井神社・兼康神社
岡山県総社市井尻野928 its-mo

鳥居

交通案内
総社駅北3km


祭神
罔象女神、妹尾兼康
摂社 瀧之権現「水分神」


由緒

 雪舟ゆかりの宝福寺の西の高梁川沿いに鎮座。

 立地からは水門神を祀るようだと思っていたが、水神の罔象女神、摂社に水分神、さらに平氏の隆盛の時期に灌漑用水路を整備した妹尾兼康が祭神となっている。井神社は別にあって、元禄元年(1688)に現在地の兼康神社の鎮座地に遷座したということではなかろうか。

 吉備の地は古代より開けており、平安末期に灌漑用水路とは遅いような気がするが、人口増加などで耕地の開拓が求められていたのかも知れない。高梁川の対岸には勤勉な秦氏が展開しており、豊かだったのを我々もとまねたのだろうか。

 かっては井堰よりの取水の際には神祭りが行われ、氏子の内用水を利用する氏子を水氏子と称して取水口の補修などの参加したと言う。

 農業用水であるので田植えの頃からは鉄穴流しは禁止されていたと言う。それゆえか、鉄穴流し輩とのトラブルがあったとか。素盞嗚尊の大蛇退治譚のように、利害の対立はあったようだ。

 現在でも、湛井堰からの水は十二箇郷を潤しているとのことである。

社殿



お姿
 高梁川を眼前にする低い丘の上に鎮座、一目で吉備の神社と分かる。色と社殿の形が吉備津神社の社殿の写真と似ている。
 狛犬は玉を押さえている。石段には多くのドングリの実が落ちていて、足を滑らしたら一巻の終わり。


お祭り
5月3日 春季例祭   10月第3日曜日 例大祭

由緒 岡山県神社庁資料から

   本神社の創建年月日は不詳ではあるが、延喜式上に備中国堰溝料1万7千束とあり、高梁川流域では最大規模の井堰を守護される井神社は、当時既に存在していた。
 安徳天皇寿永元年(1182)に備中国妹尾郷(岡山市妹尾)の武将、妹尾兼康が自分の領地に水を引くために、総社市井尻野六本柳にあった高梁川の堰を200メートルほど上流の湛井(たたい)に移し、樋門を設け、妹尾までの農業用水路を構築した。
 現在は湛井12カ郷用水の名前で親しまれており、総社から児島湖に至る約3800ヘクタールの水田を灌漑する西日本有数の農業用水路である。
 難工事であった堰と用水路の完成に感謝して、妹尾兼康は井神社の社地を湛井堰(たたいせき)の近くに移し、新しい社殿を建立し、神社の祭典、維持、運営について詳細な掟を残した。
 これにより、井神社の氏子は、地元氏子の外に、農業用水を利用する氏子「水氏子」で構成されている。妹尾兼康の偉業を讃え、恩恵に感謝して、井神社、兼康神社として合わせ祀るようになった。
 このような経緯により、毎年6月1日には水氏子関係者による「初堰祭」を斎行し、当年の豊かな水の恵み、五穀豊穣、家内安全を祈願した後に高梁川から取水を始める。
以上

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