鹿児島神宮

鹿児島県霧島市隼人町内2496-ロ mapfan

拝殿

交通案内
日豊線隼人駅北1km



祭神
天津日高彦穗穗出見尊、豐玉比賣命
 配祀 帶中比子尊、息長帶比賣命、品陀和氣尊、中比賣命

摂社
石體神社「天津日高彦穗穗出見尊」
 保食神社「保食神」
 三之社「豐姫命、安曇磯良、武甕槌命、經津主命、火闌降命、大隅命」
 御門神社「豐磐間戸命」
 雨之社「豐玉彦命」
 四所神社「大雀命、石姫命、荒田郎女、根鳥命」
 武内神社「武内宿禰」
 隼風神社「日本武尊」
 山神神社「大山祇命」
 大多羅知女神社「息長帶媛命」
 稲荷神社「宇賀魂命、大宮賣命、猿田彦命」

本殿

由緒
 延喜式に大隅国桑原郡一座、鹿児島神社 大とある。南九州の唯一の大社。社伝では和銅元年(697)創建と伝える。
 当社は北東300mの石体宮に鎮座していたと言う。日子穗穗出見尊の高千穂宮の跡と伝わる。石を神体としており、石体は秘物であって藁薦を以て覆ってあり、毎年薦を替える儀式があるそうだ。

 欽明天皇の代に八幡神が垂迹したのもこの場所とされる。当社を正八幡と呼ぶのは『八幡愚童訓』に、「震旦国隣大王(陳大王とも言う)の娘の大比留女(おおひるめ)は七歳の時に朝日の光が胸の間にさし入り、懐妊して王子を生んだ。王臣たちがこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべたところ、船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着いた。その太子を八幡と名付けたので船の着いたところを八幡崎と言う。継体天皇の代のことであると言う。」との記載がある。外来神との見方。
 八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。

 八幡神を応神天皇ではなく、日子穗穗出見尊あるいは神武天皇とする説がある。外来神とすれば、徐福なんかが面白い存在。

拝殿内部

 石体宮を元社とすることは動かないようだ。磐座信仰であり、当地での在地の神が祀られていたものと思われる。現社地には縄文早期の貝塚があり、また真南に桜島があり、縄文時代からの熊襲や隼人の氏神が祀られていたのだろう。
 そこへ記紀神話の成立、隼人の服属があり、神名として日子穗穗出見尊の名が持ち込まれた上にさらに、豊国からの移住者が八幡神を持ち込んだのが素直な考えのように思える。重曹構造である。
 8世紀初頭(714)に豊前国から民二百戸を移住させている。人数を千人から五千人とする。隼人の啓蒙と言うよりは進駐軍なのであろう。
 八幡神と韓国神がこの地で重視されるようになったのは、養老四年(720)の大隅国守の殺害に端を発した隼人のレジスタンス以降で、大伴旅人が征隼人持節大将軍として二万人以上の兵員が投じられたのである。

高屋山上陵

お姿
 当社の周辺には隼人の拠点であった記念碑が立つ。隼人塚など。
 祭神の日子穗穗出見尊の墓陵とされるのが当地の北西13kmにある高屋山上陵である。

 当社の本殿は宝暦六年(1756)島津重豪によって再建された。構造は、柱間が正面七間、側面四間の入母屋造りで、正面に前室を設けてある。
 拝殿は縦長で、天井の格子には花や野菜の絵が色彩豊かに描かれている。
 勅使殿は天皇からの幣帛を託された勅使をお迎えする所。

隼人塚伝説の碑   隼人首塚
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お祭り
  8月 15日  例祭

石體神社
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平成祭礼データ 鹿児島神宮由緒

  鹿児島神宮の創祀は遠く神代にあって、又皇孫神武天皇の御代なりとも伝えられます。御祭神彦穂穂出見尊は筑紫の国開拓の祖神に坐しましこの地に高千穂宮(皇居)を営み給い、五百八十歳の長寿に亘らせらるる間農耕畜産漁猟の道を指導し民政安定の基礎をつくり給うたのである。
 俗に正八幡、国分八幡、大隅正八幡等と称し全国正八幡の本宮でもあります。醍醐天皇の延喜の制には(九Ο一年)大社に列し大隅一ノ宮として朝野の崇敬特に篤く営繕の費は三州の正税を以て充てられ後鳥羽天皇建久年間(一一九八年)には社領二千五百余町歩の多きに至り江戸末期まで千石を有して居た。
 明治四年国幣中社、同七年神宮号宣下官幣中社、同二十八年官幣大社に夫々列格す。
 昭和十年今上陛下の行幸を仰ぎ勅使皇族の御参拝は二十余度に及ぶ。
 現社殿は桃園天皇の宝暦六年(一七五六年)島津重年公(廿四代)の造営になるものである。
  以上

「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」の中の 鹿児島神宮訪問記

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