美具久留御魂神社(みぐくるみたま)
大阪府富田林市宮町3-2053 ゼンリン


鳥居と拝殿


交通案内
近鉄河内長野線喜志駅 南西800m



祭神
 主神  美具久留御魂神(大国主命)
 左殿  天水分神、弥都波迺売命(みずはのめ)
 右殿  国水分神、須勢理比売命
摂社 利雁神社(物部氏の坂戸造に関連 *2)
末社 皇大神社(天照大神、事代主命、大物主命)、熊野神社(伊弉諾命、素戔嗚尊)、貴平神社(須佐之雄神、宇迦之御魂神)他3社。


由緒
 この付近は喜志台地、尺度、蔵の内を包含した弥生時代の水分文化圏の中心地である。出雲軍の上陸の地*1、かつ居住地であった*2とされている。河内の先住支配者の斎祀った神社である。 ここから2km北で銅鐸が発見されている。
 『社頭の略記』には、崇神天皇の御代、この地に大蛇が出没し、これを大国主の荒御魂のしわざとし、ここに奉斎したのが創始であるという。 また日本書紀には丹波の国氷上郡の氷香戸辺が神懸かりして「玉もの鎮石。出雲人の祭る。真種の甘美鏡。押し羽振る、甘美御神、底宝御宝主。山河の水泳る御魂。静挂かる甘美御神、底宝御宝主。」 (訳)「玉のような水草の中に沈んでいる石。出雲の人の祈り祭る、本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主。」 と宣託したとあり、皇太子の活目尊が創始したと伝えている。

 『日本書紀 崇神紀』 六十年に、吉備津彦らを出雲に派遣し出雲振根を誅したので、出雲臣等は「この事に畏れて大神を祭らなくなった。そこで丹波の氷香戸辺の託宣があり、皇太子が天皇に奏して祭ったとの記事があります。この「祭った」と言うことを『岩波文庫注』では、鏡を出雲臣に返却したものかとしていますが、それなら皇太子が祭ったとは言わないはず、この事は出雲大社に替わって美具久留御魂神社を創建し、出雲大神を祭ったと理解すべきだろう。

 千早赤坂村の建水分神社を上水分神社というのにたいして下水分神社と称する。また恩地神社を下水分と呼ぶ向きもあり、この場合には中水分となる。和爾池の西側だから和爾社とも云われた。

拝殿前から見た二上山


 神宝は生太刀・生弓矢とされる。『略記』によれば、生太刀は出雲大社の神劍で、これを当社祭神の大国主神の御神体とすべく崇神天皇が出雲振根に使いを遣わし、弟の飯入根が献上、後で知った振根が弟を殺した物語が『崇神紀』に詳しいが、再度言うが、出雲大社に替わって当社が祀るようになった。
 その頃の社司を支子青箭有禰(きし・・)と云うそうであるが、当地には任那からの渡来人の大国吉士が住んでいた所で、地名も河内国石川郡大国郷と云う。当地の吉士は朝廷の屯倉を管掌したようで、当神社の東1kmに桜井屯倉があった。大国郷と称したのは当神社の祭神と関係があったかどうか定かではない。 
本殿の背後の真名井ヶ原の丘陵にある宮裏山古墳は古来神奈備山とよばれる神体山である。


お姿
  羽曳野山脈の旭岡の反復に鎮座。下の拝殿から北側の参道を少し登ると上の拝殿と本殿が鎮座している。この間の境内には苔生して美しい。 本殿は東の二上山を向いている。


本殿 屋根流造、正面千鳥、軒唐破風、内部丹塗、外部極彩色と記録



本殿


背後の神体山は極相状態に近い広葉樹林でシイ、アラカシ、サカキ等貴重な樹林である。
 山頂付近には四基の古墳があり、下の写真は全長58mの内の北側の後円部。

古墳


お祭り
 秋祭 10月17日

『大阪府史蹟名勝天然記念物』から

 沿革 伝説に依れば太古大国主命の天の下を治められ給ひしとき、此の地に御城ありて、神武天皇の御世に至るまで猶存せしが,社は其の御城の氏神にして出雲大社の創建よりも早かりしなりと、叉一説には其の創立は神代に ありとし或は亦神武天皇の八年なりなどとも伝えらるヽ處より見て此の伝説を其儘信ずる能はずとするも創祀の遠 く上古に在りしを想見し得べし。社記によれば太古此の地は支子の茅原と呼ぶ一帯の草原にて巨蛇多く棲息し、農 民を悩ませしかば、崇神天皇深く宸襟を悩まし給ひ、十年幣吊を捧げて親しく此の支子の茅原を分け入らせ給ひ、 妖蛇の栖む霊窟を見、詔して「是れ大国主命荒魂のすさぷる所なり宜しく祀るぺし」とて是に初めて当社の勧請を見 るに至りたるなりと。崇神天皇の六十年に出雲大社の神宝を見んと思召して使を遣し献ぜしむ。會々右神宝を主れ る出雲国造振根筑紫に行きて不在なりしかば、其弟飯入根等勅を奉じて神宝を貢上せしを、振根帰来りて大に怒り 弟を殺せり。此の事朝廷に聞えしかば又振根を、誅せしめらる。斯る騒動にて出雲臣等大社の祭祀を断つに至りしか ば茲に丹波氷上の人水戸香辺なるものヽ子に神憑りありて「玉 鎮石出雲人、祭眞種之甘鏡押羽振廿御神底宝御宝 主、山川之水沐御魂云々」と、神詫ありて、武ヌナ川別命を出雲に、活彦命を河内の当社に佐遣せられて祀らしめらる。 神詫のことは大国主命の荒魂の爲し給ひし所なればとて、同七十二年に至りて官祭を行はせられ、其の自ら宣ひし 水沐御魂をにより美具久留御魂の御名を奉り、相殿に天水分神、国水分神、彌都波廼売命、須勢理比売命の四神を配祀。




河内国名所図会 下水分社


*1 大阪府の歴史散歩(山川出版社)
*2 大いなる邪馬台国(鳥越憲三郎)講談社
日本の神々3(古田実)白水社
式内社調査報告 河内

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