阿豆良神社
愛知県一宮市あずら1−7−19 mapfan


鳥居と境内

交通

尾張一宮駅 南東 3km



祭神

天甕津媛命 配祀 倭姫命
摂社
一宮社「火明命」、二宮社「大荒田命」、津島社「素盞嗚尊」、国府宮社「大國魂命」、神宮司社「建岡君」ほか多い。



拝殿

由緒

 延喜式神名帳尾張国丹羽郡に記載の社。旧地は当社の北300m付近とも1kmほど北の馬見塚遺跡付近とする説がある。

 当社の創祀については、『尾張国風土記』吾縵(あづら)の郷の條がずばり語っている。
 丹羽の郡。吾縵の郷。巻向の珠城の宮に天の下をお治めになった天皇(垂仁天皇)のみ世、品津別の皇子は、生まれて七歳になっても口をきいて語ることができなかった。ひろく群臣に問われたけれども、誰一人よい意見を申し上げるものがいなかった。その後、皇后の夢に神があってお告げをくだし給い、「私は多具の国の神、名を阿麻乃弥加都比女というのだ。私はまだ祭ってくれる祝をもっていない。もし私のために祭る人を宛てがってくれるならば、皇子はよく物を言い、また御寿命も長くなるようになる。」といった。帝は、この神が誰で、どこにいるのかを探しだすべき人を占わせると、日置部らの祖建岡君がその占いに合った。そこで神をたずねさせた。その時建岡君は美濃の国の花鹿の山に到り、榊の枝を折とって縵に造り、祈誓して「私のこの縵が落ちるところに必ずこの神がいらっしゃるだろう」といったところが、縵はとび去ってここに落ちた。そこで神がここにおいでになると知って社を建てた。この社名によって里に名づけた。後の人は訛って阿豆良の里という。

 「美濃の国の花鹿の山」とは岐阜県谷汲村にあり、ここに、花長上神社「阿麻乃弥加都比女」、花長下神社「赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命」が鎮座している。后神である。

 さて、『出雲国風土記』秋鹿郡の條に、「出雲の郡の伊農の郷に鎮座しておいでになる赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかふすまいぬおほすみひこさわけの命)の后、天津日女命が国を巡ってお歩きなされた時、ここまで来てみことのりして、「伊農波也」と仰せられた。だから伊努という。」とある。
 さらに、『出雲国風土記』楯縫郡の條に、「神名樋山。峰の西に石神がある。高さは一丈、周囲は一丈である。そこに行く傍らには小さな石神が百余りもある。古老が伝えていうには、『阿遅須枳高日子命の后の天御梶日女命が、多久の村までおいでになっり、多伎都比古命を産み給うた。その時お教しして申されるのは「お前様の御祖の位に向き合って生もうと思うが、この場所がちょうどいい」と仰せられた。いわゆる石神は、すなわち多伎都比古命の御魂である。日照りつづきのときに雨乞いをすると必ず雨を降らせて下さるのである。』」とある。
 ここでは天御梶日女命の表記であるが、多久の社(平田市多久谷町274)もあり、天甕津媛のことで、阿遅須枳高日子命の后となっている。赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命とは、阿遅須枳高日子命のことと見える。



本殿 神明造

お姿

 さほど広くない社域。戦国時代にことごとく滅び、江戸時代初期までに再建されていたようだ。それは旧地なのか当地なのかは不詳。 町の中の鎮守のおもかげ。


お祭り
 10月 15日 例祭

『平成祭礼データ』

 吾鬘に鎮座まします神で、郷社(式内)阿豆良神社と申すが本名であります。祭神は天みか津媛命で垂仁朝57年(紀元688)の創建、今年から1942年前に当る古社であります。熱田神宮、津島神社、内津神社よりも古く、大県神社、国府宮尾張大国霊神社と殆ど同時代で一宮真清田神社だけが神武朝33年であるから古いのであります。尾張本国神名帳集説に「従一位阿豆良名神在稲置庄吾鬘村、釈日本紀尾張風土記中巻曰、丹羽郡吾鬘郷巻向珠城宮御宇天皇(垂仁)品津別皇子、生七歳而語。傍問群下無能言之、乃後皇后夢有神告曰、吾多具国之神、名曰阿麻彌加都比女、吾未得祝、若為吾充祝人皇子能言、亦是寿考、帝ト人覓神者日置部等祖建岡君ト食、即遣覓神、時建岡君到美濃国花鹿山攀賢木枝造縵誓曰吾縵落処、必有此神縵去落於此間、乃識有神、因堅社由社名里、後人訛言阿豆良里也。」
 右の由緒は諸書にありますが其の中最も簡結なものです。これを意訳しますと「垂仁天皇に品津別皇子と云う皇子がありました。生まれ乍ら唖で七歳になられても言葉が出ません、天皇は御心配の余り群臣に治療の方法を御尋ねになりましたが、誰も明答を致しません。一夜皇后様の夢に「私は出雲の阿麻彌加都比女(天みか津媛)と申す神であるが、今迄誰も祀ってくれないが祠を立て神に祭るなら、皇子の唖は立ち所に治り天寿を全うして長生が出来やう。」と申して枕神は消えました。天皇は臣下に卜占はせて建岡君に祭神の事を御委せになりました。建岡の君は美濃国花鹿山(揖斐郡花長神社現存)に登って山中の榊の枝で縵(古代頭髪に押すもので「カンザシ」に当る)を作つて、天神に祈って「此の縵の落ちた所が神を祭る所である。」と申されて縵を遠く投げられました。縵は遠く南方に飛んで此の地に落ちました。そこで直ちに神殿の造営にかかって天みか津媛命をお祀りになりました。「みづら」によって地名となり後世言葉がなまって「あづら」となりました。古来此の神社に祈願すると聾唖が治ると申すのも由緒から来たものであります。境内神社中に神宮司社と云うのがありますが前に述べた建岡の君が祀ってあります。(昭和56年1月)
  以上

参考 式内社調査報告、平成祭礼データ

中部北陸神社一覧
神奈備にようこそに戻る
inserted by FC2 system