三重県伊勢市五十鈴川上 mapfan 交通案内
伊勢の神の記紀中の記事から。
との記載がある。 『実在した神話』原田大六著に、福岡の平原弥生古墳から出土した大型鏡について伊勢神宮の八咫鏡との関連について触れられている。先ず、出土品の文様は「内行花文八葉鏡」であり直径は46.5cm。一方、伊勢神宮の八咫鏡を納める樋代の内径は一尺六寸三分(約49cm)、神道五部書の一つである『御鎮座伝記』によると文様は「八頭花崎八葉形也」と記載されており、これらは根本的には同じ意味と解説されている。 『実在した神話』から 平原弥生古墳の埋葬の方角、一の鳥居、日向峠のと関連で、太陽を祭る神であり、日神の依代として八咫鏡は古墳時代初期にはその伝承が確立されていたと見ていい。この八咫鏡は伊勢神宮、皇室の祖神、九州の平原古墳、日向峠、皇室のルーツを素直につないでいる。
鎮座は垂仁天皇の時代と正史は語っている。
この時には八咫鏡と草薙剣が祀られていたと云う事。
この物語に続いて事代主神、住吉大神の名が出てくる。摂津国の広田神社、長田神社、住吉神社の創建譚となり、摂津の豪族に伝わっていた伝承であろう。
継体朝から用明〜推古朝までの記事であるが、この頃から斎宮の前身らしいことが行われたのであろう。欽明天皇は磯城嶋天皇と呼ばれており、崇神帝を彷彿させる。この斎宮は作り話とは思えない不幸な終わり方をした。
この記事は伊勢神宮を遙拝したように読まれるケースが多いとのことであるが、『アマテラスの誕生』筑紫申真著では「先ず、望拝とはながめて拝すること、従って遙拝の意味はないとされる。またこの天照大神は天津神の日神のことでアマテルオオカミであろう。朝明郡とは伊勢の北部で尾張に近いので、伊勢神宮は見えないとする。自然神としての太陽を拝んだ意味、何故ならここまで雷雨に悩まされた行軍であったから、と解説されている。諾否はともかく、著者には基本にこの頃にはまだ伊勢の皇大神宮は存在していないとの認識がある。
大来皇女は持統天皇に殺された大津皇子の姉。 この辺りからは史実とされている。 以降、持統天皇の時代には藤原京の造営に伊勢、大倭、住吉、紀伊大神の奉幣などが出てくる。伊勢神宮は藤原京の東の方向に鎮座する代表的な神との立場に見える。特別な皇祖神とは思えない。 この持統天皇は六年三月に伊勢志摩に旅行を行っているが、伊勢の大神への奉幣などの記事はない。 神社は五十鈴川沿いに鎮座、と云って水神を祀るとは限らない。禊ぎを行ってから参詣するのであり、神社付近には水は不可欠であった。 ただ、神宮で最も神に近い場所は御手洗場の近くの滝祭宮付近かも知れない。これは元宮が大宮町の滝祭宮に鎮座、そこから当地へ遷座との伝承にもあう。 天岩戸開きであるが、漫画の『アマテラス』美内すずえさん作の冒頭に「今度で七度目の岩戸開きじゃ これが最後ぞ 失敗すれば世は滅びる ・・・」と出てくるのであるが、これは六回は失敗してきた、天照様は出てきていないとの前提での物語であろうか。続巻が待たれる。 所で、『西の岩戸物語』緒方繁隆著には「この国が駄目な国であるのは、天照大神の岩戸開きは、大神を誤魔化して、騙して、出て頂いている。そのような出方のままであるから、国が駄目になっている。」との認識で、正しい岩戸開きを行った物語と記憶しているが、神事としての岩戸開きにはそれなりに根元的な意味を持たしているようだ。 伊勢神宮の最も重要な神事は正殿床下にあると云う心の御柱への大物忌と云う斎女が真夜中に奉仕する一種の聖婚の儀式だと云う。『日本の神々6』松前健記。これには男性神職は勿論、斎王もかかわることが出来なかったと云う。果たして、この神事が根元なのかどうかは不明だろうが、この地域のローカルな神−恐らくは海人の祭る神−猿田彦神かも知れない−への奉仕であったのだろう。 荒祭宮 延喜式内大社 風日祈宮
豊鍬比売命・倭姫の遷宮地 1.倭笠縫邑 小夫天神社 倭笠縫邑旧跡伝承地 2.吉佐宮 籠神社 3.磯城巌橿の地 長谷山口神社 4.奈久佐浜宮 濱宮 5.吉備国名方浜宮 伊勢部柿本神社 片樋宮 加良比乃神社
参考 『アマテラスの誕生』筑紫申真著、『伊勢神宮』藤谷、直木著、『日本の神々6』 |