平成祭礼データ
天岩戸神社略記
記紀に皇祖天照皇大神は御弟素盞嗚尊を御避け遊ばして暫く天岩戸へ御篭もり遊ばされた事を記していますが、当神社は其霊蹟天岩戸を斎い奉る神社であると伝えます。天孫瓊々杵尊御降臨あり、初めて天が下知食し給いし時に斎い創め給われたと伝えます。境内社殿の背後断崖の中腹に天岩窟あり、天照皇大神篭らせ給いし処と伝え、古より其御神域を御神体として御祭致しております。社殿は御霊代鎮祭の本社と天岩戸直拝の拝殿と岩戸川の渓谷を挟み相対して御鎮座ましますが、本社関係の昌泰の記録に天照大神、天岩戸より御出ましの節、思兼神其の御手を取りて此の本社の土地に御造営の御社殿へ御鎮りを願ったと記してあります。弘仁壬辰三歳中秋には三田井候の遠祖、大神大太惟基公霊夢に恐惶して頽廃せる社殿を再興し、深く其神明を崇敬したと申します。又神社に由縁の舞楽として岩戸神楽三十三番の古雅なる手振を伝え、氏子達習い伝えて祭典に奉奏する外、毎年十一月下旬より一月初旬にかけ、各部落において、民家にしめかざりして終夜舞続け、黎明に及びて岩戸開きと称するを舞納むる慣習があります。往時名士の此の地を訪う者も多く、寛政の奇士高山彦九郎の参詣紀行あり、薩の歌人八田知紀来賽し、水戸の烈士井上主人義秀等八名参篭して俳句を残しています。又大宝の昔京都神祇官ト部朝臣参拝の記録あり、相当古くより中央に認められていた事が考えられます。皇室の崇敬も厚く秩父宮殿下、秩父宮妃殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下、朝香宮殿下、常陸宮(義宮)殿下を始め皇族、侍従の代参等、度々の御参拝がありました。
◎天安河原
天照皇大神天岩戸へ御篭もり遊ばされた時に、八百萬神は天安河原へ神集神議りになった事を古事記等に記してありますが、天岩戸神社より五百米川上の此の安河原は其御相談の場所であると伝えます。此の安河原の一角に「仰慕窟」と称し間口三十米、奥行二十五米の大洞窟があり、本州からも、願い事がかなう、中風にかからないとの信仰があり、沢山の石を積み重ねて祈願する慣習があります。
◎天香久山
天岩戸神社の西方二粁の所にあり。太玉命が此の山の真榊を根こぎになして天岩戸の前に御植になり、八咫の鏡や八坂瓊の勾玉等を御かけになったと伝えます。
◎神楽尾
神社の西方四百米の所にあり。天照皇大神、天岩戸へ篭らせ給う時、天鈿女命舞を奏せられた所と伝えます。(神楽尾の地名は慶長年間の庄屋の土地台帳にも記してあり、又高山彦九郎の日記にも此の地にて神楽を奏した所だと記してあります。)
◎小戸の檍ケ原
伊邪那岐尊の禊の蹟であると伝えます。
◎郷土の出土品
村内各所より古代土器(弥生式・縄文式)石器及び勾玉・管玉・刀剣類が発見され、当社に二千点余保存されています。
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