生野の天神
大阪市生野区の平野川東側

猪飼野の郷土史家の足代さんが川を挟んでかたや天神さん、かたや天王さんの神社が鎮座しているとの指摘をされていた。

田島神社
生野区田島三丁目五番

交通案内
地下鉄千日前線南巽駅 北西 2km its-mo



祭神
少彦名命 配祀 事代主命、八幡大神、菅原大神

摂社 伊邪那美神社、素盞嗚尊神社

由緒
 貞享元甲子歳(1684年)以前には鎮座していたが創建由緒など定かではない。
由緒書きに「裏山には千数百年を経た古松」とある所から、菅公以前の天神信仰の社であったのかも知れない。

田島神社

『平成祭礼データの由緒』
当社所蔵の社記録等は明治初期まで伝わっていたがほとんど散逸し、御創建年月等不詳である。ただ遺物等により徴すれば、現存最古の石灯篭に「貞亨元甲子歳(西暦一六八四年)」とあり、少なくともこれ以前から神社としての態を成していたことが伺われる。又社宝の後陽成天皇(安土・桃山時代)御宸筆の軸や神額などには、現主祭神少彦名命の御名が見えず『南無天満大自在天神』や『天満宮』、『天神社』とあり、その裏書や少彦名命の御樋代には「寛政四壬子年(一七九二年)」とある事等からから、寛政四年までは菅原大神を主祭神に、事代主命、八幡大神を相殿として『天満宮』と称していたが、この年少彦名命を勧請して『天神社』と称したものであろう。後、明治四十二年四月、現社号に改称したが、この頃までは境内地も広大で、裏山には千数百年を経た古松、数百年の老杉が繁茂し昼尚暗く狐や狸が棲息する程であった。
【流造】創建の年代も審ではないが、明治二十七年、桧皮葺屋根、昭和三十五年、銅板葺屋根に葺替え修築された。
御大典を記念して本殿屋根銅板葺替、幣・拝殿改築、末社二社新築、石鳥居新築、銅製御神牛及び石玉垣が新設された。
以上

お姿
 境内にメガネレンズ産業の発祥の地の石碑がたっていた。

石碑



お祭り
 7月17日 夏季例祭(地車巡行)   10月16日 例大祭


『大阪東の天神三社』  足代健二郎氏から

 二 田島神社

 田島は 「たしま」 と清音で読む。
 当社の祭神は少彦名命、相殿に菅原大神・事代主命・八幡大神の三神を祀る。
 もと天神社と称し、旧摂津国東成郡田島村の氏神である。神紋は梅鉢、ただし当社以下
三社(御幸森天神社、桑津天神社)とも祭日は二十五日(菅公の命日)ではない。
 明治初年、専任神職が置かれたが、旧来、四十余戸の宮座が当社に奉仕した。
         
 神宝の一つに 「烏(からす)のの餅杵」なる三本の細い黒木の杵がある。秋祭の前々日、宮座中から集めた糯米(もちごめ)を年番の年行司宅にてこの杵でつき、これを鳥の餅と称して神前に供するのを古例としたが、大正十三年宮座の廃絶とともに行われなくなったという。
 創祀の年代はもとより不明であるが、それ以降の沿革を知る手がかりとして次のような事柄が挙げられる。
 ○ 社務所の庭の石灯篭の刻銘
    戒 三郎
    天神大菩薩一門眷属
    八幡大菩薩
     貞享元甲子年
  奉寄進願主 木地屋嘉衛門(嘉は中のない字)
     五月大吉日  (注=一六八四年)
 ○ 神号の掛軸
  1、後陽成天皇宸筆
     「南無天満大自在天神」
          元禄十四(一七一〇)、大坂住
        平野屋与右衛門寄進
  2、「天満宮」裏書なし
 ○ 神額「天満大自在天神」
  裏面に<摂州東成郡田島村改懸神額記、明和七年庚寅夏模写、天光祖命禅師真筆)云々              (注=一七七〇年)
 ○ 相殿三神の神体は古き木像にして、主神・少彦名命のみは御幣にてやや新しく、主神の御神体を覆い奉れる御樋代には「寛政四<small>壬子</small>年吉祥日 別當大阪大学院」の文字ありという。 (注=一七九二年)
 そこで『大阪府全志(大正十一年刊)』その他の諸書には、「これによりて見れば、社の創建は貞享以前にありて、初めは菅原大神を主神に、事代主命・八幡大神を相殿に祀りしも、のち事情ありしため、寛政四年に至り新たに少彦名命を勧請し、同神を主神として従来の三神を相殿に祀りしものならんか」などと述べている。
 右の状況から見れば、この論は確かに一応筋の通った解釈と思えるが、創建が貞享以前であるのは自明のことながら、少彦名命の後世合祀説については、なお慎重に検討する余地があろう。
 なぜかと言うと、『生国玉大明神御神名記』という古書(天正十二年とあり) に、
     素戔雄命
田鳥神社 大巳貴命   同郡 田嶌村坐
     少彦名命

とあるのが少し気になるのである。現田島神社の境内末社に八阪神社があり、これはもと「牛頭天王宮」といって、本社の鳥居前に二畝余歩の境内をもつ独立した神社であった(合併以前は無格社。祭神素蓋鴫尊)。私は右の「田鳥神社」とはこの 「牛頭天王宮」 のことと考えていたが、貞享以前のある時期に素戔嗚尊のみが分けられて八阪神社となり、残る二神が当社のもとになった可能性もないとはいえまい。(八阪社神体の木鏡面に「承応二年(一六五三)奉再興牛頭天王宮」云々の文字ありという。詳しい論証はここでは略す。)

 ところで、菅公の怨霊は当時「瞋恚(しんに)の焔天に満ち」一門眷属十六万八千を率いて災をなしたというのに、ここに天神大菩薩となっているのは、時代が下って天神さんも一門眷属も共に大人しくなられたせいであろうか。
 なお、後陽成天皇の宸筆については、天満・露の両社においても、それぞれ故事来歴が伝えられている。



御幸森天神宮


大阪市生野区桃谷3-10-5

交通案内
大阪環状線桃谷駅 東 800m its-mo



祭神
仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命

摂社 天満宮、御幸戎神社、稲荷神社

由緒
 当地は昔の百済郷であり、猪飼野の生土神。仁徳天皇の行幸ありし御幸の森と言い、『社頭の略記』によれば、崩御後の反正天皇二年に社を建立し、仁徳天皇を祭ったとする。
 少彦名命は京都五条天神社より、忍坂彦命はここより北側の清水谷の社よりお迎えした。
 

御幸森天神宮

『平成祭礼データの由緒』
当宮の創建年代は詳かではないが、伝によれば、今から千六百年程前、当地の南方の地に百済の人々が帰化し、我国に文学、建築、産業等の先進文化を伝えた。仁徳天皇はこれらの人々の状態を御見聞になるための道すがら、度々当地の森に御休憩された。その由縁により、この所を御幸の森と称するようになった。
天皇崩御の後、この森に社殿を建立し天皇の御神霊を奉祀して御幸宮と称した。
年代は降って、平安時代中頃、全国に疫病が流行し人々は大いに恐れ苦しんだ。その時、社僧大蔵院行綱は当宮に病気平癒、厄除の神、少彦名命を勧請奉斎し、ひたすら疫病を祓う御祈祷を行なったところ、疫病は鎮まり、以後、当村の者は疫病にかかることはなかったと伝えられている。なお、この当時は天王天神社と称していた。
次に、清水谷に地主の神、忍坂彦命を奉祀する天神社という社があった。ところが、元和元年、大坂夏の役の折り、社殿が兵火のために消失した。大阪城代松平忠明はその有り様を憂い、その御神霊を御幸宮に奉遷した。その際、祭田として百済川、中洲の地と燈明台一基を寄進し崇敬の誠心を表した。
明治維新となり神仏分離の制が敷かれたのを機に社号を御幸森天神宮と改称した。
以上

お姿
 彌栄神社とはバス道ひとつ隔てて鎮座、この道がかっては百済川だった。猪飼野は猪甘津と呼ばれ、 百済川には日本最初の橋が架けられたと言う。単なる飛び石とか丸木を渡したものではない橋と言うことだろう。



お祭り
 10月15日 例大祭(地車巡行)   


『神社の栞』『大阪府神社史資料』


『大阪東の天神三社』  足代健二郎氏から

 

       
 三 御幸森天神宮

 当社は、仁徳天皇御鷹狩の旧蹟である。天皇はしばしばこの森に行幸ご駐輦あらせられたので、天皇崩後そのご神霊を祀り御幸祠(ごこうのやしろ)と称したという。
 現在境内の椋樹五本は大阪市の保存樹林に指定されている。
 旧猪飼野(いかいの)村の氏神で、仁徳天皇・少彦名命・忍坂彦命の三神を祀るが、明治十二年の『神社明細帳』では少彦名命・仁徳天皇となっている。          
 『摂津名所図会』『同大成』に「御幸宮」と誌され、また一名「天皇天神社」とも称した。
 天皇は仁徳天皇のことに違いないが、天神については、忍坂彦命を祀る天神社を合祀したため、と『東成郡誌(大正十二年刊)』に誌されているので、牧村史陽氏は色んなものにその通り書かれている。しかしこれは間違いであろう。
 なぜなら、社記によれば、医薬の祖神・少彦名命を京都の五条天神社より勧請したと述べている。この神を勧請したのは大蔵院行網(ぎょうこう)という僧で、その御神体の外箱に「大蔵院別富」の文字が見られるという。
 その年紀、文徳天皇の仁寿三年(853)というのは、果して真実かどうか分らないとしても、五条天神社の分霊を勧請したとの伝えは別段疑う理由が見当らない。さすれば天神の称が五条天神社の名に基づくことは明白であろうし、また既記の如く同神を祀る天神社が大阪市近辺に多いことからもこのように断定して間違いあるまいと思われる。
 忍坂彦命については、もと清水谷の地に祀られていたが、大阪夏の陣で社殿兵火にかかつて烏有に帰した。そののち松平忠明の幼女の夢にこの神のお告げがあったため、元和二年(1616)当社に奉遷されたという。
 当社境内に現存する灯明台は、その時松平忠明によって祭田一町歩とともに奉納されたものと伝えられている。
 宮司談によると、この灯明台の屋根瓦は二十年ほど前に葺き替えたが、以前のものには梅鉢の紋が入っていたとのことであり、また当社の氏地・猪飼野小路地区の地車の金具等にも梅鉢の紋が見られる。(現在の当社の神紋は仁徳帝の故事に因み、鷹に桐)
 なお、特筆すべき事柄として、当社では十七年間に亘って毎月一回の「御幸森万葉講座」が続けられている。

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