烏帽子形八幡神社
河内長野市喜多町305番地 its-mo

鳥居

交通案内
河内長野駅南西1km


祭神
足仲彦命、神功皇后、應神天皇
 合祀 素盞嗚命
 摂社 恵比須社、稲荷神社

社殿

由緒
 神社創建は南北朝の頃。文明十二年(1480)石川源氏の末裔が河内七城の烏帽子形城の城の鎮護として祭祀したのが初めと伝わっている。戦国時代には城郭として使用され、キリシタン信者200〜300人が立てこもった。
 慶長十七年(1612)、甲斐荘喜右衛門正房なる者が二千石でこの地に封じられ、その子の正保が元和三年(1617)天王寺塔の普請奉行を勤めたが、工峻はるに及び、我が城の鎮守の甚だ荒廃しているのを嘆き、余材を以て、引き続き修繕造営を始め、元和八年上棟した。

社殿

お姿
 烏帽子形山の東山腹に鎮座、この山は公園になっており、ハイキング道が縦横に走っている。境内は南北270間(489m)、東西180間(326m)ここの丘陵全体が神域。

 本殿は国重要文化財に指定されている。以下、境内の掲示から。抄。
 桁行三間、梁間二間、入母屋造の檜皮葺三間の向拝をつけています。正面中央に五段の木階をつけ擬宝珠高欄をめぐらし側面後端に脇障子をおき、向拝に浜床、その正側面三方に浜縁を設けています。
 最近の解体修理は昭和四十一年に完了し、文明十二年の建立当時の形式に復元されました。

本殿 大宮造り



お祭り
  10月 10日 秋季例祭

河内名所図会


平成祭礼データ

 烏帽子形八幡神社のしおり
 河内長野市喜多町の西方の烏帽子形城跡の東山腹に社殿があり素盞嗚命、足仲彦命、神宮皇后、応神天皇を祭神としている。
 創建の年月は詳らかではないが、昔烏帽子形山には楠氏七城の一つである烏帽子形城と云う一支城があり、楠小二郎が拠っていたが、其の頃この城の鎮護として創建祭祀したのが烏帽子形八幡神社であると伝えられている。神社は其の後、久しく廃頽していたが、文明十二年河内石川源氏の末裔と云われる石川八郎左衛門尉が新たに入母屋造りの社殿を建立した。現在の社殿はこの時の姿に復原されている。後、室町末期に一度修理されたのみで荒廃していたものを、元和三年楠氏の後裔と云われる甲斐荘喜右正保が大阪天王寺の普請奉行を勧め、その竣工後ただちに我が居城の鎮守である烏帽子形八幡神社を再興修理し、元和八年八月上棟した、正保の子正述は当時長崎奉行の職にあったが、彼は万治二年及三年にわたり八幡神社境内に位牌堂、経堂、上下の鳥居等を建立し、亦、長崎で得た知巳黄檗宗木庵性SUから扁額二枚を贈られた。
 明治の初年、神仏分離により宮寺を廃絶し、神社のみ明治五年村社に列し、同四十年十月十九日大字小塩字宮山の村社八幡神社(狭山北条藩領の氏神)を合祀し、同四十一年十二月神饌幣帛共進社の指定を受けた。末社として恵比須社(島根県美保神社分霊)白山社、平野社、稲荷社があり、外に拝殿、神庫、社務所がある。昭和十五年五月十四日本殿が国宝に指定され、同、二十五年八月二十九日同本殿が重要文化財に指定された。又、「建文明十二年庚子二月十六日」の記がある。本殿棟札も昭和三十九年五月二十六日重要文化財に指定された。昭和四十年七月より本殿の荒廃甚しい為解体修理に着手し、昭和四十一年九月三十日修理を完成し、文明十二年建立当時の姿に復原された。
   以上
(注)文中のSUは、「王」偏に「爪」冠の「臼」です。

参考 大阪神社史資料、河内長野史

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