美濃國:39座 大1小38


多藝郡[タキ]:4座 並小

多伎神社[タキ]
多岐神社[たぎ]「倉稻魂神、素盞嗚命 配 大市比神」和銅五年の鎮座。岐阜県養老郡養老町三神町406-1 玄松子の記憶

大神神社[オホムワ]
大神神社[おおみわ]「大物主櫛甕玉命 配 神倭磐余彦天皇、比賣多多良五十鈴姫命」岐阜県養老郡上石津町宮字街道194-1 玄松子の記憶

御井神社[ミヰ]
御井神社[みい]「御井神」 岐阜県養老郡養老町金屋字村之内237 玄松子の記憶

久久美雄彦神社[ククミヲヒコ]
久々美雄彦神社[くくみひこ]「久久美雄彦神」岐阜県養老郡養老町沢田字宮谷1341 玄松子の記憶


不破郡[フハ]:3座 大1小2

仲山金山彦神社[ナカヤマカナヤマヒコ](名神大)
南宮大社[なんぐうたいしゃ]「金山彦命 配 見野命、彦火火出見命 南大神社「天火明命」」 境内の北側に磐座がある。伊吹おろしで名高い伊吹山がある。金属精錬に不可欠であった風の強い地域で、製鉄がなされた地域であり、金属神を祀ったのである。

南宮大社略誌
御由緒
御祭神金山彦命は、神話に古く、伊勢神宮の天照大神の兄神にあたらせられる大神様 であります。社伝によれば、神武天皇東征のみぎり、金鵄を輔けて大いに霊験を顕さ れた故を以て、当郡府中に祀らせられ、後に人皇十代崇神天皇の御代に、美濃仲山麓 の現在地に奉遷され、古くは仲山金山彦神社と申し上げたが、国府から南方に位する 故に南宮大社と云われる様になったと伝えます。

御神位は古く既に貞観十五年(873)に正二位に叙せられ、延喜式の神名帳には美 濃国三十九座の内、当社のみ国幣大社として、名神祭にも預る大社に列せられていま す。天慶三年(940)、平将門の乱の言朱伏の勅願や、康平年中(1058〜65 )安部貞任追討の神験によって、正一位勲一等の神位勲等を極められ、以来、鎌倉、 室町、戦国の世を通じて、源氏、北条氏、土岐氏等の有力な武将の崇敬をうけ、美濃 国一宮として、亦、金の神の総本宮として、朝野の崇敬極めて厚い名大社であります。

御社殿
現在の社殿は、天下分け目の関ケ原合戦の折、兵火にかかって炎上の為、再建を願う 美濃国人の只管なる念願と、この西濃に生い育った春日局(家光公の乳母)や、竹中 伊豆守(竹中半兵衛の一族)等の厚い崇敬心と相俟って、寛永十九年の秋九月、徳川 三代将軍家光公の天下普請によって、旧構のままに造営されたものであります。以来 、歴代将軍の替わる毎に四百五石の朱印状を捧げてこれを安堵し、また、五十一年目 毎の式年遷宮をも、古式を護って、これを奉仕し続けて来たのであります。 豪壮華麗なるこの朱塗の社殿様式は、正しく御神威を表徴する独自の社殿様式であり 、世に「南宮造り」とも称せられる名建築であります。寛永御造営の棟札を始め、膨 大な造営文章六百二十三冊を蔵し、これには明治維新の神仏判然令によって移築され た堂塔をも含めて、細大洩らさず、その経費が明示され、全国的にも極めて貴重な史 料として、御社殿・石鳥居・石輪橋等十八棟とともに国の重要文化財に指定されてい ます。

岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1 玄松子の記憶

大領神社[オホ・]
大領神社[だいりょう]「不破郡大領宮勝木實 配 伊邪那美尊、速玉之男神、泉津事解之男神」役職名が社名である珍しい神社である。木実は壬申の乱で大海人皇子側で武功を発揮した、のちその霊が祀られたと言う。
岐阜県不破郡垂井町宮代森下765 玄松子の記憶

伊富岐神社[イフキ]
伊富岐神社[いぶき]「多多美彦命」祭神に諸説ある。@多々美比古命説:またの名を気吹雄命。A八岐大蛇[やまたのおろち]説:伊吹の神は八岐大蛇の変じたもの。B天火明命説:伊福部宿彌、尾張連同祖、天火明命之後。C草葺不合尊説:論拠不明。この地域は製鉄との関わりが深く、@ABを絡めた考えが妥当であろう。
岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹1484-1 玄松子の記憶


池田郡[イケダ]:1座 小

養基神社[ヤキ]
養基神社[やぎ]「養基大神」神社名鑑は市杵島姫命を祭神と表記する。岐阜県揖斐郡池田町養基大字田中字野中80 玄松子の記憶


安八郡[アハチ]:4座 並小

宇波刀神社[ウハト]
宇波刀神社「うわと」「宇波刀大神」岐阜県安八郡神戸町大字神戸八幡956 玄松子の記憶
宇波刀神社[うばと]「天照大神、豐受大神、倭姫命、家津御子神」岐阜県安八郡安八町森部373-10 玄松子の記憶

加毛神社[カモ]
加毛神社[かも]「神別雷命」白髭明神と称せられ、神社名鑑では祭神を白髭明神としている。

参拝のしおり
長良川の支流、大榑川右岸堤沿いに鎮座。当社は、延喜式神名帳に見える安八郡四座 の一つに比定され、美濃国神名帳には「従五位下加毛明神」とある。然し、時代は詳 らかでないが白髭大明神を祀る宮となり、白髭神社と社名を変えた。天明8年(17 88)村明細帳は「祭神白髭大明神、領主草創安八大夫」と認めている。また、下大 榑新田開村の際、当社より分社し白髭神社と称す。時に寛文3年(1663)願主下 大榑新田寄進の石灯篭が遺存する。斯様に式内加毛神社は、一時期白髭神社に変わっ たが、明治2年加毛神社に改称、同6年福束輪中18ヶ村の郷社に列し崇敬された。 これは、古代国造時代開化天皇の皇子、鴨君彦坐王の子、神大根王が美濃国の国造と なり、その子孫は西南濃地方に繁行した。よって、開拓者たちは、鴨氏の祖神を奉斎 した。当社はこのように式内社の由緒を裏づけるにふさわしい社である。このような 経緯から、昭和の神社明細帳は、祭神別雷命(猿田彦命)としている。例祭は、9月 30日。氏子祭は、10月10日で太鼓、笛のお囃子を奉納、1月15日には粥つけ 神事を行う。

岐阜県安八郡輪之内町下榑字東井堰13017 玄松子の記憶

墨俣神社[スノマタ]
墨俣神社[すのまた]「墨俣大神」岐阜県安八郡墨俣町墨俣264 玄松子の記憶

荒方神社[アラカタ]
八幡神社「應神天皇」岐阜県安八郡墨俣町墨俣1番地 玄松子の記憶
白鬚神社[しらひげ]「猿田彦大神」岐阜県安八郡墨俣町墨俣字城ノ越1735-1 玄松子の記憶


大野郡[オホノ]:3座 並小

花長神社[ナカ]
花長上神社[はなながかみ]「天甕津日女命、應神天皇、速玉男命、天照大御神、大山祇神、高神、熊野久須美命、豐受大神、家津御子神、天水分神」岐阜県揖斐郡谷汲村大字名礼1211-1
白山神社[はくさん]「伊弉册命、伊弉諾命、菊理姫命」白山皇正一位花長大神と記したのものが発見されている。
岐阜県本巣郡根尾村能郷

花長下神社[ハナナカノシモ]
花長下神社[はなながしも]「赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命、比古佐和氣能命」花長神社と夫婦神とされるが、祭神の正体はわからない。島根県平田市の芦高神社「配神に天甕津姫命」出雲市の伊努神社も同神を祀る。岐阜県揖斐郡谷汲村名礼字鷺坂848-1

來振神社[コフリ]
来振神社[きぶり]「伊弉諾命、伊弉冉命、菊理姫命、大己貴命」神亀二年創建。
岐阜県揖斐郡大野町稲富字井口山2544番地の1 玄松子の記憶


方縣郡[カタカタ]:2座 並小

方縣津神社[カタアカタツ]
津神社[つ]「縣須美命、武渟川別命」岐阜県岐阜市曽我屋字屋敷1631 玄松子の記憶
方県津神社[かたがたつ]「丹生川上摩須郎女命」

由緒書
日子坐王一族はこの地方に深い関係をもち農耕、治山、治水に貢献された。日子坐王 の皇子丹波道主命は、崇神天皇の朝命を奉じて、丹波(山陰地方)に赴かれ四道将軍 の御一人で、別名彦多都彦命(伊奈波神社)という。その奥方が当式内社方県津神社 御祭神丹波之河上摩須郎女命、その御子日葉酢比売命又その御子五十瓊敷入彦命は( 伊奈波神社)妃淳熨斗媛命(金神社)、その御子市隼雄命(橿森神社)及び擁烈根命 (県神社)である、岐阜市内の総神社の親神様に当る。

岐阜県岐阜市長良八代3丁目13番1 玄松子の記憶
縣神社[あがた]「縣大神」 岐阜県岐阜市佐野728番地の1 阜嵐健
縣神社[・・」以下の住所には神明社、白髭社はあるが縣社は未確認。 岐阜県岐阜市長良福光字村中419 

若江神社[ワカエ]
若江神社[わかえ]「應神天皇、氣長足姫命、玉依姫命」
由緒書
祭神は、応神天皇、気長足姫命、玉依姫命を奉斎。境内社に神明神社(天照大神)、 春日神社(武甕槌命)を祀る。平安時代第六十代醍醐天皇の時代に記載された延喜式 神明帳に美濃国方県郡若江神社とあるのが、この式内若江神社である。約壱阡百年の 歴史がある格式の高い神社で神域は壱町七反余りで椎や椋の古木が昔の面影を残して いる。明治五年郷社に列せらる。大正五年本殿再建。昭和三十一年拝殿、渡廊、祝詞 舎再建(東西改田氏子百五拾戸)。昭和四十七年本殿の保護殿新築。昭和四十九年笑 福町楓町氏子となる(氏子七百七拾戸)。昭和五十年第一の石鳥居建立。昭和五十七 年社務所再建、玉垣、御手洗、由緒碑、燈篭、燈明台建設。

岐阜県岐阜市東西改田入会字海渕1 玄松子の記憶


厚見郡[アツミ]:3座 並小

比奈守神社[・・モリ]
比奈守神社「ひなもり」「應神天皇、神功皇后」岐阜県岐阜市茜部本郷2丁目67番地の1 神社探訪

茜部神社[アカネヘ]
茜部神社[あかなべ]「應神天皇、神功皇后、竹内宿禰」
由緒書
創設八百三十年頃(天長年間)、祭神は応仁天皇(誉田別尊ほむたわけのみこと)、 神功皇后(息長帶比売命おきながたらしひめのみこと)、武内宿弥(もとは比売大神 ひめおおかみ)、祭礼四月五日・十月十五日、東大寺荘園茜部荘(初めは厚見荘)は 、七百十年頃できる。その守護神として八百三十年頃勅令により宇佐八幡宮を勧請す る。八百三十二年頃空海が神宮寺として成就院(本尊阿弥陀如来)を置く。全国神社 約十万社中三万五千社は、八幡神社であり茜部神社は分社として十番目に古く有名な 手向山、石清水、鶴岡より古い。祭神は宗社宇佐八幡宮を初め、応仁天皇、神功皇后 (母)比売大神が大部分で、武内宿弥(臣)は希である。八幡神社の由来は複雑で五 世紀頃に比売大神(海洋神・農耕神・鍛冶神)が祀られ、六世紀に応仁天皇(武勇・ 安全神・諸願成就神)、九世紀に神功皇后が合祀された。耶馬台国の卑弥呼は天照大 神・壹与は比売大神との説がある。道三が信長と会見した帰りにここで休み、道三が 亡くなった時の戦で兵火に罹っている。本社の御神体(本像)は、火災にて損傷して いるが、一体はやや小さく明らかに比売大神である。明治維新の神仏分離で成就院の 宝物は四散し、祭神比売大神は武内宿弥に変えられた。歴代加納城主の守護神であっ たし国守土岐政房の墓がこの裏にある。尾張藩主・稲葉城主・歴代加納城主らの奉納 品が多く、昔は十月十五日の祭礼には加納城から三十余人の騎馬行列で参拝に来て流 鏑馬・走馬式があった。その後戦前は花火・神楽芝居に多数の露店が出て賑わった。 昭和二十五年岐阜市に合併し、祭礼も四月五日となる。式内社・郷社であった。

岐阜県岐阜市茜部寺屋敷3丁目135番地 茜部の地名の起源は・・・?

物部神社[モノノヘ]
伊奈波神社[いなば]に合祀「五十瓊敷入彦命 配 渟熨斗媛命、日葉酢媛命、彦多都彦命、物部十千根命」 市内中西郷には「宇麻志麻遲命」を祭神とする物部神社がある。

伊奈波神社略由緒
当社の祭神・主神は、五十瓊敷入彦命(垂仁天皇の第一皇子に坐す)、配祀神に淳熨 斗媛命(主神の妃君に坐す)、日葉酢媛命(主神の母君に坐す)、彦多都彦命(主神 の外祖父に坐す)、物部十千根命(主神の功臣に坐す)を奉斎する。主神は、英邁勇 武に坐し頑愚強暴良民を悩ます東夷を征して教化を布き、又地方の産業開発には特に 意を用いて濃、尾、摂、河、泉、和の広い地域に亘りて池溝を通じて水利を図り、農 業を奨励して民生の安定、福利増進に尽し給うた。又鍛(かぬち)河上を喚して剣一 千口を作り大和国石上神宮に納めて有事に備え国土の治安維持に任じ給うた。最近神 徳を慕って土建、交通、水利、ダム関係の参拝者が非常に多い。御鎮座は、景行天皇 十四年、命の偉徳を偲び武内宿禰をして椿原の地(今の岐阜公園丸山の地)に鎮斎せ しめ給うたのが始まりで、今から約一九〇〇年以前のことである。降って天文八年斎 藤秀龍(道三)稲葉山を居城とするに当り現社地に遷し奉った。昭和十四年十一月一 日国幣小社に列っせられ、社頭の殷賑は年と共に加わりつつある。

岐阜県岐阜市伊奈波通1丁目1


各務郡[カゝミ]:7座 並小

伊波乃西神社[イハノニシ]
伊波乃西神社[いわのにし]「日子坐王 配 八瓜入日子王」
由緒書
勧請年月は不詳である。延喜式神名帳に「美濃国各務郡七社の内、伊波乃西神社」と ある。清水山の山ふところ、檜の巨木数百本から成る美しい林に蔽われて鎮座する。 祭神日子坐王は、人皇第九代開化天皇の皇子で、伊奈波神社の祭神、丹波道主命の父 君にあたらせられる。古事記中巻、水垣宮の段(崇神天皇の御代)によれば「日子坐 王をば、旦波の国につかわして、玖賀耳の御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめ給い き」とある。史上に表れた御勲功のはじめである。なお、クガミミとは、国神の義で あって、旦波の国に国神ミカサが住んでいたのである。王は、その後、勅命により東 日本統治の大任をおび、美濃国各務郡岩田に下り、治山治水に着手され且農耕の業を すすめられ、殖産興業につくされた。八瓜入日子王(ヤツリイリヒコノミコ)は、日 子坐王の皇子である。神大根王(カムオオネノミコ)と申し上げ、父君の後をつがれ て、この地方の開発に功が多かった。日子坐王薨去の後、御陵を清水山の中腹に築か れた。当社の西に隣接している。明治八年十二月に至り、日子坐王陵と確認されたの で、宮内省陵墓寮の所管に移された。御陵墓祭は、三月二十一日であるが、毎年十月 十一日には、滋賀県木之本町の老若男女数十名が観光バスを連ねて参拝する。これは 、その地に日子坐王をはじめ、御一族数柱を祭神とする神社がある為、十月十日例祭 の後御陵参拝を行事としているからに他ならない。

岐阜県岐阜市岩田西3丁目421番地 阜嵐健

村國神社2座[ムラクニ]
村国神社[むらくに]「村國男依命、天火明命、白山權現」岐阜県各務原市各務おがせ町3丁目46番地の1 日本すきま漫遊記
村国神社「村國男依命、伊斯許理度賣命」

参拝のしおり
当神社は、飛鳥時代、此の地一帯を治めていた村國氏の祖が、天之火明命と御子石凝 老命を御祭神として創建された社であります。
弘文元年、壬申の乱が興り豪族村國男依氏は、大海人皇子の命を受け、いち早く農兵 3000人を引きつれ、不破の関を守り、大津街道を攻め上がり、大海人皇子の連に 大勝をもたらし、天武の世となり、村國男依氏は此の勲功で、封120戸、功田10 町とかばね性、連(むらじ)を賜り、帝の新任あつく時の政権の座につきましたが、 天武4年天命を全し、此の世を去る。                     
 帝より外小柴の位を授り、子息村國連嶋主によって、此の社に 村國連男依の命として祀られ、以来、村國の社と呼び、産土神として代々村國一族が 守って参りました。
時代は村國氏から、重臣各牟氏に移り延久4年約910年前、各牟宿弥良遠の時代に 山獄信仰が盛んになり承保3年(900年)前、各務宿弥良近によって白山大権現が 合祀され守護神として農州一円の士豪は、戦勝を祈り大いにあがめ祀り爾来、鎌倉、 室町、安土桃山と戦国の時代を守り祀りて江戸時代を経て現在に至る古き由緒ある神 社であります。
延長年代、延喜式内郷社となっていおり村國神社弐座と記載されております、別の壱 座は御旅所と申して、村國連男依命の墳墓の地と云われ現在は椋の大木を御神木とし て斎奉る。
境内裏山に古き時代を忍ぶ古墳群あり、此れを村國古墳公園として広く一般に公開し 、憩いの場に使用している。
昭和48年岐阜県神社庁より金幣社に昇格さる。

岐阜県各務原市各務おがせ町丁目85 阜嵐健

飛鳥田神社[アスカタ]
飛鳥田神社[あすかた]「飛鳥田大神」
参拝のしおり
各務原市内の式内社の内、最も位の高い正三位の当飛鳥田神社で有ります。
 蘇原古市場町北山の小山にあり、この山の麓に展開する集落に「飛鳥」の名が今 も続いていることや、神社境内から展望される一帯の風景が大和の飛鳥地方の風景に 類似していることなど、同じ古市場町に有る加佐美神社の社格が当神社に次いて高く 御祭神として祀り、また近くの寺島町に今も礎石を残す山田寺が有り大和朝廷で活躍 した蘇我倉山田石川麿公によって創建されたと伝えられていることなど を考えると 、この蘇原庄は、大和朝廷の勢力と深いつなが りを持ったであろうことが想像され ます。

岐阜県各務原市蘇原古市場町833 阜嵐健

村國真墨田神社[ムラクニ・・]
村国真墨田神社[むらくにますみた]「天之火明命、金山彦命、彦火火出見命、罔象女命、村國男依」 濃尾平野東北部の喉元にあたる尾張実のの接点の政治上の要地に鎮座する。美濃の南宮大社と尾張の真清田神社を合祀したものである。
 参拝のしおり
村國真墨田神社は、美濃國一宮の南宮大社(不破郡垂井町)の主神金山彦命(かなや まひこのみこと)と、尾張一宮の真清田神社(愛知県一宮市)の主神天火明命(あめ のほあかりのみこと)さらに後になって、この地を支配していた地方豪族村國氏の中 より、天武元年(672年)に起こった壬申の乱の際、大海人皇子(おおあまのおう じ後の天武天皇)に味方して功績をあげた村國男依(むらくにのおより)を、その後 祭神として合祀し、古くから鵜沼の地の産土神として里人の崇敬を集めていました。 その社名は、十世紀初頭の法典である「延喜式」(えんぎしき)の中の一巻である「 神名帳」の中にも見出される、美濃國式内社の一社であります。         
 又、当時の神社は現在の場所から数百メ−トル南の木曽川ぞいに有ったと伝 えられ、その場所は現在は御旅所となっています。
その後、時代は下って戦国時代になり、神社は当時の武将大沢氏一族の守護神となり 、その居城鵜留摩(うるま)城(現鵜沼南町城山)の外堀外部に位置していましたが 、永禄年間(1558〜1570年)織田信長の美濃侵攻によって大沢氏は城を追わ れ、鵜沼地方は織田家領となり、更に天正十二年(1584年)小牧長久手の戦いに おける羽柴秀吉の犬山攻めに際して、この地の有力者であった河村惣六なる人物が秀 吉に協力して恩賞を挙げた折、許可を得て現在の場所に神社を遷宮し現在に至ってい ます。

岐阜県各務原市鵜沼山崎町1丁目106 阜嵐健

加佐美神社[カサミ]
加佐美神社[かさみ]「加佐美大神、蘇我倉山田石川麻呂、應神天皇」 蘇我石川麿公は往古曽原の県主たりし時百姓を撫綏し崩御後神霊、崇敬し、祭祀奉るとあり、「蘇原」の地名は、蘇我氏の領有に由来するといわれておます。

参拝のしおり
元郷社 加佐美神社は昭和五十年九月十六日岐阜県神社長指定第七六号を以て金幣社 に列す。
三代実録曰清和天皇貞観六甲申年(八六四)八月十五日美濃國従五位下加佐美大神に 従五位上を贈る。(旧暦)
美濃雑事記加佐美神社は廷喜五乙丑年(九〇五)各務郡曽原荘古市場にあり八幡宮と 称す廷喜式明細帳曰美濃國各務郡七座の内、加佐美神社は廷喜八成辰年(九〇八)式 内社に列す美濃神名帳曰加佐美神社は二十二社の内、正四位下笠見明神とあり。
蘇我石川麿公は往古曽原の県主たりし時百姓を撫綏、勧励老少大懷、因而、薨去後神 霊、崇敬、し祭祀奉るとあり、「蘇原」の地名は、蘇我氏の領有に由来するといわれ ており、この蘇原に在住この地域を治めました。                
 後に大和朝廷の財務を握り、帰化人氏族を統治し(境内に阿弥陀堂)ま た今の西側駐車場に根本寺が有ったように、進んで仏教を取り入れるなど、当時の進 歩的派の代表であり、大化改新後右大臣となり大化五(六四九)年没。 墳墓(当神社西に蘇原宮代町二丁目)の丘にあり宮塚と呼ばれています。     
 山田寺大寺院跡礎石郡(当神社南西に蘇原寺島町)現在の山田寺地内、白鳳時代 (大化五)年建立とあり、大和の山田寺に関係深いことから、石川麿公の菩提寺とし て石川麿公の子興志が建てたとされ、その艮に飛鳥田神を鎮守として祀ったとされて います。
なお、近くに(清住町)式内社飛鳥田神社(正三位下飛鳥田大神)があり、蘇我氏と の深い関係が伺えます。

岐阜県各務原市蘇原古市場町5-1 阜嵐健

御井神社[ミヰ]
御井神社[みい]「御井神 配 津嶋神、保食神」

 参拝のしおり
御井神社の神様は万物の生育に欠かせない水を司ります水神、水霊であり、神社の古 殿地は今も、おいしい水が湧き出ています。
井戸の神様としても名高く、各務原市はここに水源地を求めて上水道を敷き、市の供 給水量の八十パ−セントも戴いております又境川の上流で、濃尾平野の流域の農耕生 活の潤いとなり雨乞い、山神事や酒占神事で近郷近在にもよくしられています。
太古の昔この地は栄えて、三井山中腹には立派な御社殿もありました又戦国時代土岐 弥一郎はこの山頂に築城し、本社を里宮の現在地へと遷りました。
いま城跡に昔を偲び、御井神社境内古墳と称されて磐座(いわくら)の祭祀遺跡もあ り、文化財指定出土品も多く保存されています。
山頂奥宮からは濃尾平野を一望に望められ、麓には御井池があり御井大神の別宮、御 井池龍神の社も建立して、一帯を御井池公園と称し市民の憩いに親しまれております。
龍神の霊験は、あらてかで遠く尾張、名古屋方面からも参拝に来られます

岐阜県各務原市稲羽三井町5丁目8 阜嵐健


賀茂郡[カモ]:9座 並小

縣主神社[アカタヌシ]
縣主神社摂社縣主神社[あがたぬし]「彦坐王」飛騨川、木曽川、津保川に沿って開けた平地の中心に鎮座、古代東山道がこの地より木曽川を渡り、また飛騨路もここを通ったと推定される。大和朝廷の直轄地であり、統轄した鴨県主が祖神を祀ったものである。岐阜県美濃加茂市太田町字宮ノ内1155 阜嵐健

坂祝神社[サカハフリ]
坂祝神社[さかほぎ]「正勝大山祇大神」岐阜県加茂郡坂祝町酒倉字加茂山1507-2 阜嵐健

大山神社[オホヤマ]
大山神社[おおやま]「大山祇神」岐阜県加茂郡富加町大山218 阜嵐健

太部神社[タヘ]
太部神社[たべ]「國常立命、高皇産靈神、神皇産靈神」岐阜県加茂郡川辺町比久見1032 阜嵐健
太部古天神社[たべこてん]「古天神、菅原道眞、天照大御神」
由緒掲示
美濃国加茂郡川邊村字天神ニ鎮座マシマス古天神ノ儀、延喜式神名記ニ美濃国加茂郡 太部神社トアルハ即チ此ノ神社ナリト里老ノ口碑ニ申シ傳ヘ候。境内ニ井戸アリ之ヲ 太部井ト申シ、氏神ノ東北ノ字ヲ多保太ト称ヘ、左右ノ字ヲ天神西、天神東ト申シ、 西北ノ字ヲ太北ト言ヒ、南ノ字ヲ太久古ト呼ヒ、神社境内ノ四方ノ字ハ何レモ天神ヲ 形トリタル字ニ候。往古ハ太部神社トモ太部古天神トモ申伝ヘ菅原道真公ヲ合祀シ、 川邊、石神、鹿塩、栃井4ケ村ノ産神トシテ川邊ノ総社ト申シ候。慶長ノ頃、大島茂 兵衛尉光政公ノ崇敬特ニ篤ク総社五社ノ舞堂ノ碑建立モアリ慶長十四年酉年ニ至リ一 門ノ武運ユウ久、郷土庶士福祉ヲ祈願シ玉ヒシニ神徳顕著ナリト語リ傳フ。其後、今 ヨリ二百余年前ニ至リ鹿塩、石神二ケ村ノ氏子相離レ、現今ニテハ中川辺、西栃井両 区ノ産神ニシテ依然往古ノ古例ヲ存シ、祭典ノ際ニハ石神区ヨリハ今尚、山車引縄ヲ 持チ出シ居候。

岐阜県加茂郡川辺町中川辺字天神1番地の1 阜嵐健

阿夫志奈神社[アフシナ] 阿夫志奈神社[あぶしな]「伊邪那岐大神、伊邪那美大神、素盞嗚尊」嵯峨天皇御宇弘仁九年創建。岐阜県加茂郡川辺町上川辺字森元1190-1 阜嵐健

神田神社[カムタ]
神田神社[かんだ]「伊邪那岐命、伊邪那美命、大國主命、少彦名命、速玉男命」
由緒掲示
当社は元正天皇養老2年の勧請と言い伝う。延喜式神名帳に賀茂郡神田神社、美濃国 神名帳に賀茂従五位下神田明神、又三代実録に貞観6年8月15日美濃国神田従五位 上とあるは当神社なりと。然るに、承平年間以後の変乱相続き数百年の間に頽廃して 神社も朽失せんとするに至り、嘉慶2年12月源忠広が再興修復し堂宇皆浮居氏風に 擬し神号も白山妙大権現と称せり。明治元年神仏の混淆が禁止されて往古に復して式 内神田神社と称し、同年11月苗木藩より神祇官に上申す。同3年9月苗木県知事遠 山友録ほか随員の参拝あり、以後同庁より祭祀料として毎年米7斗を永世寄進され、 知・参事の参拝するを例とす。明治4年苗木県第5区の郷社と定めらる。翌5年苗木 県を廃し岐阜県に合併と共に永世寄進は廃絶せられ岐阜県第138区の郷社と定めら る。更に、同6年第16区2小区郷社と定められると共に本殿の改築竣功をみて同年 5月11日遷座祭を行ひ村内の小社5社を合祀せり。明治40年3月27日岐阜県告 示第80号を以て神饌幣帛料を供進する事を得べき神社に指定せらる。

岐阜県加茂郡東白川村神土604 阜嵐健


佐久太神社[サクタ]
佐久太神社[さくた]「保食神」岐阜県加茂郡富加町字北洞870 阜嵐健

多爲神社[タヰ]
多爲神社[たい]「大須禰比賣命」岐阜県関市西田原字北平井1615 阜嵐健

中山神社[ナカヤマ]
中山神社「金山彦命」岐阜県美濃加茂市下米田町信友697 阜嵐健


惠奈郡[ヱナ]:3座 並小

坂本神社[サカモト]
八幡神社「品陀別命、帶中日子命」岐阜県中津川市千旦林字鍛冶平642 阜嵐健
諏訪神社「建御名方神 配 譽田別尊、速玉男命」岐阜県中津川市茄子川字津戸井1792-1 阜嵐健

中川神社[ナカハ]
中川神社「菊理媛命、伊邪册命、木花咲耶媛命」岐阜県中津川市北野町816-1 阜嵐健

惠奈神社[ヱナ]
恵那神社[えな]「伊弉諾命、伊弉册命」

参拝のしおり
神代の昔、天照大神御隆誕ありし時、血洗地にて産穢を洗い胞衣を恵奈嶽に納む胞山 の名の起こりし故なり。日本書記に日本武尊御東征の帰途、恵那の大神を拝せられし事あり。
延喜式神明帳  恵奈郡三座の内  恵奈神社
美濃国神明帳 従五位上 恵奈明神  従五位上 加上明神
中世までは神主・社僧・別当もあり恵那大権現・七所権現、又単に権現様と親しまれ 、今にその名残を留む。
明治四年までは恵那郡の総鎮守・総氏神として崇敬されて来たが、明治六年郷社に大 正十四年県社に列し、終戦後、宗教法人金弊社恵那神社として、神社本庁の包括する 所となる。

岐阜県中津川市中津川字正ヶ根3786-1 阜嵐健


H24.1.27

延喜式神名帳目次


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