參河國26座:並小



賀茂郡[カモ]:7座並小

野見神社[ノミ]
野見神社[のみ]「甘美乾飯根命(野見宿禰)、大己貴命、素戔嗚尊」垂仁天皇御代。愛知県豊田市野見山町4-21 玄松子の記憶
野見神社「天夷鳥命」愛知県東加茂郡旭町大字榊野字見切53

野神社[ノ]
野神社[の]「豐斟渟命」愛知県豊田市野口町水分日面226 玄松子の記憶

兵主神社[ヒヤウス]
兵主神社[ひょうす]「大物主命、三穗津姫命」愛知県豊田市荒井町松嶋299-1 玄松子の記憶

射穂神社[イホ]
射穂神社[いぼ]「廣國押建金日命、春日山田皇女、神前皇女」天武天皇白鳳元年。愛知県豊田市保見町北山26 玄松子の記憶

射穂神社由緒記
古伝に三河国賀茂郡高橋の庄伊保郷開発和銅6癸丑歳改むとあり村名射穂とも又伊穂 とも書き、後に伊保村、御獄市場を合して上伊保と称す。 神社地は藩政時代城主の戦國地と称せるも火災焼失多くありたるため鎮座地を池之坊 洞より御獄山頂に移し、また三祖山に移し明治維新の際北山と改称す。
鎮座地 愛知県西加茂郡猿投町大字上伊保字北山弐拾六番地 境内地 1170坪
神社名 射穂神社 祭神 左相殿 春日山田皇女 中殿 安閑天皇(廣國押武金日尊)右相 殿 神前皇女

延喜式内3132座の内三河国加茂郡伊穂之神社祭神蔵王大権現とあり通称伊保天神 とありしを享保年間より蔵王宮と称し、その後射穂神社と改称せり。和漢三才図絵に 言ふ蔵王大権現祭神は不祥なるも社伝に清見原之皇子大友皇子御征伐之節御勝利祈願 のために白鳳年間御即位に神社御建立とあり古代の創建なること知るべし。明治5年 8月郷社に列せらる。明治43年末社八幡宮、八柱神社、秋葉神社、津島神社、武稲 神社、神明社、伊豆社、御鍬社を合祀す。昭和18年8月県社昇格の申請を了し社格 昇格の内定を得しも大東亜戦争終息により無に帰せり。旧氏子区域は上伊保村、田籾 村、伊保堂村、殿貝津村、下伊保村、挙母町、宮口村、本地村、千足村、土橋村、梅 坪村、金谷村、下市場村、下林村、長興寺村、今村、山室村、福谷村、黒笹村、莇生 村、三好村、西一色村、福田村、明知村、打越村の25町村なりしが、明治15年頃 挙母町ほか10余町村は挙母神社氏子へ分区せり。例祭は陰暦9月10日なりしが明 治維新より陽暦10月15日に改む。特殊神事には鎮火祭、御粥占豊年祭あり。例祭 には奉納献馬棒ノ手、空砲等の行事を慣行し氏子下各村提灯をもって参拝する例あり し。今般氏子一同より本殿再建の建議なり、昭和39年11月吉日仮遷宮。昭和40 年3月23日夜御殿入り、翌24日完終了。
昭和40年3月吉日誌  射穂神社社務所



狹投神社[サナケ]
猿投神社[さなげ]「大碓命 配 景行天皇、垂仁天皇」仲哀天皇元年。豊田市の北端にそびえる三河の名峯猿投山の麓に鎮座する古社である。愛知県豊田市猿投町大城5 玄松子の記憶

猿投神社由緒記
1、創祀・沿革
猿投神社は豊田市の北端にそびえる三河の名峯猿投山の麓に鎮座する古社である。 創始は社伝によれば仲哀天皇元年勅願により現在の地に祀るとある。猿投山の東峯に 東宮、西峯に西宮を祀り、本社、東宮、西宮を総称して古くより猿投三社大明神と厚 く崇敬されれて来ている。
神階は文徳天皇仁寿元年(851)に従五位下、陽成天皇元慶元年(877)従四位 下に叙位している。以後記録は絶え、昇叙について明確なことは判らないが、社蔵神 号額(嘉元2年=1304)には「正一位猿投大明神」とあり、三河国国内神名帳に も「正一位猿投大明神」とあるので、正一位に昇叙したことが判る。
社格は延喜の制(967)では国幣の小社(三河国26座、賀茂7座)で、一宮制が 施行されるや、砥鹿神社、知立神社についで三河三宮と称された。明治の新制度では 、明治5年県社に列し、広沢天神社(延喜式内社)塞神社、小猿投社を合祀した(昭 和になり広沢天神社は再び広沢の地で祀られるようになる)。明治中頃より国幣小社 昇格を建議し、後年内定したが、大東亜戦争の終息によりその目的は達せられなかっ た。
神領は織田・豊臣二氏の先規により徳川家康公が776石(神社では三河国1位)の 朱印を付し、明治維新まで続いた。此の外の武将も多くの神領を寄進したことが社蔵 の寄進状によってしることが出来る。

2、御祭神
主祭神 大碓命  相殿 景行天皇(第12代) 垂仁天皇(第11代)
大碓命は景行天皇の第1皇子で、小碓命(日本武尊)とは同胞双生児である。日本書 紀に、「大碓命が東征を欲せられなかった為に、美濃国(岐阜県)へ封ぜられ、三野 国造の祖神の娘2人を妃とせられ、2皇子(押黒兄彦、押黒弟彦)を生む」云云とあ る。社蔵の縁起書(光仁天皇宝亀10年(779)に大伴家持、阿部東人による調査 書)に「景行天皇52年(122)猿投山中にて蛇毒の為に薨ず、御年42歳、即ち 山上に斂葬し奉る」云々とある。現在、西宮後方に御墓所がある。この地は古くより 御墓所として伝えられて来たが、明治8年教部省の実地調査の結果、現在地を御墓所 と確定し、以後守部、墓丁が置かれ現在に至っている。

3、大祭
祈年祭(2月17日)初午祭(旧暦2月初午の日)例祭(10月第2土・日曜日)新 嘗祭(11月23日)

4、猿投祭と棒ノ手
古来当社例祭に三河、尾張、美濃3ケ国より献馬の事あり。旧暦9月8、9両日、3 ケ国186ケ村はそれぞれ合宿をつくり、定められた時刻に境内に於て棒ノ手を奉納 した。甚だ勇壮で血を見なければ納まらないとも言うので、ケンカ祭、シノギ祭とも 称した。普通には重陽の節句に当たるので「節句祭」と言っている。8日に山上2社 と本社の神輿渡御の神事、9日に例祭式典を斉行し、午後神輿還御の神事を斉行する 。棒ノ手の起源については、東照軍艦に「天文23年(1554)岩崎城主(現日新 町)丹羽勘助氏次の城下に於いて加賀の住人某が此の技を村民に教え、技に熟達した 者を募り、軍装して猿投神社に奉納す」と記されている。流派は起倒、見当、鎌田、 夢想の4流があり、その後門人によって34の流派を生じ、3ケ国に広まって行った 。表、裏の両型があり、表型は棒、木刀を用い、裏型は真剱、槍、長刀、鎌、鎖鎌等 の刃物を用う。かく盛大に行われた猿投祭も明治末頃より次第に各合宿よりの献馬も 少なくなったが、昭和32年に棒ノ手が県の無形文化財(現在は無形民俗文化財)に 指定され、各地に棒ノ手保存会が結成され、漸時盛大になってきている。

5、宝物
(1)太刀 銘行安(平安時代末期)、黒漆太刀 無銘(鎌倉時代)
(2)樫鳥糸威鎧 付鎧櫃(平安時代)
(3)古文孝経 建久6年(1195)の写本
(4)漢籍1帖19巻 白氏文集等の漢籍
(5)神号額 嘉元2年(1304)
(6)馬面 慶長6年(1601)その他古文書・典籍等有する。

6、神宮寺
神宮寺の開創は社伝によれば、「天武天皇白鳳年間に勅願によって白鳳寺を建立、猿 投山白鳳寺と言う」とあり、現在境内に白鳳寺塔心礎と言い伝えられているものが残 存している。本社に阿弥陀如来、東宮に薬師如来、西宮に観世音菩薩を本地仏として いた。神宮寺には多くの僧坊(最盛期16坊)があったが、明治元年神仏分離令によ り一切の寺刹は破却され、現在は跡地のみ存して居る。神社が多年隆盛を保ち得たこ とについて社僧の功績を忘れることは出来ない。

7、建造物
本殿、祝詞殿、中門、祈祷所、回廊、神饌所、四方殿、拝殿、太鼓殿、神輿殿、宝物 庫、手水舎、総門、鳥居等が立ちなんでいる。これらは嘉永6年(1853)の大火 によって殆ど鳥有に帰し、以後50有余年の年月を費やして再建されたものと、伊勢 湾台風後に新築されたものとである。

8、左鎌の由来
古来より左鎌を奉納して祈願する特殊な信仰がある。其の由来については記録がない ので判然としないが、古老の言い伝えによれば双生児の場合には一方が左遣いの名手 であるという。祭神大碓命は小碓命とは双生児であるので左遣いであらせられ、当時 左鎌を用いて此の地方を開拓せられた御神徳をしたって諸願の成就を祈るときに左鎌 を奉納する。現在は職場安全・交通安全を祈る会社関係の奉納がさかんである。

9、猿投山とサナゲの語義
社蔵縁起書に「景行天皇53年天皇が伊勢国へ行幸、常に猿を愛し王座に侍せしむ。 猿の不祥あり。天皇憎みて伊勢の海に投げ給ふ。其の猿、鷲取山に入る。日本武尊東 征の時、壮士三河国より来たりて従う。平定の後、尊に曰く、先に慈恩を蒙れる猿な り。勅恩に報ずる為、扈従し奉ると言い終って鷲取山に入る。猿投山の称、是より起 こる」とある。標高629米。山中に天然記念物「菊石」がある。又、団九郎岩屋、 御船石、蛙岩、屏風岩、御鞍石等の伝説豊かな巨岩もある。サナゲの語義似ついて、 文徳実録・延喜式神名帳には共に「狭投」と記し、三河国国内神明帳・神号額には「 猿投」とある。従来の諸説を挙げてみると(1)前記縁起書にある猿を海に投げたよ り起こった。(2)山容が鐸ににているから。(3)鐸を木の枝につけて祭祀を行っ た。(4)大碓命薨去を悲しみ真歎山が猿投山となった、等の諸説があるが断定はし 難い。



廣澤神社[ヒロサハ]
猿投神社摂社広沢天神社[ひろさわてんじんしゃ]「少名彦神」愛知県豊田市猿投町小黒見 玄松子の記憶

灰寶神社[ハイホ]
灰宝神社[はいほう]「波邇安比咲命」愛知県豊田市越戸町松葉52 玄松子の記憶


額田郡[ヌカダ]:2座並小

稻前神社[イナサキ]
稻前神社[いなくま]「天照大神 合 天兒屋根命、應神天皇」愛知県岡崎市稲熊町字森下6 玄松子の記憶

由緒
延喜式所載、三河国26座の内の額田郡2座の一つである。此の地は、伊勢神宮の神 領地であったところから、伊勢神宮に奉納する稲を入れて置く神倉があったといわれ ている。



謁播神社[エハタ]
謁播神社[あつわ]「知波夜命 配 春日大神」紫雲空中に棚引き妙音を放つ、海上の黒雲忽ちに去り、弘文天皇の危難を救へり。愛知県岡崎市東阿知和町字北山39 玄松子の記憶

由緒
祭神、春日明神、知波夜命。
本社古文書に、出雲色大臣命5世之孫知波夜命当村に来り給ふをもって来山といふ。
(中古春日山又は知波来山と称す)
今の牛下山の塚は本命を祀るものなりとつたふ。
往古神領2丁を領とす、また正応5年古文書に御高70石とあり中古戦乱のため神領 は自然消散せり。
産子の家に伝ふる古文書に、当国謁播神社創建は白鳳年中(弘文天皇の御宇)帝当国 引馬野に行幸の際、尾張国より当国に移り給ふ時、海上にわかに黒雲生じ怒涛渦巻き 、帝大いに難み給ふ。
臣等種々労すとも力及ばず、此地を鳴海と称す。
就中紫雲空中に棚引き妙音を放つ、海上の黒雲忽ちに去り、帝の危難を救へり。
帝叡感の余り空中の妙音に対し勅問し給ふ。
空中より臣として帝難を外にせんやと、更に勅問に応じて当国の守護に鎮座する謁播 明神なりと。
言下に一天洗ふが如く静穏なる海面と化し、恙く御還幸の後侍臣一人を遺し給ひ、此 の神を守護させ給へり。
是れ安藤家の祖なり、藤原の末裔なるも神との同姓を恐れ、安藤に改めたり云々。
明治壬申5年郷社に列し、56ヶ村を氏子と定めらる。
明治48年2月日露戦役記念品を陸軍大臣より寄贈せらる。
明治48年11月幣帛供進宮に指定さる。
大正5年12月悠紀斎田記念品を愛知県より寄贈せらる。
昭和に入り氏子数80余戸、東西阿知和住民全部。




碧海郡[アヲミ]:6座並小

和志取神社[ワシトリ]
和志取神社[わしとり]「五十狹城入彦皇子」愛知県岡崎市西本郷町字御立4 玄松子の記憶

和志取神社社記
五十狭城入彦皇子は気入彦命とも申し景行天皇の皇子で勅命によりこの地方の逆臣大 王主等を捕らえ、これより国内治まり庶民大いに安堵するという。
御墓は当町字和志山にあり前方後円墳で前後三十五間、面積七百七十六坪、周辺に六 基の円墳即ち倍塚がある。明治29年11月28日御陵墓伝説地と指定。その後更に 調査の結果、昭和16年4月18日御陵墓と御勅定、同年5月26日勅使御参行報告 祭が行われた。
本神社は和名抄にゆえん鷲取郷の総社で延喜式国内115座の筆頭たる旧官社で文政 13年神祇伯より正一位の神階を授けられ正一位本郷大明神の額を下賜された。古来 上手の尊崇厚く累代の領主より毎年祭典費を献進があり祈年新嘗祭には幣帛を奉り宝 作無窮、稔穀豊饒を祈る例であった。
明治7年5月25日教部省令により本神社を「延喜式内三河国26座之内和志取神社 確定候事」との指令を受けた。
明治21年4月9日蓮華寺内で和志取神像が発見された。延喜年間の作と伝えられる 木製の座像で本神社に鎮め祀ってある。
大正5年12月28日郷社に列せられた。
昭和21年1月10日由緒上県社と認められたが、戦後社格は級社と変わり7級社と して現在に至っている。
拝殿、祝詞殿、神饌殿、透塀等氏子及び特別崇敬者の寄付浄財(350余万円)と延 2600余人の勤労奉仕により、3か月の歳月を費やし、昭和30年竣工した。


和志取神社「天日鷲命 合 伊弉諾命」愛知県安城市柿崎和志取35 玄松子の記憶

由緒
創建は明らかでない。延喜式内社三河国二十六座の和志取神社と彫む旧石標あり、社 地の附近にワシドリと称する耕地あり。「参河国官社考集説」に村上忠準北柿崎村に 宇和志取と云う所まことの式社なるべし、と「神祇志科」に柿崎村字和志取あり(宝 暦4年田畑名寄帳重原藩取調書)明治7年、西本郷村鎮座、長谷部神社より和志取神 社なりと上申あり両者の上申により教部省は8年2月未定の神社と達しあり、止む。
昭和3年3月2日字和志取一番無格社熊野神社を本社に合祀した。



酒人神社[サカムト]
酒人神社[さかんど]「酒人親王 配 稻倉魂尊」愛知県岡崎市島坂町字木ノ元328 玄松子の記憶

日長神社[ヒナカ]
日長神社[ひなが]「吾田鹿葦津姫尊、大日貴尊」愛知県岡崎市中島町字新町18 玄松子の記憶

由緒
社伝に往古此の地方は海中の島嶼にして葦茂り一体は葦嶋と称し葦嶋稍開くるに及び 日久良志の里と称するに至れり、而して此の地は日久良志の里内日奈加島なりと云う 。当社は、二十六代継体天皇の御代此の地葦嶋開発のため穀物の豊穣人民繁栄の守護 人として創祀し日長の宮と称す。五十五代文徳天皇仁寿元年九月朝廷より神階従四位 下を授けられ位田を賜わる。延喜式神明帳に三河国二十六座の内に記載三河国内神明 帳には従四位下と有り既に千五百有余年を経たる古社にして広大なる社地を有し比奈 加島住民の崇敬厚く又徳川幕府累代将軍社領拾石の朱印地を寄進して尊崇せられたる 名社たり。


日長神社「天照大神」愛知県安城市高木町鳥居1 玄松子の記憶

知立神社[チリウ]
知立神社[ちりゅう]草葺不合尊、彦火火出見尊、玉依比賣命、神日本磐余彦尊 配 青海首命」景行天皇の御代。池鯉鮒大明神とも称す。神主家の永見氏は物部氏の後裔である。愛知県知立市西町神田12 玄松子の記憶

知立神社略記
知立神社は池鯉鮒大明神とも称し、古来三河国第一の名社で、東海道沿線屈指の大社 であります。
当神社は、第12代景行天皇の御代、皇子日本武尊が大命を奉じて東国ご平定のさい 、当地に於て皇祖の神々様を祭って国運の発展を祈願し給い、依って以て数々の危難 を脱して平定の大功を完うし給えるにより、其の報斎のため、建国の祖神、彦火火出 見尊、・・草葦不合尊(うがやふきあえずのみこと)、玉依比売命、神日本磐余彦尊 (神武天皇)の四柱の皇大神を奉斎あらせられた、国家的由緒あるお社であって、後 世、文化の恩神聖徳太子を合わせ祀り、相殿には当碧海地方開拓の祖神青海首命をも お祀り申し上げてあります。



比蘇神社[ヒソ]
比蘇天神社「高御産巣日神 合 倉稻魂命、社口神」愛知県岡崎市宮地町字北浦42 玄松子の記憶

糟目神社[カスメ]
糟目春日神社[かすめ]「天宇受賣命 配 彦火火出見命、素盞男命、天照大神」愛知県豊田市渡刈町北田62-4 玄松子の記憶

由緒
大宝二年持統天皇三河国に行幸当地に御 の砌り鷹狩し給う。よってこの地を鳥狩捕 都賀利戸刈と書くに至れり。第六十代醍醐天皇の御代に延喜式に載せられ文徳実録に 正位糟目神社とあり勝女大明神又は塩指大明神と云はれ矢作川上流西方大原野をカス メ郷末野ヶ原と称し三河の満潮時には潮指し来たれりといふ。明治二年神祇官より延 喜式内社に確定される。明治五年七月旧額田県より「春日」の文字を加称して同年九 月郷社に確定される。明治三十九年四月供進神社に指定される。大正二年無格社熊野 社合祀現在地を拡大整備せり。大正三年十月五日神殿八棟を新規築造奉斎せり。昭和 五十二年十月幣殿祭祀殿を再建し崇敬の誠を顕し以って之を後世に伝う。


糟目犬頭神社[かすめけんとう]「彦火火出見尊、伊弉諾尊、伊弉册尊、素盞嗚命、犬頭靈神 合 豐受姫命」愛知県岡崎市宮地町字馬場31 玄松子の記憶

由緒
大宝元年九月創立彦火火出尊を鎮祭し糟目神社と称す。永延元年六月十五日紀州熊野 三所大権現を合祭す。旧社は今の隣村上和田村の西糟目森崎に在り、往来矢作川洪水 につき今の地に遷座、観応元年足利尊氏熊野権現領として百貫文目を寄付し、豊太閣 の世まで相続すると云う。犬頭霊神の由緒は相伝う上和田城主宇都宮泰藤なるもの貞 和二年壬辰五月当社に於て鷹狩す。時に社殿の坤の方に七囲世の大杉樹あり、泰藤樹 下に憩い仮寝す。樹に巨蛇あり、首を垂れ将に泰藤呑まんとす。率いる処の白犬頻に 吠へ泰藤を警す。泰藤驚き覚む、然れども此事あるを知らず。亦眠り亦吠ゆ此如再三 、泰藤怒り差添の刀を抜き犬頭を断つ、頭忽ち飛騰し蛇の噛み之を殺す。泰藤驚き且 つ悔いその犬を以て犬頭霊神として当社に合祀す。実に当年九月十五日なりと云う。 天正十年岡崎城主田中平部少輔吉政豊大閣の命を以て大杉樹を伐り同郡大浜村に於て 船に造ると云う。慶長八年八月二十八日東照公より犬頭社領四十三石の朱印を賜うて より以後徳川氏代々準之、依て社号を犬頭大神明と称す。明治四年額田県の命を以て 即ち今の糟目犬頭神社と改称す。明治五年九月十八日郷社に確定。明治四十年十月二 十六日神饌 ・幣帛料供進指定。




播豆郡[ハツ]:3座並小

久麻久神社[クマク]2座
久麻久神社[くまく]「須佐之男神、大雀命 配 熱田大神」愛知県西尾市八ツ面町麓77 玄松子の記憶

社頭の由緒書き
式内・久麻久神社
所在地・西尾市八ツ面町麓77番地
祭神・大雀命,須佐之男命,熱田大神,外六柱
当社の創建は古く明確でないが、延喜式神名帳所載の古社で、近郷17ヶ村の総氏神 として崇敬されていた。
旧久麻久郷は、崇神天皇の頃、丹後国与謝の里より、久麻久連一族が開拓したと伝え られ、その産土神が本社である。
文武天皇の大宝年間(701〜4)に、須佐之男命を勧請し、山頂に祀り大宝天王宮 と称した。
その後、八ツ面山西村麓、荒川城主荒川甲斐守義弘これを崇敬し、堂宇を興し荒川大 宝天王宮と称した。
荒川氏没後、徳川家康は家臣鳥居元忠に命じ、現在地に奉遷させたと伝えられる。 明治六年、社名を旧名「久麻久神社」に復した。
本殿は、室町時代後期の代表的建築とされ、国の重要文化財であり、ご神像の牛頭天 王は、藤原時代末期の作である。
また、古い木製や陶製の狛犬も有名である。


久麻久神社「倉稻魂神、久久能智神」愛知県西尾市熊味町山畔52 玄松子の記憶

羽豆神社[ハツ]
幡頭神社[はず]「建稲種命」建稲種命は日本武尊東夷御征討から帰途海上で御薨去、御遺骸この岬に着かれたのをお祭りした。愛知県幡豆郡吉良町大字宮崎字宮前60 玄松子の記憶

社頭の由緒書き
幡頭神社
鎮座地・愛知県幡豆郡吉良町大字宮崎字宮前60番地
式内・幡頭神社
祭神・建稲種命,大物主命,誉田別尊
由緒
「景行天皇の御代日本武尊東夷御征討の際、大功をお立てになった建稲種命は帰途海 上で御薨去、御遺骸この岬に着かれたのをお祭りしたのが本神社で、大宝二年文武天 皇勅しで社殿を建て、官社に列せられたと伝へられ、延喜式に載り文徳実録に授従五 位下とあり、明治四年郷社に大正十年県社に列せられて、古来から由緒高く人々の敬 仰厚い神社である。」
三間社流造り桧皮葺で、桃山時代の勝れた建築である。
大正十年重文に指定された。
両脇の神明社本殿、熊野社本殿も昭和三十二年県文化財とされる。
本殿と同時に造営される。




寶飫郡[ホオ]:6座並小

形原神社[カタハラ]
形原神社[かたはら]「埴安大神、朝廷別王命、譽田別命、豐受姫大神、天兒屋根神」愛知県蒲郡市形原町八ヶ峯39  玄松子の記憶

略記
往古摂政藤原千方公大和より勧請三十四代
舒明天皇十一巳亥(皇紀一二九九年西暦六三四年)神礼加列圭田五十五束を奉らる
形原郷の総氏神で荘園時代に栄えた神である
三河国内神明帳 形原明神帳
三河国官社私考 春日大明神
明治四年五月 郷社
大正十二年八月十七日 県社



御津神社[ミツ]
御津神社[みと]「大國主命」船津大明神。愛知県宝飯郡御津町広石字祓田70  玄松子の記憶

足神社[ウタリ]
菟足神社[うたり]「菟上足尼命」菟上足尼命は孝元天皇の御裔葛城襲津彦命四世の御孫。白雉元年(650年)創建。愛知県宝飯郡小坂井町小坂井宮脇2 玄松子の記憶

菟足神社志留倍
由緒
「昇格碑文」菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は孝元天皇の御裔葛城 襲津彦命(大和朝廷の名族)四世の御孫にませり。雄略天皇の御世穂の国の國造(東 三河の国司に当る)に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木濱に宮造し て斎ひまつりしを天武天皇の白鳳十五年四月十一日(昭和五十二年より千二百九十一 年前)神の御おしえのまにまに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり。はや く正六位上の神階を授け給ひ貞観六年二月十九日従五位下に進められしが國内神名帳 には正三位と記されたり(中略)。
徳川幕府の世となりて家康親しく参拝して神領(九十五石、制礼寄進)を寄せしより 累代の将軍も其の例に倣ひ領主藩主等の尊敬の尋常ならざりしこと社記に詳なる所な り。
明治維新の初天皇御東幸のみぎり勅使をして幣帛を捧げしめ給ひしはいとも尊く、か しこき極にこそ(中略)。
斯る由緒ある神社(中略)なりしかば大正七年十一月二十二日県社に列せらるる事と なりぬ(中略)。此の事の由を永遠に伝へむと大神に仕へ奉る社司川出直吉ぬしの請 へるままに其の大むねを識すになむ。



砥鹿神社[トカ] 
砥鹿神社[とが]「大己貴命」里宮本社と本宮山奥宮の二社、美しい姿の本宮山(海抜七八九メートル)は、千年近い大木の杉檜が林立した神山。愛知県宝飯郡一宮町大字一宮字西垣内2 玄松子の記憶 奥宮玄松子の記憶

砥鹿神社と本宮山
砥鹿神社
本宮山砥鹿神社奥宮
砥鹿神社は大己貴命(大国さま)を祀る旧国幣小社で東海地方の総鎮守の神として各 方面から篤い崇敬をいただいています。昔は本宮山にお祀りされていましたが、御神 託により今から約千三百年程以前の文武天皇大宝年中に現地にお迎え申し上げてより 、里宮本社と本宮山奥宮の二社となり、三河国一宮として広く尊崇せられ、交通安全 、家運隆昌、厄難消除の御神徳が皆様に仰がれています。
摂社二宮社は事代主命(えびす様)をお祀りし「三河えびす社」とも申し上げていま す。又、三宮社は建御名方命(諏訪様)をお祀りし、共に御本社の御子神で崇められ ています。
社殿は総檜造りの荘厳な建物であります。
三河湾に面した美しい姿の本宮山(海抜七八九メートル)は、千年近い大木の杉檜が 林立した神山で、頂上附近の自然林は神域として保護され数百種の草木が繁茂し、愛 知県天然記念物として指定されています。
頂上には三河国一宮砥鹿神社の奥宮が鎮座し、霊験あらたかな大己貴命(大国様)を お祀りしています。本宮山は古代人より持ちつづけた信仰の中心であり、人生の哀歓 、苦悩、願望等の生活社会の精神面問題も御神徳の御力により私共を自然の心に立ち 帰らせ、幸せに導いて下さいます。
近年頂上まで本宮山スカイラインが開通し、起伏に満ちた山々、又アルプス連峰、富 士山の秀峰、浜名湖の景観と丸山公園のツツジの花園、森の緑は参拝者の心を癒し、 名実共に三河国唯一の霊山であります。



赤日子神社[アカヒコ]
赤日子神社[あかひこ]「彦火火出見尊、豐玉彦命、豐玉姫命」天智天皇甲戌九月、奉斎三河養蚕祖神。愛知県蒲郡市神ノ郷町森58 玄松子の記憶

御由緒標
沿革
総国風土記参河国宝飯赤孫郷赤日子神社圭田三十束三毛田
天智天皇甲戌九月始奉圭田加神礼有神家巫戸等(一千二百六十七年前)
延喜式神名帳に参河国宝飯郡六座並小赤日子神社文徳実録に仁壽元年冬十月乙巳授参 河国赤孫神社従五位下(一千〇七十六年前)
三代実録に清和天皇貞観七年十二月二十六日癸酉授三河国従五位下赤孫神従五位上( 一千〇六十二年前)
国内神名帳に正二位赤孫大明神式内座宝飯郡早くより朝廷の御崇敬厚く国司領主地頭 等尊敬も厚く寄進状十数通あり
明治五年郷社に列せらる
明治十二年七月改めて十有五ヶ村(三谷、牧山、五井、平田、小江、府相、新井形、 竹谷、鹿島、拾石、西迫、柏原、清田、水竹、坂本)の郷社として崇敬せられたり 往昔当社より年々伊勢大御神の神衣を織奉る赤引の絲の調物を奉献りしにより其名著 し
当社は雨乞に霊験顕芳なりとて伊勢の多度神社と併称せられ又養蚕の守護神として其 名高し
明治四十年十月神饌幣帛料供進指定神社に列せられたり
大正五年三月十四日に県社昇格す
昭和七年一月久迩宮邦英王殿下より神社号御染筆の額御賜進あらせらる
昭和九年十月



石座神社[イハクラ]
石座神社[いわくら]「天御中主命、比賣大神、大山祇神、素盞嗚尊、天稚彦命、伊弉册命、倉稻魂命」愛知県新城市大宮字狐塚14 玄松子の記憶

社頭掲示板
新城市文化財指定
木造神馬
新城市大宮 石座神社
指定月日 昭和33年4月1日
この馬は、はじめ白い馬であったが夜毎に出て田畑を食い荒らすので格子造りの馬小 屋の中に入れて黒く塗ってしまった。そうしたらもう田畑に出てこなくなったという 。そんな伝説が残る木造漆塗りの馬は、体高105cm体長150cmの大きなもの で空道和尚の作と伝えられている。空道和尚は正徳年間頃にこの地に生まれ旗本設楽 家に仕えたが後に仏門に入りその徳は人々に広く慕われたという。
昭和61年8月1日
新城市教育委員会
以上

御由緒
当神社ハ創立年代ハ不詳ナレドモ延喜式ノ式内神社ニシテ参河総国風土記ニ大宝三年 九奉圭田行神事トアリ其ノ外文徳宝録ニ仁寿元年十月参河国石鞍神従五位下位トアリ 宝録ニ元慶七年十二月二十八日授参河国従五位下石鞍神従五位上国内神名帳ニ正三位 磐倉大明神式内座設楽郡トアリ 鐘名ニ参河国設楽郡岩倉大明神嘉吉三年トアリ社殿 ハ北方ニ聳ユル神峯山ニ鎮座シ設楽郡一帯ノ信仰ニ篤ク今尚猶存ス明治五年郷社ニ列 シ大正十三年三月県社ニ列セラル
攝社 須波南宮社 鍵南方刀自命従四位下  児御前社 石鞍若御子天神従五位上
末社
百山社 白山比
水神社 速秋津姫命
神楽社 安須女命
伊雑社  伊雑大神
山神社 大山祇命
金比羅社 大物主命
保食社 倉稲魂命
荒波婆岐社 豊石窓命 奇石窓命
素盞嗚社 素盞嗚命
祖霊社 天児屋根命




八名郡[ヤナ]:1座小

石巻神社[イシマキ]
石巻神社[いしまき」「大己貴命」三河国造知波也命祖大木食命の勧請。愛知県豊橋市石巻町字金割1 玄松子の記憶


渥美郡[アツミ]:1座小

阿志神社[アシ]
阿志神社[あし]「木花咲耶姫命」愛知県渥美郡田原町芦村柿木12 玄松子の記憶

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延喜式神名帳目次


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