佐那神社
三重県多気郡多気町大字仁田156 mapfan

北西側の鳥居

交通案内
紀勢本線佐那駅 東北800m


祭神
 天手力男命 配祀 曙立王命
 合祀 天宇受賣命、速玉男命、伊邪那美命、天照大御神、須佐之男命、天忍穗耳命、天津日子根命、天穗日命、活津日子根命、熊野久須毘命、田紀理毘賣命、多岐都比賣命、市寸嶋比賣命、火産靈命、倉稻魂命、大山祇命、木花咲耶姫命、事解男命、譽田別尊、猿田彦命、菅原道眞
摂社
天宇受賣命和魂、天宇受賣命荒魂

拝殿


由緒

 伊勢国多気郡の延喜式内社の佐那神社二座。
 合祀祭神は明治末期に近隣各村所在の神社の祭神。主神の手力男命は『古事記』(天孫降臨の段)に「手力男神者、坐佐那那県也」とあることによる。曙立王命は開化天皇の御子大俣王の子で、『古事記』で、「曙立王者、伊勢之品遅部君、伊勢之佐那造之祖」とあることによる。

 創立年代は不詳。延喜大神宮式には、須麻漏賣、櫛田の両社とともに、太神宮の式年遷宮にあわせて造宮使による二十年一度の修造が行われていた。

 当社の鎮座地は伊勢船木氏の拠点、近くの多気郡多気町四匹田から銅鐸が出土している。銅鐸のことを「サナキ」と言うようだが、「サナキ」は「サナ」や「ナキ」に訛ることもあるのかも知れない。
 丹後に祀られた豊宇賀能売命は哭木村の奈具神社から外宮へ。
 船木氏は「フ・ナキ」、伊勢では佐那神社を奉斎、手力男神は内宮の相殿に祀られるほどの神であり、その神威はもの凄いものがあるはず。その力は弥生時代には銅鐸として祀られたと考えてもいい。おそらく銅鐸は忘れ去られたのではなく、手力男神のような強力な神の名として伝えられていたのだ。
 国生みの二神、イサナギ、イサナミ、共にサナが入っている。

本殿


お姿

 鳥居は東南向きと西北向きがある。西北側は熊野街道。 南東側は国道42号線。紀伊半島を回る国道になぜ、縁起の悪い番号をつけたのだろうか。
 社殿は二十年造営の中間点をすぎたのだが、まだまだ新しい雰囲気、新しい社殿は神威も高まるとの信仰があるのだろう。御子神、王子神、荒魂信仰に通じるようだ。
 

天宇受賣命和魂、天宇受賣命荒魂
 


お祭り
  10月 8日 例祭
3月8日の祈念祭の準備に氏子さん数名がかかっていた。@賽銭箱の上にも台のような物が置かれ、御参りするのもやっかいだったが、それはいいとしても、A氏子の一人が境内から南側の溝に立ち小便をやっていた。Bまた42号線側の神社前の道路に鳩の首なし死体が転がっていた。
 船木氏本貫の地の神社を遠方から参詣に来たのだが、すこしがっかり。

 平成祭礼データから

参拝のしおり

 当神社には天手力男命を主神として、天宇受賣命など23柱祭神不詳2座をお祀りしています。当社の創立年代は不詳ですが古事記に「次手力男神有坐佐那県也」と記載されており、また、延喜式内社であり、当社のことを中宮と呼び高大な樹木が生い茂っていたことから大森社などとも呼ばれて、千有余年を経過した古社であることも明らかです。また、神宮、特に外宮とは徳川時代初期に至るまで深いかかわりがありました。即ち、神宮の宮造使によって、20年に一度の社殿造り替えに預かった12社中の1社であったこと、斎宮の祈年祭にも預かれる神社であったこと、外宮祢宜の勞社として祝の制を定め、神田を設け、毎年2月神事が行なわれていたこと、などから分かります。
明治41年ここ佐那神社に村内各字の神社を合祀、昭和18年県社に列せられ、戦後宗教法人となっております。
以上

参考 『式内社調査報告』、『三重県神社誌』、『平成祭礼CD』

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