関蝉丸神社
滋賀県大津市逢坂1丁目15-5 下社 上社

下社の鳥居


交通案内
JR大津駅 国道161号線を南へ JR線を越すとすぐ下社 京阪線の向こうに鳥居


祭神
下社 豊玉姫命、道反大神、合祀 蝉丸
上社 猿田彦命 合祀 蝉丸

 摂社 笹大神宮社「天照太神」、稲荷神社「倉稻魂命」、貴船神社「不詳」、天満宮社「菅原道眞」、関清水神社「不詳」

下社社殿


由緒

 式外社。境内の「謡曲蝉丸と関蝉丸神社」の説明板から。
 幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。此の世で前世の罪業の償いをする事が未来への扶けになるとあきらめた宮も孤独の身の上を琵琶で慰めていた。
 一方延喜帝第三皇女逆髪の宮も、前世の業因強く、遠くの果まで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。美しい琵琶の音に引かれて偶然にも弟の宮の蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆きあい、姉宮は心を残しながら別れて行く、という今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。
 蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。
       謡曲史跡保存会


 社伝によれば、弘仁十三年(822)に小野岑守が逢坂山の坂の守護神として猿田彦命・豊玉姫命を逢坂山の山上(上社)と麓(下社)に祀ったのに始まるとされる。貞観十七年(876)に従五位下を授かった近江国「坂神」に相当する国史見在社と見られている。平安時代中期の琵琶法師・歌人である蝉丸が逢坂山に住み、その没後上社と下社に祀られるようになった。天禄二年(971)には綸旨を下賜され、以後歌舞音曲の神として信仰されるようになった。

 蝉丸は百人一首に
 これやこの ゆくもかえるも 別れとは 知るも知らぬも 逢坂の関
 が残っている。

 射日神話の玉が当社に祀られたとの話がある。よほど著名な神社であったと言える。

下社本殿

 文徳天皇 天安元年(857) 逢阪の関を開設、鎮護神として坂神を関明神と称す。
 圓融天皇 天禄二年(971) 当社を音曲芸道祖神とし、明治維新まで免許状を下付。
 朱雀天皇 天慶六年(943)蝉丸霊を二所に合祈、関大明神蝉丸宮と称す。
 正徳三年(1713)二品覚尊親王奉幣御参拝
 享保十七年(1732)実相院宮義周親王奉幣御参拝
 等々

上社の応急鳥居

 上社の本殿は覆殿の中に置かれている。

上社の社殿


お姿
 下社上社ともに東向きに鎮座している。上を本宮としているようだ。共に手入れは行き届き、境内には木々が多く、古社の趣を伝えている。
 畿内の北境の要地で疫神祭・道饗祭が行われていた。また鎮座している山は手向の山と呼ばれていた。


 
万葉集 夏四月(うつき)、大伴坂上郎女が賀茂の神社(かみのやしろ)を拝(をろが)み奉る時、相坂山を超え、近江の海を望見(みさ)けて、晩頭(ゆふへ)に還り来たるときよめる歌一首
 1017 木綿畳(ゆふたたみ)手向(たむけ)の山を今日越えていづれの野辺に廬りせむ吾等(あれ)

 3240 大王の 命畏み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木積む 泉の川の 速き瀬に 棹さし渡り
 ちはやぶる 宇治の渡の 滾(たぎ)つ瀬を 見つつ渡りて 近江道の 逢坂山に 手向して
 吾(あ)が越え行けば 楽浪(ささなみ)の 志賀の唐崎 幸(さき)くあらば またかへり見む
 道の隈(くま) 八十隈(やそくま)ごとに 嘆きつつ 吾(あ)が過ぎ行けば いや遠に
 里離(さか)り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ 剣大刀 鞘ゆ抜き出て 伊香山(いかこやま)
 いかが吾(あ)がせむ 行方知らずて
反し歌
 3241 天地を嘆き乞ひ祈(の)み幸くあらばまた反り見む志賀の唐崎

上社の本殿

お祭り
  5月 24日  御例祭

『平成祭礼データ』
由緒


 当神社ハ嵯峨天皇御宇弘仁十三年三月近江守小野朝臣岑守逢坂山ノ山上山下ノ二所ニ分祀シテ坂神ト稱奉ル是レ当社御鎮座ノ起源ナリ
以上

日本にあった射日神話


 垂仁天皇の(第一一代)のとき、九つの日輪が出たことがあった。そこで天文博士を召して占わせてみると、北のはずれのものは本物の日輪だが、南に並んでいる日輪はカラスが化けたものである。このカラスは地上から八町(872m)上にある。射手に勅して射させるか、さもないと天下の物の怪となるだろうと奏上した。。これが日本における梯子のはじめである。
 時は垂仁帝一八年二月一〇日の辰刻(午前8時)であった。天皇もこれを御覧になるために、武蔵国に行幸した。こうして八人の射手が思い思いに神を念じて矢を放つと、八筋の矢は八つの太陽に当って、筑紫の日向国宮崎郡に落ちた。
 それからひゅうがとは日に向うと書くのである。その後、天皇は難波の都にお帰りになったが、ほどなくして八つの日輪が献上された。長さ一丈五尺(4.5m)のカラスで尾幅は一丈六尺(4.8m)嘴は三尺八寸(1.14m)あった。そのカラスの首を切らせてみると、二寸(6cm)四方の玉が一つずつ入っており、その中にはどれも一寸六分(4.8cm)の釈迦像が一体入っていた。そこで八つの玉を一つは尾張国熱田の社に、一つは伊勢の外宮に、一つは紀伊国日前宮に、一つは信濃国諏訪社に、一つは豊前国宇佐八幡宮に、一つは逢坂関明神に、一つは摂津国住吉社に、一つは帝の御宝蔵に収められた。例の射手たちは坂東八力国を賜り、天文博士にも若干の所領が与えられたという。
 正徳五年(1715)『広益俗説弁』肥後の学者 幡竜子
 

参考 『日本の神々』、『平成祭礼データ』

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