高瀬神社
大阪府守口市馬場町1-8 mapfan

鳥居

交通案内
京阪電鉄土居駅 南側300m


祭神
天之御中主命
『神祇寶典』大物主神
『河内式神私考』神日本磐餘彦天皇または茨田連の祖の茨田宿禰

拝殿



由緒
 河内国茨田郡の式内社である。『式内社調査報告』によると、往古は淀川はこの辺りを北上しており、その名も高瀬川と呼んでいたと云う。
 昔の河名は通る地域によってそれぞれ名前が変わっていたようで、その名残が吉野川と紀ノ川に残る。 高瀬の里を流れる高瀬川、『播磨風土記』に大帯日子命(景行天皇)が川渡りの際、紀伊国人小玉が「あなたの家来ではない。」と主張し、渡し賃を取った説話がでているが、 この辺だったのだろうか。
 往古、紀の国の人間が淀川の運行支配を行っていたこと、また当時の大王家といえども只では船にのれなかった即ち単なる天皇家の祖の家も地方政権の一で、 紀氏などと対等であったこと、が風土記の作者の認識だったと推測される説話であり、面白い。

 この地域は舊河内湖の北岸にあたり、周辺には弥生時代の遺跡があり、そうとうに古い時代からの産土神だったものと思われる。

 守口や門真は古代の難波京(現在の大阪市)の表鬼門(東北、艮)の地に位置するところから、当社も鬼門の守護神として尊重されて来たようである。

一間社流造の本殿


お姿
 土居駅前の商店街の外れに鎮座、狭い。付近は下町風情で二階建ての民家に突き出ての楠木の巨木数本が神域の雰囲気を醸し出している。


お祭り
 7月22日 夏祭り
  10月22日 例祭

『平成祭礼データ』高瀬神社 由諸略記


当社は延長五年(九二七年)醍醐天皇の命により編集された延喜式の「神社帳」に所 載された神社で、式内社と呼ばれ、日本神社庁所属神社七九、O四二社の内、式内社 は三、一三二座に限り日本で公式に残る最も古い神社のひとつであり、北河内七市で はこの式内社は五座で、当守口市では金田町の津嶋部神社と当社のみであります。ま た、当社付近(長池町)から出土した流水文様の弥生式土器(守口市役所に保存)は 西暦紀元前後と推定され、二千年もの遠い昔から当社は五穀豊饒、災厄排除を祈る人 々の心のより処となっていたことを物語っています。
当社は古代の難波京(現在の大阪市)の表鬼門(東北、艮)の地に位置するところか ら鬼門の守護神として重責を果たして来ました。南北朝時代には河内十七カ庄の里人 が尊崇した神社でありましたが、元亀天正年間に織田、三好の兵火で焼失し、江戸中 期に再建され、鬼門の守護神、厄除の神としてあがめられてきました。
古代に当社付近は長柄船瀬という大阪湾の東端の港で、当地方は住吉大社の領有地と 考えられています。住吉大社の神宮で古代難波の海上権を掌握していた名族の津守氏 と当社とは永く強い結びつきがありました。津守氏は代々和歌に長じ、各勅選、私選 集に数々の歌を遺され、平安時代から鎌倉時代にかけ津守氏の力添えを得て公卿、大 宮人が競って当地を訪れ、多くの歌を詠じて神社に献じています。
また室町時代中期に河内の榎並に起り、やがて五流能の金春に吸収された榎並申楽( 能楽の源流)の芸道者から、当社は手厚い信仰を受け、芸の上達を祈願されたもので 、能楽と当社は深い因縁に結ばれているのであります。
平安時代の始め頃(約千年前)当社付近は、淀川と大和川の水路が交わる要地で、淵 や瀬のおもむき、淀みに茂る水草、水鳥の風情、里の風物など、詩情豊かなところで 都人や旅人に親しまれました。平安時代には高瀬の里、高瀬の淀といって有名な歌枕 となり、当社を詠んだ多くの歌が詩集に残されています。
さしのぼる高瀬の里のいたずらに 通う人なき五月雨の頃 衣笠内大臣
水まさる高瀬の淀の真こも草 はつかに見てもぬるゝ袖かな 殷富門院大輔
以上、当高瀬神社は大古の昔から当地方の氏神・鎮守として鬼門の守護神、厄除神、 諸道諸芸上達の神、諸願成熟、家内安全等にあらたかな御神徳をたれ給い、氏子崇敬 者の信仰を集めて参りました。



参考:『式内社調査報告』

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