美多弥神社
大阪府堺市南区鴨谷台1-49-1 its-mo


交通

泉北高速光明池 線路沿いに東 1km南600m

二の鳥居




祭神

天兒屋根命、須佐之男命
合祀 菅原道眞、天水分大神、大國主命、熊野大神
摂社
琴平社「琴平大神」

五の鳥居と拝殿



由緒
 当地は古来大鳥郡に属し、もと和田郷の内にして上村と称す。旧郷名は『和名抄』に、「大鳥郡和田爾木多」と載せられ、今の俗に美木多と呼べるは同韻の転なり。『姓氏録和泉国神別』に、「和田連、大中臣之同祖、天児屋根命之後」と見ゆる和田氏の居りし所ならん。

 美多弥神社は延喜式内の神社にして天兒屋根命を祀れり。和田氏の祖神を祀りしものなり。後醍醐天皇の御宇には社頭転奠の美を極めたる神社にして、楠氏の守護神なりしが、天正年間に至り織田氏のとき、兵乱の為め荒廃を及びけるに、元禄元年三月、和田道山楠氏の裔なるを以て之を再興し、寛保年中和田正房なるもの石燈籠壱対を寄付せりという。

 もと得泉寺といふ宮寺あり。氏子に宮座の家筋あり、その戸主たる年長者を一老と唱へて社務を執り来りしが、明治の後に至りて寺は分離廃絶し、社は同五年村社に列し、同四十年一月月神餞幣帛料供進社に指定せられ、同年九月北条の無格社厳島神社・大字檜尾字半田森の無格社勝手神社・大字森字森の村社菅原神社・同年十二月大字別所字西谷の村社熊野神社・字西山の村社熊野神社・本地字谷田の村社八幡神社・字イゲ山の村社八坂神社を合祀せり。

 神域は山に靠えいて壱千四百五拾四坪の広さを有し、神殿は数十級の石磴上にありて、拝殿神餞所及び磴下に社務所を存す。社務所は旧得生寺の旧宇なり。末社に琴平社あり。

 松樹その他の雑木は鬱蒼として社頭を覆へり。(『大阪府全志』から抜粋)

本殿



お姿
 旧の階段の途中に道路ができたようで、石段は半分以下になっていた。
 鳥居が寸詰まりのように感じる。それなりの型名があるのだろうが、判らない。
 急な石段を昇ると拝殿、その背後に回ると、狭い場所に自動車が留めてあり、その間をくぐって本殿の横の塀に出る。どうも見せ物ではないと云うことなのか、山上故の駐車場所に苦労しているのか。

白天龍王大神  琴平社
 



由緒 平成祭礼データから

 美多弥神社は、平安期(七九四年〜)、醍醐天皇時代に作成された神社戸籍簿の延喜式神名帳に記載されている由緒ある式内神社であります。鎌倉時代の永仁二年(一二九四年)、和田家古文書の沙弥性蓮処分状によると既に神社で流鏑馬の行事が行なわれていたと記載されています。南北朝時代には楠木正成の守護神として崇められ広大な境内に大樹が生い茂り堂々とした神社でありました。太平記によると、足利尊氏の執事、高師直、師泰の軍と四条畷の戦いで楠木正行と共に戦った和田新兵衛、和田賢秀は当地美木多の和田家の祖である。一五〇〇年代には、美多弥神社の境内に、得泉寺があり、織田信長の加護を受け紋を織田家の五瓜と定め現在に至る。しかし、天正五年(一五七七年)、和歌山の雑賀衆制圧のために兵を起こした織田信長軍に近くの放光寺とともに神社は焼かれた。安土桃山時代の文禄元年(一五九二年)楠木一族の和田六右衛門が菊水の紋(楠氏の紋)が入った燈篭一対を奉納された。神社本殿は、明治時代に新しく建てられ、拝殿他は昭和四十七年修改築す。昭和四十八年、境内のシリブカカシ(いっちん)が、天然記念物に指定され、平成二年大阪府の緑の百選に選ばれる。
以上


お祭り


10月 第一日曜日 例祭


神奈備にようこそに戻る
inserted by FC2 system