花長上神社(花長神社)
岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲名札1211番地の1 its-mo


二の鳥居 参道の両側の杉の木々は見事

交通

谷汲山華厳寺の 南西 1km 花鹿山の南麓



祭神

天甕津日女命 ほか



社殿

由緒

 延喜式神名帳美濃国大野郡に記載。 当社の真南1.4kmの花長下神社が男神、当社を女神とする伝承がある。
 『尾張国風土記』吾縵(あづら)の郷の條
 丹羽の郡。吾縵の郷。巻向の珠城の宮に天の下をお治めになった天皇(垂仁天皇)のみ世、品津別の皇子は、生まれて七歳になっても口をきいて語ることができなかった。ひろく群臣に問われたけれども、誰一人よい意見を申し上げるものがいなかった。その後、皇后の夢に神があってお告げをくだし給い、「私は多具の国の神、名を阿麻乃弥加都比女というのだ。私はまだ祭ってくれる祝をもっていない。もし私のために祭る人を宛てがってくれるならば、皇子はよく物を言い、また御寿命も長くなるようになる。」といった。帝は、この神が誰で、どこにいるのかを探しだすべき人を占わせると、日置部らの祖建岡君がその占いに合った。そこで神をたずねさせた。その時建岡君は美濃の国の花鹿の山に到り、榊の枝を折とって縵に造り、祈誓して「私のこの縵が落ちるところに必ずこの神がいらっしゃるだろう」といったところが、縵はとび去ってここに落ちた。そこで神がここにおいでになると知って社を建てた。この社名によって里に名づけた。後の人は訛って阿豆良の里という。

 「美濃の国の花鹿の山」とは当地のことであり、ここには既に阿麻乃弥加都比女が祭られていたと云うことである。天甕津比売は出雲の国引きの神である八束水臣津野神の皇子神である赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命の后神。出雲の大祖神の系統の神であるが、出雲と濃尾にしか祭られていない。
 また金星である悪神とされた天津甕星神の配偶神ともされる。この神々、縄文の心を持ち続けたのかも。



本殿 流造

お姿

 花鹿山の南麓に鎮座、神域は深い森の中になっている。本来の神社はこのような姿で鎮座していたのであろう。感銘と歓喜の一時であった。
 花鹿山は周囲がより高い山々に囲まれた盆地のような中の小山。この小山の上から縵はとび去ったと云うが、勿論物理的な話ではなく、気の話。盆地の小山、大和三山を出すまでもなく、龍脈の発する点であり、神気の発する点であるということ。
 中腹に磐座があるようだが未確認。


お祭り
 9月  7日 例祭 隔年。花長下神社と交代で。



摂社 彫刻の精巧な貴船神社(手前)と本殿

参考 式内社調査報告、平成祭礼データ

中部北陸神社一覧
神奈備にようこそに戻る
inserted by FC2 system