友呂岐神社
大阪府寝屋川市香里本通町19-13 地図

鳥居

交通案内
京阪香里園駅 南東500m



祭神
 應神天皇 合祀 菅原道眞(『平成祭礼CD』)
 應神天皇、菅原道眞、茨田連衿子(境内表示)

拝殿 向かって右に納舞台




由緒
 友呂岐は鞆呂岐とも書き、古代から皇室の荘園であった。祭神の応神天皇は大鞆別命と言い、鞆は天皇の立派な姿の形容、呂岐は神を表す語。
 当地は仁徳天皇が茨田の屯倉を置き、皇室の別荘が営まれた所で、御所山と呼ばれた。

 創建の時期は不明。元は八幡神社と言った。
 『西北地域史鞆呂岐』によると、太間村では菅公の末裔の方が有力者となり、道真公を多いに祀ったので、衫子のことは忘れられてしまった。後に衫子の神霊を友呂岐神社から受けて祀った。友呂岐神社にも太間以外に衫子が祀られていたようだ。
 明治四十三年に近隣の菅原神社を合祀した。従って茨田連衿子に加えて菅原道眞をも祭神としている。

本殿




お姿
  西向きに鎮座、木々が濃密であり、鳥居の横に楠木は大木で神木とされている。 石段を登って行くのだが、エノキや樫など大きい木が見事、境内もよく手入れと清掃がなされていた。
 途中に御所水の池があり、小さい祠が置かれている。

御所水


お祭り

 10月 15日 例大祭

   1月 15日 お弓式
 旧三井神社跡で開催、昔は村役や有力者の子弟が紋付・かみしも姿で弓を引きましたが、現在では地元から選ばれた二十才の青年二人は弓を引きます。 弓は交互に二本ずつ三回、計十二本の矢を的に向けて射ます。十二本の矢は一年を意味し、矢の当たり具合で天候と豊凶を占います。

由緒 平成祭礼データから

  友呂岐神社由来

 当社は康正二年(今より五百余年前)、後土御門天皇、北ノ小路新邸を此地に造営し南に鎮護神として八幡宮を祀り、北に南無阿弥堂の伽藍を建設せられたと古書にあります。その後畠山義孰と畠山政長はこの地で戦い兵火の為に社殿は焼失しましたが、この八幡宮が当社の始めであります。その跡地に小社を建て、氏神として祀っていましたが又も兵火の為に焼失しました。天正五年八月(今より四百年前)、この地の人々は社殿を再建し氏神として崇拝し、近隣の人々は祈願所として諸々の願い事をし参詣していたといいます。寛永年間に改築し、元禄初年に修築、昭和四十九年に改築していますが、恐れ多いが御本殿は古色豊かに、色彩を止め時代を物語っています。明治四十三年、元の若山神社(三井神社)・元の二本松神社(田井神社)・元の太間神社(これは昭和四十三年に分離)を八幡神社に合併し、此の地の地名をとって友呂岐神社と改稱し現在に至っています。元若山神社は延喜の昔(今より一千年以上前)、菅公が左遷のとき、この地を通過の折三井本法寺(今の本嚴寺)に宿舎して寺僧と親交厚く、菅公が筑紫で薨去し給いしを知りこの地の人と議り壮敢なる社殿を造営して若山に祀り氏神とした、建武年中に後醍醐天皇が吉野より此の地に龍加馬給う時、宿舎を本法寺に定め菅公の社殿に御参詣になり萬壽殿の三字の勅額を賜ったと伝えられます。又、元和元年(今より三百数年前)、徳川家康の武運長久と五穀豊穣、悪魔退散を祈願すると共に、その年の吉凶を占う為に正月八日八ッ時(午後二時)に御弓式行事を行います。近郊の人々は御恵を受ける為に参詣していたといいます。この行事は今尚続いています。又二本松神社は菅公左遷のとき此の地を通過の際、手植の松が記念となり、樹下に一社を建て菅公の霊を祀って氏神としました。
  以上


『大阪府神社史料』、『平成祭礼データ』

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