夜神社は廃絶する。
しかし、何とか産土神を復活とせたいという敬神の念厚き氏子の総意により、昭和七 年一月、北浜村大字柏村一六〇七ノ二の現在地に、本殿、拝殿等の礼拝施設を調え、 北浜神社より分祀奉斎した。
この結果、加須夜神社は、柏の地に戻ったわけだが、未だ非公認の神社であり、北浜 神社の御旅所として祭祀を続けることしかできなかった。
戦後になって、昭和二六年三月、永年の苦労が結実し、神社本庁の設立承認を得、公 式に加須夜神社が設立され、今日に至っている。
当社は大堀川右岸、柏集落の南東の水田地帯に鎮座しているが、この柏という地名は 、『神鳳王鈔』に「糟屋御薗」とあり、社名も「加須夜神社」であることから、「カ スヤ」が「カシワ」に訛化したものだと言われている。
尚、この柏集落は、多気、度会の郡境に位置するため、古くは多気郡に、近世以降は 度会郡に属した。
昭和三〇年以降は伊勢市に属している。

竹神社[タケ]
竹神社「長白羽神」祓川の東に鎮座、斎王宮跡として史跡に指定された。三重県多気郡明和町斎宮字牛葉2757-2

竹神社
参拝のしおり 垂仁天皇の御代、竹連・竹氏という豪族、連は姓の祖、宇迦之日子の子、吉日子が天 照大神の奉行に供奉して、この地に留まり、孝徳天皇の御代に至って、竹郡創建の際 に、その末裔が当社を創祀した。竹吉日子については、「皇太神宮儀式帳」に、竹の 首吉比古の名がみえ、神社は櫛田川の古流祓川の東岸台地である竹川字中垣内(ふる さと地区)に祀られていた式内社である。斎王制度が固まっていくとともに、地名も 「竹の都」から「斎宮」に変わっていった。「斎宮」には「斎王」がおられ、天皇に 代わって、伊勢の神宮に仕えた。その役所である屯倉斎宮寮には往時500余人を数 える官人がおり、内院、中院、外院と17の社が祀られていた。斎王はこれらの社を 参拝せられた。「野々宮」もその一つであろう。天武天皇のとき、大伯皇女が斎王に 麻績氏が頭に任ぜられた。この麻績氏の祖が、長白羽命で当社の主祭神として祀られ ている。現在地の「野々宮」は「斎王の森」とともに斎王にゆかりの地であり、毎年 6月「斎王まつり」が行なわれる。

仲神社[ナカ]
大国玉神社摂社仲神社「豐城入彦命、須佐之男命」三重県松阪市六根町879
仲神社「神八井耳命」三重県多気郡明和町字仲畑245  阜嵐健

麻續神社[ヲミ]
麻續神社[おおみ]「豐城入彦命 配 豐鍬入姫命、須佐之男命、應神天皇、大己貴命、宇迦之御魂神、豐受比賣神」三重県多気郡明和町中海872  阜嵐健
皇大神宮末社の神麻續機殿神社[かんおみはたどの]「天八坂彦命」神麻續連の祖。両宮に供進する荒砂(麻布)を奉職する機殿の鎮守の神。三重県松阪市井口中町  玄松子の記憶

服部伊刀麻神社[ハトリノイトマ]
二十五柱神社に合祀「譽田別命、埴安比賣神、大山咋神、庭高津日神、天鈿女神、天忍穗耳命、熊野久須毘命、天津彦根命、活津彦根神、多岐津比賣神、市杵嶋比賣命、天之穗日之命、奧津嶋命」三重県松阪市柿木原町52 阜嵐健

相鹿牟山神社二座[アフカムヤマ]
相鹿上神社に合祀[おおかがみ]「天兒屋根命 配 大彦命、伊邪那岐命、天忍穗耳命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命、大鹿嶋命、巨狹山命、天穗日命、八衢比古命、久那斗命、火産靈命、宇迦之御魂命、菅原道眞、祭神不詳五座」三重県多気郡多気町相可464
川添神社「天手力男命、天建日別命 ほか」三重県多気郡大台町大字栃原1481阜嵐健
 三重県神社誌によると、御巫清直は『伊勢式内神社検録』で建比良辺神社(現在の川添神社)と比定している。

川添神社
社頭掲示
当神社は天手力雄命建日別命を鎮祭し、栃原村、新田村両郷の産土神として社名を建 日別神社と称し、古来栃原の大宮五身懸宮と伝習され、近郷に其名高く明治6年3月 郷社に列せられ、明治39年12月25日三重県告示第三百八十号を以て神饌幣帛料 供進社となる。次いで明治40年12月16日県の許可を得て、川添村内の村社7社 無格社4社境内社59社を合祀の上、川添神社と改称して今日に至る。

奈々美神社[ナゝミ]
奈々美神社「倉稻御魂命、建速須佐之男命、八柱神、天忍穗耳命、豐玉比賣命」三重県松阪市上七見町468 阜嵐健

魚海神社二座[イヲウミ]
大国玉神社摂社魚見神社[うおみ]「豐玉彦命 配 豐玉姫命、月讀荒魂命、天之忍穗耳命、須佐之男命」三重県松阪市魚見町815
大国玉神社摂社魚海神社「天之忍穗耳命 配 須佐之男命、火之迦具土命、應神天皇、大山津見命」三重県松阪市川島町183 阜嵐健

林社[ハヤシ]
津田神社「木俣神 合 久久野智命、大山祇命、木ノ國熊野三所明神 ほか」三重県多気郡多気町井内林159-1 阜嵐健
二十五柱神社に合祀「譽田別命、埴安比賣神、大山咋神、庭高津日神、天鈿女神、天忍穗耳命、熊野久須毘命、天津彦根命、活津彦根神、多岐津比賣神、市杵嶋比賣命、天之穗日之命、奧津嶋命」三重県松阪市柿木原町52

相鹿上神社[アフカノ・・]
相鹿上神社[おおかがみ]「天兒屋根命 配 大彦命、伊邪那岐命、天忍穗耳命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命、大鹿嶋命、巨狹山命、天穗日命、八衢比古命、久那斗命、火産靈命、宇迦之御魂命、菅原道眞、祭神不詳五座」三重県多気郡多気町相可字磯部寺464

守山神社[モリヤマ]
佐那神社[さな]「天手力男神、曙立王」三重県多気郡多気町仁田156
畠田神社「火之迦具土命、饒速日命、宇麻志麻治命 ほか」三重県多気郡明和町大字中村1029

宇尓櫻神社[ウニサクラ]
宇爾櫻神社[うにさくら]「木花之佐久夜毘賣命」三重県多気郡明和町有爾中679

宇尓神社[ウニ]
鳥墓神社に合祀「須佐之男命、倉稲魂神、埴安神 ほか」三重県多気郡明和町簑村字鳥墓 玄松子の記憶の鳥墓神社

服部麻刀万神社二座[ハトリノマトマ]
二十五柱神社「譽田別命、埴安比賣神、大山咋神、庭高津日神、天鈿女神、天忍穗耳命、熊野久須毘命、天津彦根命、活津彦根神、多岐津比賣神、市杵嶋比賣命、天之穗日之命、奧津嶋命」三重県松阪市柿木原町52 阜嵐健
神服織機殿神社[かんはとりはたどの]「天御鉾命(鉾は木へん)、天八千々姫」神服部連の祖と織子などの祖。神服織機殿神社の源。三重県松阪市大垣内町字西山 玄松子の記憶

大海田水代大刀自神社[アマノタミツ]
宇田の明神 三重県多気郡明和町竹川万町 阜嵐健

相鹿木大御神社[アフカコタノ] 所在不明

紀師神社[キシ]
紀師神社「?」三重県松阪市庄町宮脇  阜嵐健

宇留布都神社[ウルフツ]
大国玉神社摂社宇留布津神社[うるふつ]「埴安姫命、大綿津見命」三重県松阪市六根町879
宇気比神社「?」三重県多気郡明和町内座字東浦 未確認

天香山神社[アマノカコヤマ]
大国玉神社摂社天香山神社[あまのかぐやま]「八柱命 配 高嵜姫 主 須佐之男命、伊邪那岐命」三重県松阪市保津町817
八柱神社「?」三重県多気郡明和町字かまくら 阜嵐健

穴師神社[アナシ]
穴師神社「建速須佐之男命 配 穴織神、天忍穗耳命、大山祇命」三重県松阪市立田町550

流田神社[ナカレタ]
二十五柱神社に合祀「譽田別命、埴安比賣神、大山咋神、庭高津日神、天鈿女神、天忍穗耳命、熊野久須毘命、天津彦根命、活津彦根神、多岐津比賣神、市杵嶋比賣命、天之穗日之命、奧津嶋命」三重県松阪市柿木原町52
飯野高宮神山神社摂社清水神社に合祀「水神、埴安神」三重県松阪市清水町大里付近に比定地説あり

畠田神社三座[ハタケタ]
畠田神社「火之迦具土命、品陀和氣命、埴安比賣命、建速須佐之男命、豐宇氣比賣命、火産靈命、饒速日命、宇麻志麻治命、天忍穗耳命 、天之穗日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命、多紀理姫命、市杵嶋姫命、多岐都姫命、菅原道眞、大日命 、大山祇命、伊豆乃賣命、蛭子命、入船姫命、宇迦魂命、土之御祖命、彌津波能女命」三重県多気郡明和町中村1029

流田上社神社[ナカレタノウヘノ・・]
二十五柱神社に合祀「譽田別命、埴安比賣神、大山咋神、庭高津日神、天鈿女神、天忍穗耳命、熊野久須毘命、天津彦根命、活津彦根神、多岐津比賣神、市杵嶋比賣命、天之穗日之命、奧津嶋命」三重県松阪市柿木原町52 阜嵐健

石田神社[イハタ]
畠田神社に合祀 式内畠田神社に掲載済み 三重県多気郡明和町中村1029

火地神社[ヒチ]
竹神社に合祀「長白羽神、天照大御神、建速須佐之男命、八柱神、應神天皇、地主神、火産靈神、宇迦之御魂神、大己貴命、天棚機姫命、八千千姫命、瀬織津姫神」三重県多気郡明和町斎宮2757-1

佐伎栗栖神社二座[・・クルス]
畠田神社に合祀 式内畠田神社に掲載済み 三重県多気郡明和町中村1029

竹大與杼神社[タケオホヨト]
竹大與杼神社[たけおおよど]「建速須佐之男命 合 靈符神、白峯神 ほか」垂仁天皇の26年。三重県多気郡明和町大字大淀乙1 阜嵐健

竹大與杼神社
参拝のしおり
当社の創立は垂仁天皇の26年秋、皇女倭姫命が皇大神宮の鎮座地を求めて、佐々牟 江行宮から、御遷幸の際、この大淀浦を航海の時、風浪がなく海水が、大与度美に淀 んで、御船の航路が安泰であったので、命は大いに悦ばれて、この地方の総氏神とし て、大淀の宮を定められたと伝えられています。
延喜式内社に列し、神祇官より幣帛を奉献されました。明治4年神宮制度改革まで、 皇大神宮の80末社の1つであり、神宮が管理された社です。

竹佐々夫江神社[タケサゝフエ]
竹佐々夫江神社[たけささふえ]「建速須佐之男命 配 大歳神、栲幡千千姫命」三重県多気郡明和町山大淀3004 阜嵐健

捧屋神社[オイクラ]
棒屋神社「五十猛命」三重県松阪市菅生町字下山

伊佐和神社[イサワ]
伊佐和神社「建速須佐之男命」三重県松阪市射和1073

牟禮神社[ムレ] 所在不明

有貳神社[ウニ]
明星神社に合祀[みょうじょう]「建速須佐男命 配 熊野樟日命、天忍穗耳命、田心姫命、天穗日命、市杵嶋姫命、活津彦根命、湍津姫命、天津彦根命、天照皇大神」三重県多気郡明和町大字明星985

國生神社[クナリ] 所在不明
鳥墓神社三重県多気郡明和町簑村字鳥墓  玄松子の記憶

大國玉神社[オホクタマ]
大国玉神社「大國御魂神 配 大上御祖神、市杵嶋姫命、菅原道眞、早玉男命、須佐之男命」三重県松阪市六根町879

大分神社[オホワケ]
相生神社に合祀[あいをい]「須佐之男命、多紀理毘賣命、市寸嶋比賣命、多岐都比賣命、天忍穗耳命、天菩卑命、活津日子根命、天津日子根命、熊野久須毘命、天手力男命、宇迦之御魂神、御年神」三重県多気郡相可町大字兄国字平25 阜嵐健

國乃御神社[クニノミ]
畠田神社に合祀 式内畠田神社に掲載済み

櫃倉神社[ヒツクラ]
畠田神社に合祀 式内畠田神社に掲載済み
津田神社に合祀「木俣神 合 天之忍穗耳命、天津日子根命、熊野久須比命、天之菩卑能命、活津日子根命、多紀理毘賣命、市寸嶋姫命、田岐都比賣命、久久野智命、大山祇命、蛭子命、大物主命、木花開耶姫命、譽田別尊、天兒屋命、火之加具土命、天照皇大神、猿田彦命、八衢比古命、八衢比賣命、久那斗命、木ノ國熊野三所明神、菅原道眞、火産靈命、春日大神」三重県多気郡多気町井内林159-1

伊蘇上神社[イソノカミ]
相鹿上神社に合祀[おおかがみ]「天兒屋根命 配 大彦命、伊邪那岐命、天忍穗耳命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命、大鹿嶋命、巨狹山命、天穗日命、八衢比古命、久那斗命、火産靈命、宇迦之御魂命、菅原道眞、祭神不詳五座」三重県多気郡多気町相可字磯部寺464

伊呂上神社[イロノウヘ]
畠田神社に合祀  式内畠田神社に掲載済み

櫛田槻本神社[クシタツキモト]
櫛田神社「奇日方命」もしくは「櫛玉命、天忍穗耳命、須佐之男命、市杵嶋姫命、大若子命」三重県松阪市櫛田町724 阜嵐健

牛庭神社[ウシニハ]
牛庭神社[うしば]「素盞嗚命、庭高津日命、大山祇命、天之忍穗耳命、大山咋命、火遠理命」三重県松阪市蛸路町1281
二十五柱神社「譽田別命、埴安比賣神、大山咋神、庭高津日神、天鈿女神、天忍穗耳命、熊野久須毘命、天津彦根命、活津彦根神、多岐津比賣神、市杵嶋比賣命、天之穗日之命、奧津嶋命」三重県松阪市柿木原町52 阜嵐健
伊勢庭神社「?」三重県松阪市伊勢場町 歴史散歩

大櫛神社[オホクシ]
飯野高宮神山神社に合祀「猿田彦命、天鈿女命」三重県松阪市山添4

飯野郡[イヒノ]:四座並小

意非多神社[オヒタ]
意非多神社[おいた]「伊毘志都幣命」元明天皇御宇和銅元年。三重県松阪市西黒部1746 阜嵐健

神山神社[カムヤマ]
飯野高宮神山神社「猿田彦命、天鈿女命」三重県松阪市山添町4

石前神社[イワサキ]
石前神社[いわさき]「道之長乳齒神、事代主神、天照大神、熊野大神、天忍穗耳命、火遠理命、火之迦具土神、天兒屋根命、譽田別尊」三重県松阪市中万町字戸笠724-3

神垣神社[カムカキ]
神垣神社「?」三重県松阪市高木町530-1 阜嵐健

飯高郡[イヒタカ]:九座並小

立野神社[タチノ]
松尾神社「大山咋命、倉稻魂命、五十猛命、建速須佐之男命、櫛稻田姫命、物部建彦連公 ほか」三重県松阪市立野町786

大神社[オホワ]
伊勢寺神社に合祀「建速須佐之男命、大山祇神、大物主命、天火明命、鹽土神、宇迦魂命、稻田姫命、伊弉諾命、別雷命、月讀神、菅原道眞、譽田別命、天兒屋根命、木花佐久夜毘賣命、高皇産靈神、天鈿女命、金山彦命、聖武天皇、八柱皇大神、淳仁天皇、祭神不詳」三重県松阪市伊勢寺町相田972 天璽瑞宝

物部神社[モノゝヘ]
伊勢寺神社に合祀 前掲

加世智神社[カセチ]
加世智神社[かせち]「風木津別忍男神 合 八意思兼神、豐玉姫神、大山咋神、建速須佐之男神、天津日子根神、白山比神、橘姫神、須勢理姫神、活津日子根神、積羽八重事代主神、鹽土老翁、火之迦具土神、天忍穗耳神、熊野久須毘神、天押足彦神、天水分神、白髮神、市寸嶋比賣神、多紀理毘賣神、乙加豆知神、金山毘古神、闇於加美神、多岐津姫神、天兒屋根神、豐玉彦神、品陀別神、宇加御魂神、菅原道眞、大山祇神、天之菩卑能神」三重県松阪市大平尾町67 大三元:風木津別忍男命・考  阜嵐健

意悲神社[イヒ]
松阪神社「譽田別命、宇迦御魂神 合 伊邪那岐尊、伊邪那美尊、建速須佐之男尊、天御柱命、國御柱命、稚日女命」三重県松阪市殿町1445 あちこち神社
神戸神館神明社[かんべこうたちしんめいしゃ]「天照皇大神、豐受大神、正勝吾勝勝速日天忍穗耳命、木花開耶姫命、大山祇神、倭姫命、乙伊加豆知命」三重県松阪市下村町1791 阜嵐健

丹生神社[ニフ]
丹生神社「埴山姫命 配 美津波女命 合 田山比賣命、月讀命 ほか」三重県多気郡勢和村大字丹生字馬宝殿3999

丹生中神社[ニフノナカ]
丹生神社境内の丹生中神社「譽田別命 合 五柱男命、三柱女命、蛭子命」三重県多気郡勢和村大字丹生字馬宝殿3999

堀坂神社[ホリサカ]
伊勢寺神社に合祀 式内大神社に掲載済み

久尓都神社[クニツ]
加世智神社に合祀 式内加世智神社に掲載済み 阜嵐健

壹志郡[イチシ]:十三座 大三座 小十座

波多神社[ハタ]
波多神社「水分神 配 宇賀神、倉稻魂神、大日尊、月讀尊、應神天皇」三重県一志郡一志町八太1187 阜嵐健
波多神社「大日命、少名毘古那命、須佐之男命、多紀理比賣命、市杵嶋比賣命、多伎都比賣命、正哉吾勝勝速日天忍穗耳命、天之菩毘命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命」三重県一志郡一志町庄村256 阜嵐健

物部神社[モノゝヘ]
物部神社「宇麻志摩遲命」三重県久居市新家町563

稲葉神社二座[イナハ]
稲葉神社「伊佐波登大明神、大年命、玉柱屋姫命」三重県久居市稲葉町462 阜嵐健
香良洲神社[からす]「稚日女尊 配 御歳神」稚日女尊は天照大御神の御妹神、生田神社から欽明天皇の御宇に勧請。
三重県一志郡香良洲町3675 阜嵐健香良洲神社

香良洲神社
由緒略記
稚日女尊は天照大御神の御妹神にあらせられ、第二十九代欽明天皇の御宇(今よりお よそ1,400年前)、生田の長峡(現在の神戸市生田神社)から勧請申し上げおま つりした神社です。
そもそもこの神様は神功皇后(第十四代仲哀天皇の皇后)が三韓御征討凱旋のみぎり 、難波の海(今の大阪湾)が荒れて船先がみだれた時、この神、その軍船を御導き給 い無事御上陸になられたので、住吉、長田の神と共にこの神を生田におまつりににな られたのが今の生田神社であります。
降って欽明天皇の御代にいたって一志の須で(浜洲)夜な夜な御神火が見えるので、 地人(里人)神意を畏れ、騒ぎも一通りでなく、これを知った一志直青木といえる人 が一夜神のみこころを仰がんものと海辺に出て御神誨を乞い奉ったところ、吾は生田 の長峡に坐す稚日女神である、姉神の在す、神風伊勢のこの地に鎮まりたいとの御告 げがあり、青木恐懼直ちに生田より御勧請、祠を造営し祭祀を行い、長くこの地に奉 斎することになりました。
この神、姉天照大御神の御意により機殿にまして、きぬを織らせ給うおり素神が天班 駒の膚をはぎその機殿に投げ入れ給うたため傷つかれ神去り給うた。その時の御言葉 により婦人の守護神としての信仰厚く、尚機殿にまして機織のことに従事せられたこ とにより、後世紡績界にもその信仰深く、また神功皇后の軍船を守護せられお導きに なられたことをあがめ航海の神、海の守りの神としての信仰もまた非常に厚いのであ る。

須加神社[スカ]
須賀神社「道主貴神 合 素盞嗚尊 ほか」三重県一志郡嬉野町大字権現前422 阜嵐健

阿射加神社三座[アサカ](並名神大)
阿射加神社[あざか]「猿田彦大神、伊豆速布留神、竜天大神」本居宣長は、祭神三座を、猿田彦神が海に溺れた時に現れた三つの御魂、底度久御魂、都夫多都御魂、阿和佐久御魂とする。
三重県松阪市小阿坂町120 神々の坐す杜

阿射加神社
阿射加神社と猿田彦大神
神代の昔我が伊勢の国をお治めになってゐたのは猿田彦の大神でありました。此の猿 田彦の大神が御かくれになったのが阿邪訶(アザカ)の海であります。阿邪訶は阿射 加又は浅香とも書き、後世は専ら阿坂の字を用いてゐます。 ところでここに一つの疑問は阿邪訶の海と云ふことであります。人も知る如く今日の 松阪市小阿坂町は、伊勢湾の海岸からそ凡二里を距る山寄りになりますが、太古に阿 邪訶と申したのはずっと広い地域を籠めて申した者で、大たい一志郡東部の平坦地の 総称であったと思われ、具の阿邪訶の親村が今日の阿坂であったと考へられるのであ ります。阿坂と云ふところは伊勢の国の内で最も古い歴史を有ったところで、既に神 代の昔から知られていました。恐らく日本の内でも最も早く開けたところでありませ う。

而して我が伊勢の国の内何処が一番肥沃であるかと申し燃すと、それは一国の胴部に あたる一志郡の平野、即ち古への阿邪訶の地であります。猿田彦の大神は恐らく此の 阿邪訶を中心として伊勢の国を統治なさってゐたものと思います。

松阪市小阿坂町には阿射加神社と申す古い神社今も昔ながらに御鎮座になって居ます が、此の阿射加神社こそは猿田彦の大神を斎き祀るところの神社であるのであります 。古代伊勢の中心である小阿坂町に伊勢の国つ神出あられた猿田彦の大神を奉祀するところの阿射加神社が鎮まり坐ますことは、極めて古い御歴史と、最も深い御由緒と によらなければなりません。

古へは毎年二月の祈念祭と、六月十二月の月次祭と、十一月の新嘗祭とに朝廷の神祇 官に於いて、由緒ある神社への班弊が行われ、おほ祈念祭には、諸国の国史庁に於い ても班弊が行われました。其の班弊に預かり給ふ神社、即ち官弊社、国弊社の社名を 朝廷の方で登録した帳簿がありました。それが即ち醍醐天皇の御代に勅命を以て編纂 せしめられた延喜式に載するところの神名帳上下二冊であり、其の神名帳に出て居る 神社のことを式内社と申して居りました。また諸国の神社の内で特に朝廷の御崇敬の 事実が日本書記以下の勅撰の歴史、所謂六国史に載せられてゐる神社のことを、国史 、現在社と云ひ習わして参りました。伊勢松阪市の阿射加神社は式内社であると同時 に、また国史現在社でもあったのであります。

式内社は日本全国に亘って沢山有りました。其の総数は三千一百三十二座にも及んで 居りまたが、それらは総て大社と小社とに区別されてゐました。我が伊勢の国に於い ては、式内社総数二百五十三座の内、大社が十八座で、他の二百三十五座は皆小社で ありました。其の大社十八座の内、七座は皇大神社と度会宮即ち豊受大神宮、七座は 其の別宮で、残る四座の内の一座が桑名郡の多度神社、三座が松阪市の阿射加神社で あったのであります。即ち我が伊勢に於いて、神宮に亜いで尊い神社とは申せば、そ れは阿射加神社であったのであります。

而して其の御祭神の三座とありますのは、猿田彦の大神がおかくれになる時に現れ給 うた三つの御魂、底度久御魂、都夫多都御魂、阿和佐久御魂をお祀りしたものでせう 。なほ阿射加神社は式内大社であったばかりでなく朝廷に於いて最も重しとせられた 名神の祭にまでも預かって居られるものであります。式内大社にして名神祭に預られ ることは、とうじの神社としては最高至上の御資格でありました。阿射加神社は実に かくの如き尊い社格を有せらるるところの名社であったのであります。

以上述べましたところの事実は、阿射加神社に対し朝廷に於いて如何に尊崇を尽くさ れたかを物語るものでありますが、なほ此のことを立証するものとして、仁明天皇の 承和二年本社に従五位下の神位を授けられ、尋いで文徳天皇の嘉詳三年には従五位上 を司斎二年には従四位下を、清和天皇の貞観元年には従四位上を授けられ、更に同八 年従三位に進められた事実を挙げ得るものであります。そもそも本社に対し朝廷がか くの如く崇敬を尽くされた所以のものは何でありませうか。それは申すまでもなく、 御祭神として仰ぎまつる猿田彦の大神嚇々たる御神内と洪大無辺なる御神威、御神徳 によるものであります。

天孫瓊々杵尊が初めて此の豊葦原の瑞穂の国へ天降り坐した時、其の御途上、天の八 衢と云ふところまで御いでになりました。天の八衢とは道が幾条にも分かれてゐる分 岐点を意味するものでありまして、天孫は御前途を果たして何れの道に取らせるべき か大いに御迷ひになりました。然るに猿田彦の大神果たして天孫降隣の御事を聞かれ て、取り敢闘へず天の八衢までお迎えに上られました。さうして天孫の御進みになる べき御道筋について具さに奉上され、天孫はその猿田彦の大神の御指示のままに、日 向の高千穂の峰にお降りになったのであります。若し其の猿田彦の大神がお迎えに上 られなかったならば天孫は如何にお困りになったことでせう。或は取るべき道を踏み 違え給ふて、とんでもないところへ迷い入られ、終には此の瑞穂の国へ御到着荷なる ことが出来なかったかも知れません。天孫が御恙なく日向の国に御降隣になることを 得させられたのは、全く猿田彦の大神導きの功であったと申し上げなければなりませ ん。

猿田彦の大神は我が伊勢の国の国津神であられます。同時に皇大神宮の御宮地に対し ては、地主の神として申し上ぐべき神であります。古来二十年毎に行われる神宮の式 年遷宮諸祭中の地鎮祭には、宮処を敷き坐す神を祭りますが、其の神内で最も重要な る位置を占められるところの神猿田彦の大神でありませう。神宮の地主神として御宮 地を長へに護り給ふところの猿田彦の大神は、また地祭りの神として日本国民の上に 洪大なる神恵を垂れ給府のであります。

このように阿射加神社は猿田彦の大神を、お祀りする神社の中で最も由緒ある神社で あります。この猿田彦の大神御事蹟にも明らかなように、道案内の神、つまり地鎮の 神であると共に交通安全の神として敬い奉られるわけであります。

松阪市小阿坂町百二十番地
鎮座阿射加神社 
阿射加神社と猿田彦大神
神代の昔、我が伊勢の国をお治めになってゐたのは猿田彦の大神でありました。此の 猿田彦の大神が御かくれになったのが阿邪訶の海であります。阿邪訶は阿射加又は浅 香とも書き、後世は専ら阿坂の字を用いてゐます。ところでここに一つの疑問は阿邪 訶の海と云ふことであります。人も知る如く今日の松阪市小阿坂町は、伊勢湾の海岸 からそ凡二里を距る山寄りになりますが、太古に阿邪訶と申したのはずっと広い地域 を籠めて申した者で、大たい一志郡東部の平坦地の総称であったと思われ、具の阿邪 訶の親村が今日の阿坂であったと考へられるのであります。阿坂と云ふところは伊勢 の国の内で最も古い歴史を有ったところで、既に神代の昔から知られていました。恐 らく日本の内でも最も早く開けたところでありませう。而して我が伊勢の国の内何処 が一番肥沃であるかと申し燃すと、それは一国の胴部にあたる一志郡の平野、即ち古 への阿邪訶の地であります。猿田彦の大神は恐らく此の阿邪訶を中心として伊勢の国 を統治なさってゐたものと思います。松阪市小阿坂町には阿射加神社と申す古い神社 今も昔ながらに御鎮座になって居ますが、此の阿射加神社こそは猿田彦の大神を斎き 祀るところの神社であるのであります。古代伊勢の中心である小阿坂町に伊勢の国つ 神出あられた猿田彦の大神を奉祀するところの阿射加神社が鎮まり坐増すことは、極 めて古い御歴史戸、最も深い御由緒とによらなければなりません。古は毎年二月の祈 念祭と、六月十二月の月次祭と、十一月の新嘗祭とに朝廷の神祇官に於いて、由緒あ る神社への班弊が行われ、おほ祈念祭には、諸国の国史庁に於いても班弊が行われま した。其の班弊に預かり給ふ神社、即ち官弊社、国弊社の社名を朝廷の方で登録した 帳簿がありました。それが即ち醍醐天皇の御代に勅命を以て編纂せしめられた延喜式 に載するところの神名帳上下二冊出あり、其の神名帳に出て居る神社のことを式内社 と申して居りました。また諸国の神社の内で特に朝廷の御崇敬の事実が日本書記以下 の勅撰の歴史、所謂六国史に載せられてゐる神社のことを、国史、現在社と云ひ習わ して参りました。伊勢松阪市の阿射加神社は式内社であると同時に、また国史現在社 でもあったのであります。式内社は日本全国に亘って沢山有りました。其の総数は三 千二百三十二座にも及んで居りまたが、それらは総て大社と小社とに区別されてゐま した。我が伊勢の国に於いては、式内社総数二百五十三座の内、大社が十八座で、他 の二百三十五座は皆小社でありました。其の大社十八座の内、七座は皇大神社と度会 宮即ち豊受大神宮、七座は其の別宮で、残る四座の内の一座が桑名郡の多度神社、三 座が松阪市の阿射加神社であったのであります。即ち我が伊勢に於いて、神宮に亜い で尊い神社とは申せば、それは阿射加神社であったのであります。而して其の御祭神 の三座とありますのは、猿田彦の大神がおかくれになる時に現れ給うた三つの御魂、 底度久御魂、都夫多都御魂、阿和佐久御魂をお祀りしたものでせう。なほ阿射加神社 は式内大社であったばかりでなく朝廷に於いて最も重しとせられた名神の祭にまでも 預かって居られるものであります。式内大社にして名神祭に預られることは、とうじ の神社としては最高至上の御資格でありました。阿射加神社は実にかくの如き尊い社 格を有せらるるところの名社であったのであります。以上述べましたところの事実は 、阿射加神社に対し朝廷に於いて如何に尊崇を尽くされたかを物語るものであります が、なほ此のことを立証するものとして、仁明天皇の承和二年(八三五年)本社に従 五位下の神位を授けられ、尋いで文徳天皇の嘉詳三年(八五〇年)には従五位上を斎 衡二年(八五二年)には従四位下を、清和天皇の貞観元年(八五九年)には従四位上 を授けられ、更に同八年(八六六年)従三位に進められた事実を挙げ得るものであり ます。そもそも本社に対し朝廷がかくの如く崇敬を尽くされた所以のものは何であり ませうか。それは申すまでもなく、御祭神として仰ぎまつる猿田彦の大神嚇々たる御 神内と洪大無辺なる御神威、御神徳によるものであります。天孫瓊々杵尊が初めて此 の豊葦原の瑞穂の国へ天降り坐した時、其の御途上、天の八衢と云ふところまで御い でになりました。天の八衢とは道が幾条にも分かれてゐる分岐点を意味するものであ りまして、天孫は御前途を果たして何れの道に取らせるべきか大いに御迷ひになりま した。然るに猿田彦の大神果たして天孫降隣の御事を聞かれて、取り敢闘へず天の八 衢までお迎えに上られました。さうして天孫の御進みになるべき御道筋について具さ に奉上され、天孫はその猿田彦の大神の御指示のままに、日向の高千穂の峰にお降り になったのであります。若し其の猿田彦の大神がお迎えに上られなかったならば天孫 は如何にお困りになったことでせう。或は取るべき道を踏み違え給ふて、とんでもな いところへ迷い入られ、終には此の瑞穂の国へ御到着荷なることが出来なかったかも 知れません。天孫が御恙なく日向の国に御降隣になることを得させられたのは、全く 猿田彦の大神導きの功であったと申し上げなければなりません。猿田彦の大神は我が 伊勢の国の国津神であられます。動じに皇大神宮の御宮地に対しては、地主の神とし て申し上ぐべき神であります。古来二十年毎に行われる神宮の式年遷宮諸祭中の地鎮 祭には、宮処を敷き坐す神を祭りますが、其の神内で最も重要なる位置を占められる ところの神猿田彦の大神でありませう。神宮の地主神として御宮地を長へに護り給ふ ところの猿田彦の大神は、また地祭りの神として日本国民の上に洪大なる神恵を垂れ 給府のであります。このように阿射加神社は猿田彦の大神を、お祀りする神社の中で 最も由緒ある神社であります。この猿田彦の大神御事蹟にも明らかなように、道案内 の神、つまり地鎮の神であると共に交通安全の神として敬い奉られるわけであります 。松阪市小阿坂町鎮座阿射加神社


阿射加神社「猿田比古大神、伊豆速布留神、底度久神」三重県松阪市大阿坂町670 神社に行こう!

神社[ハテ]
神社[はて]「火雷神 合 大屋津姫命、建速素盞嗚尊 ほか」桓武天皇の御代。三重県一志郡一志町波瀬4248
神社「天棚機姫命」三重県一志郡三雲村星合507

小川神社[ヲカハ]
小川神社「高淤加美神 ほか」三重県一志郡嬉野町中川674 阜嵐健
宇気比神社「木花開耶比賣命、仁徳天皇、地主神、大山祇命、應神天皇、建速須佐之男命、火具津智命、宇加魂命」三重県一志郡嬉野町上小川1724 神社のある風景

射山神社[サヤマ] 
射山神社[いやま]「大名貴命、少名彦命」三重県久居市榊原町5073 阜嵐健

射山神社
延喜神名帳に列する射山神社は、大巳貴命と少彦名命を祭神とする、温泉の神として 射山にまつられた。
射山は、新生代の貝の化石が多く含まれることから、のちに貝石山(かいせきさん) と名を変えている。また射山は、湯山が転じたとされ、ふもとを流れる御湯之瀬(榊 原川)の右岸に拝殿が、さらに南百メートルに一の鳥居があって、これら三点は一直 線上に配置されている。
南北朝のころ、榊原氏が隆盛であった期間は、同氏一族の氏神として、神紋に源氏車 を取り入れている。しかし、同氏没落後は惣住民の氏神と変わり、天正十六年(15 88)三月十五日に、社殿を拝殿のあった現在地に遷した。 江戸時代には、別名「湯之大明神」のほか「鎰取大明神」とか「氏山御前」とも言っ ており、末社には熊野権現、天照皇太神宮、牛頭天皇、愛宕社の四社をまつっている 。
さらに明治になって諏訪神社、伊豆権現、八幡神社など、村内各地の神社を合祀して いる神社境内には、神殿、拝殿のほか、戦没者の霊をまつる英霊殿があり、榊原地名 の起源となった長命水榊の井は、道路を隔てて御手洗場に。また、神社背後には神湯 として、江戸時代湯治場を栄えさせた湯元跡が、神湯館敷地内に残されている。

川併神社[カハアヒ]
川併神社[かわい]「正哉吾勝勝速日天忍穗耳命、天之穗日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘賣命、多岐都毘賣命、市杵嶋毘賣命 配 建速須佐之男命、波迩夜須毘賣命」三重県久居市須賀瀬町1657 阜嵐健
川併神社「天忍穗耳命、天之菩卑能命、天津彦根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理毘賣命、市杵嶋比賣命、多氣都比賣命、建速須佐之男命、天照大神」三重県久居市元町2099 阜嵐健

太神社[トシタ]
敏太神社[とした]「彦火火出見命、豐玉姫命」三重県久居市戸木町2436 七竃
敏太神社[みぬだ]「譽田別尊、神功皇后、住吉神、鹿嶋神、枚岡神、香取神、比賣神、熱田神、加茂神、建速須佐之男命、市杵嶋姫神、蛭兒神」三重県松阪市美濃田町950-1 阜嵐健

安濃郡[アノ]:十座並小

置染神社[オキソメ]
置染神社[おきそめ]「神饒速日命 ほか」三重県津市三品484 置染神社

置染神社
鎮座地 津市大字産品四八四
御祭神 神饒速日命 天照大御神 火産靈神 仁徳天皇 須佐之男命 大山祇命
例祭 四月二日

由緒
創祀は、延喜以前であるが年代は不明である。長谷置染連がその祖先、神饒速日命を 祭り産土神としたのが創祀と伝えられる。明治四十年に山神社を、明治四一年に若宮 八幡社、須賀神社を合祀した。

大市神社[オホイチ]
大市神社「大市比賣命」三重県安芸郡安濃村妙法寺824
大市神社「大市比賣命 配 祖母嶽神、罔象女神 ほか」三重県津市岩田6-24 阜嵐健

大市神社
大市神社略記
一、祭神
大市比売命(須佐之男命御后)
一、由緒
鎮座の年代は明らかでないが当社は、元石田川(岩田川)の川辺の松樹の下にあった ので川松明神と呼ばれて居ります。
ここに鎮座されたいわれは津市を距る事一里現在の安芸郡村主村が大市村と呼ばれて 居た時にその河辺に延喜式内大市神社が石田川の洪水の時に流失して石田村の河辺の 古松にかかったので里人が之を引上げて鎮祭し川松社と云った。神威が著明なので石 田村の産土神と崇敬される様になり河辺に鎮座後度々の水害を免れたので何時の頃か らか現在の社地へ遷座して社殿、拝殿等を建設されたのであります。其の際神社の前 に人家が無く往来だけであったのでここを宮之前と云い且神名を川松明神と唱え大市 神社と通称せられる様になったのであります。
明治十五年五月一日郷社に列格許可になり、又明治四十年十一月八日に(佐伯町鎮座 )佐伯社(山中町鎮座)山中社(綿内町鎮座)須貿神社が合祀され、同年十二月十八 日に(柳山町鎮座)津興神社明けて明治四十一年一月十一日に(船頭町鎮座)船積伊 奈利神社、同年三月十一日に(伊予町鎮座)伊奈利神社がそれぞれ合祀されたのです 。尚昭和二十年終戦後社格が廃止されました。
一、大市神社年中行事
一月一日 元旦祭、 一月十五日 成人の日、 二月三日 節分祭、 二月十一日  建国記念日、 三月初午日 初午祭、 三月春分の日、 四月初旬 祈年祭、 五月 三日 憲法記念日、 五月五日 こどもの日、 六月三十日 大祓、 七月十三日  須賀社祭(祇園祭)、 九月十五日 敬老の日、 九月秋分の日、 十月九・十日  例祭、 十月二十一日 例祭(祭典)、 十一月三日 文化の日、 十一月六日 山 神祭、 十一月二十三日 勤労感謝の日、 十一月二十四日 佐伯祭、 十二月初旬  新嘗祭、 十二月二十三日 天長祭、 十二月三十一日 除夜祭、 毎月一日、十 五日、二十一日は月次祭

志夫弥神社[シフミ]
志夫美神社「?」三重県津市渋見町 阜嵐健
國魂神社「國狹槌尊、豐斟渟尊、泥土煮尊、沙土煮尊、大戸道尊、大戸邊尊、面足尊、惶根尊」三重県津市西古河町23-16 阜嵐健

國魂神社
正一位國魂神社御由緒略記 三重県津市西古河町鎮座
國魂神社について
國魂神社は昔から「くにたまさん」「八王子さん」(はっちょいさん)「宮さん」と いって、氏子の方々から親しまれて、地元はもとより広く人々の限りない崇敬と信仰 を集めています。
一、御祭神
國狭槌尊(くにさづちのみこと) 豊斟渟尊(とよくもぬのみこと) 泥土煮尊(う ひぢにのみこと) 沙土煮尊(すひぢにのみこと) 大戸邊尊(おおとのべのみこと ) 大戸道尊(おほとのべのみこと) 面足尊(おもだるのもこと) 惶根尊(かし こねのみこと) 他二十七柱を、お祀りしております。
二、御由緒
國魂神社は天地造化の神、八柱の神を祀り八王子社と稱し、延喜(九〇一)以前にす でに存在していた非常に古い神社で、今から一一四〇年の昔、仁明天皇の御世に「嘉 祥三年(八五〇)九月二十一日 奉遷宮」と明記した古い棟札が現存する。慶長十三 年(一六〇八)藤堂高虎公の城郭拡張の際、全村西に移され現在の地に鎮座し、藩主 、藩士の崇敬篤く、宝暦九卯年(一七五九)後桜町天皇より神階正一位の勅額を賜っ た。明治四年八柱神社と改称、更に同四十一年三月國魂神社と改称され、同年九月に 近在の村社八社、無格社及び境内社等を合祀し、祭神三十五柱を奉斎することになっ た。
合祀した重なる御祭神は、建速須佐之男命、大国主命、稲倉魂命、仁徳天皇、応神天 皇、菅原道真、月讀命、志夫美宿祢命、等である。

小丹神社[ヲニ]
小丹神社[おにの]「埴夜須毘賣命、大山祇神 配 須佐之男命、譽田別命、月夜見命」景行天皇の御代。三重県津市上浜町6-56-1 阜嵐健

小丹神社
社頭掲示板
一、御祭神
主神 埴夜須毘賣命 須佐之男命
一、御例祭 十月十一日
一、御鎮座の由来並に沿革
1、 社伝に「景行天皇の御代に勧請す」とあり御鎮座の悠遠なことが窺はれる。
1、 延喜式内社、 今を遡る 一千五十年余年前醍醐天皇の御代延喜の制、神明式に 「伊勢國安濃郡十座、、、小丹神社」と登載されてあり、千古の歴史を有つ古社であ ります。
1、 往古は安濃郡小丹郷に御鎮座であったが、「明應七年(四百八十 余年前)地震高波の為に神社と郷民は小丹塩屋に遷移す」、移る数日間に小丹郷と社 地は陥没して海と化してしまった。其の後「慶安三年(三百二十余年前)大洪水あり 、神社を上浜西の山に遷座す」と即ち現在の鎮座地であります。
1、 氏子並びに崇敬者 上浜町、江戸橋町、栄町四丁目旧余慶町一円、栄町一丁目旧茶屋町一円、桜橋二丁目 、仝三丁目南北旧松本崎一円、大谷町等広域の産土神として鎮守神としてその尊崇が 極めて篤い。

美濃夜神社[ミノヤ]
美濃夜神社[みのや]「淤美豆奴神 配 深淵之水夜禮花神、火産迦具都智神、波迩夜須毘賣神」平安末期の棟札は県文化。三重県安芸郡芸濃町雲林院2750 阜嵐健

阿由太神社[アユタ]
阿由多神社「阿由太神」三重県安芸郡安濃村大字安濃1556

小川内神社[ヲカハチ]
小川内神社[おがわうち]「天穗日命」三重県安芸郡芸濃町河内2553 阜嵐健

比佐豆知神社[ヒサツチ]
比佐豆知菅原神社[ひさづちすがわら]「菅原道眞 配 豐邊津比賣命、譽田別命」三重県安芸郡安濃村大字草生2419  阜嵐健
比佐豆知神社「火之迦具土神 配 宇迦之御魂命、伊邪那美命 ほか」凡そ千三百年前。三重県津市愛宕町字鳥居前213 阜嵐健

比佐豆知神社
参拝のしおり
延喜式内比佐豆知神社御祭神
火之迦具土神 伊邪那美命 天照大神 宇迦之御霊 健速須佐之男命 大山祇命 品 陀和気命 五男三女八柱神 天之菩卑能命 天津日子根命 活津日子根命 菅原道眞 命 健御名方命 天能忍耳命 多岐理毘賣命 多岐都比賣命 市寸島比賣命 他
御由緒
当神社には、社宝の高麗狛犬に記されてある年号に依りますと、凡そ千三百年前から 現在の地に御祀りしてあると言う事になります。 当社は延喜式内社で神饌幣帛料供進指定社となって特別の取扱いをされてまいりまし た。
又、藤堂家代々から御供米等寄附され毎年の大祭には、藩主を始め領内の人民多数の 崇敬がありました。
明治四年には、明治天皇神宮参拝の節、勅使御大拝御玉串献上されています。

加良比乃神社[カラヒノ]
加良比乃神社[からひの]「御倉板擧神、伊豆能賣神 ほか」倭姫命、天照大御神を奉戴し御廻の跡。三重県津市大字藤方字森目335

加良比乃神社
鎮座地 津市大字藤方字森目三五五
御祭神 御倉板舉神 伊豆能賣神 天照皇大御神 大山祇神 大物主大神 水波能賣 神 宇迦之御魂神 建速須佐之男命 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳尊 天之穂日命 天 津日子 根命 活津日子根命 熊野久須毘命 多紀理毘賣命 市寸島比賣命 多岐都 比賣命 天兒屋根命 應神天皇
例祭 十月十七日
由緒
垂仁天皇御宇皇女倭姫命天照大御神を奉戴し御廻歴の際、此の所に神殿を建築して鎮 座し給う。此の宮中水利不便なるにより樋を以て通す故に、片樋宮と称し奉る。四ケ 年を経て、大御神様の神託ありて他所に遷座し給う。その宮跡に御倉板舉神 伊豆能 賣神二柱を鎮座して、加良比乃神社と称した。
明治四十年境内神社神明宮など四社を、また明治四十二年に同稲荷社を、明治四十四 年須賀神社を合祀した。

船山神社[フナヤマ]
辰水神社に合祀[たつみず]「鵜草葺不合尊 合 五男三女神、鳥之石楠船命 など」三重県安芸郡美里村大字家所1941 阜嵐健

奄藝郡[アムキ]:十三座並小

伊奈富神社[イナフ]
伊奈富神社[いのう]「保食神大國道命 合 豐宇賀能賣命、稚産靈神、鳴雷光神、大山祇命」三重県鈴鹿市稲生町西2-24-20 玄松子の記憶

伊奈冨神社
由緒
当神社は社伝によれば、神代、東ケ岡(鈴鹿サーキット地内)に御神霊が出現せられ 、霊夢の神告により崇神天皇五年勅使参向のもと、「占木」の地にて社殿造営の地を 占われ、神路ケ岡に大宮・西宮・三大神を鎮祭されました。その後仲哀天皇の御子品 屋別命の子孫(磯部氏)が代々当社の神主として仕え、雄略天皇五年には数種の幣物 が奉納され、主祭神保食神には「那江大国道命」の御神号を賜わりました。降って奈 良時代天平年間、行基上人が別当寺の神宮寺を建立され、更に平安時代天長年間には 弘法大師が参籠の折、菩薩堂を建立して三社の本地仏を祀り、七島池を一夜にして造 られたと伝えられております。貞観七(八六五)年四月、正五位上より従四位下に進 階し(三代実録)、延喜式内社に列しております。当時の神領は東は白子、西は国府 、南は秋永、北は野町に及ぶ広大な面積でありました。鎌倉時代中頃には正一位に進 階し、文永十一(一二七四)年三社に勅額を賜わりました。以後「正一位稲生大明神 」として武門武将の尊信厚く、ことに鎌倉将軍惟康親王は神田二百二十町歩、北畠国 司は社領千石御供田十二段を寄進せられ、また江戸時代元文年間には、紀伊徳川家よ り造営料銀二十二貫を賜わり、三社の大造営をなしております。明治六年郷社、同三 十七年県社に列せられ、戦後この制度は廃止され現在に至っております。

加和良神社[カワラ]
加和良神社[かわら]「木花之咲耶姫命 配 高良玉垂命 ほか」奈良時代の天平年間に成る「大安寺資料帳」には「高良社」とある。三重県鈴鹿市稲生塩屋2-22-22 阜嵐健

加和良神社
由緒
創祀は不詳であるが、奈良時代の天平年間に成る「大安寺資料帳」には「高良社」と 見え、既にこの頃には祀られていたと思われる。平安時代中期に成立した「延喜式神 名帳」にも登載されており、所謂延喜式内社である。明治39年12月神饌幣帛料供 進社に指定された。明治41年11月に須賀神社を、また大正3年2月には八幡社を 、更に大正5年2月には伊達神社を合祀した。大正11年7月21日河原の南方より 現在地に遷座し今に至っている。

多爲神社[タヰ]
多爲神社[たい]「天之穗日命」三重県津市大里睦合町1531 阜嵐健

大乃己所神社[オホノコソ]
大乃己所神社[おおのそこ]「大物主神」三重県津市一身田大古曽町1739 神社公式

大乃己所神社
鎮座地 津市一身田大古曽一七三九
御祭神
大物主神 大日rume命 豐受毘賣命 品陀和氣命 天忍穂耳命 底筒之男命 中筒之 男命 上筒之男命 譽田別命 須佐之男命 天照皇大神 國狹槌命 石凝姥命 宇迦 之御魂神 大山津見神
御例祭 十月九日十日
由緒
創立年月日は不詳であるが、天慶五年(九四二)の大神主大乃己所重久の記した縁起 書(写)に大物主神御鎮座を記してある。また、鬼退治(大物主神勧請)の伝説等も あり天慶以前の創立と伝える。織田信長の回縁の変にて社殿社屋共に灰燼に帰した。
明治四一年須賀神社など十一社を合祀した。昭和二六年には八幡神社など三社を分祀 している。


大乃己所神社「譽田別命」天應元年(七八一)酉年八月十一日鎮座。三重県津市一身田中野691 阜嵐健

大乃己所神社
鎮座地 津市一身田中野六九四
御祭神
譽田別命 大日・命 豐受宇氣比賣命 足名椎命 建速須佐之男命 天兒屋根命 手 名椎命 大山津見神
御例祭 十月九日十日
由緒
天應元年(七八一)酉年八月十一日鎮座との申し伝えがある。往昔より七社大明神と 称えられ、見初大明神の神殿に八王子、稲荷、八幡、春日、神明、大梵天王七座神を 奉祀して尊崇を得た。神殿床下に獅子頭一口を収蔵し、閏年の前年二月節分よりこれ を舞わし、戦前は稲生町の伊奈富神社の大祭に参加していた。明治四十一年大古曽の 大乃己所神社へ合祀されたが、昭和二六年大古曽の大乃己所神社より分祀され現在に 至る。
獅子舞は津市指定無形文化財に指定されている。

事忌神社[コトイミ]
事忌神社[こといみ]「建速須佐之男命 配 少名毘古那命、出雲建子命」三重県安芸郡芸濃町大字林990 阜嵐健
事忌神社「多紀理毘賣命、多岐津比賣命、天之菩日命、活津彦根命、市寸嶋比賣命、天之忍穗耳命、天津彦根命、熊野久須毘命」三重県安芸郡河芸町大字高佐579-1 阜嵐健

酒井神社[サカヰ]
酒井神社「豐宇賀賣命、保食神、大山祇命、品陀和氣命、伊弉册命、火産靈命、木花開耶姫命、宇賀魂命、菅原道眞、武雷命、天兒屋根命、齋主命、姫大神、天忍穗耳命、活津彦根命、 市寸嶋姫命、天津彦根命、熊野奇毘命、多岐都命、天菩日命、多紀理姫命、櫛磐間戸神、豐磐間戸神、金山彦神、八衢彦神、八衢姫神、千千比賣命、稚産靈命、鳴雷命、大山祇命」天智天皇10年。三重県鈴鹿市郡山町1759 阜嵐健
酒井神社「天之忍穗耳命」創立は天智天皇治下。三重県鈴鹿市徳居町2035 阜嵐健

酒井神社
由緒
当社の創立は天智天皇治下大伴倉麿建立酒井神社名は神池の泉に酒が湧き出たとの伝 説により池より流れる川の名を酒井田川と云い神社名を酒井神社と謂ふに至る。式年 大祭は四年毎に獅子舞をお旅所に於て実施する。平安時代高倉天皇治下(約700年 前)獅子舞が行なわれたことより連綿今日に至る

尾前神社[ヲサキ]
尾前神社[おさき]「速佐須良比神」垂仁天皇18年。三重県安芸郡河芸町大字東千里759 阜嵐健 尾前神社跡

尾前神社
尾前神社由緒
尾前神社(一名土御前)東千里字尾前
この社は延喜式内社で、祓所の霊神速佐須良比売命を祭神とする。
垂仁天皇18年に勅命によって今の千里ケ丘中尾前の地に神殿を建てその後鎌倉後期 頃に村人と共に現地に移転したと考えられる。
尚当社は霊験殊にあらたかで天武天皇(679)より尾前土宮の宮号を賜り一名土御 前と号し、また後鳥羽天皇の代(1185)に奄芸祓所の称号を受けている。
当神社に獅子頭二口があり国中の悪鬼邪神を祓うために朝廷(高倉天皇の御代)より 奉納せられたものである。
尚上野城主より社領5石を受領し、明治維新の際天皇神宮御参拝の帰途勅使をして御 代拝せしめられている。

比佐豆知神社[ヒサツチ]
比佐豆知神社「五十猛命 配 大屋津姫命 合 抓津姫命 ほか」三重県鈴鹿市寺家町2732

石積神社[イハツミ]
石積神社[いしづみ]「大山祇神」三重県津市大里窪田町1501 阜嵐健
石積神社[いしたて]「大山祇神、國之常立命 配 健速須佐之男命、月讀命 ほか」神代よりここに存した。三重県津市河辺町1326 阜嵐健

石積神社
津市大字河辺町字石立一三二六−二に鎮座する通称「いしたてさん」と呼ばれ親しま れている。
祭神 大山祇神 健速須佐之男命 月讀命 國之常立命 五男三女神 宇迦之御魂命
 木花佐久夜比賣命 大物主神 少毘古那命 八衢比古神 八衢比賣神 大日・貴命
 豐受氣比賣命 應神天皇 菅原道眞 大綿津見神 菊理比賣命
例祭 十月十日
由緒
創祀は不詳であるが、神代よりここに存したと伝える。又、中興されたのは、天命開 別天皇淡海國滋賀宮に天下を治められた時に、伊勢国に旱魃甚しきことあり、これを 契機として勧請なされたと伝える。明治四十一年須賀社など十一社を合祀、明治末年 には稲荷社など十四社を合祀している。

彌尼布理神社[ミネフリ]
彌尼布理神社[みにふり]「倉稻魂命」三重県安芸郡河芸町大字北黒田2250 阜嵐健

彌尼布理神社
弥尼布理神社(通称いねbr>ふりさん)
河芸町教育委員会設置案内板による
この神社は延喜式内社で保食神の稲倉魂命(うがのみたまの命)を祭神とする。
ほかに大年命・天之児屋根命等八柱を祭る。大同元年(八〇六)六月東海道観察使に より創建された。
五穀を司る神として昔から近隣住民に崇敬されている。創建以来五十年毎に造営・祭 礼が行われて来たが、そのたび五穀豊穣し住民は窮乏や悪疫から救われたという。
社殿は桧造桧皮葺神明造りで、明治十二年の造営、翌十二年瑞垣内に、早生・中生・ 晩生・もちの四種の稲が自生した。
人々は神の瑞穂と大切にし広く県内各地へも分配したという霊験記念碑が境内に立っ ている。

服織神社[ハトリ]
服織神社[はとり]「栲機千千姫命」この地方は古来紡績の盛んな地域であった。三重県鈴鹿市御薗町2019 阜嵐健
服織神社「大日貴尊」三重県安芸郡河芸町大字久和野1781 阜嵐健

横道下神社[ヨコミチノ・]
横道下神社[よこみちした]「天忍穗耳命」三重県鈴鹿市徳田町2107 阜嵐健

久留眞神社[クルマ]
久留眞神社[くるま]「大己貴尊、須世理姫命 配 漢織姫命」三重県鈴鹿市白子1-15-15 阜嵐健

久留真神社
由緒
古代
往昔は大已貴尊と須世理姫尊の二柱の神さまを通称伊勢の森(現在の白子・御殿町一 帯)という神奈備(神域)にお祀りして福徳さんと称え奉りその周りには、御神木で ある樹齢一千年以上の福徳の松が、天に聳えていました。
合祀
第二十一代雄略天皇の御代に呉の国(中国)の漢織、呉織、衣縫兄姫、弟姫等来朝し 勅命によって伊勢の国民に紡績や衣縫など文明技術を伝授した功績は実に偉大であり 万民を感動せしめ永遠に称え偲び奉らんとして漢織姫命を当社に合祀して、福徳の女 神と仰ぎ奉りました。
延喜式内社
延長五年に集大成された延喜式内社であって、遠近の崇敬を集めた古社でありその御 神徳の崇高なることを物語っています。
特別御遷座
寛永十一年三月徳川龍院御殿並びに執政別府(代官所)設立用地のため伊勢の森の境 内を上地して現在地に御遷座いたしました。その時に、二代目・三代目の福徳の松が 植樹され現在に至ります。


勝手明神[かつて]「呉織・織姫」三重県鈴鹿市白子駅の北

鈴鹿郡[スゝカ]:十九座並小

那久志里神社[ナクシリ]
能褒野神社に合祀[のぼの]「日本武尊 配 弟橘姫命、建見兒王」明治11年創建、名越の能褒野陵を日本武尊の墓に比定、式内社那久志里神社、志婆加支神社を合祀。三重県亀山市田村町1537

能褒野神社
能褒野神社御由緒
日本武尊能褒野で薨去される。景行天皇深くこれを嘆かれ、太子の礼を以て葬られた 。
中世以降戦乱が相ついで尊の御陵墓も荒廃して定かでなくなり、加佐登塚、吉備塚等 諸説が続出したが、明治十二年、前方後円の古制により十六のばい塚をもつ女ケ坂を 以て尊の御陵であると確認され、守部を常置して祭られることになった。
明治十六年、神宮祭主久邇宮朝彦親王より、能褒野神社と社号の選定ありて、翌十七 年三月十日、御陵の傍に創立の許可あり、社殿境内の新設に着手した。明治二十八年 、その業ようやく終り、時の神宮祭主、賀陽宮邦憲王殿下より御霊代を納めまつらん との御沙汰を蒙り、伊藤宮司及び惣代二名が殿下に親謁し、御手づから御神体を頂い て帰り、御鎮座祭を行った。
明治三十八年、日露の役終わり、陛下神宮へ御親拝の日、勅使を御墓へ差遣され、同 勅使は神社へも参拝、玉串を奉納された。また、能褒野神社創立に関する詳細を陛下 に復奏するとの御言葉が、神職伊藤忠孝にあった。
明治四十一年、弟橘姫命(元小天宮祭神)建見児王(県主神社祭神)を配祀し、式内 社那久志里神社、同志婆加支神社、村社八島神社、田守神社外、四十余社を合祀して 村社となった。
大正十三年、能褒野保勝会組織、同十四年六月県社に昇格し、十月祝祭を行った。こ の時秩父宮、高松宮、伏見宮、閑院宮、朝香宮、東久邇宮、北白河宮、竹田宮等、各 宮家より「御鏡餅料」を給い、知事以下二百余名の参列を得て、厳粛な祭儀が行われ た。
大正十五年五月、保勝会にて亀山駅前に大鳥居を建設。久邇宮邦彦王殿下より「能褒 野神社」の御染筆を頂き、扁額を掲げた。
昭和二十一年マッカーサー指令により国家神道廃止され、宗教法人となり昭和二十七 年十二月一日、宗教法人能褒野神社として今日に及んでいる。

倭文神社[シトリ]
加佐登神社に合祀[かさど]「日本武尊 合 天照大御神、豐受大神、火之迦具土神、氣吹土主神、速玉之男命、天羽槌雄神、大國主命 ほか」三重県鈴鹿市加佐登町2010 阜嵐健

加佐登神社
由緒
伊勢国鈴鹿郡荘野駅より十町ばかり北なる高宮村という所に、御笠殿とて、日本武尊 の御社あり、こは尊の御笠を蔵めし所と語りつぎ、また其よりやや離れて、白鳥塚と て同じ尊の御陵あり、この辺おし並て、いにしへ能煩野といひし所にて、かの王の崩 御ませる地なる故に御陵あるなり。延喜の諸陵式に能褒野墓日本武尊在伊勢国鈴鹿郡 とあるはこれなり。なを其あたりに奉冠塚奉装塚など云ふもあるは皆かの王の御遺物 を納めし所といふは信に然るべし。抑かの王の御よはひいと若くまして倭童男王と申 ししほどに、筑紫国なる熊襲たけると云ひし荒えびす討とり玉ひて、倭健男命と御名 におひ巫せる御いさをしは更にも申さず、其後に吾妻の国々なる悪き神また射向ひま つる夷どもをみな征伐け給ひて、大倭のみやこに帰り坐せるに近江国の伊吹山なる荒 ふる悪神をも取給はむと、其山に登り給ふ、ここに某神あしき気吹を起せるに、尊そ の悪気にあたり坐て、御足こひ腫たりしより悩み給ひて、遂にここにて崩御まししか ば、即この所に御陵をつくりて、葬め奉れるに、白鳥となりて飛出給へれば、その御 陵をひらき見るに、ただ御衣のみ在れる故にこを白鳥の陵とまうすこと、古事記日本 書紀、熱田古縁起などに見えて、我師本居爺の故事伝は更なり、余が古史伝にもくは しく考へ記せるが如し。斯くこの御笠を蔵めし丘はも、いと古く御社たてて、彼の王 の御霊を祝ひまつりて、御笠殿とも、御笠社とも申し来り、其里にます熊野神司の神 主鈴本氏なむ、往昔より持いつき奉り来ぬるを、御陵威いち速くおはし坐すは、この 御笠はも小縁の物にあらねば、殊に御霊のとどまり坐せる故にや有らむ、然るは古く かくと云ひしは、世の常の笠はさる物にて、軍の時に用ふる兜をもしか言ひしこと、 我ふみどもに考へ明せる如くなれば、比御笠申とせるもかならず王の御軍に出給ふご とに冠たまへる御兜ならむと思はるればなり、さて此を御笠社とまうすより、人の躰 にいづる腫物、また瘡といふ病をなをし給ふと世にいひ伝へて、其なやみ有る徒から 、近き辺の国は更なり、遠き国々よりもまゐで来て、そのよし願まをすに、いと速な る験ありとぞ。この大神のさる病どもを直し給ふと云うこと、心得がたく思ふも有め れど、是なむ尊き神の御恵みにてかの吉野山に鎮座す、水分神とまをすは、雨を掌た もふ神に坐すを、いつの頃よりか唱へ訛りてみこもり明神と申すにつきて、子なき者 いのり申せば、孕らしめ給ふ神ぞと世にいひつぎて祈り申すに、必ず其験ある如く、 笠をはれ物のことに云ふなして、人の真心に祈り白すによりて、その御使い神などの 、大神の幸御霊の御稜威をし賜はりて癒し給ふことと思はる。最も奇霊なる御わざな りかし。まして御足を損ひ給ひし御古事のあれは更なり斯ていにし文政六年八月のこ ろ、己みやこりに上れる時しも、その御陵にまいり、御笠社にもまゐでて拝み奉れる に、その辺りの老人どもの言に、多病にても、腫れものの又は瘡など名けて、ねぎま をする人おほかるに、悉くその験ありといふに、畏けれど己があり経るやまひをし腫 物ならねど其病ひになぞらへて願まをし、此病ども癒なむ後は、人づてにても賽し奉 らむと、ねもごろに祈り申して帰れるに其病どもみな癒えたればいかで人伝にても奉 賽し奉らむと常に心にかかる物から、よき伝なくて過しぬるを、今年その社に仕へま つる鈴本信房ぬしなも大江戸に来て、わが教へ子にさへなりて、此の御社の由よし書 てと請はるるに、己としごろ信じ奉れる由緒もあれば、かへり白しの御初穂そなへ、 なを行末の事の祈りをも頼み、打いさみつつ筆とりて、誰もよく読み、よく聞ゆべく 、有のまにまに御由来をかく書しるせるは時は、文政十二年といふ年の九月

川俣神社[カハマタ]
川俣神社「大比古命」大比古命は第八代孝元天皇の第一皇子で第九代開化天皇の御兄。三重県鈴鹿郡関町大字加太板屋5470 阜嵐健

川俣神社
川俣神社御創建の由来
川俣神社は延喜式神明帳(今から1080年程前の編纂)にその名を残し平安時代の 昔から加太の地に御鎮座の由緒正しい古社であります。
当社には十九柱の神々をお祭り申し上げておりますが、主神である大比古命は第八代 孝元天皇の第一皇子で第九代開化天皇の御兄に当られ、第十代崇神天皇、第十一代垂 仁天皇の御代を通じ四道将軍の一人として皇威の宣布と地方の開拓に大きな功績をあ げられました。その後川俣の縣の造としてこの地方を治められた大比古命がお宮を造 り神田、神戸を献上されたと伝えられています。
又命は味酒(おいしい酒)を大神に奉られたということで現在も十二月三日には味酒 祭を行っております。又二月一日を「二正月」と称し厄年の老若男女が近在から参集 して祈願されますのは厄除、開運の御神徳によるものであり、又道饗の神即ち道路の 守り神としても信仰されて来ました。
遠い昔から此の地方を見守り人々の命をはぐくみ育て、往き来する人々の安全を守り 地元の多くの人々から崇敬の念を持ち、信仰を頂いております。

川俣神社「多紀理毘賣命 配 經津主命、武甕槌神、玉依毘賣命 ほか」三重県鈴鹿市西富田町709 阜嵐健
川俣神社「大毘古命」三重県鈴鹿市中富田町5 阜嵐健

川俣神社
由緒
当神社は延喜式神明帖に載る所鈴鹿郡十九座の内なり。此の川俣神社鎮座の和泉村は 国府村に隣りて地所入曾し、亦平田村も隔たざれば和名抄に載する牧田郷なること必 せり。扨て此の神社を俗に子安八王寺と奉称、祭神八王寺を大穴牟遅命と伝えたるは 大日 貴命の転訛にあらむか。何れにもあれ大穴牟遅命の神徳を祈れば安産あるは然 あるべし。又、此社鑰取別當は当村舟井山泉福寺住職なり、累世別当奉仕して宝器等 は寺に預り置奉れども中古此の社殿へ盗賊忍入り古書等奪取られし事もあり、其の真 書何れへ散乱致しあるも又はかられず。天保3年泉福寺の住持当社の記録持行き没後 紛失に付負相知。併是迄亀山旧御領分書上には牛頭天皇川俣神社は八王子と認有之候 。明治41年4月2日井田川村各地に鎮座の神々を当社へ合祀するの許可を受け同年 5月24日合祀執行せり。明治39年12月三重県告示第380号を以て神饌幣帛料 供進社に指定せらる。


川俣神社「大國主神、高神、大彦命 ほか」三重県鈴鹿市庄野町1622 阜嵐健

眞木尾神社[マキヲ]
亀山神社に合祀「源義家 配 速玉之男命、伊邪那美神、泉津事解之男命、久久廼遲命、宇迦之御魂命、 大名牟遲命、菅原道眞、田比古命、天兒屋根命、譽田別命、天照皇大神、大山津見命、速山津見命、保食神、火之迦具土神、 建速須佐之男命、大雀命、安閑天皇、大山咋神、市杵嶋姫命、瀬織津比女命」三重県亀山市西丸町570-1

志婆加支神社[シハカキ]
明神社[あきら]「伊邪奈伎命、伊邪那美命 配 饒速日命、市杵嶋比賣命、迦具土命、倉稻魂命、木花佐久夜比賣命、金山彦命、品陀別命、大山祇命 合  大己貴命、建速須佐之男命、五男三女神、菅原道眞、國之狹槌命、熊野久須毘命、八衢比古神、惠那津彦命、多伎津比賣命、八衢比賣命、活津彦根命、久那戸神、天忍穗耳命、天津彦根命、 天穗日命、多紀理比賣命」三重県安芸郡芸濃町大字楠原303 阜嵐健
能褒野神社に合祀 式内那久志里神社に掲載済み 阜嵐健
亀山神社に合祀 前掲 阜嵐健

縣主神社[アカタヌシ]
能褒野神社に合祀 前掲

天一鍬田神社[クハタ]
庄内神社「伊邪那岐命、速玉之男命、神直比之神、食津神、久久理比賣神、須佐之男命、譽田和氣命、伊邪那美命、大事忍男命、大直比之神、金山比古神、大山咋神、木花佐久夜比賣命、 大雀命、天照大神、八十禍津日神、大山祇命、火之加具土神、大名牟遲命、市杵嶋比賣命、菅原道眞」三重県亀山市東庄内町2453 阜嵐健

庄内神社
由緒
当社の創祀については詳かにはし難い。近世の「亀城兎園記」等には、八島明神と記 し、「三国地志」や他の地誌類をはじめ国学者の式社考証類は、おおむね本社を鈴鹿 郡の式内天一鍬田神社に比定している。社伝によれば、往古は村のなかに鎮座されて いたが、天正伊賀の乱の後、下宮代の地に移ったと伝えている。江戸時代を通じ近郷 の氏神として、人々の崇敬をあつめた。明治40年8月20日、村内の40社を合祀 して庄内神社と改称し、現在に至っている。

椿大神社[ツハキノ]
椿大神社[つばきおおかみやしろ]「猿田毘古命 瓊々杵尊、栲幡千々姫命 配 天之宇受女命、木花咲耶姫命 ほか」高山入道嶽、短山椿ケ嶽が磐座である。三重県鈴鹿市山本町御旅1871 玄松子の記憶

椿大神社
由来
伊勢国鈴鹿山系の中央麓に鎮座する椿大神社は、往古時代、只今の神社の背後にそそ り立つ高山入道嶽、短山椿ケ嶽を天然のやしろとして、(神代の神跡いわくら現在) 高山生活を営まれたクニツカミ猿田彦大神を主神とし、相殿に皇孫瓊々杵尊、栲幡千 々姫命を祀り、配祀に天之宇受女命・木花咲耶姫命を祀る。神話に伝わる天孫「瓊々 杵尊」降臨の際、猿田彦大神、北伊勢道別の里なる地祗本陣を旅立ち給ひて天の八衢 に「道別の大神」として出迎え、風ぼう雄大、超絶した神威を以って恙なく天孫を高 千穂の峯に御先導申し上げた事で肇国の礎を成したこの大神を、後に人皇第十一代垂 仁天皇の二十七年秋(西暦紀元前三年)倭姫命の御神託により、磯津(鈴鹿川)の川 上、高山短山の麓、土公神陵の前方御船磐座辺りに、「道別大神の社」として社殿を 造営し奉斎された日本最古の神社であります。仁徳天皇の御代、御霊夢により「椿」 の字をもって社名とされ現在に及び、昭和の始め内務省神社局の調査により、全国二 千余社の猿田彦大神をまつる本宮であることが明かとなり、「地祗猿田彦大本宮」と 尊称されております。

小岸大神社[ヲキシノ]
小岸大神 三重県鈴鹿市小岐須町 阜嵐健

大井神社二座[オホヰ]
関神社に合祀[せき]「天照大御神 配 伊邪那美命、天太玉命、天手力男命、大山祇神、火之迦具土命、菅原道眞、木花佐久夜比賣命、倭比賣命、生井神、石凝姥命、 金山比古命、應神天皇、天兒屋根命、月夜見命、榮井神、市寸嶋比賣命、大己貴神、建速須佐之男命、白山比賣命、武内宿禰、保食神、大山咋命、宇迦之御魂神、天宇受賣命、天忍穗耳命、 天穗日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、多紀理比賣命、多岐都比賣命、味内宿禰」三重県鈴鹿郡関町大字木崎675 阜嵐健
大井神社[おおい]「建速須佐之男命 配 大雀命、天照大神、御井神」三重県鈴鹿市山辺町232 阜嵐健
江神社に合祀[えの]「高神 合 大山祇命、建速須佐之男命、石凝姥命、正哉吾勝勝速日天忍穗耳命、白山媛命、火之迦具津知命、大日命」三重県亀山市下ノ庄町2604 阜嵐健

三宅神社[ミヤケ]
三宅神社「天手力雄命」屯倉を置かる、因って三宅の号あり。三重県鈴鹿市三宅町1259 阜嵐健

三宅神社
由緒
創立年月不詳なれども、本社は延喜式神明帖伊勢国鈴鹿郡十九座の一なり。尤其の先 本州の国司宮所在の地にて屯倉を置かる、因って三宅の号あり又官幣を当社に納め給 ひ故總社と通称す。尚、旧幕中亀山城主歴代の為田1反を寄付せらる。明治41年3 月同44年5月の2回に渉り国府村各地に鎮座の神々を当神社に合祀執行せり。明治 6年3月村社に列し明治39年12月三重県告示第380号を以て神饌幣帛料供進社 に指定せらる。


三宅神社「國常立之命、大穴牟遲命 配 泉事解男命、綿津見命、譽田別命、軻遇突知命、速玉男命、奧津彦命、奧津比賣命、神日本磐余彦命、罔象女神、菅原道眞  合 猿田彦命、若狹比賣命、伊弉冉命、天照皇大神、木花咲久耶姫命、伊邪那岐命、須佐之男命、市杵嶋姫命、大山祇命、上筒男命、中筒男命、底筒男命」三重県鈴鹿市国府町1609 玄松子の記憶

江神社[エ]
三宅神社に合祀 前掲
江神社 式内大井神社に掲載済み

布氣神社[フケ]
布氣皇館太神社[ふけこうたつだい]「天照大御神、豐受大神、伊吹戸主神」三重県亀山市布気町1663 阜嵐健

石神社[イハ]
椿大神社に合祀[つばきおおかみのやしろ]「猿田毘古命 配 天津彦火瓊瓊杵尊、栲幡千千比賣尊 合 高御産巣日神、天照大御神、五男三女神、天之穗日神、豐受大神、大穴牟遲神、速玉男神、伊邪那美大神、大事忍男神、 保食神、迦具土神、建速須佐之男命、大山津見命、木花佐久夜比賣命、大雀命、品陀別命、菅原道眞、彌都波能賣命、大山咋命、宇迦之御魂神、八百萬神、息長帶比賣命、天津日子根命、天眞名鶴命、志那都比古神、板倉家祖先、 白髮大神主、祭神不詳」三重県鈴鹿市山本町御旅1871 玄松子の記憶
石神社[いし]「須佐之男命」三重県亀山市三寺町590  阜嵐健

長瀬神社[ナカセ]
長瀬神社[ながせ]「倭建命 合 底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命 ほか」「長瀬」は「能知瀬」の訛ったもの。三重県鈴鹿市長沢町2201 阜嵐健

長瀬神社
由緒
伝聞旧記は天正の兵乱にかかり散逸したという。その後、いつ誰によって書かれたと か分からないが、古老のかきとめたものなどを参考にして大凡を誌した考証録があっ た。明治九年神社取調があって、時の神主田上重通がその考証録を書き改めて提出し たものが現在残っている。すなわち、長瀬神社縁起録である。それによると、主神は 倭建命で住吉三神を併せ祀り、相殿神六座を迎えて、長瀬神社住吉大神と称したとい う。また、その創始は、景行天皇の皇子日本武尊の霊を長瀬郷長沢村に祀って長瀬神 社と称したにあるとし、諸書を引用して、式内社であること、社名の由来について語 っている。先ず、延喜式巻九に「伊勢国鈴鹿郡並尓長瀬神社」とあるのが、当社であ ることを明記している。さらに、享保十四年にお改めのとき、式内社と確認されたと し、明治八年十二月三日には教務省達で式内社と確定されたことを記録している。次 に「長瀬」の読み方は「奈加世」というのだと倭名鈔を引用している。そして、その 社名の由来を語って、「長瀬」は「能知瀬」の訛ったもので、「のち」は「命が終る 」の意味だと、日本武尊の最期を偲ばせる土地柄を示している(参考熱田大神縁起) 。一説に長瀬は中瀬の誤りだとし、住吉大神に縁があることを物語っている。(伊勢 賦)また、神社の位置を示すものとして、石大神(小岐須)より東一里、天一鍬田神 社(庄内)より一里とあって、「中の宮」というのだと説明している(式内案内記) 。以上がその内容である。明治四年七月村社に列せられ、明治三十九年神饌幣帛科供 進社に指定された。このごろより明治末年にかけて、国の方針に従い、長沢地内の諸 社を合祀して、明治四十四年二月二十三日字北帝より現在の地字北能褒野(合祀した 武備神社の跡地)に移転今日に至っている。昭和二十一年国の管理を離れ、宗教法人 「長瀬神社」として発足したが、氏子の崇敬厚く、御神徳比愈々明らかである。


長瀬神社「天照皇大御神 配 建速須佐男命、菊理毘賣命 ほか」三重県亀山市菅内町856 阜嵐健

忍山神社[オシヤマ]
忍山神社[おしやま]田比古命」三重県亀山市野村町4-4-65 阜嵐健
布氣皇館太神社 式内布氣神社に掲載済み

片山神社[カタヤマ]
片山神社「倭比賣命」鈴鹿権現。三重県鈴鹿郡関町大字坂下624 東海道一人旅
関神社に合祀 式内大井神社に掲載済み

弥牟居神社[ミムコ]
彌牟居神社[みむこ]「建速須佐之男命 合 伊邪那岐大神、保食神、大事忍男神、火之夜藝速男命、八重事代主神 ほか」三重県亀山市両尾町字弥牟居3414 阜嵐健

河曲郡[カハワ]:廿座並小

高市神社[タカイチ]
神館飯野高市本多神社[こうたついいのたかいちほんだ]「天照大御神 配 豐宇氣毘賣神、高御産巣日神 ほか」三重県鈴鹿市神戸2-18-30 阜嵐健
飯野神社「豐宇氣毘賣命 合 高御産巣日神」弘治元年(1555)「高市森」から高市神社を遷して合殿。三重県鈴鹿市三日市2-27-1 阜嵐健

飯野神社
由緒
当社の創祀については詳にし難いが、社伝によれば嘗て境内には「神宮井ニ七堂」が あり、神戸城主神戸蔵人友盛が弘治元年(1555)に社殿を造営し、その際、社地 より南(約八町)に鎮座の「高市森」から高市神社を遷して合殿としたといふ。天正 頃織田信長伊勢侵入の兵火にかかり焼亡したと伝え、又江戸時代に入り寛永一四年( 1637)城主本多下総守より「祢宣屋敷地井ニ寺四ケ院屋敷地」を拝領している。 年代不明の古札に「飯野神宮牟山大明神」と記され、『亀城兎園記』には「六山大明 神」とあることから、普通牟(六)山大明神と呼ばれていたようである。明治三九年 の明細帳には飯野高市両神社と社名を記し、大正一三年(1924)には社名を変更 して飯野神社と単称するに至った。明治四一年には村社二社、無格社五社、同四二年 に村社一社、無格社一社の合祀を行った。昭和二八年に、愛宕神社と忍山神社を分祀 して現在に至っている。

彌都加伎神社[ミツカキ]
彌都加伎神社[みずがき]「大土御祖神 配 埴安比賣神、素盞嗚命 ほか」三重県鈴鹿市東玉垣町1412 阜嵐健

彌都加伎神社
由来
遠い昔からこの土地で土に携わって生活をして居た人達や、土地の有力者の人等が相 談をし、土を司どる神、大土御祖神を今から1241年程前、山田原の御霊を海部村 に勧請し、後に村の中の清浄で村人などの集まりやすい中心場所である現地に移し、 瑞籬村と称してお祀りし、それが現在の彌都加伎神社の起源となり、光仁天皇の御代 宝亀元年に井上新王の霊夢により御厨より、御供糀を豊受宮に奉献することとなり、 祭神の大土御祖神に土之御祖神、埴安比売神を合わせて奉斎する事になったと言われ 、和名抄郷名の資母郷が玉垣村に当たるといわれ古い郷である。玉垣御厨に関する記 録として、延文5年の「神鳳鈔」には「玉垣御厨内宮82町3段余九石6.9.12 月」とあり、地域の広大さがうかがえる。「宗祇名書方角」には「古は御厨の十人衆 と云うものありしか、今は亡ふ」と記され、こうした神領地の運営も推察される。慶 長19年〜安永9年の間(166年間)に10回の修繕、御造営の事実を伝える棟札 ある。明治2年3月明治天皇御東幸の途次亀井茲監を勅使として奉幣代拝の処遇を受 けた。明治39年神饌幣帛料供進指定神社になる。明治41年村内無格社を合祀、昭 和4年、先に合祀した須賀、宇気比、胸形、熊野、八幡、深田、吉田の七神社に合祀 前の祭神を祀り、氏子区域は旧玉垣村(現東玉垣、西玉垣、南玉垣、北玉垣、四町と 桜島町、末広町)全体である。醍醐天皇の延喜5年の頃、社名を彌都加伎神社と改め たが、以前は土宮、或は土御前と呼ばれ、陶器、左官、粘土、土木工事、各業の外農 民はもとより土に携わる職業の人達、又豊受宮に糀の奉献により酒、みそ等の職業の 人達の多くの崇敬をあつめ、当時の御神徳の深さをうかがい知る事ができる。

貴志神社[キシ]
貴志神社[きし]「伊邪那美命、菊理姫命、伊邪那岐命」祭神は天鈿女命説や吉志太彦命説がある。三重県鈴鹿市岸岡町2811 阜嵐健

貴志神社
由緒
創祀については詳かにし得ないが、延喜式内社で、祭神に天鈿女命の名が見えていた が今はない。この社名は、鎮座池の岸岡に由来するという説と、岸弾正左衛門尉盛長 が吉志太彦命の後で、岸の地に住んで氏祖を祀ったことに始まるという説との両方が ある。『五鈴遺響』に「土人相伝云日往昔金銅ノ獅子頭此神社ノ壇下ニ埋メリ、此ニ 據テ今ニ至リ他社ノ獅子頭此ノ地ヲ過ルトキハ必頭ヲ低テ拝礼シテ去レリ、是遺留ナ リト云、神風徴古録ニ総テ当国ノ獅子頭ニ承安四年(一一七四)月岩作ト刻セリ、即 高倉院ノ年号ニシテ徴古録ニ云処ト同時ナリ」とあり、古くから獅子頭を神聖視した 祭があったことがうかがえる。中世末には、岸岡に岸岡城が構築されており、数多く の古代遺跡も存在することを併せ考えると、岸というこの地の産土神と考えてよいで あろう。延宝四年(一六七六)、元禄一一年(一六九八)、宝永七年(一七一〇)造 営の棟札が残されている。

鬼太神社[オニタ]
鬼太神社[きた]「大山津見神 配 大雀命、豐宇氣毘賣神」三重県鈴鹿市木田町2365 阜嵐健

川神社[カハ]
川神社[かわ]「高神 配 大穴牟遲神、天尾羽根神 ほか」三重県鈴鹿市河田町482 阜嵐健

矢椅神社[・ヨリ]
矢椅神社[やぎ]「建速須佐之男神」三重県鈴鹿市柳町543 阜嵐健
矢椅神社「大穴牟遲神」三重県鈴鹿市矢橋町51 阜嵐健

岡太神社[ヲカタ]
岡太神社[おかだ]「底筒男之命」三重県鈴鹿市岡田町1 阜嵐健

奈加等神社[ナカト]
都波岐神社[つばき]・奈加等神社[なかと]「猿田彦大神、中筒之男命、天椹野命」三重県鈴鹿市一宮町1874 玄松子の記憶

都波岐神社・奈加等神社
由緒
本社は延喜式内の古社で伊勢国一之宮である。本社はまた、雄略天皇二十三年に伊勢 国造高雄東命が勅を奉じて創建し、中跡直廣幡が宣旨より初代の祭主となった。白河 天皇より正一位の勅額を賜わり、花園天皇の正和年中に摂政藤原冬平の執奏により神 伝記を天覧に供し、後小松天皇の嘉慶年中に征夷大将軍足利義満が富士登山の帰途当 社に参詣して幣帛を供え社領を寄進した。織田信長が神戸、高岡の二城を攻略の際、 本社は兵火に罹り社殿が消失した。その後、一柳監物の援助で社殿を復興し、明治三 十六年に県社に昇格した。猿田彦大神を主祭神として奉斎、御神徳を慕って、全国か ら参拝者が絶えない。

小川神社[ヲカハ]
小川神社「彌都波能賣神」三重県鈴鹿市若松町1150 阜嵐健
都波岐神社・奈加等神社境内の小川薬王子社[おがわやくおうじしゃ]「天宇受賣命 合 大穴牟遲神、少毘古那神 ほか」三重県鈴鹿市一宮町1874 阜嵐健

都波岐神社[ツハキ]
都波岐神社・奈加等神社 式内奈加等神社に掲載済み
飯野神社に合祀「宇迦之御魂神 配 建速須佐之男命、鵜葺草葺不合命 合  保食神、大山津見神、田毘古神、大木大神、津萩大神、三宮大神、天伯大神、大宜都比賣神、速秋津日子神、速秋津比賣神、阿夜可志古泥神、伊邪那美命、速玉之男命、 黄泉事解男命、菅原神、底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、多紀理毘賣命、市寸嶋比賣命、多岐津比賣命、正哉吾勝勝速日天忍穗耳命、 天之菩卑命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命」三重県鈴鹿市北長太旭町1-11-34 阜嵐健

飯野神社[イヒノ]
飯野神社「豐宇氣毘賣命 合 高御産巣日神 配 大山津見神 合 正哉吾勝勝速日天忍穗耳命 配 少名毘古那神、天照大御神、天之迦具土神、保食神、須佐之男命」鈴鹿市三日市2-27-1 阜嵐健
神館飯野高市神社[こうたついいのたかいちほんだ]「天照大御神 配 豐宇氣毘賣神、高御産巣日神、蛭子神、事代主神、大國主神、猿田彦神、宇加之御魂神、大宮能賣神、菅原道眞、 速玉男神、伊邪那美神、予母都事解男神、大山咋神、市寸嶋比賣神、大年神、建速須佐之男神、品陀和氣神、天之兒屋根命、木花佐久夜比賣神、大山津見神、本多忠統」三重県鈴鹿市神戸石橋町508 阜嵐健
飯野神社「宇迦之御魂神 配 建速須佐之男命、鵜葺草葺不合命」合神には大木大神、津萩大神、三宮大神、天伯大神などの名が見える。三重県鈴鹿市北長太旭町1-11-34 阜嵐健

久々志弥神社[ククシミ]
久々志彌神社[くくしみ]「菊理媛神」三重県鈴鹿市下箕田町865 阜嵐健

高岡神社[タカヲカ]
高岡神社「高神」三重県鈴鹿市高岡町1333 阜嵐健

大木神社[オホキ]
大木神社「天照大神 配 大國主命、瀬織津姫神、日本武尊 合 須佐之男命、天兒屋根命、大鷦鷯命」三重県鈴鹿市石薬師町2139 阜嵐健

大木神社
由緒
勧請の年代、事情共に不詳である。「鈴鹿郡賦」に、「大木神社ハ青木ノ明神ノ宮ニ シテ、今石薬師駅ノ天王社ノ同殿ニ巫ス」とあり、『三国地志』は、「アヲキト云、 其下ニ小祠アリ、いまハ亡シ、俗大日霊ノ習合ニヤ」と記している。当社明細帳によ れば、延喜式神名帳河曲郡二二座の一、もと河曲郡富村字船塚に鎮座のところ、元和 年中(1615〜24)に、一村が今の石薬師へ宿立ち移住することになり、寛永年 中(1624〜44)に当社も該地から今の地へ遷座したとある。明治元年御東幸に 際しては、御調査の上、勅使植松少将殿が御参拝になり、玉串と幣帛料と奉納されて いる。同年、元度合県管轄鈴鹿郡第三区の郷社に被定されたが、同六年に村社列格と なった。


須伎神社に合祀「建速須佐之男命 合 伊邪那美命、速玉之男命、予母都事解之男命、磯羅神、大宜都比賣命、正哉吾勝勝速日天之忍穗耳命、 熊野久須毘命、天之菩卑能命、多紀理比賣命、天津日子根命、市寸嶋比賣命、活津日子根命、多岐津比賣命、大山津見命」三重県鈴鹿市南長太栄町2-17-43 阜嵐健
久久志彌神社に合祀 「菊理媛神 配 伊邪那岐神、事解之男神、大己貴命、稚産靈神、豐宇賀能賣命、保食神、國之水分神、品陀和氣命、天兒屋根命、 天照皇大御神、少名毘古那神、大山咋神、木花佐久夜毘賣神、猿田彦神、大山津見神、須佐之男命、石凝姥命」三重県鈴鹿市下箕田町865 阜嵐健
飯野神社に合祀 式内飯野神社に掲載 三重県鈴鹿市北長太旭町1-11-34

阿自賀神社[アシカ]
阿自賀神社[あじか]「品陀和氣命 合 菅原神、彌都波能賣神、建速須佐之男命、大山津見神」三重県鈴鹿市須賀町1-1-30 阜嵐健
阿自賀神社「高御産巣日神、天照大御神、大山津見神、大歳神、宇迦之御魂之神、品陀和氣命」三重県鈴鹿市安塚町368 阜嵐健

夜夫多神社[ヤフタ]
夜夫多神社[やぶた]「大穴牟遲命 合 天兒屋根命、大雀命、建速須佐之男命、大山津見神」三重県鈴鹿市甲斐町1184 阜嵐健

夜夫多神社
由緒
延喜式内社にして醍醐天皇の代(今から1,087年前)延喜式神名帳にすでに記載 されている。延宝3年9月(321年前)棟札には鈴鹿郡甲斐薮田村とあり、宝歴9 年8月(230年前)の上進社記に藪田神社とあり、古称名夜夫多神社、矢太村とあ り、この社号は地名をもってすとあり、藤ケ森に古い宮の森あり、夜夫多神社の古跡 なり、往古流水して現地に移したり、とある。

須支神社[スキ]
須伎神社 式内大木神社に掲載済み 阜嵐健

深田神社[フカタ]
深田神社「豐宇迦能賣命」三重県鈴鹿市若松東3丁目22-40 阜嵐健

深田神社
由緒
創祀の事情や勧請の年代は不詳である。延喜式内社の一であるから、往古よりここに 鎮座あったものと考えられ、社の西二町歩許りを深田というのが、郷名、社名の起こ りであろうと一書に見えている。『神鳳鈔』『外宮神領目録』に共に「若松御厨」の 字があり、更に、この社を古く「神明宮」と言っていたことについて『式社検録』は 「其等ノ御厨ノ為ニ所祀ノ神明社ナルベシ然ルニ式社ニ配スルハ如何アラムト思惟ス レド(中略)神明ハ後ニ合祭セルニソアルヘキ」と述べている。天正一五年(一五八 七)、慶安二年(一六四九)、元禄一〇年(一六九七)、享保六年(一七一一)の棟 札が残されており、造営の経緯が知られる。明治四一年、村内の無格社一七社を合祀 して現在に至っている。

土師神社[ハシ]
土師神社[はぜ]「天之菩卑能命」三重県鈴鹿市土師町558 阜嵐健

土師神社
由緒
『神鳳鈔』に「土師御園外宮三石」とあり当社と神宮との関係につき、土師神社とし て「本邑ニ在ル圓南山福善寺ノ所傳ニモ、行基僧正奉レ勅建立シ、土師神社ヲ守護ト シテ行基土器ヲ焼カシム、世俗ニ行基焼ト称ス、又往昔此村ニ土器ヲ造リ出シ太神宮 ニ貢献セリ、故ニ土師太一ト号ス云々」と記している。『勢陽五鈴遺響』によれば近 世には「大寳天神社」と称したとあり、宝永六年(一七〇九)の棟札には「大寳天宮 」と記し、享和元年(一八〇一)の棟札には「土師神社」の名がみられる。江戸時代 を通じ土師邑の人々には、その氏神として崇敬されていた神社である。明治七年に式 内社に認定されている。同四一年(一九〇八)村内の山神社以下五社を合祀したが、 昭和二六年西土師の神社を分祀(西土師神社と呼稱する)した。


「埴山比賣神」三重県鈴鹿市土師町591 阜嵐健

西土師神社
由緒
当社の創祀並びに由緒については詳にし難いが、所蔵の棟札から、明暦四年(一六五 八)以降土師神社と称していることが確認されている。『勢陽五鈴遺響』には「西土 師二八八剣宮・・・」とあり、土師神社と称する以前は八剣宮と呼ばれていたようで ある。当社が土師神社と称した由来は不明であるが、土師村内の中土師の大寶天社も 土師神社と称したものである。「土師」の地名が「土師器」に由来する伝承は古く、 又当地域内から今日神宮で使用されている祭器土器に類似した土器片がしばしば採集 されていると云う報告がある。土師村が古くから土師製作の地域であり、式内土師神 社を考える上で土師聚落の存在は大きい。当社の現在の鎮座地は中土師の土師神社と 二五〇メートルしか離れていない。明治四一年には同村内中土師の村社土師神社に合 祀されたが、昭和二六年(一九五一)氏子、崇敬者の総意により土師神社より分祀さ れ、西土師神社として現在に至っている。

大鹿三宅神社[オホカノ・]
神館飯野高市神社に合祀 式内飯野神社に掲載済み
大鹿三宅神社[おおかみやけ]「香山戸神」三重県鈴鹿市国府町1609 玄松子の記憶
三宅神社[おおかみやけ]「國常立之命 大穴牟遲命」三重県鈴鹿市池田町14 玄松子の記憶

三重郡[ミヘ]:六座並小

江田神社[エタ]
江田神社[えだ]「五十功彦尊」三重県四日市市西坂部町3653 阜嵐健
鵜森神社[うのもり]「天照皇大御神、建速須佐之男命」三重県四日市市鵜の森1-13-6 阜嵐健
廣幡神社に合祀「譽田天皇 配 建御名方命、事志呂主命 合 軻遇突智命、建葉槌命、大日神、蒼稻魂神、市杵嶋姫命、大山祇命、建速須佐之男命、倭比賣命、伊波比主命、 菅原道眞、麓山祇命、中山祇命、奧山祇命、八衢彦命、八衢姫命、萬幡豐秋津師比賣命、土方雄氏、伊波比主命、比賣神、建御雷之男命、倭比賣命、 五十猛神、大屋津比賣命、大市比賣命、抓津姫命、八十神、大穴名牟遲神、大山咋命」明治四十年より村内全部の郷社を合祀。三重県三重郡菰野町蔬野2770 広幡神社

広幡神社
広幡神社のしおり
旧くは正八幡宮と称し、寛永七年八月十五日菰野領主従五位下方丹後守雄氏公石清水 八幡宮より勧請し、以来同家の鎮守社となる。
明治三年十月藩庁及管内鎮護の社となる。
合殿の諏訪神社は菰野郷草創の社で村中里民の産土神なりしが慶長年中土方家並に藩 士の産の産土神となる。慶長十三年三月領主雄高公の命に依り諏訪神社を南山に奉遷 す。  明治四年十月二十三日菰野県庁の命に依り諏訪神社を正八幡宮に合祀して広 幡神社と改称し、明治六年三重県庁より第一大区四五六小区郷社と定められる。
明治四十年より村内全部の郷社一村社倭文神菰野神社平岡神社、日吉神社、江田神社 、須賀神社、豊岡御厨神社、春日神社を合祀する。

加富神社[カフ]
加富神社[かふ]「大日靈女貴尊、天饒速日命、天兒屋根命、品陀和氣命、天穗日命、建速須佐之男命、金山毘古命、市杵嶋姫命、上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、大山祇神」三重県四日市市波木町821
加富神社「天饒速日命 合 素盞嗚尊、豐受大神、譽田別尊、金山毘古神、大己貴命、倉稻魂命、保食神、天照大御神、伊弉冉命、五男三女神、大山祇命、麓山祇命、中山祇命、市寸嶋比賣命、豐石窗神、櫛石窗神 ほか」三重県四日市市山田町2187 天璽瑞宝

神前神社[カムサキ]
神前神社[かんざき]「天照大御神 配 建速須佐之男命」三重県四日市市高角町507 四日市の史跡

小許曾神社[ヲコソ]
小許曽神社[おごそ]「大日靈貴尊、天宇受賣命、布刀玉命、豐宇氣毘賣神 ほか」三重県四日市市小古曽2-28-2

足見田神社[アシミタ]
足見田神社[あしみた]「志那都比古命、志那都比賣命、瀬織津比命、宇加之御魂神」主祭神については倭建命、保食神あるいは伊勢津彦とする説がある。三重県四日市市水沢町708 足見田神社
加富神社 式内加富神社に掲載済み 三重県四日市市波木町821

椿岸神社[ツハキキシ]
椿岸神社[つばきぎし]「天宇受賣命 配 猿田毘古神、天照大御神」三重県四日市市智積町684 椿岸神社
椿大神社境内摂社の椿岸神社「天之宇受女命 配 太玉命、天兒屋根命」三重県鈴鹿市山本町1871 玄松子の記憶

朝明郡[アサケ]:廿四座並小

伊賀留我神社[イカル・]
伊賀留我神社[いかるが]「大日貴命 配 大山祇命」三重県四日市市大字茂福483 阜嵐健
伊賀留我神社「天照大御神荒魂 合 大年神、大山祇神、天武天皇、祭神不詳」伊賀留我神社の根本社か。三重県四日市市大字羽津戊523 伊賀留我神社

能原神社[ノハラ]
能原神社[のはら]「草野姫命 配 天照大御神、大山祇神、天之御中主神」三重県四日市市中村町1697 阜嵐健

伎留太神社[キルタ]
伎留太神社[きるた]「苅田姫命 配 大山咋命、素盞嗚命、菅原道眞」三重県三重郡菰野町大字切畑579 阜嵐健

石部神社二座[イソヘ]
石部神社[いそべ]「天照大御神、天兒屋根命 合 保食神、素盞嗚命、大山祇命、天目一箇命、應神天皇」三重県四日市市朝明町大字中里515 石部神社 in 四日市の神社

上神社[ウサキカミ]
菟上耳利神社[うなかみみみとし]「應神天皇 配 兔上王、大山祇神」三重県四日市市伊坂町1388 菟上耳利神社
菟上神社[うながみ]「菟上王 配 若倭根子日子大毘毘命、曙立王」三重県員弁郡大安町大字宇賀1070 太神社[オホワ]
石部神社に合祀 式内石部神社に掲載済み
太神社[おおの]「神八井耳命 合 大山祇命、天目一箇命、應神天皇」三重県四日市市大鐘町1556-4
大神社[おおみわのやしろ]「大物主大神」三重県員弁郡大安町大字片樋1433

多比鹿神社[タヒカ]
多比鹿神社[たひか]「多比理岐志麻流美神 合 鳥鳴海神、貴久比賣 ほか」三重県三重郡菰野町大字田光2063 阜嵐健

鳥出神社[トリイテ]
鳥出神社[とりで]「日本武尊、事代主命 配 天照大御神、豐石窗神、大鷦鷯天皇、菅原道眞、櫛磐窗神、波迩夜須毘古神、波迩夜須毘賣神、應神天皇、天兒屋根命」三重県四日市市富田2-16-4 阜嵐健

八十積椋神社[ヤソツミクラ]
八十積椋神社[やそつみくら]「豐宇氣毘賣命 配 天津兒屋根命」三重県三重郡川越町大字豊田180 阜嵐健

八十積椋神社
由緒
延喜式神明帳所載朝明郡二四座の内一座なり伊勢国神明帳考証に按八十積称二盈積一 之詞顕二豊饒之神徳一也椋倉也今在二豊田村と亦神宮雑例集に伊勢大神宮の内朝明郡 以十四町に二反為供田云々現に伊勢田宮田と称する地名あり。

神社[シテ]
神社[しで]「氣吹戸主神」三重県四日市市大宮町14-6
  志多良神は「しだ」(うらじろ)の神か 志賀剛氏  式内社のしおり
 志多羅神は三台の御輿に乗り、河辺郡(伊丹市)から豊島郡(池田市)、つづいて西国街道を島下郡(茨城市)へと民衆の群が膨れ上がりながら、進んで行ったのです。いつの間にか御輿は六台に増えていました。一台の御輿には自在天の掲額、もう一台には宇佐八幡大菩薩とありました。山崎の渡しから石清水八幡宮へと押しかけたのです。
 『梁塵秘抄口伝集』には、続いて志多羅神のことが書かれています。  長和元年(1012)に設楽神が自ら九州から上ってきて船岡山に到着、しかしそこには先に疫神がいたので、社殿は造らなかったが、とにかくお祀りしたとのこと。
志氏神社(志氏神社古墳)

耳利神社[ミゝトシ]
菟上耳利神社[うなかみみみとし]「應神天皇 配 兔上王、大山祇神」三重県四日市市伊坂町1388
穂積神社「饒速日命 配 伊迦賀色許男命 ほか」通称:談合の宮。三重県四日市市広永町1553 穂積神社
耳常神社に合祀 式内耳常神社に掲載

耳常神社[ミゝツネ]
耳常神社[みみつね]「神八井耳命 配 建御雷之男神、齋主神、天兒屋根命、姫神、神沼河耳尊、大山祇命」三重県三重郡菰野町大字小島1688 阜嵐健

耳常神社
耳常神社略記
当社の創祀については不明の点も多く、はっきりしませんが神社前の田畑から六世紀 後半の竪穴式住居跡(六谷遺跡)の埋蔵文化財が発掘されており、少なくともこの頃 までに人々が住み、神まつりをしていたと思われます。
平安時代初期の延長五年(九二七)に編さんされました「延喜式」に朝明郡(現在の 四日市市と菰野町の一部)の神社二十三社がしるされており、そのなかに耳常神社の 名がみられます。
このことは当時すでに耳常神社が由緒のある神社として朝廷から崇敬されていたこと を物語っています。
戦国時代に織田信長の兵火をさけるため八幡社と称したことから明治維新まで小島八 幡社ともいわれ近郷の信仰をあつめました。


耳常神社「應神天皇 合 天照大御神、保食神、建速須佐之男命、市杵嶋姫命、大山祇神」神社前の田畑から六世紀後半の竪穴式住居跡(六谷遺跡)の埋蔵文化財が発掘。三重県四日市市下之宮町319

移田神社[ウツシタ]
井後神社に合祀[いじり]「高神 合 建速須佐之男命、大山祇神」三重県三重郡朝日町大字柿2567 阜嵐健

移田神社「埴安姫神、須佐之男命」三重県三重郡朝日町埋縄字里中980

櫛田神社[クシタ]
櫛田神社「櫛名田比賣命 配 奇日方命、須佐之男命、保食神、大山津見命」三重県桑名市大字島田205-1 阜嵐健

井手神社[ヰテ]
井手神社[いで]「大日貴尊 合 武甕槌神、品陀別尊」三重県三重郡菰野町大字永井338 阜嵐健

殖栗神社[ウヱクリ]
殖栗神社[えぐり]「天兒屋根命 合 天照皇大御神、素盞嗚尊、市寸嶋比賣命、大山祇命、天穗日命、蛭子命、殖栗連、大土神、應神天皇」三重県四日市市西村町2808 殖栗神社

布自神社[フシ]
布自神社[ふじ]「木華開耶姫命 配 天照大御神、菅原道眞 合 市杵嶋姫命、倉稻魂命、大山祇神」三重県四日市市山村町892 布自神社

穂積神社[ホツミ]
穂積神社[ほづみ]「饒速日命 配 伊迦賀色許男命 ほか」三重県四日市市広永町1553 穂積神社
福王神社に合祀[ふくおう]「武甕槌命 合 天火明饒速日命、天照大御神、品陀和氣命、倉稻魂命、市杵嶋姫命、大山祇命」三重県三重郡菰野町大字田口2404  福王神社

福王神社
由来
福王神社、鈴鹿山系の一つ老杉がおい茂る竜ケ岳の山麓に鎮座しております。 ご本尊は、百済の仏工安阿弥勅によって彫まれ、聖徳太子の手でこの霊場に安置され ました。毘沙門天王は、七福神の王として、また四天王随一の守護神としてあがめら れ、神社の鎮座せられた山を俗称「福の山」とよぶようになりました。
毎月三日、十三日、二十三日の縁日には、信仰厚い参詣客でにぎあいます。毘沙門天 王の正月の命日には、毘沙門講と称して商家の人々が小室坂の雪をふんで参詣し、一 年の開運を願います。     

櫻神社[サクラ]
長倉神社に合祀 式内長倉神社に掲載

井後神社[ヰシリ]
井後神社[いじり]「高神 合 建速須佐之男命、大山祇神」貴船大明神。三重県三重郡朝日町大字柿2567 阜嵐健

長倉神社[ナカクラ]
長倉神社[ながくら]「應神天皇 合 木花之佐久夜毘賣神、大山祇命、高神、天照大御神、倭姫命、宇迦能御魂神」三重県四日市市大矢知町2730

苗代神社[ナハシロ]
苗代神社[なわしろ]「少彦名命、菅原道眞」三重県三重郡朝日町大字縄生2645 縄代nao

苗代神社
苗代神社略記
白鳳年間(六五〇〜七二〇)伊賀の国、敢国神社から少彦名命を勧請、さらに、室町 時代に山城の国北野より天満宮を相殿に勧請して奉祀したと伝えられる。元和三年( 一六一七)に桑名城主となった菅原道真の後裔松平隠岐守定勝は当社を崇敬し、自家 の紋章を献じたのをはじめ、牛飼料として田三反を寄進した。その後も、代々松平侯 の崇敬を受け、定紋の幕ちょうちんの下付があり、慶応四年(一八六八)の役所宛て の由緒書には松平越中守参詣の記事がある。
明治二年三月十四日天皇がご東幸のとき、官幣使亀井隠岐守を代表として派遣され、 ご幣物金千匹ならびに白木綿、また二首の献詠があった。同三十九年十二月神饌幣帛 料共進社に指定され、翌四十年十月四日須佐之男社「祭神建速須佐之男命」八王子社 「祭神五男三女神」愛宕社「祭神火之迦具土神」稲荷社「祭神宇迦之御魂神」八幡社 「祭神応神天皇」稲荷社「祭神大宜都比売命」両大神社「祭神天照大御神・豊宇気比 売神」蛭子社「祭神不祥」の境内社を村社苗代神社へ合祀し、その社名を苗代神社と 称することになった。他の市町村の崇敬者の多く、境内にある明治三十五年の「神馬 舎木馬信徒者寄付表」には、多数の人たちの氏名が刻まれている。
昭和五年八月十九日郷社に列せられ、今日に至っている。
少彦名命は医薬・酒造の神で世に恵比寿様と称し、商売繁盛・五穀豊穣の守護神であ り、また菅原道真公は学問の神として尊崇されている。

井後神社
由緒
当社は壱千有余年前の御創建にかかり祭神は高・神と称し俗に貴船大明神とも称し奉 る。延喜式神明帳に朝明郡2四座の内井後神社とあり、三国地誌勢陽俚諺、古屋草紙
 式内案内記、北勢古志徴古録等何れも朝明郡柿村と記さる。 往昔井戸後御鎮座にて今村の氏神なりしが、安永年間当時今村は、柿村に併合され、 その産土神となれり、旧本社井戸後の地は周辺水田に囲繞された、低湿地にて排水の 便よろしからず常に民家から瞰下される位置にあり尊厳風致上好ましからず、本社は 隔絶の景勝地柿村城之広山頂に無格社山神社、祭神大山祇神が鎮座されていた 明治 年間の合祀にて、高・神と共に、祭神建速須佐之男神を城之広大山祇神境内に遷座奉 斎す その後護国の神霊も併せ奉祀し奉る 多賀大社祭神伊邪那岐伊邪那美神も井後 神社境内に摂社として奉祀され以後延喜式内井後神社と称号し奉る。

長谷神社[ハセ]
神社に合祀[しで]「氣吹戸主神 配 伊邪那岐命、伊邪那美命 合 上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、應神天皇、大山祇神、奧津日子神、奧津日女神、久那斗神、祭神不詳」三重県四日市市大宮町14-6 阜嵐健

員辨郡[ヰナヘ]:十座並小

鴨神社[カモ]
鴨神社「鴨別雷命」三重県員弁郡大安町大字丹生川上429 阜嵐健

石神社[イシ]
石神社[いし]「品陀和氣命」三重県員弁郡藤原町大字石川字垣内881 阜嵐健

平群神社[ヘクリ]
平群神社「木菟宿禰」式内宿禰の子、平群氏族の祖神。背後の平群山は古代神奈備の遺跡。三重県桑名市大字志知369 阜嵐健

平群神社
延喜式内社。本社は大字志知の氏神(祭神は平群氏族の祖神、木菟宿禰)であり、合 祀の祭神は木菟宿禰の父式内宿禰・大巳貴命・天照大神・素盞嗚命・大山津見命・倭 建命である。
この地は倭建命(日本武尊)御駐足の跡と伝えられており、境内には氏子などによっ て建てられた尊の御歌「いのちのまたけむ人はたたみこもへくりの山のくまかしか葉 をうすにさせその子」を刻んだ石碑が、境内奥には倭建命の足洗池と伝えられる池が あり、「平群池の白サギ」の伝説も残っている。
また、背後の平群山は古代神奈備の遺跡である。

多奈閇神社[タナヘ]
多奈閇神社[たなべ]「天日鷲命」三重県員弁郡北勢町大字田辺398 阜嵐健
多奈閇神社「天日鷲命」三重県員弁郡東員町大字中上2000 阜嵐健

猪名部神社[ヰナヘ]
猪名部神社[いなべ]「伊香我色男命」三重県員弁郡藤原町大字長尾244 阜嵐健
猪名部神社「伊香我色男之命」三重県員弁郡東員町大字北大社797 猪名部神社公式
鳥取山田神社 次に掲載

鳥取山田神社[トトリノヤマタ]
鳥取山田神社[とっとりやまだ]「角凝魂命 合 天兒屋根命、大山祇神、須佐之男命、 天照皇大神 、菅原道眞 、品陀和氣命 、火産靈神、 天湯河桁命」鳥取氏の祖神。三重県員弁郡東員町大字山田1010 阜嵐健

鳥取神社[トトリ]
鳥取神社[とっとり]「天湯河板擧命」三重県員弁郡大安町大字門前603 阜嵐健
鳥取神社「天湯河桁命」三重県員弁郡東員町大字鳥取1457

大谷神社[オホタニ]
大谷神社「水分神、天兒屋根命 合 宇氣母智神、天照大御神」三重県員弁郡東員町大字大泉1202 阜嵐健

賀毛神社[カモ]
賀毛神社[かも]「彦坐命 配 鴨縣主命」三重県員弁郡北勢町大字垣内718 阜嵐健

星川神社[ホシカハ]
星川神社「天照皇大神 配 宇迦之御魂神、火産靈神 合 須佐之嗚命、大山祇神」三重県桑名市大字星川443 阜嵐健

桑名郡[クハナ]:十五座 大一座 小十四座

桑名神社二座[クハナ]
桑名神社「天津彦根命、天久久斯比乃命、天日別命、建御雷神、齋主神、天兒屋根命、比賣神、波母山神、大己貴神、少彦名神、神皇産靈神、須佐之男命、日本武命、宮簀媛命、 加良洲大神、大山祇大神、木花開耶毘賣命、天照大御神、荒神(あらぶるかみ)、天目一箇命、酒解神、櫛御氣野命、菊理媛命、大山咋神、火之加具土神、佐軍神一座田心姫、 奧津彦命、奧津姫命、蛭兒命、大物主神、倉稻魂命」天久々斯比乃命:神徳霊妙にて、上代の桑名地方豪族の祖神。三重県桑名市本町46


桑名神社
桑名神社(三崎大明神)
例祭 八月十七日 比与利祭
御祭神 天津彦根命:天照大御神の第三御子で御子孫が殊に御繁栄
天久々斯比乃命:神徳霊妙にて、上代の桑名地方豪族の祖神

中臣神社(春日大明神)
例祭 九月十八日 御車祭
御祭神 天日別命:神武天皇御創業時の功神で、伊勢国造の遠祖
相殿 春日四柱神
建御雷神:日本国土奉還という重大な使命を自ら進んで果たされた武力・外交とも優 れた神
斎主神
天児屋根命:中臣氏(後の藤原氏)の祖神で、祭祀や朝政に優れた神
比売神:右の妃神

桑名宗社縁起 延喜式内桑名神社
中臣神社
桑名宗社とは桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)の両社を称し、古来 桑名の総鎮守で、桑名首(おびと)の祖神を祀っているので、桑名宗社と言う。
桑名神社は平安時代、延喜式神名帳にその名の見える古社で、御祭神は天照大御神の 第三御子、天津彦根命と、この大神の御子天久々斯比乃命の二柱である。天津彦根命 は国史にも見えた様に御子孫の殊に御繁栄になった神であり、また天久々斯比乃命は 神徳霊妙な神で、桑名首(上代桑名地方の豪族)の祖神であるので一郡の開祖として 仰がれ、その子孫は代々祖宗の御社に奉仕し大化の改新後も郡司となって当地を支配 した。景行天皇の御代にはすでに三崎大明神として崇められたりと記録があり古来桑 名の地主神として、また郡府の宗社として崇敬極めて篤い御社である。
古記録によれば、往古は現在の桑部村にあったが、景行天皇四十年(110)には既 に宮町あたりに鎮座して三崎大明神と称せられ、その後宝殿町あたりに遷座されるも 、幾程もなく同四十五年現地へ奠められた。
また中臣神社は神護景雲三年(769)常陸国鹿島社より建御雷神霊が御通過になっ た基址に祀られたと記録があり、その地は上野村と言われる。
中臣神社も延喜式内社で、御祭神天日別命は神武天皇御創業の時の功臣で伊勢国造の 遠祖として仰がれる。古くは現地より西方へ二十町余も隔たった山上にあったのを、 正応二年に桑名神社の境内へ遷し奉り、永仁四年に奈良春日大社から春日四柱神を勧 請合祀してからは春日大明神春日さんと呼ばれるようになった。これより御社は繁栄 の一途をたどり足利時代には幕府より三丁掛にて八百石、上之輪村に三百石の神領を 寄進、応永二年・永正六年・天文二十年と遷宮があり、永禄十年には吉田家より一の 宮(それぞれの国で第一の資格を持つ神社)として許可された。永禄十二年には織田 信長より神領の寄進、天正年間には長島城主にて桑名をも兼領した滝川一益が社殿を 造営した。
江戸時代に入ると将軍・藩主の崇敬いよいよ深く、慶長六年、徳川家康より神領百石 の寄進をはじめ、本多忠勝・忠政、松平定綱など歴代の桑名城主から次々と社領・営 繕の寄進を受けた。明治になってからも元年の御東行、二年の東京遷都と、共に天皇 ・勅使がお泊りになるなど崇厳を増し、明治十四年には県社に列せられた。また明治 三十九年には三重県告示にて神饌幣帛供進指定社となった。
焼失前の拝殿は文化年間、楼門は天保年間に、いずれも桑名城主より造営されたもの で明治二十五年の大改造では諸戸清六より玉垣奉納を受けるなど社貌を一新、荘厳な 一大社となったが惜しくも昭和二十年の戦災ですべて焼失した。
敗戦と焼土の中にあっても氏子崇敬者の深い理解により昭和二十九年に拝殿が、そし て五十九年には本殿・幣殿が、それぞれ立派に再興され、さらに平成七年の春日神勧 請七百年祭には記念事業として楼門再建計画が立案されている。
春日神社の石取祭 昭和五十六年三月三十日 三重県指定無形民俗文化財指定 石取御神事は、桑名神社の大祭前期桑名祭(比与利祭)の中の一神事であったのが、 宝暦年間(1750年代)に分かれたものである。
比与利というのは、この祭を行なうために桑名市南郊の町屋川へ行き、禊祓し石を運 ぶ途中ヒョウリヒョウリと笛を吹き謡ったのから起こって遂にヒヨリ祭という様にな ったのであろう。
この名の起源については、他に説があって表裏の意とも、日和の意とも、干下りとも 、又は伊勢物語に右近の馬場のヒヲリの日とあるヒヲリとも種々あって一定しない。 比与利祭は、石取神事、流鏑馬(やぶさめ)神事、ねり物神事などを合わせたもので あり、その起源については、
〓石占(いしうら)の説
石によって神意を占う習俗で石を持ってみて重く感じたり軽く感ずるのにより神意を 判断したり、石を投げて落ちる状態により、これを占う。
〓社地修理の説
神社の地は、海川が近く地が低いので、納涼のはじめに氏子のものが町屋川より石を 拾ってきて社地に敷き施したが、七夕の行事と合して、だんだん盛んになった。
〓流鏑馬の馬場修理の説
比与利祭に流鏑馬神事を行うので、その馬場を修理するために町屋川より石を運んだ のが始まりである。
以上の諸説があるが、氏子が町屋川で禊して清浄の栗石を運んで社地に敷くのは単な る低湿の社地や馬場を修理するためのみではなく、私たちの祖先は石を生きて生長す るものと考え、永遠性を認めたので、神霊の憑依(うつる)すべきものとの信仰を持 っていた。桑名の氏人の祖先を祭るために祭場を設け神を迎える準備をするのが石取 祭である。
即ち、比与利祭を行うために石取をして、石取をしてはじめて比与利祭を行い得ると 言える。
また、石取御神事本楽日に先立ち、各町では町屋川へ行き、清流に禊して拾い採った 清浄な栗石を奉納し、試楽日午前十時より献石神楽が行われる。この石は数百年来奉 納しているが、その数が今に増えないのは神異の一として世に宣伝するところである 。古来この石を拝受して祀るもの、商売繁昌に家内和合に安産に霊験著しく、必ず報 賽(お礼まいり)に石を返納する習わしとなっている。
「春日神社の石取祭」は北勢地方の最大の夏祭りとしても有名である。

佐乃富神社[サノフ]
北桑名総社・北桑名神社「建速須佐之男命、鵜葺草葺不合命、泣澤女神、天兒屋根命、持統天皇、應神天皇、宇迦之御魂神、火産靈神、高水上命」三重県桑名市堤原3183

尾津神社二座[ヲツ]
尾津神社[おづ]「倭建命、足鏡別命 配 大山津見神、祭神不詳」三重県桑名郡多度町大字小山1915
尾津神社[おず]「倭建命 合 足鏡別命、稚武彦命、品陀和氣命、天照大神 、宇迦御魂神、火之夜藝速男神、大山津見神、水波能賣神」三重県桑名郡多度町大字戸津499


尾津神社
戸津区の氏神様 尾津神社に祀られている御祭神は倭建命、稚武彦命、足鏡別命、品 陀和気之命(応神天皇)、宇賀魂神(稲荷様)、天照大神以上六柱と伝えられており ます。此の氏神は今から千七十七年前、醍醐天皇の延喜五年藤原時平が勅命を受けて 、日本全国の名のある神社を調べ神社台帳に記載され(これを延喜式神名帳と言う) 尾津神社はその時小社となって居り、天照大神の御子天津彦根命をお祀りした多度神 社は大社でありました。
尾津と言う所は倭建命が大和から御東征の時(静岡県の焼津付近)尾津崎に立ち寄ら れ松の木の下で食事をされ、松の木に太刀をかけて置き忘れて立ち去られましたが、 その時もう一振の太刀を持って居られたのが伊勢神宮で伯母倭比売命から貰い受けた 剣で、現在名古屋の熱田神宮に祀られている草薙の剣であります。その後征戦を終え られての帰途此の地に立寄られた時松の木にかけた剣が失はれず、そのままかかって 居るのを御覧になって感激のあまり御歌をよまれたのが古事記にある次の歌でありま す。
 尾張に直に向える 尾津前なる一つ松吾兄を 一つ松
 人に在りせば 太刀佩けましを衣着せましを 一つ松吾兄を
 尾津崎は斯うした歴史ある所であります。


草薙神社[くさなぎ]「倭建命」 三重県桑名郡多度町御衣野

小山神社[ヲヤマ]
小山神社[おやま]「櫛玉神 配 大山津見神、火之加具土神、火之・毘古神、火之夜藝速男神、佐軍神」三重県桑名郡多度町西小山1197 阜嵐健

野志里神社[ノシリ]
野志理神社「天照大神 合 建御雷神、天兒屋根命、經津主神、姫神、大山咋神、速玉之男神、事解之男神、八衢比古神、八衢比賣神、衝立衝立久那戸神、火之迦具土神、火之夜藝速男神、火之・毘古神、品陀和氣命、大山津見神、宇迦之御魂神、白山比賣神」三重県桑名郡多度町下野代3073 阜嵐健

多度神社[タト](名神大)
多度神社[たど]「天津彦根命 別宮の一目連神社 天目一箇命」桑名首、天津彦根命の男、天久之比乃命の後なり。天目一箇命は、天津彦根命の御子神。多度山には 磐座が多くある。三重県桑名郡多度町多度1681 多度大社公式

多度神社
◆祭神
本宮 多度神社 天津彦根命
別宮 一目連神社 天目一箇命
御祭神の天津彦根命は、天照大御神と速須佐之男尊との御誓約による五男三女の御子 神の第三皇子であらせられる。『新撰姓氏録』に「桑名首、天津彦根命の男、天久之 比乃命の後なり」とあり、北伊勢地方を支配した豪族が氏神として奉斎した神で国土 開拓・産業開発・商工業繁栄の守護神である。
天目一箇命は、天津彦根命の御子神であり、『古語拾遺』により、伊勢忌部氏の祖で あることが知られる。天照大御神が天の岩戸にお隠れになった際にも、刀・斧を作り 活躍された神で、金属工業の守護神(製鉄・金作りの神)である。さらに、雨や風を 支配され、生きとし生けるものの命のもととなる農業水産を守護し、諸難を滅し、諸 願を成就する神で古来神殿には御扉を設けない造りになっている。

◆由緒
古来より標高403メートルの多度山が、神体山として信仰され、古代祭祀を物語る 磐座が山の中腹に存する。社伝によると五世紀後半、雄略天皇の御代に社殿が創建さ れたと伝えられる。
『延喜式』巻九神名帳の桑名郡十五座のうち「多度神社 名神大」とみえ、いわゆる 延喜名神大社である。後一条天皇の御代に、東海道六社の一社にかぞえられ、天皇即 位後の御一代一度の奉幣に預る神社として大神宝使が派遣され、宣命・幣帛・神宝が 奉られ朝廷の厚い崇敬を受けた。
奈良時代末期に、満願禅師が多度神の託宣を受け、天平宝字七年(763) に多度菩薩 を中心とした三重塔二基・法堂・僧房からなる神宮寺(日本で三番目)を建立した。
後に国分寺に準ずる扱いをうけ、寺院70房・僧侶300余を数える大寺院となった 。さらに、鎌倉時代の弘長元年(1261)には正一位が授けられ、南北朝時代の暦応年 間には多度祭の上げ馬・流鏑馬神事が始まったと伝えられる。しかし、元亀二年(15 71)に織田信長の兵火にかかり、社殿宝物をはじめ神宮寺も焼失し、一時社頭は荒廃 したが、徳川氏が天下を治め平和な世となるとともに、桑名藩主本多忠勝・忠政の支 援により本殿以下の社殿・神事が復興された。桑名藩主が松平家に替わった後も、桑 名地方の守護神として厚く崇敬され、社殿の造営・社領の寄進が度々行なわれ、藩例 として毎月正月には藩士が代参する習しであった。また、当代の庶民の伊勢参宮の折 りには、北伊勢大神宮とも称される当神社を必ず参拝した事が「お伊勢まいらば、お
多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と謡れていたことからも明らかである。
明治六年に県社、大正四年には国幣大社に列格し、天皇・皇后両陛下よりもたびたび 幣饌料が供せられ御神威はいよいよ高くなり、全国より多くの参拝者がある。

尾野神社[ヲノ]
尾野神社「天押帶日子命」舟附明神。三重県桑名市東方西馬様2194 阜嵐健

深江神社[フカエ]
深江神社「天之菩毘能命」三重県桑名市下深谷部3371 阜嵐健

額田神社[ヌカタ]
額田神社[ぬかた]「意富伊我都命」三重県桑名市大字額田字葉田711 阜嵐健

額田神社
◆祭神
意冨伊我都命
天津彦根命ノ御孫ニシテ額田部連ノ御祖神デアリ第十九代(允恭天皇:西暦440年 )ノ御世ニ御奉斎セラル。延喜式神名帳ニ桑名郡(郷)額田神社也トアル。
明治14年10月28日 郷社ニ列セラレル
◆合殿
天照皇大神
天津彦根命
◆例祭
十月十六日


額田神社「意富伊我都命」三重県桑名市大字増田40 阜嵐健

宇賀神社[ウカ]
宇賀神社[うが]「宇賀御魂神」三重県桑名郡多度町柚井1564 阜嵐健

宇賀神社
◆祭神
宇賀乃御魂神(稲造・食物・商売繁昌の神)
火之迦具土神、火之・毘古神、火之夜芸速男神(火の神)
表筒男神、中筒男神、底筒男神(航海舟便の神)
大巳貴命、少彦名命(医薬の神)
◆例祭
十月十一日
◆由緒
延喜式内社で明治四十三年境内、区内の神々を合祀し奉り、現在の宇賀神社となる。 大正年間、村社より郷社に昇格されたが、遠く仁寿元年(約1200年前)すでに神階正 六位に叙せられ、そのあと度々累進されている。
御神徳高く、近郷近在に崇敬者が多く、農事、山と火の安全、舟便、医薬の神として 崇められている。

中臣神社[ナカトミ]
桑名神社に合祀「中臣神社:天日別命、建御雷神、齋主神、天兒屋根命、比賣神」天日別命:神武天皇御創業時の功神で、伊勢国造の遠祖。三重県桑名市本町46

長谷神社[ハセ]
長谷神社[ながたに]「建御雷之男神 配 齋主神、天兒屋根命、姫大神、品陀和氣命、大山祇命、天目一箇命、須佐之男命」三重県桑名市大字桑部817 阜嵐健

立坂神社[タチサカ]
尾野神社摂社立坂神社「祭神不詳」三重県桑名市東方西馬様2194 阜嵐健
立坂神社「大日貴尊」三重県桑名市新矢田2−24 阜嵐健

H24.1.23

延喜式神名帳目次

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