伊雑宮
三重県志摩市磯部町上之郷 mapfan

鳥居

交通案内
近鉄上の郷駅 西へすぐ


祭神
天照皇大神荒御魂 相殿 伊射波登美命、玉柱屋姫命


由緒

 志摩国唯一の穀倉地帯に鎮座。当社の御田植祭は日本三大田植祭の一。
 延喜式内社の志摩国答志郡の「粟島坐伊射波神社二座」の有力な論社。他に鳥羽市荒島の伊射波神社
 温暖な当地は海の幸に恵まれ、皇大神宮への御贄を奉るべき地とされた。『倭姫命世記』によれば、垂仁天皇の時代、倭姫が皇大神宮の朝夕の御贄を奉るべき地を選定せんと志摩国を巡行した時、伊佐波登美命が倭姫を奉迎して磯部の地に神宮を営んだのが、伊雑宮の創立であると言う。最初は現在地から北5kmに青峰山があり、その登山口に近くの青に鎮座しており、後に現在地へ遷座したと伝わる。青峰山は目印の山で神体山であった。
 『皇大神宮儀式帳』や『延喜式』に、伊雑宮、志摩国答志郡伊雑村にあり、天照大神遥宮と称す、と書かれている。

 江戸時代になって、伊雑宮経営に窮した神人達は、伊雑皇大神宮は日本最初の宮で、のちに内宮ができ、ついで外宮が鎮座した旨を記した神訴状を作成、朝廷に上申した。伊勢三宮説で、伊雑宮を天照大神、内宮を瓊々杵尊、外宮を月読尊とした。深刻な本家争いに発展したが、朝廷は伊雑宮は内宮の別宮であり、祭神は伊射波登美命であるとの裁定を出した。

 神人達は諦めずに『旧事大成教』四十卷を版行した。神人達は、当時の有名な神道家、儒者、僧侶に三千両と言う大金を賄って頼み、伊雑宮の優位性を織り込んで偽作させたのである。学者の中にはこの書を深く信じるものも出、幕府としても放置できず、刊行を禁止、廃棄し、関係者を流刑・追放してようやく鎮まった。
 現在に至ってもこの『大成教』をベースに古代を語ろうとする者がいる。

社殿風景

 『信濃小社考』(小口伊之著)によると、「信濃の地主神とされる御社宮司社と伊雑皇大神(おんはざまおおかみ)とは同じ神とも言う。」と述べており、縄文の匂う神かも知れない。

 延喜式内社の志摩国答志郡の「粟島坐伊射波神社二座」の論社。もう一社は荒島の伊射波神社。粟島とは志摩国全体を指すとの説もあるようだ。

本殿 左に御柱跡


お姿
 上之郷駅から西方に大きい社叢が見える。伊勢神宮の関連社は古式を留めているようで、社叢と社殿とを比べれば、圧倒的に社叢が大きく、またこの地域は照葉樹林帯で木々にも勢いが感じられる。

 以下『谷川健一著作集T』(海神の娘)から。
 御田植祭での歌に、「磯部伊雑宮は竜宮様よ 八重の汐路をさめがくる」と言うのがある。 七本鮫が背鰭を立てて伊雑宮に参詣にくるとの伝承をふまえている。この祭りの時には志摩の海女は海に入らない。鮫に遭うと食われるそうだ。

 越賀という村の伝承。「一本の鮫が子供を半分食ってしまったので、食い残された半分の子供を餌にして、一本を釣り上げたと。」

 的矢湾の入り口の安乗の灯台付近に大倉島という小島があり、近くの海底に三十六基の石の鳥居が立ち並んでいて、竜宮に通じているとの伝承がある。また伊雑宮に通じているとも信じられている。竜宮と見なされているということ。
 延宝九年(1681)の伊雑宮の記録に、安乗の町の一部が海中に落ちたとの記録があるようだ。

御田植祭の場


お祭り
 6月 24日 御田植祭  10月25日 調献式

 参考文献 『日本の神々』、『式内社調査報告』。

公式伊雑宮

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