日部神社
大阪府堺市西区草部262 its-mo


交通

JR阪和線鳳 南1.5km



祭神

彦坐王、神武天皇、道臣命 合 素盞嗚尊、伊弉冉尊、菅原道真

 祭神の神武天皇は『記紀』に日下で長髄彦と戦った伝承による。その将軍として日臣命が活躍したので「日」にちなんで祭神とされた。
 当社とかかわる日下部首は雄略紀の大草香部のようである。



鳥居



由緒 平成祭礼データから

 式内社で日下部祖彦座命を祀る古社である。由緒不詳であるが、当社が「輪の内」よ り現在地の「寺山」に遷座されたのは明治四十四年十月十三日と明治十二年の神社明細帳に記されている。当神社は神武天皇御東征の砌上陸された日下の蓼津は此の地な りと古事記伝に記されている。
 重要文化財として石燈籠と御本殿があり、石燈籠は正平二十四年卯月八日の銘あり。 楠木正儀氏当地の旧社家大塚氏宅に滞在中、当社に皇室の御安泰を祈願し奉献されたものと伝えられている。美術工芸品として価値がある。また御本殿は創立年月不詳然 し室町時代の様式を残す建築物である。
 御山古墳これは「輪の内」の旧社地(現在地の南方約三百米)の近くに道臣命の墳墓 と称する古墳があり、往時は「大塚山」とも言い日下部首の塚とも比定されていた。遷座後民間に売却された。
以上



彦坐王とは

 彦坐王とは日子坐王とも記され、「天津神の始祖の王」程度の意味で、固有名詞ではなさそうだ。彦坐王と沙本之大闇見戸売(さほのおほくらみとめ)との間に、沙本毘古王、沙本毘売之命などが生まれている。沙本毘売之命なは垂仁天皇の后となるが、兄の沙本毘古王とともに謀反伝承を持つことになる。 母親の「闇見戸売(くらみとめ)」はクラオカミを思わす龍蛇神のイメージが出る。現に垂仁天皇の枕元で沙本毘売之命が次のように語っている。 「沙本の方より、暴雨の零り来て、急に吾が面を沽しつ。また錦色のヘミ、我が頸に纏繞はりつ。」
 また沙本毘売之命の別名は「左波遅比売(さはぢひめ)」である、これは沢道比売である。沢・沼は丹生であり、これは丹生都比売のこととも理解できる。
 この辺りの解釈は『鍛冶王の伝承』畑井弘著を参考にした。

 息長帯比売(神功皇后)の祖でもある彦坐王も語られている。


拝殿



日部神社の立地とお姿

 現社地は明治末期に北へ300m程遷座している。 それまでは御山古墳に祀られていたのだが、墓と一緒ではよろしくないとのことだったようだ。 しかし墓と一緒の立地のケースは現在でも多いので、珍しいことではある。

 旧地の1km程東南東に等乃伎神社が鎮座しており、等乃伎神社、日部神社、金剛山頂は一直線に並び、冬至の日の出線だそうだ。『日本の神々3 大和岩雄氏』
 神社は南向き、東西と南の三叉路の北側に鎮座、悪い気を除く場所と言える。合祀された八坂神社の鎮座地。 本殿と石灯籠は重要文化財。
 狭い参道の真ん中に無理に軽自動車が駐車していた。神社関係者の仕業であろうが、控えるべきこと。


お祭り

 7月13日 1日間 夏季例祭
10月 5日 1日間 例大祭


和泉名所図会から


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