皇大神宮・内宮
三重県伊勢市五十鈴川上 mapfan

五十鈴川

交通案内
五十鈴川駅から西へ30分


祭神
天照坐皇大御神 配祀 相殿神二座(天手力男命、萬黄幡豐秋津師比賣命)
関連社
荒祭宮「天照坐皇大御神荒御魂」
風日祈宮「級長津彦命、級長戸辺命」
滝祭神「弥都波能売神」


由緒

 伊勢の神の記紀中の記事から。

  『日本書紀』巻一 天岩戸開きの一書(第二)
 「ここに日神、方に磐戸を開けて出でます。是の時に、鏡を以て其の石窟に入れしかば、戸に触れて小瑕つけり。その瑕、今に猶存す。此即ち伊勢に崇秘る大神なり。」

 との記載がある。

 『実在した神話』原田大六著に、福岡の平原弥生古墳から出土した大型鏡について伊勢神宮の八咫鏡との関連について触れられている。先ず、出土品の文様は「内行花文八葉鏡」であり直径は46.5cm。一方、伊勢神宮の八咫鏡を納める樋代の内径は一尺六寸三分(約49cm)、神道五部書の一つである『御鎮座伝記』によると文様は「八頭花崎八葉形也」と記載されており、これらは根本的には同じ意味と解説されている。

平原弥生古墳から出土した大型鏡

『実在した神話』から

 平原弥生古墳の埋葬の方角、一の鳥居、日向峠のと関連で、太陽を祭る神であり、日神の依代として八咫鏡は古墳時代初期にはその伝承が確立されていたと見ていい。この八咫鏡は伊勢神宮、皇室の祖神、九州の平原古墳、日向峠、皇室のルーツを素直につないでいる。

 『古事記』天孫降臨
 この二柱の神(日子番能邇邇芸命、思金神)は、さくくしろ、五十鈴(イスズ)の宮に拝(イツ)き祭る。

 『古事記』崇神天皇
 妹豊鍬比売命は、伊勢大神の宮を拝き祭りき。

 『日本書紀』崇神紀
 天照大神と倭大国魂を天皇の大殿の内に祭っていたが、神の勢いを畏れ、人神分離し、天照大神は豊鍬比売命に託して倭の笠縫邑に祭った。

 『日本書紀』垂仁紀
 天照大神を豊鍬比売命より離し、倭姫命に託し、伊勢の国に至る。大神は「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国なり」と、当地に鎮座する託宣を出した。
 其の祠を伊勢国に立て、斎宮を五十鈴の川上に興した。即ち、天照大神の始めて天より降ります処なり。

トヨスキイリヒメとヤマトヒメ

漫画の『アマテラス』美内すずえさんから

 鎮座は垂仁天皇の時代と正史は語っている。

 『古事記』景行天皇 倭建命の東国征討
 かれ、命を受けて罷り行でます時、伊勢の大御神宮に参入りて、神の朝廷を拝みて、すなはちその姨倭比売命に白したまはく・・。

 この時には八咫鏡と草薙剣が祀られていたと云う事。

  『日本書紀』神功皇后摂政前紀
 託宣した神の名を尋ねて・・
 「神風の伊勢国の百伝ふ度逢県の折鈴五十鈴宮に所居す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」と名乗ったとしている。

 この物語に続いて事代主神、住吉大神の名が出てくる。摂津国の広田神社、長田神社、住吉神社の創建譚となり、摂津の豪族に伝わっていた伝承であろう。
 撞賢木厳之御魂天疎向津媛命の名が『日本書紀』の史局ででっちあげられたとは思えないが、後で、伊勢とつないだのかも。

  『日本書紀』雄略天皇元年
 稚足姫皇女、・・、伊勢大神の祠に侍り。

  『古事記』継体天皇
 皇女の佐々宜王(郎女)は、伊勢神宮を拝きたまひき。

 この辺りは神話と歴史の深い霧の中。

  『日本書紀』欽明天皇二年
 磐隈皇女・・初め伊勢大神に侍へ祀る。

 『日本書紀』敏達天皇七年
 菟道皇女を以て伊勢の祠に侍らしむ。

 『日本書紀』用明天皇即位の年
 酢香手姫皇女を以て伊勢神宮に拝して、日神に奉らしむ。


 継体朝から用明〜推古朝までの記事であるが、この頃から斎宮の前身らしいことが行われたのであろう。欽明天皇は磯城嶋天皇と呼ばれており、崇神帝を彷彿させる。この斎宮は作り話とは思えない不幸な終わり方をした。

 『日本書紀』天武天皇元年六月  朝明郡の迹太川の辺にして、天照大神を望拝みたまふ。

 この記事は伊勢神宮を遙拝したように読まれるケースが多いとのことであるが、『アマテラスの誕生』筑紫申真著では「先ず、望拝とはながめて拝すること、従って遙拝の意味はないとされる。またこの天照大神は天津神の日神のことでアマテルオオカミであろう。朝明郡とは伊勢の北部で尾張に近いので、伊勢神宮は見えないとする。自然神としての太陽を拝んだ意味、何故ならここまで雷雨に悩まされた行軍であったから、と解説されている。諾否はともかく、著者には基本にこの頃にはまだ伊勢の皇大神宮は存在していないとの認識がある。

 『日本書紀』天武天皇二年四月
 大来皇女を天照大神の宮に遣侍らせむと欲し、泊瀬斎宮に居らしむ。

 『日本書紀』天武天皇三年十月
 大来皇女、泊瀬斎宮より伊勢神宮に向かふ。

 大来皇女は持統天皇に殺された大津皇子の姉。 この辺りからは史実とされている。 以降、持統天皇の時代には藤原京の造営に伊勢、大倭、住吉、紀伊大神の奉幣などが出てくる。伊勢神宮は藤原京の東の方向に鎮座する代表的な神との立場に見える。特別な皇祖神とは思えない。 この持統天皇は六年三月に伊勢志摩に旅行を行っているが、伊勢の大神への奉幣などの記事はない。

滝祭神と神座
 

 神社は五十鈴川沿いに鎮座、と云って水神を祀るとは限らない。禊ぎを行ってから参詣するのであり、神社付近には水は不可欠であった。  ただ、神宮で最も神に近い場所は御手洗場の近くの滝祭宮付近かも知れない。これは元宮が大宮町の滝祭宮に鎮座、そこから当地へ遷座との伝承にもあう。

 天岩戸開きであるが、漫画の『アマテラス』美内すずえさん作の冒頭に「今度で七度目の岩戸開きじゃ  これが最後ぞ 失敗すれば世は滅びる ・・・」と出てくるのであるが、これは六回は失敗してきた、天照様は出てきていないとの前提での物語であろうか。続巻が待たれる。

 所で、『西の岩戸物語』緒方繁隆著には「この国が駄目な国であるのは、天照大神の岩戸開きは、大神を誤魔化して、騙して、出て頂いている。そのような出方のままであるから、国が駄目になっている。」との認識で、正しい岩戸開きを行った物語と記憶しているが、神事としての岩戸開きにはそれなりに根元的な意味を持たしているようだ。

本殿を望む
 

 伊勢神宮の最も重要な神事は正殿床下にあると云う心の御柱への大物忌と云う斎女が真夜中に奉仕する一種の聖婚の儀式だと云う。『日本の神々6』松前健記。これには男性神職は勿論、斎王もかかわることが出来なかったと云う。果たして、この神事が根元なのかどうかは不明だろうが、この地域のローカルな神−恐らくは海人の祭る神−猿田彦神かも知れない−への奉仕であったのだろう。

 荒祭宮  延喜式内大社
 天照坐皇大御神荒御魂をお祭りする。
 荒魂とは神威の極めて強い現れ方をする魂、新しい魂、若宮。 なお、この荒祭宮については、アラハバキの神であるとか、諸説がある。

荒祭宮

 風日祈宮
 伊勢は風の強い地域であり、地の神である伊勢津彦は強い風とともに東の海上に去っていったとある。

風日祈宮


お姿
 五十鈴川にかかる宇治橋を渡り、広大な日本庭園風の参道に出る。 左手にお祓いの場所があり、かっては五十鈴川に入って身も心も清めて参拝するのが慣わしだった。 御手洗場の側の林の中に滝原宮が建っているが社殿ではなく、神座の石の塀。
 暫く行くと、五十鈴川を渡る橋があり、その向こうに風日祈宮が鎮座、守衛さんが常駐。
 正殿に近づくに従って、大きい杉の木が次から次に出てくる。これは壮観である。 西洋人でもこの社叢の中では神々しいものを感じると聞くが、自然への畏敬の念、人類共通の思いであろう。
 正殿は石段の下からしか写真は撮れない。荒祭宮へ回り込む際、横からの景色であるか、正殿の上部を見る事が出来る。荒祭宮へは一度下ってから登る。立地からも、祭神からも、確かに神宮司廰発行の栞だけの存在ではないことは容易に想像できるが、では一体何だ、との答えはない。

本殿 『神社紀行』から拝借


お祭り
  10月15〜17日 大祭

 豊鍬比売命・倭姫の遷宮地

1.倭笠縫邑 小夫天神社 倭笠縫邑旧跡伝承地

2.吉佐宮 籠神社

3.磯城巌橿の地 長谷山口神社

4.奈久佐浜宮 濱宮

5.吉備国名方浜宮 伊勢部柿本神社

片樋宮 加良比乃神社

 櫛田神社

 魚見神社

  参考 『アマテラスの誕生』筑紫申真著、『伊勢神宮』藤谷、直木著、『日本の神々6』

公式内宮

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