菅生神社
大阪府堺市美原町菅生178-1 ゼンリン

神門

交通案内
南海北野田駅東へ1.2km


祭神
菅原道眞、天兒屋根命
 合祀 天照大神、素盞嗚尊、安閑天皇、譽田別命

摂社 稲荷神社、恵比須神社

鳥居と拝殿

由緒
 河内国式内社。応永三十四年(1427)菅原道真を勧請している。
 神社創建については不詳であるが、『新撰姓氏録』河内国神別の条に、「菅生朝臣 大中臣朝臣同祖 津速魂命三世孫天児屋根命之後也」とあり、菅生氏が祖神として天児屋根命を氏神として祀ったのが創祀と考えられる。『新抄格勅符抄』に、「天平宝字八年(759)河内国菅生神充封一戸」とある。

本殿

お姿
 平成十六年に鳥居・社殿が再建されている。境内は広々として北側の背後には木々が多いが、社域の北側に近接して住宅があり、日当たりを考慮してか、一部伐採されている。千年以上前から当地に鎮座、動いていない神社であるが、これも時代の流れなのだろう。
 神社は南面している。社域の南側には社務所と神主宅等が建っている。太平洋戦争がもう少し長ければ、社域内に建造された神主宅は追い払われることになっていた。本来は神主達は神域に住宅を建てるべきではないと思う。

 社殿を取り巻くように摂社が多く鎮座、すべて名称がわかるようになっている。

稲荷神社  恵比須神社
 



お祭り
 4月 5日 春季大祭    10月 10日 秋季大祭

平成祭礼データ

菅生神社 由緒
 上古この地は沼池が多く、菅(すげ)が一帯に生えていたので菅生(須加不)と称した。仁徳天皇が難波京からこの地に丹北大道を造営せられ、反正天皇がこの近くで御誕生になってから多遅比(たちび)の地名が起り丹北郡(たじひのこほり)と称した。後平安期の中頃に丹北郡が、丹南、丹北の二郡に分かれて菅生は丹南郡に属した。

 中古一時郡名廃止されていた頃、郷荘の制によって(一二二五年)野田荘、菅生郷と称した時代もある。 新撰姓氏録によると、河内国には天児屋根命を祖とする中臣氏が多数居住していて、その一族が菅生の地に本拠を構えてから菅生氏と名乗り、豪族としてこの地を支配する外、天平十八年、菅生朝臣(あそん)の姓を賜って検非使遺や神琴師になって、朝廷に重用された。その菅生朝臣が、祖神である天児屋根命を氏神として祀ったのが菅生神社の創始である。その年代は建武(一三三一年)歴応四年の二度の兵火に社殿、什宝悉く焼失したため記録はないが、新抄格勅符によれば「孝謙天皇、天平宝子八年本国封一戸を充て奉る」と見え、三代実録には「清和天皇 貞観元年正月二十五日 甲申従五位下より従五位上を授けられる」と記し、醍醐天皇の延喜の制に於いて延喜式内大社に列し、祈年月次、新嘗の案上弊帛に預る旨記されていて、奈良朝時代には既に名社として朝野の崇敬があつかったことが立証されるから創建はそれ以前であることは確かである。源平合戦の時、菅生朝臣一族は平家方に加勢したため敗北して、この地を追われ四国や中国地方の山奥に逃避して落農となる。残存の一族によって、神社の復興に努め、その頃天満天神の祭祀が全国的な風潮となったのに乗じ、神社境内に在った宮寺の高松山天門寺の社僧等の発願によって菅公が境内の菅沢のほとりから忽然として誕生されたという説を唱え、天神を勧請して配祀して菅生天満宮と称するに至った。自来菅生天満宮の神威が俄然宣揚されて地方の崇敬をあつめるに至る。

 現在残っている社殿や宝物類の殆んどはこの時代の物で当時の風格を物語っている。明治の初年、郷社に列し四十二年に近郷部落の村社を合併した。現在美原町、堺市登美丘地区、狭山町の市町の四十一部落が氏地になっている。
  以上


神奈備神社一覧大阪

神奈備にようこそ
inserted by FC2 system