三重県志摩市磯部町上之郷 mapfan 交通案内
志摩国唯一の穀倉地帯に鎮座。当社の御田植祭は日本三大田植祭の一。 江戸時代になって、伊雑宮経営に窮した神人達は、伊雑皇大神宮は日本最初の宮で、のちに内宮ができ、ついで外宮が鎮座した旨を記した神訴状を作成、朝廷に上申した。伊勢三宮説で、伊雑宮を天照大神、内宮を瓊々杵尊、外宮を月読尊とした。深刻な本家争いに発展したが、朝廷は伊雑宮は内宮の別宮であり、祭神は伊射波登美命であるとの裁定を出した。 神人達は諦めずに『旧事大成教』四十卷を版行した。神人達は、当時の有名な神道家、儒者、僧侶に三千両と言う大金を賄って頼み、伊雑宮の優位性を織り込んで偽作させたのである。学者の中にはこの書を深く信じるものも出、幕府としても放置できず、刊行を禁止、廃棄し、関係者を流刑・追放してようやく鎮まった。
『信濃小社考』(小口伊之著)によると、「信濃の地主神とされる御社宮司社と伊雑皇大神(おんはざまおおかみ)とは同じ神とも言う。」と述べており、縄文の匂う神かも知れない。 延喜式内社の志摩国答志郡の「粟島坐伊射波神社二座」の論社。もう一社は荒島の伊射波神社。粟島とは志摩国全体を指すとの説もあるようだ。 以下『谷川健一著作集T』(海神の娘)から。
越賀という村の伝承。「一本の鮫が子供を半分食ってしまったので、食い残された半分の子供を餌にして、一本を釣り上げたと。」
的矢湾の入り口の安乗の灯台付近に大倉島という小島があり、近くの海底に三十六基の石の鳥居が立ち並んでいて、竜宮に通じているとの伝承がある。また伊雑宮に通じているとも信じられている。竜宮と見なされているということ。
参考文献 『日本の神々』、『式内社調査報告』。 |