吉備津神社
岡山市北区吉備津931 mapfan

鳥居 参道は数百米の松林

交通案内
吉備駅


祭神
大吉備津彦命
配祀 日子刺方別命、倭飛羽矢若屋比賣命、千千速比賣命、大倭迹迹日百襲比賣命、御友別命、若日子建吉備津彦命、中津彦命、日子寤間命

摂社
本宮社「大倭根子彦賦斗迩命、大倭玖迩阿禮比賣命 合祀 吉備武彦命、百田弓矢姫命」
岩山宮「建日方別命」
一童社「天鈿女命 (合祀)金山彦命 菅原神 」
宇賀神社「宇迦御魂命」
滝祭神社「瀬織津姫命」
大神宮「天照大神」
春日宮「武甕槌命 (合祀)天兒屋根命 經津主命」
八幡宮「譽田別命 」
えびす社「大穴牟遲命 少彦名命 」

矢置石 吉備津彦命が温羅を打つべくその上に矢を置いた石

由緒

 吉備の中山の西麓に北向きに鎮座、創建年代は不詳。
 備中一宮、延喜式大社で『国史体系』では、吉備津彦神社の名前である。王朝時代には、吉備津宮・吉備津大明神と言われていた。
 孝霊天皇の皇子と言う記紀で実在とされる人が神として祀られるのは、後世のこと、そのような神社は式内社にはなりえないと思う。したがって吉備津神社は吉備の港の神を祀ったものと考えることができる。おそらくは、足守川をすこし上った場所に吉備津があったと思われる。港の神。この神が吉備の国魂神と見なされたものと思われる。

 社伝に、「加夜臣奈留美命が吉備中山の麓に、茅葺宮を営み吉備津彦を祀ったのが神社の起源。」というのがある。加夜臣奈留美命の名は、『出雲国造神賀詞』に、「賀夜奈流美の命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、」というのがある。よく似た名前である。また、石川県羽咋郡の瀬戸比古神社の祭神に、素都乃奈美留命の名が見え、『国造本紀』に、「高志深江国造 瑞籬朝御世、道君同祖、素都乃奈美留命定賜国造」とあり、ナルミとナミルの違いがあるが、水や海に関した名前のようだし、瀬戸比古神も吉備の国を指しているようにも見える。要検討。

 祭神の吉備津彦命は『日本書紀』によれば西道に派遣された四道将軍の一人で比古伊佐勢理比古命で、孝霊天皇の皇子である。四道将軍の伝承は、逆に大和での偉大な巫女女王に仕えるべく各地の豪族がやって来た話を逆さまにしたのではないだろうか。大和とは言わずに邪馬台国と言うが『魏志倭人伝』はそのような状況を示している。倭迹迹日百襲比賣命の墓とされる巻向遺跡や箸墓古墳から吉備様式など各地のの土器が出土しているのもそれらを裏付けているのでは。

 吉備津彦命とは吉備津の男王であり、要するに吉備の豪族の王のことであろう。男王の別の名前は祭神の中の御友別命の祖先のこと。御友別命の名は応神紀に服属儀礼をとったとして登場している。 御友別命を中心として兄弟や子が吉備国を治める形になっている。『新撰姓氏録』に吉備臣、稚武彦命の孫、御友別命の後なり。とある。

 吉備は王権との関わりが多く語られる。
神武天皇 東征中高島宮に三年間滞在(古事記は八年)
崇神天皇 四道将軍
成務天皇 和珥部の比古汝茅に吉備と播磨の国境を定めさせる。
日本武尊 吉備の穴海で悪ぶる神を討伐 吉備武彦が東国遠征に共する 
応神天皇 前述
仁徳天皇 黒日売を追い吉備に御幸
雄略天皇 吉備下道臣前津屋を誅殺 吉備臣小梨新羅救済に派遣さる 新羅討伐の将軍紀小弓に吉備上道釆女大海を賜う
清寧天皇前紀 吉備稚媛の子の星川皇子らの反乱したが焼殺される。吉備上道臣らが救援に向かうが間に合わず引き返す
 これらを見ると河内王朝との深い関わりが感じられる。王権のルーツではないかとすら思えるのである。 少なくとも吉備海人は紀州海人と同様に瀬戸内海を牛耳っていたのだろう。紀伊海人や物部氏ですら吉備国には遠慮しているようだ。
 また古墳も河内泉州に匹敵するほどの大きさであり、他国を圧倒している。ただならぬことである。

拝殿内部


 吉備津に伝わる温羅伝説がある。
 崇神天皇のころ、吉備の国に百済の王子と名乗る容貌魁偉の温羅が来たと言う。吉備冠者と呼ばれた。
 温羅は新山の鬼の城(きのじょう)を居城として暴虐の限りを尽くし住民を困らせたたので、王権は討伐軍を送った。しかし歯が立たなかったと言う。
 そのため王権は、切り札として比古伊佐勢理比古命(吉備津彦命)を派遣した。
 命の射かけた矢は温羅の射る矢とあたるので、命は二本の矢を同時に射て温羅の左目を射抜いた。 血が新山から足守川に流れたので血吸川とも言われた。温羅が雉に化けて逃げたので、命は鷹に化けて追いかけ、次に温羅は鯉に身を変えたので、命は鵜に変わってついに温羅を捕らえた。
 命は温羅の首を切ってさらしたが、首だけになっても温羅は唸り声をやめなかった。命はその肉を犬に食わせたが、それでも唸り声はやまなかった。更に髑髏を吉備津宮の釜殿の釜の下に埋めたが、唸り声は十三年間やまず、釜を鳴らし続けた。
 そしてある日、命の夢に温羅が現れ「わが妻の阿曽媛に釜で神に奉ずる食物を炊き、釜は幸あれば釜は豊かに鳴り、禍あれば荒々しく鳴ろう。」と告げたので、命は言われた通りにしたと言う。
 温羅と吉備津神社の釜鳴神事の伝承。

釜鳴神事の説明写真

 真金吹くと歌われた吉備の中山であるが、この辺りからは鉄は採取されない。水銀含有率が高い土壌と言う。
 『古今和歌集』真金吹く 吉備のなかやま 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ
 『万葉集』一一〇二 大王の 御笠の山の 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ
 古代の盗作である。

比翼の入母屋造の社殿



お姿
 長い松林の参道にはキンモクセイや桃の木も見える。遠目には一見海岸のような感じを与える。
 大きい神域の神社である。中山も神域とすればけた外れの広さの神社と言える。
本殿と拝殿が同じ大きさの入母屋造で吉備津造とも言われる独特の雰囲気を持つ社殿である。
 回廊も長い。参道の半分程度の長さはあろうか。その奥に本宮があり途中途中に摂社や釜殿がある。 この形式も珍しい。

回廊


お祭り
10月19日 例祭

『平成祭礼データCD』神社本庁から

  吉備津神社案内

一、鎮座地、岡山市吉備津九三一。
一、御祭神、大吉備津彦大神並に配祀神八柱の神。
一、由緒、御祭神は第七代孝霊天皇の皇子にましまし、第十代崇神天皇の御代に吉備の国に下られ、温羅と言う悪者を平らげて平和と秩序をきずき、この地に宮をいとなまれて吉備の国の人々のために殖産を教え、仁政を行ない給い、長寿を以てこの地に薨去せられました。 
社伝によれば仁徳天皇が吉備の国に行幸したもうた時、御創建になったもので、後、延喜の式の定まるや名神大社に列しやがて一品の位になられましたので一品吉備津宮、また三備(備前、備中、備後)の一の宮と称せられ、昔から産業の守護神としてまた長寿の守り神として全国の人々から深く信仰せられている。
一、本殿、拝殿(国宝)現在のものは約五百六十年前の応永年間の再建で室町時代初期の代表的建築であるのみでなく、日本建築の傑作で「吉備津造り」と称えられ全国唯一の形式として国宝中の国宝である。
一、南隋神門、北隋神門−共に重要文化財(旧国宝)である。
一、回廊(県指定)延長四百米余もあり、殊に地形のままに直線にのびているのは全国にも稀な建物で著名である。
一、本宮、回廊の南端にあり、古来安産育児の霊験あらたかなので有名である。
一、御竃殿(重文)釜鳴りの神事が行なわれている。お釜の鳴動の音の大小長短によって吉凶禍福を卜(ボク)するのである、その神秘なことは古く「本朝神社考」「雨月物語」などにも紹介されて天下に有名である。
以上

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