攝津國:七十五座
大廿六座(並月次新甞。就中十五座預相甞祭。)小四十九座(並官幣)



住吉郡東生郡西成郡嶋上郡嶋下郡豊嶋郡河邊郡武庫郡莵原郡八部郡有馬郡能勢郡


住吉郡[スミヨシ]:廿二座 大十座 小十二座

住吉坐神社四座[スミヨシノ](並名神大。月次相甞新甞。) 
住吉大社[すみよしたいしゃ]「底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命」祭神の[筒男]については諸説紛々である。
海路を主宰する神とする説。
津を司る長神として津之男神とする説
帆はしたを立てる底部の柱の穴を筒穴と呼ぶ。底に安置する船霊と筒との関係から筒男神とする。
対馬の豆酘[つつ]の地を本拠とした安曇系海人の[つつ]の男の意とする説。
金星を[ゆうづつ]とする事からの星の神とする説。この場合住吉三神をオリオン座の三つ星に当てる。
大阪府大阪市住吉区住吉2丁目9-89 住吉大社公式 玄松子の記憶

住吉大社
由緒書
底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神を総称して住吉大神と申上げ、伊弉諾尊があは ぎはらに祓除せられたとき、海の中より生れた神樣です。
神功皇后は、新羅御出兵に当って、住吉大神の御加護を得ておおいに国威を輝かせら れ、御凱旋の後、大神の御神託によって此の地に御鎮祭になりました。神功皇后摂政 十一年辛卯年のことで、今から約一千七百八十年前のことでありました。皇后の御孫 、仁徳天皇が浪速に遷都せられて墨江の津を開港せられ、後に大阪、堺の発展をもた らしましたのは、実に此の時に起因しております。
後、皇后をも併せ御祀り申上げ、住吉四社大明神と崇められ、延喜の制では名神大社 に列せられ、摂津国一の宮として聞え高く、昭和二十一年まで官幣大社でありまして 、全国二千余に及ぶ住吉神社の総本宮です。
住吉大神は、禊祓の御神格をもって御出現になりましたので、禊祓の神であり、住吉 祭は「おはらい」と呼ばれる程、神道で最も重要な「祓」のことを司る神です。また 、住吉大神は、「吾が和魂をば宜しく大津の渟中倉の長峽に居さしむべし、便ち因り て往来ふ船を看護せむ」と神功皇后に御告げになった由が『日本書紀』住吉大社神代 記に見え、海上安全の守護神であり、奈良時代、遣唐使の派遣には、必ず朝廷より奉 幣があり、その海上無事を祈りました。そのほか歌神として、古来歌道の上達を志す 人が当社に参篭献詠し、あるいは現実に姿を現される現人神としての信仰もあり、産 業発展・文化・貿易の祖神と仰がれ住吉大神の広大な御神徳はあまねく世に知られて います。
住吉大社の夏祭り(住吉祭)は、ただ単に「おはらい」とも呼ばれ、国中の大祓を行 うお祭りです。七月三十一日、御例祭に続き、午後一時より夏越大祓神事(大阪府指 定無形文化財)が行われ、翌八月一日には堺宿院の頓宮に渡御があり、荒和大祓が行 われております。そのほか、踏歌神事(一月四日)、白馬神事(一月七日)、御結鎮 神事(一月十三日)、松苗神事(四月三日)、卯之葉神事(五月上卯日)、御田植神 事(六月十四日・重要無形民俗文化財)、宝之市神事(十月十七日)等の神事があり ます。
住吉大社の祭祀は、一千七百年来連綿と続いていますが、中でも伊勢の神宮と同じく 、二十年に一度の式年造替遷宮の制が、はやくも奈良時代より確実に実施せられてい ました。近世以降よりは、破損に従って修理する例となりましたが、遷宮の根本の制 は今日にひきつがれ、去る平成三年十一月には、御鎮座一千七百八十年に当たり、第 四十八回式年遷宮が執り行われました。
当社に対する御崇敬は頗る厚く、天武天皇の御奉幣をはじめ、御歴代天皇、皇族の行 幸、御神宝の御奉納などあいつぎ、特に後村上天皇は、戦乱の世の前後九年間、当社 に行在所をおかれました。また明治天皇は明治元年及び十年の両度御親拝され、昭和 天皇も大正六年に御参拝になり、昭和四十五年には昭和天皇、皇后両陛下御揃いで御 親拝されました。
初詣の参拝者は三が日で三百万人に及び、一年を通じても家内安全・商売繁昌・初宮 詣・七五三詣・交通安全・厄除など諸願成就の人が絶えません。
御社殿は、第一本宮より第三本宮まで縦に、第四本宮は第三本宮の横に並ぶという他 に例を見ぬ縦ならびの配置で、各本宮とも御本殿は、「住吉造」と称せられる神社建 築史上最古の特殊の様式で、いずれも国宝に指定されています。「住吉造」というの は、丹塗・桧皮葺・直線型妻入式で切妻の力強い直線をなした御屋根に置千木と五本 の四角堅魚木を備え、周囲に回廊なく、板玉垣をめぐらし、さらにその外に荒忌垣が あり、正面で「住吉鳥居」と称せられる特有の四角鳥居に接続しています。

摂末社

大海神社
山幸海幸の神話で有名な海神の豊玉彦、豊玉姫を祀り、本社に次いで御神格の高い社 です。御本殿は本社と同じ形式の「住吉造」で、重要文化財に指定され、社前の「玉 の井」は海神より授かった潮満珠を沈めたと伝えられています。

船玉神社
天鳥船命・猿田彦命を祀ります。天鳥船命は天上との交通、すなわち大空の船の守護 神であり、猿田彦命は天孫降臨の際先導を果たされた神様で、船の御霊であると同時 に航空の安全を守る神として全国唯一の信仰をうけています。

若宮八幡宮
神功皇后の御子応神天皇すなわち八幡様をお祀りし、湯立神事は有名です。

志賀神社
大海神社境内にあり、伊弉諾尊の禊祓の時、住吉三柱大神と共に生れ出で給うた底津 少童命・中津少童命・表津少童命をお祀りしております。

侍者社
神功皇后の命をうけて住吉大社最初の神主津守氏の祖田裳見宿祢、市姫を祀り、縁結 の神として良縁を祈願し、おもと絵馬を奉納する参拝者が多い。

楠・社
第一本宮の裏にある樹齢約千年の楠を御神木として、お稲荷様[宇迦魂命]を祀り、 商売繁昌に格別の御神徳あり、俗に“初辰さん”と称えられて毎月初の辰の日には多 数の参詣者で賑わい、特に四十八回の月詣りは有名です。

種貸社
苗見社とも称し、五穀の種が授かる信仰がもととなって、商売の資本を得たり、種貸 人形を受けると子宝を授かる信仰があります。

大歳神社
大歳神を祀り、収穫の神であるところから集金、商売繁昌、家内安全、願望成就の御 神徳があり、毎月初の辰日に祈願する人々で賑わいます。

浅沢神社
市杵島姫神を祀り、福の神、婦人の作法、芸事の守護神として崇敬されています。昔 は浅沢小野の「かきつばた」として世に知られた名所でした。

市戎大国社
事代主神・大国主神を祀り、商売繁昌の守護神で、市の守り神とされています。一月 十日の市戎大国祭[えべっさん]は、賑々しいお祭が行なわれます。

名所旧跡

五所御前
第一本宮と摂社若宮八幡宮との間にあり、杉樹が石の玉垣の内に立っています。昔神 功皇后が当社を御鎮祭のため社地をお定めになる時、この杉の木に鷺が三羽来て止ま りましたので、ここが大神の御思召のところとしてここに祀られたと伝え、「高天原 」とも呼ばれています。

石舞台
日本三大舞台の一つで、舞樂を奏するところです。南門・東と西の樂所と共に慶長年 間豊臣秀頼が奉納され、重要文化財に指定されています。

反橋
住吉の象徴として名高く太鼓橋とも呼ばれています。長さ二十米、幅五.五米、高さ 三.六米、現在の石の橋脚は、慶長年間、淀君が奉納したものが伝えられています。 池の畔に川端康成「反橋」の文学碑が建っています。

誕生石
薩摩藩主島津氏の祖島津忠久誕生の処と伝えられ、島津家代々の信仰が厚く、丹後局 の伝説よりしてここに安産を祈るものが絶えません。

石灯篭
境内の石灯篭はすべて六百余基に達し、その形も頗る壮大なもの、優雅なものなど多 く、頼山陽、池大雅、貫名海屋、篠崎小竹、五井蘭州、羽倉可亭など名家による題字 を刻んだものもあり、近世の住吉信仰を窺えます。

住吉御文庫
第一本宮の北に建つ二階建・土蔵造の御文庫で、享保八年(一七二三)に三都[大阪 ・京都・江戸]の書林が奉納、大阪最古の図書館として有名です。

高倉
第一本宮裏の森の中にある二棟の板校倉造で、井楼造ともいわれています。御神宝を 納める庫にて、室町時代の建物と伝えられています。



大依羅神社四座[オホヨサミ](並名神大。月次相甞新甞。) 
大依羅神社[おおよさみ]「建豊波豆羅和気王、住吉三神、大己貴命、月讀命、垂仁天皇、五十猛命」大阪府大阪市住吉区庭井2丁目18-16

草津大歳神社[クサツオホトシ](鍬靫)
草津大歳神社跡「草津大歳大神」大阪市住吉区苅田6丁目10
大依羅神社に合祀「草津大歳大神」大阪府大阪市住吉区庭井2丁目18-16
住吉大社境外摂社の大歳神社「大歳神」大阪府大阪市住吉区墨江西1丁目 玄松子の記憶

中臣須牟地神社[ナカトムスムチ](大。月次新甞。)
中臣須牟地神社[なかとみすむち]「中臣須牟地神 配 神須牟地神、須牟地曾禰神、住吉大神」大阪府大阪市東住吉区住道矢田2-9-20

中臣須牟地神社
平安時代に定まりました延喜式と申す規則によりますと、当社は勅使のおまいりなさ っておられました大社であることが明らかであります。これは戦前の官幣大社と同格 でありまして、当代一流のお宮でございます。もちろんこの規則のきまるずっと前か ら堂々たる大社であったはずでございます。南北朝時代から室町時代にわたる長い間 の戦乱によって、しだいに当社の御由緒は忘れられてしまったようです。当社は、中 臣(ナカトミ)氏の祖先であり神武天皇にお仕え申された天種子命(アメのタネコの ミコト)をはじめ、その御一族や御子孫のかたがたが、二千数百年以上もの昔から在 住せられた誠に由緒ある地の神社でございます。大化改新には、この中臣氏から藤原 鎌足公があらわれて大きな手柄をお建てになりました。また御子不比等(フヒト)公 をはじめ御子孫の中には、奈良から京都へとつねに天皇さまのおそばにお仕えして、 歴史上重要な役目をはたされたかたがたが多いのであります。藤原不比等公は勅命を お受け担って、大昔から中臣氏の根拠地であった当地に、御先祖をあわせまつられた のでございます[社記]。もちろん中臣氏は、朝廷の祭祀をうけもつて来たのですか ら、ごく古い時代からここでお祭りをおこなうていたのは明らかであります。考古学 の研究によりますと、当地は、畿内での弥生式農耕文化の発祥地であり、弥生式文化 時代全体にわたる広大な住居地であります。ここに発達した農耕文化は、紀元前後に は畿内全体に広がり、三世紀ごろには日本全体に影響したといわれます。祟神天皇は ここにわが国最古の依網(ヨサミ)池を作られ、埀仁天皇は最大の狭山(サヤマ)池 をつくられて、年々豊作が続き、やがて朝廷のいきおいは朝鮮半島にまで及びました 。応仁天皇の御代に、大陸の人達が、本国の戦乱をさけて平和な我が国に新しい大陸 文化を伝えました。わが国内は、神をまつる固有の信仰で固く結ばれ幸せに暮らして いましたから、その人たちも当社の神酒を賜うて、神にかよう穢(ケガレ)を祓(ハ ラ)いました。[延喜式]忌部記文にも、「スムチ(当社)の神酒を賜うて穢を祓わ ない者は日本人ではない。」と申しております。



神須牟地神社[カムスムチ](鍬靫)
神須牟地神社[かみすむち]「神産靈大神、手力男命、天兒屋根命」大阪府大阪市住吉区長居西2-1-4

神須牟地神社
御由緒書
延喜式内の古社であって、三の宮と称され、遠く二千年前の御創建である。 御祭神は、主神(神産霊大神、手力雄命、天児屋根命)、相殿(天日鷲命、大己貴命 、宇賀魂命)、追祀(少名彦命、素盞嗚命、住吉大神)である。 本社は古来酒造の祖神として将又医薬の祖神として衆庶の信仰厚く、又文武両道の守 護神として御神徳顕著であった。
社領は住吉大社二万二千石の中の三百七十五石余りであったが、社領減地の節没収さ れたと記されている。
本社殿は慶長年間、兵火にかかったが豊臣の浪人であった多賀谷氏、秦氏、小山氏、 岡田氏等の協力のもと再建し、元和四年八月二十一日、遷座の式が挙げられ、この日 を祭典の日と定められている。
元文元年九月、徳川幕府は本社および多米神社の廃滅に瀕せしを憂い幕吏菅廣房に命 じ「神須牟地社」「多米社」と刻せる石碑二基を双方の地に建立せしめられ、今尚現 存している。境外末社多米神社は多米連の建てた神社と言われ、延喜式内の旧い社で 、別名を「苗見神社」とも「種貸神社」とも言われ、又「鎮座の社」「苗見の森」「 種貸の森」又はただ「明神さま」とも唱えられ浪速名所の一つに数えられていたので ある。多米神社の御祭神は宇賀魂命、神稚魂神、保食神とされている。境内末社農神 社は農耕の神として農民の尊敬厚く、今の長居墓地東北百米の三つの池の中央に土塀 をめぐらし一本の松の木の下に社があったのである。農神社の御祭神は大己貴命。

当神社御祭礼日
[夏大祭(七月二十一日)、秋例祭(十月二十一日)、朔日祭(毎月一日)、月次祭 (毎月十五日)、月例祭(毎月二十一日)、元旦祭(一月一日)、節分祭・厄除神事 (二月節分の日)、七五三神詣(十一月十五日)、新嘗祭・勤労感謝祭(十一月二十 三日)、大祓式(六月三十日・十二月三十一日)、その他祝祭日]



楯原神社[タテハラ]
式内楯原神社「武甕槌大神、菅原道真、大国主大神、素盞嗚尊、十種神宝大神」崇神天皇御代。大阪府大阪市平野区喜連6丁目1-38

須牟地曾祢神社[スムチソネ]
金岡神社に合祀[かなおか]「住吉大神、素盞嗚命、大山命、巨勢金岡 配 伊邪那岐命、天兒屋根命 合 天照大神、保食神、廣國押武金日命、應神天皇、菅原道眞、勝手大神、武甕槌命、經津主命、事代主命」大阪府堺市金岡町2866
須牟地曾祢神社(勝手明神) 大阪府堺市蔵前町1608

止杼侶支比賣命神社[トヒロキヒメ]
止止呂支比賣命神社[ととろぎひめのみこと]「素盞嗚尊、稻田姫尊」大阪府大阪市住吉区沢之町1-10-4

止止呂支比売命神社
略記
御祭神[素盞嗚尊・稻田姫尊]
御神徳[素盞嗚尊ハ天照大神ノ御弟神ニシテ海原ヲ始メ給ヒ、高天原ヲ降リ給ヒテ後 、出雲ノ簸ノ河ノ川上ニ八岐大蛇ヲ平ゲ稲田姫ノ危難ヲ救ヒ、姫ヲ妃トシ、出雲ノ国 須賀ノ地ニ宮ヲ御造営、専ラ国土経営ニ尽サレ、貿易ヲ奨メ、遠ク朝鮮ヲモ御支配シ 給フ。
「やくも起つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくる其の八重垣を」
右ノ歌ハ、我国短歌ノ濫觸ニシテ世人尊ヲ文武、航海、政治、厄除ノ神ト崇メ、姫ノ 御高徳、御幸運ヲ慕ヒ、奇稲田姫ト称ヘ奉ル。]
由緒沿革[延喜式内ノ古社ニシテ仝神名帳ニハ止杼侶支比売命神社トアリ、古来真住 吉国ノ氏神トシテ、斎キ奉ル、御創立ノ年代詳ナラズ。
承久三年後鳥羽上皇若松御所ニ行幸セラレシニ因ミ当社ヲ若松神社又若松ノ宮ト称ス ル様ニナリタリ。
止杼侶支比売命神社今ノ若松ノ社是也若松ノ廻リニ堀アリテ、ソレニ架タル橋ヲ止杼 侶支ノ橋ト云フ、今俗ニ若松ノ宮ヲ牛頭天皇ト申ス(松葉記)
社地ニ轟池ト止杼侶支橋有云々(住吉神社社名記)中古住吉大社ノ摂社(奥ノ院)ト シテ奉斎セラレ、当時ハ神社耳ナラズ寺観モ交ハリ立ケルカ(松葉記)
印判(経国神主袖判)
今度若松殿御社大風ニ破損仕ル、旨先ツ末社引キ直シ本社ニ可被用候、重而可有沙汰 候、此ノ次手ニ本堂如法経堂ノ修理モ可被仰付候条大工以下用意尤之旨被仰出候恐々
謹言
安貞二年九月二日 正(正禰宜ノコト)
權禰宜下野前司殿
安貞二年ヨリ元禄十二年(松葉記ガ出来タ年)ニ至ル迄凡ソ四百七十年余今ヲ以テ考 ヘ視レバ止杼侶支橋渡スベキ堀モナク末社寺院ノ旧跡モナク唯本殿一社ヲ存シ拝殿一 宇ヲ造立スル耳(松葉記)明治五年村社ニ列セラル。
境内地(壱千弐百余坪)、本殿(住吉造)]
行幸[人皇八十二代後鳥羽上皇討幕ノ軍(承久三年五月討幕ノ院宣ヲ諸国ニ下シ給フ 世ニ承久ノ乱ト称ス)ヲ起シ給ハント御熊野詣ニ名ヲカリ給ヒ浪華住吉ノ豪族津守一 族ノ勢力並ニ大和河内ノ兵ヲオ集メニナラント墨江ノ里ニ行幸セラル時ニ承久三年二 月四日当時神主田裳見宿禰ノ裔孫四十六代正五位下摂津守津守経国、其ノ弟権神主従 五位下主殿頭樹新大夫国継相議リテ当社松林中ニ若松御所ヲ造営シ行宮トナシ渡御シ 奉ル、時ニ上皇国家安泰御武運ノ長久ヲ祈ラセ給フ。]
社領[住吉社領ノ内七畝五歩ヲ本社ノ御供田ナリシヲ明治四年上地トナリタリ。] 特殊神饌[甘酒二瓶、沓形餅一枚一合百三十枚、茄子二膳二種高盛備筥子足付、筥子 付足爲供物膳也(松葉記)]
祭日[春祭(鎮火祭)四月八日、夏祭七月十一日・十二日、例祭十月八日、冬祭(鎮 火祭)十二月八日]
氏地[墨江各町、安立各町、浜口各町、住之江、西住之江各町、遠里小野、沢之、殿 辻、千躰各町、高燈篭筋各町、御崎町、住吉川各町、清水丘各町、南住吉各町]



赤留比賣命神社[アカルヒメ]
杭全神社飛地の赤留比売命神社[あかるひめのみこと]「赤留比賣命」半島系の渡来族の出石人の太陽女神であると推理されている。 大阪府大阪市平野区平野東2-10

天水分豊浦命神社[ミコマリトヨウラノ]
天水分豊浦命神社の跡「天水分神」大阪府大阪市住之江区安立2丁目55

止止呂支比賣命神社摂社の天水分豊浦の命神社[あめのみくまりとようらのみこと]「天水分神、澳津彦神、澳津姫神」大阪府大阪市住吉区沢之町1-10-4

天水分豊浦命神社(境内社)
御祭神[天水分神・澳津彦神・澳津姫神・大国主命・事代主命(大国主命・事代主命 ハ元敷津神社御祭神)]
由緒沿革[延喜式内ノ古社ニシテ霰松原歩王社又ハ荒神宮ト云ヘリ。祭神天水分豊浦 命是神延喜式神名之分ニ有之神也左右ニ社祭神奥津彦神奥津姫神亦土ノ祖ノ神相殿ナ リト云フ、右ノ三座之祭神ヲ以テ竃神ト云フ。朝廷ニ於テモ大炊寮内膳司ナド皆祭之 俗ニ荒神ト云也。霰松原歩王神社ノ社地往古今ノ安立町三丁目ヨリ六丁目ニ至ル松原 ノ処開テ田地ト成ル故ニ右町並之東西字七本松ト申田畠有之土地旧跡之由申伝候事( 安政六年禾九月ノ旧書)。
荒神社安立町ノ地ニ在リ所祭二座大竃神(奥津彦神)竃殿(奥津姫神)ヲ勧請シテ相 殿ニ祭ル也(摂陽群談)。
延喜三年癸亥五月十九日授摂津国荒々神授従五位下(日本書紀)。又曰ク荒々公ノ祖 ヲ祀ル荒々公ハ任那国豊貴王ノ後也(摂津誌)。
元安立町五丁目ニ鎮座セシヲ明治四十年七月三十日境内社トシテ奉斎セラレ明治四十 二年九月十八日遠里小野町鎮座無格社農神社、住吉鎮座無格社敷津神社合祀ノ許可ヲ 受ケタルモ敷津神社耳合祀今日ニ至ル。

祭日[大祭、正月、五月、九月二十八日]



努能太比賣命神社[ヌノタヒメ]
努能太比賣命神社跡大依羅神社に合祀「奴能太比売大神」明治四十一年合併。大阪府大阪市住吉区庭井2丁目18-16

大海神社二座[オホワタツミ](元名津守氏人神。)
住吉大社摂社の大海神社[だいかい]「豐玉彦命、豐玉姫命」大阪府大阪市住吉区住吉2丁目9-89 玄松子の記憶

多米神社[タメ]
住吉大社摂社の種貸社[たねかし]「倉稻魂命」大阪府大阪市住吉区住吉2丁目9-89 玄松子の記憶
多米神社[ための]「天日鷲命」大阪府大阪市住吉区長居2丁目8

船玉神社[フナダマ]
住吉大社摂社の船玉神社[ふなたま]「天鳥船命、猿田彦神」大阪府大阪市住吉区住吉2丁目9-89 玄松子の記憶

生根神社[イクネ](大。月次新甞。)
生根神社[いくね]「少名彦命」住吉大社より古くから祀られていた。 大阪府大阪市住吉区住吉2-3-15 玄松子の記憶

生根神社
由緒書
御祭神 少彦名命
祭日 十月九日(例大祭) 七月十九日(夏渡御祭)
沿革 当社の御創立は不詳なるも、住吉大社が当地に御鎮座の以前より奉祀せられて 居り(日本書紀では一千九百年前)、延喜式の神明帳(約一千三百年前に制定)にお いても当時の式内官幣大社に列し年四度の官幣に預るとある。古来有名大社であった と文献にも多く残っている。
特に豊臣時代には淀君の崇敬社にて、片桐東市正勝元が奉行して現存の御本殿が寄進 されている(現大阪府重要文化財文、文部省重重要文化財申請中)。
徳川時代においても、徳川綱吉将軍が修理を命じ奉幣している。(住吉大社造営記) 古来住吉郷の郷社だったが、徳川時代に神宮寺と倶に住吉大社の管理下に入り、後明 治五年、元の如く(住吉郷現住吉区全体)の郷社に戻り、現在においては終戦後社格 を廃す(全国神社)こととなったが、昨今の夏祭は盛大であり近郷より十万人近い社 参がある。
更らに境内社天満宮は、室町後期の建造と推定され、御祭神菅公の木製御神像は、文 明十四年、天台法主融円律師作の在銘の国宝級の御神体を安置している。これらも近 国の指定となるは必至である。
又別名「奥の天神」は、住吉大社の奥の天満宮を称したとも云われ、一節には沖の天 津神(少彦名命)から出た名称(筧博士の説)とも云われている。
更らに古伝によれば少彦名命は造酒の祖神であるため、神功皇后も当社で酒を造り住 吉三神に献ぜられたとあり、「酒祝(さかほがい)の歌」というのが後世まで残って 居て当社では秋の大祭を甘酒祭りと称して郷土の人々が親しんで来ているのもその一 つの実証と思考される。もともと薬の祖神である関係上、古来住吉の淡島明神との別 名のもとに信仰者多く、現在においても旧暦三月三日に淡島祭を行っている。
建造物
御本殿 大阪府指定 重要文化財。完全なる桃山時代の建築様式を残し、切妻千鳥破 風木造檜皮葺極彩色の建造にて、慶長五〜七年頃淀君の指令により建設されたもので ある。
拝殿 総木曽檜材にて桃山時代の建築様式を取り入れ、工事も二ケ年に亘って行なわ れ、其の美術的な真価は後世迄も重要視されて行くものである。
天満宮 (境内社)前述由緒書に明記せる通り室町後期の建築様式である。
紅梅殿 元住吉大社神宮寺の回廊(慶長初年の建造物)の一部を、明治初年当社に移 し絵馬所となしたるも、昭和初期に集会所に改造す。
其他境内末社四社、及び氏子参集所、神庫、社務所等は何れも明治以降にて新築又は 氏地中より移転したものである。
主なる祭礼
例祭(十月八日・九日)、夏大祭(七月十八日・十九日[渡御式])、新年祭、紀元 祭、節分祭、淡島祭(新暦四月三日)、秋思祭(十月二十五日)、月並祭(毎月九日 )、七五三祈祷(十一月十三日・十四日・十五日)、除夜祭(十二月三十一日br>)
氏子区域
住吉小学校下、大領小学校下、東粉浜小学校下、西粉浜小学校下、北粉浜小学校下、 加賀屋小学校下、住吉川小学校下、墨江小学校下、以上約二万余戸。
境内旧跡
現拝殿東側にある礎石(二十三箇)は明治初年まで建立されていた、帆柱観音堂の跡 であって、この観音堂内の仏像は帆柱観音と称して神功皇后御乗船の帆柱を以つて刻 みしものと伝えられている(現在当社に無し)。又紅梅殿西側の石崖は土佐陣屋の石 崖の一部を当社に移せしものである。
「神明穴立石」御本殿東側に有り、少彦名命が海外に行かれし時の浜の石をここに運 び「何首烏」と刻し(薬草名)霊石とされし時代もあり、一夜のうちに和歌浦より住 吉浜に来たりし妙石なりとの伝説も今は古老の人のみが知る仮説である。
尚境内樹木、もち其他五百年以上(大阪市指定)数本あり。
玉出生根神社は明治始年に当社より御分神されたものである。




東生郡[ヒムカシナリ]:四座 大三座 小一座

難波坐生國咲國魂神社二座[イククニ・タマノ](並名神大。月次相甞新甞。)
生國魂神社「生嶋神、足嶋神」大阪府大阪市天王寺区生玉町13-9 玄松子の記憶

生國魂神社略誌
社伝によれば、第一代神武天皇が九州より難波津にお着きになった時、石山碕(現在 の大阪城付近)に生島・足島神を祀られたのが当神社御鎮祭のはじまりであります。
その後宮中にまつられ、歴代天皇ご即位の際に行われました八十島祭は、この両神を まつられたものです。平安時代の延長五年(九二七)に編纂されました『延喜式』と いう書物に、摂津国東生郡『難波坐生國咲國魂神社』二座とありますのが、すなわち 当社のことであります。



比賣許曾神社[ヒメコソ](名神大。月次相甞新甞。)
比売許曾神社[ひめこそ]「下照比賣命」この新羅の女神は西から筑前高祖神社、豊前香春神社、豊後の比売許曾神社、摂津の当社、同じく赤留比売神社と並び、近畿へ来た渡来人の移ってきた道筋であろうと推定されている。 大阪府大阪市東成区東小橋3丁目8-4

比賣許曾神社
由緒
当神社は人皇第十一代垂仁天皇の御代(今より約二千年前)、愛久目山(今の天王寺 区小橋町一帯の高台)に下照比賣命を祀って高津天神と呼ばれたのが起源であると伝 えられ、その後第二十三代顯宗天皇の御代、社殿の御造営あり、三年春正月十二日、 正遷宮に際して天皇の行幸があり宮原縣主が奉幣を承ったといわれ、又第三十三代推 古天皇十五年春正月十二日、正遷宮の際、聖徳太子供奉されて太子自ら神供を奉り難 波惣社古宇豆天神宮と称し楼門に額を下賜され、第四十代天武天皇白鳳六年春正月十 二日の正遷宮には、舎人親王御参りの上奉幣せられたと伝えられています。 第五十一代平城天皇大同元年には、摂津国封一戸を賜り、第五十六代清和天皇貞観元 年に、神階を従四位下に進められました。当社は延喜式内名神大社であり、月次、新 嘗、相嘗の御祭に奉幣がありました。元弘年中、兵火にかかり以後漸次衰頽しました が、第百四代後柏原天皇の御代、将軍足利義晴に命じ社殿を再建致しました。大永二 年三月、勅使中納言日野内光が参向し、将軍の代参には大町宗成がお参りしました。 是に於て社殿の造営が具備しましたが、天正年間、織田信長が石山本願寺を攻めた時 、またまた兵火にかかりました。この時東西両小橋村の宮座本座の人達が御神体を奉 護して摂社牛頭天王社即ち現今の社地に奉遷しました。

明治五年、村社に列し、同四十四年十一月、会計指定を受け大正四年四月、神饌幣帛 料供進の指定を受けました。その後昭和三年秋、御大典記念事業として同四年三月九 日、社殿社務所改築の許可を受け、同五年七月十三日、本殿遷座祭を挙行しました。 当神社は前記のごとく創建以来皇室の御尊崇武家の崇敬共に極めて厚く、源頼朝は挾 技荘の一部を寄進し、足利尊氏は瓊見嶋郷の一部、又足利義晴は新開荘の一部も寄進 せられた等の事実もあります。社地も第四十五代聖武天皇の御代には、八町四方と称 せられ中世に至って東西五町南北三町となり東小橋村大小橋命胞衣塚古跡の地四畝廿 三歩と共に除地でありましたが、天正以後になって神領悉く廃されて、慶長十二年十 月の検地に際して大部分が年貢地となり御旧地の実情も明らかでないようになり、又 社地も摂社牛頭天王社の境内地のみとなり御神体も同社の相殿に奉祀し後に御主神と なられました。



阿遲速雄神社[アチハヤヲ]
阿遅速雄神社[あじはやお]「味高彦根神 配 八劔大神」大阪府大阪市鶴見区放出東3丁目31-18

阿遅速雄神社
御祭神創祀の御由緒
阿遅鋤高日子根神は本地に降臨せられ給ひ土地を招き民に耕耘の業をさづけ恩沢をた れ給ひ、父神大国主命の神業を補翼し給ふ。郷民その御神徳を忍び摂津河内の国造神 として、御神恩をお慕ひ申上げ、神いませし此の地の守護神として斎ひまつると云ひ 伝へたるものにして・・・・・この宮を阿遅速雄神社と称す。古代は阿遅経宮又は浦 明神と称され、のち八劒大明神と尊称す。

天智天皇(三十八代)七年十一月、新羅の僧、道行尾張国熱田宮に鎮り座す御神劔、 天叢雲劔即ち草薙御劔を盗み出し、船にて本国へ帰途、難波の津で大嵐に遇ひ流し流 され、古代の大和川河口であった当地で嵐は更に激しく、これ御神罰なりと御神威に 恐れをなし、御劔を河中に放り出し逃げ去りたり(之が地名となり、放手 放出 今 「はなてん」と云ふ)後この地の里人、この御劔をお拾ひ申上げ、大国主命の御子  阿遅鋤高日子根神御鎮座の此の御社に合祀奉斎すること数ケ年後 草薙御神劔の御分 霊は永遠に当御社に留まり座し、奉斎す。御神劔は天武天皇(四十代)の皇居、飛鳥 の浄見原宮に御うつし申上げ更に朱鳥元年六月、皇居より尾州熱田の御社に奉還し給 ひ、永へに熱田神宮に鎮り座します。右御由緒あらたかな当御社に御鎮座の八劒大神 に、中御門天皇(百十四代)享保八年、御神階正一位を贈られ、八劒大明神と尊称す 。




西成郡[ニシナリ]:一座大

坐摩神社[ヰカスリ](大。月次相甞新甞。)
坐摩神社[いかすり]「生井神、福井神、綱長井神、阿須波神、波比祇神」大阪府大阪市中央区久太郎4丁目渡辺3 玄松子の記憶

坐摩神社
由緒書
生井神 福井神 綱長井神 波比岐神 阿須波神
以上五柱の御祭神を総称して、坐摩神と申します。此の坐摩神は昔から住居守護の神 、旅行安全の神、安産の神として一般から篤く信仰せられて居ります。住居守護とは 人の住居に不慮の危害を防ぎ、居住する人々の安全息災をお守りになるのであって、 此の意味で皇室に於かせられても、神武天皇以来今日に至る迄引続き皇居の守護神と して此の神様を篤くお祭になり、一般の人々も古くは皆其の家庭の守護神としてお祭 りしていました。
旅行安全とは、人々の足の踏み立てる所は何処でもお守りなりますので、外出中或は 特に遠くへの旅行などに思はぬ災難に遭わない様に守護せらるるのです。之に就いて は萬葉集に旅行中の安全を坐摩神に祈る防人の歌が載っています。
安産の神とは神功皇后が応神天皇をお生みになります時其の安産を当社にお祈りにな った故事により、安産の神として古くより知られています。近くは明治天皇がお生ま れになります時にも、皇室から特に御安産の御祈願があり丁度当社の秋祭の日に御安 産になったのであります。
当神社は豊臣秀吉時代迄は今の天満橋南詰辺に鎮座せられ、摂津国西成郡(今の大阪 城より西方一帯)の唯一の大社であり氏神でした。此の天満橋付近の地を渡辺と申し ていましたが、天正十一年、豊公の大阪城築城に祭し廓外なる現在の地に御遷座にな り、今ここの町名を渡辺町というのも元の地名を移したものであります。
以上の通り当社は大阪に於ける最も古い、由緒ある神社であり、昭和十一年に官幣中 社に昇格されたが、昭和二十二年、制令で社格は廃止されました。
しかし皇室の御安泰とともに氏子崇敬者の安全息災と隆昌発展を永久に守護せられて います。




嶋上郡[シマノカミ]:三座並小

阿久刀神社[アクト]
阿久刀神社[あくと]「久度神」今は、住吉大神としている。日神山[ひるがみやま]に鎮座、弥生土器や銅鐸が出土している。大阪府高槻市清福寺町23-2

野身神社[ノミ]
上宮天満宮境内の野身神社「野見宿彌」大阪府高槻市天神町1丁目15-5 リンク 公式 ようこそ 天神さんへ
野見神社「野見宿弥、素盞鳴命」大阪府高槻市野見町6-6

神服神社[カムハトリ]
神服神社[しんぷく]之速日命、麻羅宿彌、素盞嗚尊」機織、養蚕に関する説話が多い。北西800mの帯仕山の古墳群から紡錘車のどが出ている。大阪府高槻市服部2579


嶋下郡[シマノシモ]:十七座 大五座 小十二座

新屋坐天照御魂神社三座[ニヒヤノ](並名神大。月次新甞。就中天照御魂一座預相甞祭。)
新屋坐天照御魂神社[にいやにますあまてるみたま]「天照皇魂大神、天照国照天彦火明大神」大阪府茨木市福井2485
新屋坐天照御魂神社「天照皇御魂大御神、天照国照天彦火明大神、天津彦火瓊瓊杵大神」大阪府茨木市宿久庄477
新屋坐天照御魂神社「天照國照彦火明命、天兒屋根命、建御名方命」大阪府茨木市大字西河原3-1-2

新屋坐天照御魂神社
磯良神社由緒略記
通称(疣水神社)
磯良神社の本宮とも申すべき新屋坐天照御魂神社はその創祀の年代は詳らかではあり ませんが、延長五年(九二七)に成った「延喜式」に「新屋坐天照御魂神社 三座  並名神大。月次新嘗。就中天照御魂神一座預相嘗祭」とあり、延喜式内社のうち特に 霊験あらたかな神に与えられた名神の称を受ける旧三島郡唯一の大社であります。三 座のうち天照御魂神一座は朝廷より相嘗祭に幣帛を奉られる四十社七十一座に加えら れ、当時非常に格式高い神社であったことがうかがわれます。
なお、大同元年(八〇六)、神封一戸を寄せられ、貞観元年(八五九)、天照御魂神 に従四位下が授けられています。
天正(一五七三〜一五九二)以前は、神域も広大であって、近隣七か村の産土神とし て崇敬も篤く、神事も盛大に執り行われていましたが、天正以降社領を失い、神域も 縮小され、神事も振るわなくなったと伝えられます。寛文九年(一六六九)、旧社地 の西北隅に当たる現在の境内地に奉遷し、同十二年に社殿を造営して今日に至ってい ます。



天石門別神社[アマノイハトワケ]
茨木神社摂社の天石門別神社 [あめのいわとわけ]「天手力男命」大阪府茨木市元町4-3

須久久神社二座[スクク](鍬靫)
須久久神社[すくく]「素盞嗚命、稲田媛命」大阪府茨木市宿久庄1760
春日神社「天児屋根命」大阪府茨木市清水2-10-1 社会科

阿爲神社[アヰ](鍬靫)
阿爲神社「天児屋根命」安威周辺の将軍山古墳や海北塚[かいぼう]の石材は紀ノ川流域から運ばれている。大田連の居住地であり、渡来系で紀伊の大田からの移住者と推定される。 大阪府茨木市大字安威1783

井於神社[ヰノヘ](鍬靫)
井於神社[いお]「建速素盞嗚命、天兒屋根命、菅原道眞」大阪府茨木市大字蔵垣内3-5-15

井於神社由緒略記
創建年代は定かではないが、平安時代の初期(延長五年−西暦九二七年)に編纂され た延喜式神名帖に「ヰノヘノ神社」と記載されていることから、千年以上の昔に鎮座 されたものである。
当社は、もとは三宅村宇野辺に鎮座し、「井於連」が氏神として崇敬した井の神(即 ち、水の神・泉の神)で、三宅郷の田畠の潅漑用水を守らせ給う神として、篤い信仰 が捧げられていた。昔は、旱魃になると氏子の若衆が、藁で龍をつくりそれをかつい で村中を巡り、終わって池中に投じて雨乞をしたと伝えられる。宇野辺という地名は 、「イノヘ」の転訛したものと云われている。
当社が、現在の場所に遷座されたのは、享徳年中(一四五二年−一四五四年)のこと であり、その後、永正年中(一五〇四年−一五二〇年)に三宅城城主・三宅出羽守国 村公が、相殿に天児屋根命を勧請したと伝えられている。又、素盞嗚命を祀るように なったのは、織田信長の頃に兵火で焼かれるのを免れる為で、疫神牛頭天王社とすれ ば、牛頭天王を氏神とする信長は、これに手を出さないので祭神としたと伝えられて いる。
江戸時代には、主祭神・素盞嗚命、相殿・天児屋根命、菅原道真公の三社を合わせて 「三所明神」と称していた。明治五年に郷社に列し、同四十三年九月二十八日、宇野 辺の八幡神社(応神天皇)、鶴野の皇大神社(天照皇大神)、丑寅の皇大神社(天照 皇大神)を境内に合祀し、今日まで三宅郷の産土神として篤い信仰を集めている。



走落神社[ハシリオチ](鍬靫)
走落神社[はしりおち]「天照皇大神、建速素盞嗚尊、少彦名命、稻倉魂神、五十猛大神、水波能賣神、白山姫神、應神天皇、天武天皇、武内宿禰命」大阪府豊能郡東能勢村大字木代1556

走落神社の由緒
由緒
走落神社はもと小玉神社と称した。明治四十年、当時の東能勢村内にあった九社の神 社を小玉神社に合併して社名を走落神社としたのである。明治三十九年八月、勅令と して神社合併整理が行われた。伝承によると木代庄は平安時代末の康治二年(一一四 二年)六月二十日、貝川三位長乗が一族三十六人を率いて、都より来り開発の鍬を打 ち込んだのが始まりと伝えられている。そして木代、切畑、大円という三村を開発し た。この時の三ヶ荘の氏神として、木代庄大円村に延喜式内走落神社を創立したと伝 えられている。戦国時代、織田信長の兵火にかかるのを恐れてか、この頃、走落神社 の御祭神を分散して相殿としてお祀していた天照大神を木代村に移して「小玉宮」を 建立し、少名彦名命を切畑村に移して「走湯天王社」を建立し、元の走落神社は社名 を改めて、鎮座地の字名“藤の森”を取って「藤森神社」とし建速素盞嗚命をお祀り したという。そこで、明治の神社合併で村内十社の神社が合併されたが、その中で社 格の高く、もと御同殿にお祀り申し上げていた神様が再び、同殿、同床に鎮座された ことから社名を「走落神社」とした。「走落」の社名と走落神社周辺の地名等から走 落神社創生当時、その近辺に病気に効験のある冷泉か、温泉が湧出しており、湯治に 集まった人等の尊崇を集めた神社ではないかと思うのである。先ず「ハシル」は、万 葉集でも「岩走る垂水の」等、水の流れる形容に使われており、この様な事から「水 が流れ落ちている所にある神社」ということが考えられる。又、走落神社が三社に分 散した時の一社に「走湯天王社」があり、この社名は“湯が迸り出ていた”と解する ことが出来る。
現在の走落神社の御本殿は、藤森神社の御本殿を移したものであるが、三間社流造の 立派な建築である。


佐和良義神社[サワラギ]
佐和良義神社[さわらぎ]「加具土神」大阪府茨木市大字沢良宜西599(現 美沢町9-27)

式内 佐和良義神社
当社は延喜式神名帳に記載された式内社で沢良宜郷の通称「大宮さん」であります。 万博を機に阪急南茨木駅を開設ビル建築や小川改修が行われた昭和四十八年春から四 十九年秋にかけて、弥生時代の銅鐸鋳型を始め住居跡や土器土拡墓など多数発見され たところホヤホヤの新住居表示をそのままに東奈良遺跡と命名されたのです。
カグツチはカグの神、カグは銅の古語、サワラも銅器を指すので地名と神名が一致し (ギはムラ)この鋳造工房跡は約二千年前にこの地にあった「さわらぎ遺跡」と確認 され出土品はすぐ近くの文化財資料館に展示されています。
境内社の八幡宮は沢良宜城の鎮守社で六百年前、足利初期の城館。早く退転して農地 となり今は美沢高層住宅地となっています。
神は人の敬によって威を増し人は神のめぐみによって運を添う 昭和六十一年十月 責任総代高島好隆撰



幣久良神社[ミテクラ](鍬靫)
阿為神社に合祀 式内阿為神社に掲載済み、合祀神名未確認 大阪府茨木市大字安威1783

 志多良神は「しだ」(うらじろ)の神か 志賀剛氏  式内社のしおり
 志多羅神は三台の御輿に乗り、河辺郡(伊丹市)から豊島郡(池田市)、つづいて西国街道を島下郡(茨城市)へと民衆の群が膨れ上がりながら、進んで行ったのです。いつの間にか御輿は六台に増えていました。一台の御輿には自在天の掲額、もう一台には宇佐八幡大菩薩とありました。山崎の渡しから石清水八幡宮へと押しかけたのです。
 『梁塵秘抄口伝集』には、続いて志多羅神のことが書かれています。  長和元年(1012)に設楽神が自ら九州から上ってきて船岡山に到着、しかしそこには先に疫神がいたので、社殿は造らなかったが、とにかくお祀りしたとのこと。

牟禮神社[ムレ]
牟礼神社[むれ]「建速素盞嗚尊 配 天兒屋根命」大阪府茨木市中村町5-7

三嶋鴨神社[ミシマカモ]
三島鴨神社[みしまかも]「大山積神、事代主神」大阪府高槻市三島江2丁目7-37
鴨神社「事代主神」立地は河川を離れた内陸部にあり、[わたしの神]とする大山積神にはふさわしくない。大阪府高槻市赤大路町字鴨林43

伊射奈岐神社二座[イサナキ](並大。月次新甞。)
伊射奈岐神社[いざなぎ]「伊射奈美命」大阪府吹田市山田東2丁目3-1

伊射奈岐神社
いざなぎ神社の由緒
由緒
当社は延喜式内社で、延喜式神明帳に「摂津国島下郡、伊射奈岐神社二座云々」とあ り一座がこの神社であって、千里丘陵の中間で万国博会場になった地域に隣接する高 庭山に鎮座している。爾来、皇大神御霊と共に内裏に奉斎されていた豊受大御神の御 霊が崇神天皇の御宇、皇居を離れさせられ、後に丹波国与謝郡(現在福知山市)の比 治真名井に遷し奉られたが人皇二十二代雄略天皇即位二十二年、皇大神の御神誨によ り現在の伊勢市山田、高倉山麓の山田ケ原に遷座し奉られたとき、伊勢斎宮皇女倭姫 の御示教により、大佐々之命が、五柱の神を奉祀するべき霊地を諸国にもとめ、つい にこの山田の地に奉祀せられたと云う。又山田と云う地名がこの様な処から山田原と 称し、伊勢山田から名を移したのであると伝えられている。俗に姫神社とも称し、貞 観元年正月、従五位上を授けられ(三代実録、貞観元年正月の条に「二十七日甲申京 畿七道諸神進階及新叙惣二六七社云々、奉授摂津国従五位、伊射奈岐神従五位上」) 同十五年、社宮と改称されたと云う。延喜の制に小社に列し、明治六年、郷社、祈年 月次新嘗の案上に預った名祠である。俗に五社宮、姫宮とも称し山田町、千里丘、千 里ニュータウンを含む産土大神である。


伊射奈岐神社「伊射奈岐大神」大阪府吹田市佐井寺2丁目18-26

伊射奈岐神社
二十一代雄略天皇二十二年(四七八)九月、豊受大神(伊勢外宮)を丹波国与謝郡真 奈井の原より伊勢国渡会郡山田の原に御遷座の翌年(四七九)九月、天照大御神の御 神託を受けた伊勢斎宮皇女倭姫の御教により、この佐井が原に伊射奈岐、伊射奈美両 大神をお祭りしたのが、本神社の始まりとされている。
清和天皇貞観元年(八五九)正月二十七日、「伊射奈岐神従五位上を授かった」と日 本三代実録に記されている。
貞観から延喜年間に伊射奈美大神を東北の地(山田伊射奈岐神社)に御遷座、これを 姫宮と称し、本社を奥宮と称した。



溝咋神社[ミソクヒ](鍬靫)
溝咋神社[みぞくい]「姫蹈五十鈴媛命、溝咋玉櫛媛命 配 三島溝咋耳命、天日方奇日方命、素盞嗚尊、天児屋根命」祭神、その母、母神の父、祭神の兄と一族を祀る。境内に事代主神社がある。 大阪府茨木市五十鈴町9-21

太田神社[オホタ](鍬靫)
太田神社[おおた]「素盞嗚尊、天照皇大神、豐受皇大神」猿田彦大神や天児屋根命とする説がある。紀伊名草の太田、ここ摂津太田、播磨の太田と呉勝が半島から渡り来て移ったと播磨風土記に伝わる。大阪府茨木市大字太田964


豊嶋郡[テシマ]:五座 大二座 小三座

爲那都比古神社二座[ヰナツヒコ]
為那都比古神社[いなつひこ]「爲那都比古大神、爲那都比賣大神」大阪府箕面市白島字中の山830

式内社為那都比古神社略誌
由緒
当社は社号が表明しているように紀元前後多くの小国家があったとき、当地方にも「 為那国」があった。この為那国を統治したのが、為那都比古の一族であり、国の祭祀 に用いたのが如意谷銅鐸で、氏族の守護神として祀られたのが当社である。したがっ て当社があり、銅鐸が出土した千里川上流の鎮座地こそ、この為那国で最も重要な地 であった。その後地域は広まり、「日本書紀」仁徳天皇三十八年の条に猪名県が見え るように大化改新以前は、東は千里丘陵、西は猪名川流域におよぶ範囲で、現在の吹 田、豊中、池田、箕面、河西、伊丹、尼崎市域を一体化した一つの行政単位であり、 これを古くから支配していたのが、為那都比古の一族である。
吉備津彦、阿蘇津彦など、地名を負ったヒコというのは、原始的な姓であって三世紀 から五世紀にかけて、そのあたりの首長に与えられた一種の称号として用いられ、こ れを称した豪族たちは、のちに国造や県主などの長官の官職についたものも多かった 。猪名県が成立したとき、その首長である県主には為那都比古の後裔にあたるものが 任ぜられ、彼らは氏族の祖神として代々お祀りをしてきたのである。
往昔、当社は、この鎮座地に為那都比古大神、為那都比売大神の夫婦神二座が同殿に お祀りされていたが、寛平年間(八八九年〜八九八年)に別れて別殿になり、白島字 土居の地に為那都比売大神をお祀りして大宮神社と称した。しかし、この神社は明治 四十年(一九〇七年)に再び同殿となり合祀され現在にいたっている。延長五年(九 二七年)に左大臣藤原忠平らの編集による法制書「延喜式神名帳」にも当社の御名が みえる。
天正年間(一五七三年〜一五八二年)、織田信長は高山右近に命じ、摂津一円の神社 を破壊するにおよび織田信長の信仰厚い「牛頭天王」を祀っていると称し、その難を 免れたのである。このように、当社は、摂津の国を代表する古社で古くから縁結びの 神、土地守護の神として崇敬の念深く通称「菅野の大宮さん」と呼ばれている。



細川神社[ホソカハ]
細川神社[ほそかわ]「細川水大神、五十猛尊」大阪府池田市吉田町山林第一

垂水神社[タルミ](名神大。月次新甞。)
垂水神社「豐城入彦命」大阪府吹田市垂水町1丁目24-6

垂水神社由緒書
神崎川・淀川が古来難波と呼ばれていたこの地を西に流れて茅渟の海にそそぎこむ、 その北岸に鎮座する垂水神社は、七世紀のはじめの起源を今日に伝えている。 「新撰姓氏録」は、この地に勢力を持っていた阿利真公が大化の改新頃の旱魃のおり 、垂水基岡(千里山)から湧き出る水を、当時の難波長柄豊崎宮に送り、その功をた たえられ、垂水公の姓を賜るとともに、垂水神社を創祀したという。
 いははしる垂水の上のさわらびのもえいずる春になりにけるかも(万葉集・志貴皇 子)と、万葉集にも詠まれた神水が涸れることなく、今も一千数百年の時を越えて垂 水の滝として流れ続けている。
社伝によると、豊城入彦命は、崇神天皇の第一皇子でありながら、弟の垂仁天皇に皇 位を譲り東国開発の旅に出た。のちに四道将軍の一人に数えられる豊城入彦命が、第 一歩を記したのがこの垂水の地であり、子孫が神として祭り社を阿利真公とその末裔 に伝えたという。なお、境内には弥生時代の住居址が確認されており、水にたいする 信仰はかなり古くからあったものと思われる。その後は、祈雨の神として朝廷をはじ め広く信仰をあつめ、平城天皇の頃に封戸の寄進をうけて以来、平安時代には、勲八 等従五位下から従四位下まで、祈雨のたびに神階を進めた。延喜式(九〇七年)制に おいては、名神大の社に列せられている。また、大嘗祭にさきがけて行われたといわ れる八十嶋祭において、朝廷より奉幣と祭料布を下賜されたといい、これを証明する ように神崎川畔から古鏡が発見されている。また垂水の地には、最近まで律令制のな ごりを伝える条里の遺構も見受けられた。
やがて、古代から中世の荘園の時代には、当社を含む垂水荘は、豊かな農耕の地ゆえ に東寺や春日大社などの有力社寺の有力権争いの対象となっていた。 近世にあって は、社寺の衰えという時代の情勢を越えて、熱心な信者に支えられ、天和三年(一六 八三)に社殿を改築し、朝廷から十六弁の菊を神紋として使用することが認められて いる。
明治以後郷社となり、昭和四十九年(一九七四)、衰えることなき 氏子崇敬者の熱意で造営奉賛委員会が組織され、今日の本殿・幣殿・拝殿を完成奉仕 するに至った。



阿比太神社[アヒタ](大。月次新甞。) 
阿比太神社[あびた]「素盞嗚尊」大阪府箕面市桜ヶ丘1丁目8-1

阿比太神社
由緒
当神社は延長五年(西暦九二七年)に編纂された「延喜式」神名帳に名を載せる式内 社であり、御祭神に素盞嗚尊をお祀りしている。応神天皇二年の奉祀なりと伝えられ るが確かな文献は存在しない。しかし、「続日本後紀」の記載によれば「仁明天皇三 年正月従五位下を授かり給う」とあり、また「延喜式」神名帳には大、月次、新嘗の 祭に案上の官幣賜わった大社であることが記されている。古くは牧之荘の大宮と称し 、また仏教では素盞嗚尊を牛頭天皇(ごすてんのう)と同一であると説いたので神仏 習合の時代におこった牛頭天皇の呼称も当神社の社名として存していた。近世には豊 島郡内の大宮として上下の尊崇最も厚く、領主阿部摂津守は代官水原勘右衛門をして 幣帛を供進し、折々社参したことを載せる旧記が存する。元禄五年十月の吟味帳によ れば、「半町村、桜村、新稲村より火とぼし掃治人一年替りに勤め来り候」と記され ている。御神徳としては文学、武道の守護神、また悪疫、早魃に誠にもって霊験灼か な神として往時より尊崇厚き神社である。境内地は約二千五百坪、現在の御社殿は昭 和五十年十一月に竣工。三方に半町、桜、新稲の参道を有する。




河邊郡[カハノヘ]:七座並小

伊佐具神社[イサク](鍬靫)
伊佐具神社[いさぐ]「伊狹城入彦皇子」兵庫県尼崎市上坂部3-25-18

高賣布神社[タカヒメノ]
高売布神社[たかめふ]「下照比賣命 配 天稚比古命」兵庫県三田市酒井宮の脇50

高売布神社
御由緒
推古天皇の頃の創立と伝えられているが、明らかでない。しかし、古くから格式の高 い神社であったことは、摂津國延喜式内社の一つに数えあげられていたことで明らか である。のち多田源氏の祖満仲がこの地方に広大な荘園をもってからは、荘内鎮護の 神として崇敬をあつめた。近世に入っては麻田藩主青木氏代々の祈願所となった。明 治末に酒井・十倉・田中・川原・布木・末吉各村の神社を統合し、合祀した。



鴨神社[カモ]
鴨神社[かも]「別雷神」兵庫県川西市加茂1丁目4-2 古代であそぼ

鴨神社
御由緒
創立年代は不詳なれども延喜式内社として近郷まれに見る古社であり、明治六年八月 村社となり明治十四年三月郷社に昇格す。



伊居太神社[イコタ]
池田山古墳 既に消滅 兵庫県尼崎市塚口東、塚口西に池田と言う小字があった。
伊居太神社[いけだ](秦上社)「穴織神」中世に改名、式内社ではなかろう。
大阪府池田市綾羽2丁目4-5

伊居太神社[いこた]「武甕槌神」明治までは春日神社であり、その後改名されたと言う。兵庫県尼崎市下坂部4-13-26

多太神社[タダ]
多太神社[ただ]「日本武尊、大鷦鷯尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊」兵庫県川西市平野2-20-21

多太神社
御由緒
創立年代は明らかでないが、延喜式内社である。現在の建物は覆屋内にあり正面柱間 二、四メートルの社殿である。其の建築年代は内陣廚子内小箱の墨書により元禄六年 (一六九三年)の造営であることが確認される。租物や蟇股なども時代の特徴をよく 表している。ただし、背面の蟇股や脇障子の欄間などに桃山風が認められる。記録に よると天正六年(一五七八年)にも再建されたことがわかるので、これはその際の遺 材であろう。



小戸神社[ヲベ]
小戸神社[おおべ]「大山津見尊、素盞嗚命、天兒屋根命」兵庫県川西市小戸1丁目13-17

御由緒
創立年代は不詳なれども、当小戸神社は応神天皇の皇子大山守命の後である榛原公の 一族に因って始めて小戸神社を祭祀せしものか、古事記の応神天皇の段に曰く「即詔 別者大山守命爲山海之政大雀命執食国之政以白賜云々」とあれば、大山守命は諸国の 海人部、山守部の統領なればその子孫たる榛原公も山守部として当地に来てその職当 山守部なるが故に、大山津見神を奉齋したものであり、明治六年八月村社に列せられ 、昭和四十二年社殿改築し現在に至る。



賣布神社[ヒメフ]
賣布神社[めふ]「高比賣神 配 天稚彦神」 兵庫県宝塚市売布山手町1-1

御由緒
一、第六十六代醍醐天皇の延喜五年(約一〇五〇年前)制定の延喜式巻九神名帳上に 摂津国七十五座の一つに加えられ官幣社として、神祇官をして幣帛を供進されました 。
二、第五十五代文徳天皇が綸旨あれてからは代々の天皇が続けられ、右大将源頼朝が 命じてから庶民の信仰も多くなり、第九十一代後宇多天皇が参篭されました。
三、いづれの頃からか佛者に乱されて「貴船大明神」と誤り崇められていたのを、徳 川八代将軍吉宗が元文元年九月(約七四〇年前)に寺社奉行大岡越前守忠相に命じ大 阪の佛者並河五市郎が調査した結果、「賣布神社」が正しい名称であることが判明、 同年十二月「賣布社」の社号右を寄贈され、現在も拝殿前に存しています。
四、現在では、衣・食・財の守護神として特に繊維業界、食料業界、金融界の方々の 信仰が深く、またご夫婦の神をお祀りしているところから恋愛・結婚・就職の神さまとして崇敬されています。




武庫郡[ムコ]:四座 大二座 小二座

廣田神社[ヒロタ](名神大。月次相甞新甞。)
廣田神社[ひろた]「撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命 ほか八柱」甲山[かぶと]を神体山としていた。頂上から祭祀跡を物語る遺物がでている。兵庫県西宮市大社町7-7  玄松子の記憶

廣田神社
御由緒
当神社の御祭神は伊勢の神宮にまします天照皇大神の荒魂をお祀り申し上げて居りま す。
神功皇后三韓征討御凱旋の際御神誨により御心広田の地に国土の安泰外難の護りとし て御祀りせられたのであります。御鎮座以来壱千七百九拾余年の間、歴朝をはじめ公 家、武将、万民に至るまで崇敬の篤かったことが記されております。 往古より御脇殿には御主神に由縁深き住吉大神、八幡大神、諏訪大神、高皇産霊神を 祀り古くより広田五社と称せられて居ります。
醍醐天皇延喜の制明神大社に列し、白河天皇の永保元年二十二社制度に際しては、そ の一社にに加えられ、明治四年五月十四日官幣大社に列せられて居ります。社殿沿革 に高倉天皇治承元年神祇伯仲資王が社殿を修理し装束を奉って遷宮を行ったことが日 記に見えて居り慶長九年豊臣秀頼により大規模の改築が行なはれ、享保九年には徳川 吉宗によって現在の地に御鎮座せられたのであります。現在の本殿は伊勢神宮荒祭宮 旧社殿の譲與を受け、昭和三十一年竣工、昭和三十七年には拝殿、翼殿、翼廊等新築 、昭和三十八年には御脇殿の新築(いずれも神明造)を見るに至っています。天照坐 皇大御神は日の大神と申し上げ、玉殻の種を田畑に植え、養蚕、織物等国民生活に必 要な道をお開きになりました高貴の大神であります。又中世には和歌の神として顕は れて大阪の住吉社と共に有名であります。高倉天皇承安二年には広田歌合が行なはれ ています。



名次神社[ナツキ](鍬靫)
名次神社 兵庫県西宮市名次町5


廣田神社摂社名次神社[なつぎ]「水分大神」兵庫県西宮市大社町7-7 玄松子の記憶

伊和志豆神社[イワシツ](大。月次新甞。)
伊和志豆神社[いわしづ]「須佐之男命、迦具土神」兵庫県宝塚市孑志町1丁目4-3

伊和志津神社
御由緒
当社は、延喜の御代(約一〇六〇年前)式内の官幣大社として、近郷の尊崇をあつめ た古社。御祭神の須佐之男命(すさのおのみこと)は和歌の祖神、学問の守護神、縁 結びの神、開発の神。迦具土神(かぐつちのかみ)は火の守り神である愛宕(あたご )の神。又末社、宝塚水天宮は安産の神、水商売の神。
伊孑志、小林、蔵人、鹿塩四村を領家ノ荘(りょうげのしょう)と呼ばれ(摂津志) 当社の小字、良元ノ庄が旧良元村の発生地、古来宝塚の総鎮守であります。(本殿は 市指定の文化財・境内は市指定の保存樹林)


廣田神社摂社の伊和志豆神社「彦坐命」兵庫県西宮市大社町7-7 玄松子の記憶

岡太神社[ヲカタ]
廣田神社摂社の岡田神社「天御中主命」兵庫県西宮市岡田山4-1神戸女学院大学の構内
岡太神社「天御中主大神」兵庫県西宮市小松南町2丁目2-8



莵原郡[ムハラ]:三座並小

河内國魂神社[カフチクニタマ](鍬靫) 
河内国魂神社「大己貴命、少彦名命」五毛天神と言う。兵庫県神戸市灘区国玉通3丁目5-6 阜嵐健

河内国魂神社
御由緒
当河内国魂神社の創始は古来伊勢神宮開社の頃であると言伝えられていますが其の正 確な年号は詳ではありません。
然し旧摂津国莵原郡にあっては、西宮神社、保久良神社と当社の三社が、生田神社、 長田神社等と同様、延喜式神祇部に載っており、千数十年前既に由緒ある名社として 崇敬されていたことが想像出来ますが、その後の沿革は定かではありません。
御祭神は大己貴命、少彦名命、菅原道真公であって、大己貴命(大国主命)は少彦名 命と相協力して国土経営に当られ、その功特に著しく、又慈愛の心篤く、福徳円満、 縁結びの神として、尚酒造、医薬の祖神として七徳兼備と称えられ広く尊崇されてい ます。一説には摂津国造である九河内忌寸の祖、天御影命を祀っていたのであろうと 言われますが其の間の消息も永い年代を経た現在詳しくはわかりません。
降って延喜年間、菅原道真公が筑紫の太宰府へ謫遷の途次、御影の浜に船を留め、当 時此の地に閑居しておられた師父尊意僧正と当社頭に於いて餞別せられた時の応対が 極めて慇懃丁寧で、此の様をかいま見た村人達は其の徳を慕って菅公の歿後、其の霊 を勧請合祀して爾後俗に五毛天神と称し現在に至っています。此の菅公は勧学の神、 又文墨の神として広く神徳を讃えられていることは皆様ご存じの通りであります。
右の如く当社は元此の地方の大氏神として深く崇敬せられ、現在は五毛、畑原、上野 の三地区が氏子でありますが、昔は稗田、鍛治屋、山田、篠原も氏子となっていまし た。



大國主西神社[オホクニヌシノ](鍬靫)
西宮神社境内摂社の大国主西神社「大名持命、少彦名命」兵庫県西宮市社家町1-17 玄松子の記憶

保久良神社[ホクラ](鍬靫)
保久良神社[ほくら]「須佐之男命 配 大歳御祖命、大國主命、椎根津彦命」兵庫県神戸市東灘区本山北町6丁目2-28

保久良神社
御由緒
当社の境内外地は古代祭祀の遺蹟地と認められ環状石籬の内より発見せられつつある 石器類弥生式土器が多数に出土し、重美に認定されたる銅才も出ている。それらの何 れもが実用を離れ儀礼的用途をもつものと考証せられてあるを見れば祭祀の由来も極 めて古きものであると証明せられる。社名の起因も
1、椎根津彦命の子孫たる倉人水守等が祖先を祭祀し奉る
2、三韓役の戦利武器を収蔵するより
とも称さられる。尚祝部土器、ハリ製曲玉、又は鎌倉期の青銅製懸仏も発見せられて いる。住吉大社神社記には布久呂布山の名が見え延喜式には社格、社名を登載し、建 長二年重修の棟札を所持せる事が攝津志に記載せられている。保久良社又は天王宮と も称せられ中古本荘、近古本庄の庄の氏神にして社頭の灯明台の神火は灘の一つ火と して崇拝せられ、昔から航海者等の一針路となっている。これらの事は祖神(珍彦) の代表的事蹟である。海路嚮導の行為とを考へると、氏子人の御遺徳を追慕し奉り、 神火をかかげて一日も絶えず奏仕するなり、明治五年十一月二十五日莵原郡第六区の 郷社に取極められる。昭和十四年四月現在の建物が改築せられ境内地参道の整備が行 はれた。昭和三十一年九月二十五日境内外に繁茂する楊梅林は神戸市の名木に推奨さ れる。同四十二年四月一日兵庫県政施行百年を記念し兵庫県観光百選地に認定せられ た。
近年氏子地に移住せられる人々も多くなり毎日登山参拝せられラジオ体操に民謡踊り にそれぞれ思いにまかせ運動を楽しんで居られる。




八部郡[ヤタベ]:三座 大二座 小一座

生田神社[イクタ](名神大。月次相甞新甞。)
生田神社[いくた]「稚日女尊」最初の祭神は海との関わりで神話上ではあるが五十狭茅神とされている。兵庫県神戸市中央区下山手通1丁目2-1 玄松子の記憶

生田神社
御由緒
御祭神・稚日女尊は、稚く瑞々しい日の女神と云う御神名である。伊勢神宮の御祭神 ・天照皇大神の御幼名とも申し上げ、内宮様と極めて関係深き御祭神であらせられる 。
日本書紀に「稚日女尊が、清浄なる機殿で神服を織って居られた所、素盞嗚尊之を見 られて、逆剥の斑駒を殿内に投げ込まれた為、稚日女尊は大いに愕き給ひ」と見えて います。又、紀の神功皇后の巻に「恰度神戸敏馬の沖合にて皇后の御舟が、海中に廻 って進むことが出来なかったので、務古の水門(和田岬)に還りまして占はれた所、 天照大神、誨へられて我が荒魂は皇居の近くに居るべきでない。御心広田国に居らむ と。葉山媛をして祭らしめられた。また稚日女尊誨へられるよう、吾は活田長峡国に 居らむと、海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。」とある。
この時に大阪・住吉大社と神戸・長田神社、西宮・広田神社を同時に祭られ、之を日 本書紀では、四社鎮祭と申します。



長田神社[ナカタ](名神大。月次相甞新甞。)
長田神社「事代主神」この地域の中心に高取山があり昔は神撫山と呼ばれていた。神奈備である。 兵庫県神戸市長田区長田3丁目1-1 玄松子の記憶

長田神社
御由緒
神功皇后摂政元年(西暦二〇一年)御神託により此の地に創祀されたと傳えられる我 国有数の名社である。事代主神は、古来、皇室守護、国家鎮護の神として、全国的に 篤く信仰されている。
特に毎月一日、十五日は古くより御縁日として賑わい市民より「長田さん」と仰ぎ親 しまれ、氏子崇敬者は常に高き御神恩に感謝奉賽の誠を捧げている。新年初詣の盛況 は、全国的に有名で宏大無辺の御神徳の表徴である。



賣神社[ミヌメ]
敏馬神社[みるめ]「素盞烏命 配 天照皇大神、熊野坐神」昔の敏馬の御崎は良湾を抱く間崎で舟人の守護神であった。杉材で能勢の美奴売の山神「岐尼神社」とつながる。後世の祇園信仰により素盞嗚尊が祀られていった。 兵庫県神戸市灘区岩屋中町4丁目1-8

敏馬神社
御由緒
当社の旧記は、慶長年間(一六〇〇年頃)兵火にかかり焼失して伝わらないが、諸文 献によって考察することができる。奈良時代の摂津風土記(七一三年)に「美奴売と は神の名で、神功皇后が新羅へご出発の時、神前まつばら(豊中)で神集いをされた 処、能勢の美奴売山(大阪府豊能郡三草山)の神様がこられ、わが山にある杉の木を きり船を造りて新羅へ行かれるなら、幸いする所ありと数えられた。その通りなされ ると、大成功をおさめた。お還りの時、この地で船が動かなくなったので、占い問う と神の御心なりと。故に美奴売の神様をこの地に祀り、船も献上した」とある。これ 当社の縁起にして、神功皇后摂政元年(二〇一年)の御創建となる。また平安時代の 延喜式(九二七年)の神名式に生田・長田神社と並びMI売神社が記載されている。延 喜式に記載される神社を式内社といい、最も古い由緒を誇る格式のある神社である。
以上
「MI」は、さんずいに文です。




有馬郡[アリマ]:三座 大一座 小二座

有間神社[アリマ]
有馬神社[ありま]「天御中主神、大己貴神、少彦名命、事代主神」兵庫県神戸市北区有馬町有馬1582

有間神社
御由緒
当社は往古山口庄名来村(現在西宮市山口町名来)で創建され、舒明天皇、孝徳天皇 が有馬温泉行幸の砌、再三にわたって参拝される等、皇室とはゆかりの深い式内社で あります。霊亀年間(西暦七一五年)に有馬川の洪水で流失し、御神託によって現在 地に遷座された。古くは摂津国有馬郡一の宮有間総社と称され、有馬郡十六ケ町村の 総氏神としてあがめられた由緒深い神社であります。



公智神社[クチ](鍬靫)
公智神社[くち]「久久能智神」兵庫県西宮市山口町下山口字大弓201 公智神社公式

公智神社
御由緒
当神社は延喜式内社にして祭神は木の祖神「久久能智神」なり、創立年月日詳ならず 人皇第八代孝元天皇の皇子大彦命の後裔久々智民族が山口荘内の最も適当なる丘上字 向山(功地山又ハ天上山ト云フ)を選み奉祀し崇敬せしものなりと後ち孝徳天皇大化 三年冬十月左右大臣郡郷大夫百官を従はせられ有馬温湯へ行幸し給ひし際行宮御造営 の御用材を当神社地より伐採し給ひ其の用材の御良好なりしをみそなわさせ給ふや勅 して「功地山」と山名を下し賜われたり時に天皇三ヵ月の久しき間此の附近に車駕を 駐め給ひ厚く神社を御崇敬せられ給はれし事は延喜式神名帳、神名帳孝証(度会延経 者)、神名帳孝証(伴信友著)、古事類苑、大日本史、日本地理資料、神祇志料、式 社孝証(桑原弘雄著)、摂陽群談、神社確録、摂津志、摂津名所図会、明治神社誌料 、特選神名帳等の国史に明らかにして其行宮址は現神社馬場先なる字奉奠堂(ホウテ ンドウ)の地と称伝せり又貞観年中に「健速須佐之男命」「奇稲田姫命」の二神を配 祀せし事は社記社伝に明らかなりと雖も其年月不詳爾来祇園牛頭天王又は天王宮と称 するに至れり然るに後当神社は現今の社地に移遷し奉れり移遷せし年代は記録の確証 なければ正確に証すること能はずと雖も蓋し彼の掘河院の御宇承徳元年の大洪水にて 有馬温泉の潰泉せし頃なるべく社記社傳に徴するに霊夢ありて現今の地へ移遷すとあ り其後応仁、文亀の両度の兵乱の際社殿其他の建築物諸記録宝物等悉く烏有に帰せり 後大永年間漸く社殿を再建せりと中世以降摂津源氏が河辺郡多田に本拠を占め有馬郡 の各荘は多く其配下に属し山口荘も其一族山口五郎左衛門の支配となり荘内東方丸山 に要害の城を構へ三千余石の地を領し当神社に常に崇敬祈願せし所なりしが山口氏滅 亡後徳川末世に至る迄田安公又は天領に分属したり領主遠隔の為め寄進物等の著しき もの伝はらず只山口氏及其子孫より寄付する神楽殿一棟随神一対手水鉢一個現存す 上記の通り当神社は延喜式内の神社たるのみならず特に孝徳天皇深く御崇敬あらせ給 ひし由緒ある神社たれば氏子の崇敬心はもとより崇敬者日々増加し現今千数百戸を数 へり明治六年八月村社に加列せられ同十二年六月郷社に加列せられ同四十五年三月二 十七日神饌幣帛料供進神社に指定せられ神社所有の田畑山林時価九万余円其他基本財 産として八千七百余円額面債券を有し昭和四年四月二日付県社に加列せらる 昭和四十九年十月拝殿・本殿・社務所等修改築される



湯泉神社[ユノ](大。月次新甞。)
湯泉神社[とうぜん]「大己貴命、少彦名命、熊野久須美命」兵庫県神戸市北区有馬町字愛宕山1908 神社公式

湯泉神社
御由緒
みなと神戸の裏山、六甲山を越えると有馬の町になります。海抜四百メートルの山狭 に位置していますので、景色はすばらしく、春のコブシ、桜、秋の月、モミジは有名 です。しかしなんといっても有馬が全国に知れわたったのは、日本最古の温泉だとい うことによると思います。なにしろ大己貴神さまと少彦名命さまとが人々を病気から 守るため、国々を旅し、薬草を捜し歩かれたときに発見されたといわれています。つ まり、神代の昔のことです。
というのは、川のほちりで赤い水が岩の間から湧き出ているのを神さまたちが見つけ られました。そこえ三羽の傷ついたカラスが飛んできて、水の中に降り立ち、水を浴 びていました。しばらくするとカラスの傷がみるみるうちになおっていきます。
神さまたちが不思議に思って手をつけてごらんになると暖かい水でした。「きっと病 気にも効くに違いない」・・・神さまたちはカラスをまねられ、さっそく、その湯を 浴びられました。こうして有馬温泉が見つけ出されたいい伝えられています。これら の神さまがたを、おまつりしてあるのが湯泉神社です。
史実の上では「日本書紀」に西暦六三〇年秋九月、舒明天皇が摂津国有間温湯に行幸 された、と記録されていますから、少なくとも千参百五十年以上もの昔から有名だっ たことがわかります。
舒明天皇は七年後にもう一度有馬を訪ねられ、さらに九年後には孝徳天皇もお出でに なっていますが、その後は行幸もと絶え、温泉もさびれてしまいました。
この有馬温泉を再興されたのが、行基菩薩と仁西上人です。行基菩薩は今から約千二 百六十年前の神亀元年に有馬を訪れ、温泉をさらえ、一寺三院を建立、療養地にしま した。また、仁西上人は約七百九十年ほど前に、夢にあらわれた熊野権現のお告げで 、山津波のために全滅していた有馬の復興を思い立ち、薬師十二神将にちなんで十二 の宿坊を建てました。現在、有馬の旅館に○○坊≠ニいうの名が多いのはこのため です。
さて、もうひとり、有馬温泉の恩人として忘れられない人がいます。豊臣秀吉です。 秀吉が有馬温泉を知ったのは、信長の命で中国地方に兵を進めていたとき、戦傷病兵 を送りこみ、たいへん効能があったので、すっかり有馬が好きになりました。天下を とってからもしばしば有馬通いをし、豪荘な別荘を建て、湯女にまで扶持米を与えて 直参湯女≠ニ呼ばせていたといいます。
湯泉神社の境内に「亀の手洗バチ」というのがあります。これも秀吉の頃をしのぶも のです。この地にも、湯泉神社の近くにある善福寺には阿弥陀堂のカマ、瑞宝寺には 石の碁盤など、ゆかりの品々が残っています。
こうして有馬温泉は多少の曲折もありましたが、熱海、伊豆が東京の奥座敷でありま すように、有馬は関西の奥座敷として千三百年もの長い間栄えてきました。
それというのも豊富な湯量と変化に富んだ温泉の種類が魅力となっています。摂氏九 十度の高い温泉から摂氏四十度〜六十度の低温泉、また常温の鉱泉などがあり、一日 三千立方メートルもの湯が浴用に使われています。温泉の種類も金水≠ニ呼ばれる 含鉄炭酸食塩泉をはじめ、鉄分の少ない銀水%ァ明な炭酸泉、ラジウム泉があり、 婦人病、リュマチ、貧血病に効き目があります。そして、最近では年間に二百萬人も の人々が有馬に訪ねてこられます。
この日本最古の有馬温泉の守り神として、いつの時代も湯泉神社は人々の崇敬を受け てまいりました。平安時代の初期、九二七年に撰上された「延喜式」という宮廷諸官 の行事を規定開いた、いわば法律の中に、当時の全国神社が三千百三十二座登録され ていますが、その中で湯泉神社四百九十二ある「大社」の一つに数えられています。 ということは、五穀豊作、天皇がおすこやかでいらっしゃるよう、また日本の国が平 和であるようにと、お祈りする夏と冬の月次祭、旧暦二月四日の祈年祭、そして豊作 を感謝し新米をお供えする旧暦十一月の中の新嘗祭には、神祇官からお供えが届けら れていたということでこのことを見ても、いかに古くから湯泉神社が人々の厚い信仰 をあつめていたかを知ることができます。
湯泉神社の現在の御社殿は寛政十年に建てられましたが、重要文化財の熊野蔓茶羅図 や、たくさんの社宝が保存されています。
湯泉神社では、七月三日のみこし渡御が行なわれる夏祭、十月三日の氏子でコミュニ ケーションをはかる秋の大祭、それに、春、花が飛び散る頃疫病が流行するため、病 気や諸々のわざわいから守ってもらうようにお祈りする、五月五日に行なわれる鎮花 祭を中心に由緒ある祭典が今日まで伝えられ、奉仕されています。
特に最近では、個人の祈願である安産祈願・命名・初宮詣・七五三・入学・卒業・就 職等の報告祭。成人式・結婚式・寿令の祝・厄除・災難除等の神事。あるいは、先祖 祭・家内安全等の家庭家業に関する神事。また地鎮祭・起工祭・上棟祭・竣工祭・開 業式等工事に関する神事、といった氏子崇敬者の御依頼も多く、湯泉神社の御神威の ほどが、いやますますに人口に膾炙されるようになりました。
なかでも「玉鉾さま」「阿福さま」と呼ばれている子授けの御守りは大変な評判です 。これは平安時代末期に作られた「伊呂波字類抄」という日本最古の辞書にも記載さ れていますが、子宝に恵まれない人々が、男形・女形それぞれの形を作り、夜陰ひそ やかに神前に献じ、子授けの祈願をしていたことに瑞を発しています。
「玉鉾」の玉≠ソは、よりよいもの、美しいもの、との意味ですし、鉾≠ニは男 性を表わしたものです。また「阿福」の阿≠ヘ女性の名前の上につけていう言葉で すし、福≠ニは女性そのものを表わしたものです。このように男性・女性を神前に お供えする風習が現在も連綿として湯泉神社では続いており、ご希望の方にこれを授 与しています。
ところで、この有馬には山地の特性から生まれた数々のみやげ物が古来より現在にと 伝えられています。
なかでも、有馬の各所に散在する竹林を背景とする、篭細工と有馬筆ちは江戸時代の 湯治客に大好評を博し、その頃有馬全戸の約半分が篭職であり筆職であったといわれ ています。もちろん日本一の生産量を誇っていました。とりわけ秀逸なのは竹管を五 彩の糸で巻き、管頭にからくりをしかけた人形筆ですが、これの由来は舒明天皇や豊 大閣などの有馬の恩人にからませ、いろいろと伝説化して取沙汰されています。
それから六甲深山の味覚である山椒。山ぶき・松茸などを佃煮にした「花山椒」「越 天楽」「松茸昆布」などは、その起源のほども判明しないくらい古くから、有馬の特 産として愛賞されているものです。
また舒明・孝徳両帝の行宮跡である杉ケ谷に湧く水が、里人は毒水だとして近づかな かったのですが、明治六年、横浜の一商人の示唆により霊水であると証明され、この 天然炭酸水の顕著な薬効を利用し製造されたのが炭酸煎餅です。明治の末に登場した この有馬みやげは都人士に愛好喧伝されました。
正月二日の有馬の町は、ひえびえとはしていますが、まったく静かな、それでいてど こか艶っぽい町のたたずまいです。その温泉街に雅楽の音が流れ、古式豊かな行列が 続き、練って行きます。赤地に白く、入初式≠ニ染め抜いたノボリを先頭に、きら びやわな神輿と連台が続き、連台には真っ黒になった行基・仁西、両上人の座像が二 つありその後に湯泉神社の神主、寺のお坊さん、湯女姿と稚児姿の芸者衆、羽織はか まの旅館の主人たち、お座敷のきれいどころが従い、ゆっくりと町を進みます。
陽光に輝く金具、山の緑に美しく映える衣装、荘重な雅楽のメロディー。毎年この日 に行なわれる入初式の風景ですが、このお祭に、有馬の町の温泉と信仰との結びつき が、じゅうぶんにうかがうことができると思います。
有馬温泉は信仰と、温泉の町だと申せましょう。




能勢郡[ノセ]:三座並小

岐尼神社[キニ]
岐尼神社[きね]「瓊瓊杵尊、天兒屋根命、多田滿仲」八部郡の敏馬神社の信仰とつながる。岐尼は巫女であり、三草山[美奴売山]の神の祀りを司った。大阪府豊能郡能勢町森上103-1

岐尼神社
由緒
当社は其の創建の時代不祥なれども、延喜式に見えたる摂津國能勢郡岐尼神社にして 、能勢郡神社仏閣由来に「嘉保二年二月乃西杵宮源政信建立」とあるは此時代に再建 せしをいへるなるべし。乃をさかのぼる八百余年前、堀川天皇の時代に杵宮とも称せ り。
元亀二年十二月、織田信澄の乱入により当社は兵害に罹れること見えたり。其の後当 地は慶長六年、太田和泉守の領地とする処となり、仝十年、領主太田和泉守手一の猪 俣某を奉行となして枳袮社を建立せしと旧領主並に代々地頭役人記録に見えたるは、 当社が再建の棟札に元禄五年十一月、枳根大明神旧記に見えたり慶長十年の再建は、 即ち現在の社殿にしてその後百二十年を経て享保十二年に営繕をなせしことは枳根宮 建立奉加帳の序及び仝年四月、枳根宮造営割付帳によりて推測せらる。明治四十年二 月十一日、神饌幣帛料供進を指定された。



久佐々神社[クサ]
久佐々神社[くささ]「賀茂別雷神」和銅六年創建。大阪府豊能郡能勢町宿野274-1

延喜式内久佐々神社
由緒
当社は和銅六年(七一三年)創建、延喜式内の能勢三社の一つの神社で官幣小社に列 せられ、昔から大宮と称し、近郷の崇敬厚く、草々明神とも云われた。社名は古来か ら地名に因んで久佐々神社と称したが享保年間(一七二〇年ごろ)、宿野大明神と改 め、更に享保十八年八月、正一位久佐々神社と復称した。
地名の久佐々は「日本書紀」巻十四巻雄略天皇の条「摂津国来狭々村云々」と見え、 「続日本紀」巻六元明天皇の条「玖左佐村山川遠隔道路嶮難、由是大宝元年始建館舎 、雑務公文准一郡例云々」とあり、当社はこの館舎の地であり、郡司によって奉斎せ られたものである。明治五年、郷社に列せられ、同四十一年五月、神饌幣帛料供進社 の指定をうける。明治四十年、大字宿野、大里、柏原、片山、平通、下田の各神社を ここに合祀した。



野間神社[ノマ]
野間神社[のま]「饒速日命、野間姫命」通称は布留神社。大阪府豊能郡能勢町地黄291

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延喜式神名帳目次

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