御神位は古く既に貞観十五年(873)に正二位に叙せられ、延喜式の神名帳には美 濃国三十九座の内、当社のみ国幣大社として、名神祭にも預る大社に列せられていま す。天慶三年(940)、平将門の乱の言朱伏の勅願や、康平年中(1058〜65 )安部貞任追討の神験によって、正一位勲一等の神位勲等を極められ、以来、鎌倉、 室町、戦国の世を通じて、源氏、北条氏、土岐氏等の有力な武将の崇敬をうけ、美濃 国一宮として、亦、金の神の総本宮として、朝野の崇敬極めて厚い名大社であります。
御社殿
現在の社殿は、天下分け目の関ケ原合戦の折、兵火にかかって炎上の為、再建を願う
美濃国人の只管なる念願と、この西濃に生い育った春日局(家光公の乳母)や、竹中
伊豆守(竹中半兵衛の一族)等の厚い崇敬心と相俟って、寛永十九年の秋九月、徳川
三代将軍家光公の天下普請によって、旧構のままに造営されたものであります。以来
、歴代将軍の替わる毎に四百五石の朱印状を捧げてこれを安堵し、また、五十一年目
毎の式年遷宮をも、古式を護って、これを奉仕し続けて来たのであります。
豪壮華麗なるこの朱塗の社殿様式は、正しく御神威を表徴する独自の社殿様式であり
、世に「南宮造り」とも称せられる名建築であります。寛永御造営の棟札を始め、膨
大な造営文章六百二十三冊を蔵し、これには明治維新の神仏判然令によって移築され
た堂塔をも含めて、細大洩らさず、その経費が明示され、全国的にも極めて貴重な史
料として、御社殿・石鳥居・石輪橋等十八棟とともに国の重要文化財に指定されてい
ます。