蟹井神社
大阪府河内長野市天見428 its-mo

鳥居



祭神 神倭磐余彦命 配祀 品陀和氣命、息長足比賣命、玉依比賣命



由緒 天喜二年(1098年)創建。南朝武将の崇敬が篤かった。
 中世には甲斐庄と称した。天見川上に蟹井の淵と言われる深淵があり、此処より当社の神体が出現したと言う。

南海高野線天見駅から遊歩道が出来ている。山裾を水平に道がつけられており、さわやかな散歩道となっている。 また国道からは神社の杉の巨木数本がそそり立っているのがよく見える。人目で神域であることが判る。

社殿


お祭り 神武祭 4月3日  夏祭 7月12日  例祭 10月9、10日

由緒 平成祭礼データから

  天見は中世「甲斐の庄」と呼ぶ。蟹井神社は甲斐神社の転訛、社伝に云、神武天皇御東征の節紀の川を上り、紀見峠にて賊慮の状況を視察し給いし時、今の社北に天見川の大石、小石を集め磐境として神籬を建て、皇祖天津神を祀り給いて戦勝を祈願し給いしが後天喜三年(一〇九九)に至り社殿を造立して八月十九日神倭磐余彦命外三柱を祀れり。
吉野朝時代南朝の武将は当社を崇敬して戦勝を祈りし事度々なりき。延宝4年社殿悉く炎上して荒廃せしも後に一部再建せられ現存の社殿是なり。明治五年村社に列せられ、明治四十年十一月五日、岩瀬の村社菅原神社・若宮神社・住吉神社・若宮皇女神社・高良神社・八阪神社を合祀し、同四十一年十二月神饌幣帛料共進社に指定される。昭和二十一年宗教法人として神社本庁に所属し現在に至る。
又一説に蟹井の名称の起こりは、社域の南、天見川に蟹井の渕という深渕があって、これより当社の御神体が出現したためと伝えられる。天喜三年(一〇九九)八月十九日の創建と伝えられているが確証はない。元弘、建武の頃は楠方の武将の戦勝の祈願所となった。当時は宗厳なる社殿を存していたが、延宝四年炎上し、今の社殿は其の後の再建である。
以上




本殿





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