石津太神社
大阪府堺市西区浜寺石津町中4-12-7 its-mo

鳥居

交通

南海本線石津駅 南200m



祭神

蛭子命、天穗日命 相殿 八重事代主命
 配祀 天照大神
 合祀 建御名方富命 摂社
白蛇社「白蛇の御靈」、八幡神社「譽田別命」、磐山稲荷神社「倉稻魂命」

入母屋造軒唐破風付拝殿 向かって右が本社、南側に当たる左は建御名方富命



由緒

 大島郡の式内社石津太神社一座とあり、当社と石津神社とが論社として、定まっていない。『泉州志』は在下石津村とし、『大日本地名辞書』では逆に上石津神社を式内としている。

 同一敷地内に鎮座していた一つの神社であったが、村が上下に分離した際、それぞれ氏神として分けたのかも知れない。なにせ昔の神社の敷地は広大だった。聖神社と葛葉稲荷の如し。境内の由緒書きには、往時、境域は八町四方を有し、七堂伽藍、舞楽殿、文庫、楼門等で壮麗を極めていたと記す。
 両社とも最古の笑姿神の降臨の地との石碑が立っている。笑姿、エミス。
 当社は蛭子神と八重事代主神を戎神として並び祀っているが、主祭神は蛭子神のようだ。

 蛭子神は天磐楠船に乗せて、順風に放ち棄てた所、船は漂って当地へ漂着。この時、五色の神石を置いたので、石津と名付けた。船の着いた所を磐山と言う。

 天穂日命は石津連の祖で、子孫は当社と石津神社の神主であったが、明治以降退転。

本殿 一間社流造正面千鳥破風軒唐破風付き銅板葺


お姿

 東向きの鳥居と社域の間は駐車場。 境内の四方に巨楠が林立、また本殿は古風をたたえているようだ。

和泉名所図絵 下石津神社


摂社 白蛇社と楠木


お祭り

 10月 5日に近い土曜日、日曜日 2日間 秋季例大祭

『平成祭礼データ』

延喜式内社にして、我が国最古の戎社と称せられる当社は、伊奘諾命、伊奘册命夫婦となり、蛭子命をお生みになられたが、命三才に成られても尚、立ち給ふこと能はざりしかば、天磐樟船に乗せて順風に放ち棄て給ひしに、船は波に従い飄々として海岸に漂着し命は其の携へ来りし五色の神石をここに置き給い、此の地を石津といい、其の船の着きし所を石津の磐山という。後遥に年を経て、五代孝照天皇七年八月十日初めて、宮柱太しく建て給ひて、蛭子命を祀り更に、八重事代主命、天穂日命を合祀する。平安朝以後、朝廷の御幸幾度かあり、神階も加増せられ、境内は八町四方を有し、社殿は甍を並べる壮観さを呈していたが、元和年間以後数度の兵火に罹り社殿は悉く烏有に帰した。のちに、豊太閤は大阪城築城に際し、当社を裏鬼門の鎮守神として崇敬し、木村重成は社殿復興のために黄金金若干を寄進したと伝える。全国に崇敬者あり、明和六年、江戸湯島天神へ、同年八月に坐摩神社で出開帳し、又、前年には神札頒布について、西宮神社との係争が和解したという記あり。明治四十一年十二月諏訪神社を合祀する。
以上

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